大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

036 長尾・・・在りし日の国の十字路眺めつつ

2010-11-24 15:59:29 | 葛城

神話の世界をさ迷い歩いて来たけれど、《葛城》にはもう一つ、欠かせない道がある。「竹内道」である。大和の、その中心であった飛鳥付近をまっすぐ西に向かい、峠を越えて難波の津に通じる街道である。すなわち、海に達してそのまま外界につながる道であった。「古代の官道」などと呼ばれるから、神話の道・葛城古道に対し、政治経済の道と呼んだらいいのかもしれない。正月の寒風に曝されながら、私はその道を歩きにやって来た。

大和が海(外界)からほどよく隔離された盆地であることは、この地で「国家」が誕生したことの重要なファクターであったに違いない。その外界との隔離に寄与しているのが、盆地西側を縁取る山々である。北から南へ、生駒山、二上山、葛城山、金剛山と続き、これらの連山を穿つ谷は、生駒と二上の間を流れる大和川しかない。いくつかある峠のうち、二上と葛城を分けるのが竹内峠であり、そこは大和と河内の国境である。

私の書架に『芭蕉 大和路』という単行本がある。筆者は「大安隆」とおっしゃる奈良在住の元校長先生で、発行元は「和泉書院」という大阪の出版社だ。大和路関連の書籍を探しに出かけた折、奈良市内の書店で見つけ購入してきた一冊である。「竹之内」は芭蕉ゆかりの地であったと思い出し、何年間も省みなかったページをめくってみると、大和の西縁風景をこんな具合に書いてあった。土地の風景は、土地人の記述が最も確かである。

《大和国原のすべての水を集めた大和川は、西の山並みを穿って河内の国に流れ出る。大和の西に屏風のように連なる山地は、この亀の背の渓谷で南北に分断されていて、いまは北を生駒山地、南を金剛山地と呼んでいる。金剛山地は、最高峰の金剛さんを盟主として、水越峠を隔てて葛城山をそばだたせ、北へ少しずつ高度を下げながら続き、その先にらくだの背のような二上山が、その懐に当麻寺を抱いて特異な形で西空を隠している》

前夜、桜井駅前のペンションに宿泊した私は、近鉄線に揺られて磐城という小さな駅で降りた。隣りの駅は当麻寺である。正月三日にそんな寂しい駅に降りた乗客は私一人だけであった。駅前の家並を抜けると神社があった。素朴な構えで「長尾神社」とある。

鳥居の近くに立派な案内の碑があって、「飛鳥京と難波を結ぶ日本最古の官道であった竹内街道と、伊勢・長谷街道が吉野・壷坂から下田・王寺を経て堺に至る長尾街道とが交差する交通の要衝をふまえた長尾の森の広大な神域に鎮座しております」と誇らしく書いてある。

竹内峠を越えて大和に入った「最古の官道」は、国原の中央を東西に貫く「横大路」となり、高田―八木―桜井を結ぶ。近世にはさらに東延し、長谷から伊勢へと続く「初瀬(はせ)街道」「伊勢街道」とも呼ばれたという。 そうした街道が南北の街道と交差する地に建つ長尾神社は、社格はさほど高くはなかったにせよ、近世には一帯の竹之内村、八川村、尺度村、木戸村、長尾村五カ村の氏神として崇敬されていたらしい。
             
鬱蒼とした森が続く神域の北側を、古色に染まった道がまっすぐ西に向かって登っていく。その先は、山塊が現実となって迫って来る。遠望していたころの葛城山が、素顔を剥き出しにして立ちはだかっているのだ。私はしばし歩くのを止め、見入った。いよいよ日本最古の官道を行くのである。(旅・1997.1.3)(記・2010.11.24)

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