憂生がよく行っていたブログのそのプロフィールに
「男なら損をとれ」
って、言葉を掲げていた人がいて、
憂生はいたく感銘をうけて、
読者にさせてもらった。
この言葉ににたような感じなのが、
「負けるが勝ち」
というのがあるが、どこか、負けたという結果にたいしての
なぐさめのように聞こえる。
「男なら損をとれ」
と、いうのは、あえて、負け(とは、ニュアンスが違うが)のほうをえらぶという主体性を感じる。
まあ、憂生がこういう言葉を掲げる人に感銘をうけてしまった裏側に
又、少し違う言葉があったから。
「負けて喜ぶ人になれ」
こうだったと思う。
一方で憂生の中に
「できぬ堪忍するが堪忍」というのがあって、
説明いる?
とてもできそうもないような堪える。を、やってのけてこそ本当の「堪える」だ。
みたいな・・。
ん。
で、この言葉って、どこかで、それをしてこそ「勝ち」になるというニュアンスがあるきがする。
どこまで自分の懐が深いかってことになって、よし、自分、よくやった。
というまあ、できた自分をほめるみたいな「勝ち」組根性があったと思う。
「男なら損をとれ」も「損を取れる自分が勝ち組になっている」という自分の決め事の中では、「勝ち」に成ってると思う。
ところが、
「負けて喜ぶ」と、いうのは、はて?
極端にいえば、自分ぜんぜんだめじゃんかというのが、負けだろう。
これを喜ぶというのだから
憂生の頭では「だめじゃんの自分とわかってよかった」くらいしか、おもいうかばない。
何かが足りてないから負ける。
負けるとはそれをしらせてくれたということだろう。
負けなければなにもきがつかずにおわってしまう。
負けによって、自分のたらなさにきがついていける。
こういうことだろうか?
実際の意味合いはわからないが、
今日、猫たちをみていた。
父ちゃん猫をおもちゃであそんでやっていると
子猫(兄)がやってきてよこわりして遊びだす。
すると父ちゃん猫はすっとその場を離れる。
子猫(兄)が遊びだしてるところに
弟猫が横はいりしてくる。
今度は兄猫がすっとその場を離れる。
いじけているかのような
負けているかのようにみえなくもないが
体の大きさからいうと
父⇒兄⇒弟という順番で小さくなってくる。
喧嘩でもしたら当然順位同じく弟はみそっかすもいいところだ。
それを見ていて
「ああ、強いものが引くんだなあ」と、おもったわけだ。
勝ちを譲れるというのは、
自分が負けることができるというのは
強いからこそできる。
負けることができる自分は実は強いということになる。
強い人なら負けて悔しいなどとおもってはいないだろう。
猫もおもってないだろう。
おそらく、
負けて悔しいとおもうことこそが、本当の負け組なんだろう。
負けて喜ぶ人は
抽象的ないいかただが本当に強い人からできること。
負けて悔しいでは、
根性まで負け組になってしまって、それはいけまいて。
どう考えれば喜べるか。
負けたときほどかんがえなきゃいけない。
猫は負けてよろこんだかどうかはしらんが
強者の理論、そのまま
負けてみせる。
人間くらいくやしいのかなしいのという動物はいない。
猫は誰にも教えられず、わずかな大きさの差でしかないのに
どうして自分のほうが強いとわかるのか不思議である。
人間には自分のほうが強いという判断がつかないんだろうなあ。
だから、悔しくなったりして、喜ぶ自分になっていかなきゃならなくなる。
猫はなんも考えてる様子はない。
すっと自然に行動しぐちゃぐちゃ思うこともなさそうだ。
自然(自然体)ってのはこういうものなんだろうなっておもったりもした。