大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

037 竹内・・・古き道芭蕉が歩き吾も行く

2010-11-25 16:15:51 | 葛城

長尾の集落を西に抜けると、程なく「竹内」である。道は緩やかに、しかし確実に登って行く。片側の側溝を、澄んだ流れが勢いよく下っている。両側に、黒い瓦屋根の民家が軒を並べ始め、土塀越しに手入れの行き届いた庭木が枝を延ばしている。司馬遼太郎氏が「もし文化庁にその気があって、道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾―竹内間のほんの数丁の間は、日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう」と書いた道である。

霜でも降りたのであろうか、冬の日差しは家々の軒を照らすだけで、しっとりと濡れた道を乾かすにはいたらない。人の往来をさまたげる角や曲線はなく、ただおっとりと登って行く、それだけの道である。車がすれ違うことが危ういほどの道幅ながら、けばけばしい看板の類がないからだろうか、歩くことが気持ちいい。歩きながら、気持ちが柔らかくなっていくのが分かる。

正月三日は出初式だろうか、消防団の半被を羽織った若衆が三々五々、坂を登っていく。皆さんお屠蘇気分でご機嫌である。この里は司馬氏の母上の実家があるということで、司馬少年には故郷のような土地だったらしい。週刊誌に長期連載された『街道をゆく』の、十週目という早い時期に取り上げられ、表現にことのほか愛情がこもり、暮らした人ならではの視線が行き届いている。

途中、路地の先に公園のような広場が見えたので回りこんでみる。「綿弓塚」という石碑が建っている。「綿弓や 琵琶に慰む 竹のおく」という芭蕉の句を記念して、當麻町が整備した歴史スポットだ。芭蕉は門人・千里(ちり)の招きでこの竹ノ内を訪れ、街道沿いで粕屋を営む千里の実家に滞在した。その際詠んだ句が「綿弓や・・・」である。当時この一帯では綿花が栽培され、その実から油を取り、油粕を肥料とする商いがあったのだという。

綿の実の混じり物を取り除く道具を綿弓といい、その音はビンビンと琵琶の音に似た響きだったという。竹林の奥の離れに滞在した芭蕉は、その響きに旅情をかき立てられたのだろう。貞享元年(1684年)9月のことである。私はこの二日前、御所市郊外の田んぼ道を歩いていて、冬枯れの畑で白く揺れる綿花を見つけ手に触れてみたのだが、葛城地域ではかつて綿花は珍しくない栽培作物であったのだと、芭蕉のおかげで知った。

「綿弓塚」の先は一面の畑地で、東面した傾斜地はいかにも日当たりがよく、遠望すると畝傍や耳成(みみなし)の丘が霞み、飛鳥の地を守るように多武峰がその背景となってそびえている。あまりの景観にしばらく見とれていると、後方の寺から降りてきたらしい少女二人が「こんにちは」と挨拶してくれた。中学生くらいの、正月に親の実家で再会した従姉妹同士か? 私はますます心地よくなって、いつまでも留まって居たかった。

古代大和のメインルート・横大路が、大和の国を抜けて河内に入る、その大和側の最後の集落である「竹内」は、歴史が堆積した懐かしい村里であった。

集落を抜けると、二上の山腹を深く削って舗装された国道はやがて登ることを終え、眺望が広がった。峠を越え河内に入ったのだろう。旧道らしきソマ道が藪の中から現れ合流した。路辺の石柱に「従是東 奈良縣管轄」と彫られている。明治の廃藩置県で大和国は堺県に併合されたのだが、人々は粘り強い運動を展開、「奈良県」として独立したのだということを、石碑の8文字を読んで思い出した。(旅・1997.1.3)(記・2010.11.25)

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