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Web3.0宣言 その3-「自由からの逃走」としてのマスコミとモデル

2006-07-03 00:33:39 | Weblog

 前のブログで書いた、Web2.0の問題点

・情報が多すぎて、欲しい情報が探せないということである。
 映画の上演時間やゴルフ場について調べたら、ブログが出てきて。。というような話である

・あることについて、書いている人が多く、真実はなにかわからない。

について、そのブログの最後に書いた「自由からの逃走」としてのマスコミの話を仕様と思います。




■玉石混交問題の解決と自動秩序形成
 上記とまったく同じ題がウェブ進化論にある(P152)。この問題のうち、

 玉石混交問題とは
  上記に記述した「あることについて、書いている人が多く、真実はなにかわからない」
  という話に結びつき、

 自動秩序形成の必要性は、
  情報が多すぎて、欲しい情報が探せないということである
  という話に結びつく。

 ウェブ進化論では、そのために、新しいブレイクスルーが必要などとのべているが、それはWeb2.0の世界で考え、さらにグーグルの考え方を信奉しているからであって、フツーに考えれば、高校生の現代社会(倫社?)で習ったように、このように、どんな情報をみても自由!っていうふうに情報選択の自由が与えられると、その自由から逃れ、権力者が選んでくれた社会を取り入れるのが普通だ。いわゆる自由からの逃走である。

 エーリッヒフロムは、「自由からの逃走」の中で、人々は(消極的に)自由になったが、結局、その自由が生み出す孤独などに耐えられず、結果として全体主義を迎合していくことを示した。

 ここで、大事なことは、人々は自由になると、選択しかければならない重圧や、自由が生み出す孤独にさいなまれる。なので、なんでも決めてくれる権威を求め、それに従うということだ。

 これは、ある意味当然のことで、なんでも自分で決めなきゃいけないといわれても、その判断すべき知識も、なにもない。なので、現実問題、「なんでも、自由ですよ」といわれてもこまってしまう。ある程度のことは決めて欲しいわけだ。




■カリスマ中継局としてのマスコミとモデル

 そこで、ある程度のことを決めたカリスマが台頭し、みんな、そのカリスマに従っていくようになる。
 情報の場合は、自分の切り口で情報をまとめ、それを、まとめて情報を配信するカリスマ、つまりカリスマ的中継局であり、これが、マスコミ、とくに放送局などになる。
 そして、自分の生活スタイルとなれば、数あるブランドやお店の中から、自分らしさの観点からチョイスし、それを雑誌(ファッション誌)やブログなどで表現していく、モデルも、カリスマ的中継局である。
 つまり、モデルブログは、自分の生活スタイルの表現の場である。
 今の若い人は、写メとメールでかなり多くの情報を毎日、みんなで交換する。
 今の若い人の表現者であるモデルのブログも、同じように写真をいっぱい使って、更新してもおかしくない。それどころか、そういう形で若い人の感性で表現しているからこそ、彼女たちがカリスマモデルになりえるのだ。




■マスコミの選択基準としての感性

 で、モデルの話はさておき、マスコミと、自由からの逃走の話。

 マスコミは確かに自由からの逃走として、物事を決める(情報を編集する)カリスマである。でも、じゃあ、それでヒトラーのようになるかというと、そうではない。

 日本はまだ、自由な国である。

 選択方法や選択基準は1つだけに決まっていないで、様々なマスコミが様々な意見を言える。
 朝日とサンケイの内容は、ぜんぜん違うわけだ。

 このとき、人は、どのマスコミの意見を選ぶか・・・
 いままでのコンピューターの世界では、そして、男性社会では、論理・機能でこれをきめる。
 しかし、ここにおいて、論理を検証する、つまり情報選択が適切であるというのを検証することは、普通、できない。できないからこそ、変わりにやってくれるマスコミが必要なのだから。。

 その結果、どうなるか。人々は自分の感性で、マスコミを選ぶようになる。
 正当性はないが、なんとなく東スポの言ってることは信用しないし、
 大手新聞社のいうことは信用できると思ってしまう
 その基準は数量的なものでなく、感性によるものだ。この感性重視という点でWeb3.0は女性的でもある。




 Web3.0になると、技術的には、人は送り手にも、受け手にも、中継局にも、誰にでもなれる。ただ、そのカリスマというものを見につけるかどうかという点では違う。
 カリスマとなる人は、そのなかのごくわずかで、そのごくわずかの中にマスコミ(新聞・放送)がある。

 では、それ以外の人は、表現しても無意味なのかといわれると、そんなことは無い、
 小さな感性のあうコミュニティの中で、中継局となったり、送り手となったりできつ。
 これが、新生ライブドアのいう特定小規模、特定中規模、特定大規模ということになるが、その特定小規模、特定中規模、特定大規模と不特定多数のマスコミの違いとWeb3.0の位置づけについては、また今度、まとめてみたい

P.S 今回うまくまとまらなかった。なんかの機会があったら、書き直してみたい。
 



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