大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

025 岡本・・・法の寺三つ歩けば飛鳥びと

2010-11-13 07:40:40 | 斑鳩

大和路の風景画の題材として、上の写真の構図をよく見かける。斑鳩町の北東部、岡本地区の田園の中に、三重塔がバランスよく埋もれる法起寺である。水田に囲まれて独立した樹叢と塔の甍が、遥かな時代を彷彿とさせるからだろうか。背景の矢田丘陵は穏やかに稜線を延ばし、その緑の中に松尾寺のカラフルな吹き流しが望まれたりする。私のような大和憧憬病患者は、この農道に立って飽くことを知らない。それにしても大和の夏は暑い。

「法」を「ほう」と読むことが、この地域の開発プランナーであった聖徳太子の意識であったとすれば、法起寺は「ほうきじ」と発音することが妥当であろう。法隆寺から法輪寺、法起寺へのコースは、私にとって斑鳩を象徴する大和路散歩の特等席である。太子一族が信仰と思索の生活を営み、そして滅んで行った史実が、このエリアに重く堆積し、そして長い時間がその重さを少しずつ削って来た土地なのである。幾度、歩いたことか。

法起寺が語る寺の沿革によると「推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられている」という。7世紀のこの地域は、上宮家のホームグランドであったのだろう。若い日、法起寺と法輪寺の間に残る小丘近くを歩いていた折り、法隆寺のお坊さんに「山背大兄王の自裁の地です」と聞いたような記憶がある。

法起寺もいまや世界遺産の一員であるから、整備や管理が進んでいることだろうが、私が初めて訪ねた40余年前は、無住の寺かと思えるほど人の気配がなく、池の亀すら夏の太陽を浴びて、微動だにしないのだった。限られた小さな寺域は木々が程よく四囲を取り巻き、里の内にあって俗界とは隔離された安らぎがあった。

奥には庫裏もあるはずだが、境内は、三重塔だけが長い年月、放置されてきたような印象である。高浜虚子が『斑鳩物語』で描いたように、この塔の最上部まで梯子を登るなど危うく思えるほどに古びて見えたが、もし登ることができたら、確かに遠く飛鳥の耳成や香具山などが望まれるだろうと思い、塔を見上げたものだ。

そしてまた、暑い夏の昼下がりだった。3寺コースをいつになく足早に通過した私は、法起寺を望む冒頭の写真の道をさらに東へと歩いた。出穂前の稲田は生命力に溢れ、熱を発しているかのように暑い。さきほどからドーンドーンと響く音がうるさいのだが、発信地はイチジク畑であると判明した。うまそうに熟したイチジクを狙う鳥どもを追い払うための、農家の仕掛けらしい。

大和路は果樹栽培が多い。この擬音作戦は鳥たちにいかほどの効果があるか疑問だが、人間には効果てきめんで、私はびっくりし続けている。さらにイチジク畑を脱出する道が見当たらず、焦る。細い畦道を踏み外さないようにフラフラし、用水路をやっとのことで飛び越え、ようやく次の集落へと抜けた。飛鳥時代の農民になって、鳥を追いかけている気分だ。後に地図を確認すると、道路といえるものは法起寺の先で途絶えている。
                 
私にも言葉を操る技量があったら「いかるがのさとびとこぞりいにしへによみがへるべきはるはきむかふ」(會津八一)などと詠いたいところだ。法起寺界隈は、いまもこの歌にふさわしい。(旅・1991.8.18)(記・2010.9.24)

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