大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

028 法隆寺北・・・微笑みが匂い立つかや尼寺は

2010-11-16 10:49:00 | 斑鳩

尼寺は、優しそうな佇まいを見せながらなかなか手強い。その深閑とした塀の内で、女人だけが信仰の日々を送っていると考えただけで、無垢つけき男が立ち入るなど自粛すべきではないかと足が竦むのである。しかしそれでも例えば中宮寺の弥勒菩薩像、法華寺の十一面観音像と、麗しき仏たちに逢いたいという欲求は人間として自然な感情でもある。そして小振りの門を潜れば、大寺とは異なる清楚さに身を置く安らぎが尼寺にはある。

大和三門跡と呼ばれる中宮寺、法華寺、円照寺のうち、奈良市南郊の円照寺は拝観を認めていないから内部は伺い知れないのだけれど、松の梢を渡る風の音を聞きながら歩く長い参道は心地よい。法華寺は総国分尼寺という厳めしい看板とは違い、庭に面した広間で尼さんたちが縁起物の犬形お守りの絵つけをしていたりして、開放的に迎えてくれる。そして中宮寺は、本堂への山吹の黄に溢れた小径を行くと、あの微笑みに逢えるのである。

仏像には威厳ある仏、美しい仏、かわいい仏、怖い仏といろいろある。難しいけれど「美しい」でくくると京都・広隆寺の弥勒菩薩、興福寺の阿修羅像、秋篠寺の技芸天、山田寺の仏塔などが思い浮かぶが、私にとって白眉は中宮寺の弥勒菩薩ということになる。50年も昔になるが、菩薩は薄暗い建物の中の手を延ばせば届きそうな近さにあって、美しさが分からなかった。その後建てられた本堂で、程よい距離を保って向き合うことがいい。

中宮寺は法隆寺東院伽藍の夢殿を巡り、そのあと立ち寄ることが多いのだが、夢殿の特別開扉に合わせて出かけた日は、中宮寺が同じ敷地に建っていることが、ことのほか有難かった。何しろ夢殿の救世観音像は、威厳が過ぎて私には怖い仏像の筆頭である。聖徳太子の等身像だということはともかく、ふくよかな頬、厚い口元など生々し過ぎるのである。だから中宮寺に向かい、弥勒の前で心を鎮め、ようやく落ち着けるのである。

ところで法隆寺は、現代の住所表示でいえば「奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1」ということになる。その周囲は「法隆寺」のほか「法隆寺東」など東西南北に分かれた地番が取り囲んでいる。中宮寺の所在地は法隆寺北である。ただもともとは法隆寺東に当たる土地に、四天王寺式の伽藍配置で建立された寺であったという。創建の由来ははっきりしないようだが、いずれにしても聖徳太子が関係し、その時代の建立であろう。

従って7世紀の法隆寺地域は、法隆寺と中宮寺のきらびやかな伽藍と、上宮家の暮らす斑鳩宮が立ち並ぶ、飛鳥京にも匹敵する異次元の世界であったのだろう。庶民は、そうした伽藍の奥深く、キラキラしい仏たちが祀られているのだと、うわさ話として耳にすることがあったかもしれない。長く秘仏として僧侶たちさえ恐れた夢殿開扉のことを考えるとき、私は広津和郎の『夢殿の救世観音』を思い出す。戦前の、暗い時代のころの話だ。
            
特別な伝手で拝観を許された東京の文士らの一行が夢殿のカギを開けてもらうと、居合わせた一般の参観者もつられて内部へ入って来た。若い坊さんは見て見ぬ振りをし、「もう、よござんすか」と厨子を閉じかけたとき、婆さんの手を引いた中年夫婦が駆け込んできた。坊さんは厨子を閉じる手を一寸休め、3人が拝み終わるのを待って扉を閉じたのだという。人の心の優しさが、青空のように沁みる話である。(旅・1990.11.1)(記・2010.9.30)

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