大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

027 矢田・・・大和路を一抱えしてハイキング

2010-11-15 11:27:33 | 斑鳩

奈良盆地の北西を縁取って、生駒山系の内側を南北に延びる矢田丘陵は、標高300メートル程度の手軽なハイキングコースだ。疎林の続く尾根道は、平城京跡から飛鳥までを一望できる、格好の万葉展望台である。1991年5月14日、私はその贅沢を満喫しながら尾根を南から北へ歩いていた。この日が私の誕生日であることは社会的に何の意味もないことであったが、すでに近隣では《大変な一日》が始まっていたのである。

この日は火曜日だったと思う。代休が取れた私は、かねて楽しみにしていた信楽の陶芸博覧会に行くことにしていた。同僚が車で案内しようと申し出てくれて、関西本線の加茂駅で落ち合った。近くの海住山寺を見物し、昼食を摂って信楽に向かおうと話していた矢先、同僚のポケットベルが鳴った。滋賀県のどこかで列車トラブルがあり、彼は担当上、すぐ行かなければならないという。事情が分からないまま、私は加茂駅で放り出された。

信楽行きは断念したものの、せっかくの休日はまだ日が高い。この際、矢田丘陵に登って松尾寺と矢田寺に行ってみようと決めた。やって来た大阪行きの列車に飛び乗り、法隆寺駅で降りた。法隆寺は南大門を通り抜けるだけにし、ひたすら北上する。法輪寺もパスしてゴルフ場を突っ切り、松尾寺に至る急坂となった。この坂道はきつかった。足がだいぶくたびれて来ているし、単調な登り坂がどこまでも続く。歩いているのは私一人だ。

そうやってたどり着いた松尾寺は、さすがに見晴らしがいい。「日本最古の厄除け寺」を名乗り、縁日にはずいぶんと賑わうようだ。厄除け寺といえば飛鳥の岡寺も結構な山の上だった。上り坂に弱い私にとって、これら厄除け寺は、むしろ難儀な厄災の寺であった。ただ松尾寺は吉野修験・当山派の拠点だったという歴史があるようで、山伏にとっては何のこともない坂なのだろう。

一息入れて尾根道に分け入る。梢を縫って陽光が差し込み歩きやすい。休日には家族連れなどで賑わっているのだろう、展望スペースや水飲み場が整備されている。途中「左いこま・右やたさん」と彫られた道標があった。驚いたことに、その上に蚊取り線香が置かれている。火は消えていたが、だれがいつ、何の目的で置いたものなのか。

葛が咲くには季節は早く、ニセアカシアの白い花が時おり芳しい香りを漂わせている。そこで「くずの花踏みしだかれて色あたらしこの道を行きし人あり」(釈超空)などと口ずさんでいると、気分をぶち壊してヘリコプターが3機、頭の上を通過して行った。自分が丘陵の上にいるせいか、騒音がやたらと近い。3機は先を競うかのような飛び方で北東方向に消えて行った。

北東方向の信楽で、その日の午前10時35分、列車同士の正面衝突事故が発生、42人が死亡するという大惨事が起きていたのだ。何も知らず矢田寺で、静かな山寺の夕暮れに浸っていると、私のポケットベルが鳴った。勤務先からだった。電話をすると「おう、生きているか、生きてるわけだよな、電話して来るということは」などと訳の分からんことを言って何やら騒々しい。
            
私がこの日信楽に行くことを、東京の留守宅や新地の馴染みの店などに吹聴していたのだ。だから事故の列車に乗り合わせたのではと、ずいぶん心配をかけたらしい。同僚が車に誘ってくれなければ、私は間違いなくその列車に乗っていた。(旅・1991.5.14)(記・2010.9.26)

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