大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

051 飛鳥年表・・・瓜二つ飛鳥と今は瓜二つ

2010-12-16 15:02:36 | 飛鳥

「飛鳥」は、盆地周縁部を「さまよい」ながら勢力を固めていった大和朝廷が、初めて安定的に都城の地として腰を落ち着けた地である。それは、7世紀のおよそ100年間に当たる――というのが私の大雑把な理解だ。ただしその時系列を思い浮かべようとすると、歴史的事件や登場人物たちが前後入り乱れて錯綜し、混乱しがちである。そこで、飛鳥時代を通年した自己流の「飛鳥年表」を作成してみたのが前項の一覧である。

敏達天皇の皇后が推古天皇として史上初の女性天皇に即位した593年を「飛鳥元年」とした。ここから政治の中枢が飛鳥に定まったと考えられるからである。以後、難波や近江への一時的な遷都はあったものの、101年後の藤原京遷都までを「飛鳥時代」と考えたい。藤原京をも飛鳥である、と拡大して考えるなら、その時代は平城京遷都までの117年間となる。

この時間を明治元年(1868年)からの今日に重ねると、ほぼ明治・大正・昭和の120年間に近いことが分かる。歴史は繰り返す――というのは真実なのか、飛鳥の百年と明治の百年は奇妙なまで似ている。

例えば「元年」を発する直前、飛鳥という政治舞台では、「崇仏」をテーマに「物部」という旧体制が倒される。一方「明治」は、薩長同盟に始まる維新で「徳川」という封建体制が崩壊し、王政が復古する。「飛鳥」も「明治」も、旧体制を武力で排斥し、新たな時代の幕を開けたという共通点がある。

「憲法十七条」の制定と「大日本帝国憲法」の発布、いささかこじつけではあるが「国家体制整備」ということでは同一の流れだ。そして飛鳥は「白村江の惨敗」まで70年、「壬申の乱」はさらにその7年後。明治も77年を経て太平洋戦争の敗戦を迎える。

内を固めたと見るや海の外へ侵略に出かける。そして手痛い敗戦を蒙って引き篭もる。これも飛鳥時代の倭国と、明治以降の近代日本の共通点だ。戦後日本は新憲法の制定で再建の道を歩むが、飛鳥も浄御原令の編纂を開始し、108年後の「大宝律令」制定にこぎつける。国のビヘイビアは古代も現代も同根かもしれない。

飛鳥の100年は、52年目の大化改新を境に、前期・後期に2分できる。前期50年間のスターは聖徳太子と推古天皇、それに蘇我馬子で、「蘇我時代」ということになる。後期は、壬申の乱までの30年間の前段が「天智時代」で、主役は天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足と額田王。後段の20年は「天武時代」であり、天武天皇と后の持統天皇、そして柿本人麻呂が主役となる。

飛鳥時代が物部一族を中心とした旧勢力の打倒で始ったように、後期前段は「大化改新」というクーデターが扉を開け、後期後段は「壬申の乱」という内戦によってもたらされた。明治も戊辰戦争で始まり、日清・日露戦争、さらには第一次世界大戦までの46年間を前期とすることができる。富国強兵、産業革命時代である。それから31年後の太平洋戦争敗退までが後期前段。大正デモクラシー、昭和恐慌、泥沼の日中戦争の時代である。
           
そして戦後復興、高度成長を達成した東京五輪までの20年間が後期後段といったところか。「飛鳥の百年」と何と類似していることか! 前期に輝きを見せるのは法隆寺や元興寺(飛鳥寺)に代表される仏教文化。後期は額田王や柿本人麻呂を頂点とした万葉朝廷文化といえるだろう。(記・2010.12.16)

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