ラファエロ・サンティ
Raffaello Santi , 1483年4月6日 - 1520年4月6日
盛期ルネサンスを代表する イタリアの画家 、建築家。
ラッファエッロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ ( Raffaello Sanzio da Urbino ) との表記もあり、
英語名でラファエル ( Raphael ) と書かれることもある。
ミケランジェロ が偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練し、優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。調和された世界を最良とするルネサンス芸術を完成させた存在として、その資質は死後も賞賛され、模倣された。 彼はその繊細な美しい描写で聖母を描いたことから、「聖母の画家」 とも呼ばれた。
芸術的形成期 ラファエロは、1483年聖金曜日の夜中3時にイタリア、マルケ州ウルビーノに生まれた。父ジョヴァンニ・サンティと母マージャ・ディ・バッティスタ・ディ・ニコラ・チャルラにとって、長男であり唯一の息子であった。母親は1491年10月7日に逝去した。父親はウルビーノでは著名な宮廷画家であり、後にベルナルディーノ家の娘と再婚し、女児エリザベッタをもうけている。
ラファエロは父親の工房でデッサンと絵画の初歩を学んだ。父親が1494年8月1日に亡くなった時、ラファエロはまだ11歳であった。それゆえ、どのようにしてこの若き画家が後にペルジーノの工房に至ることが出来たのか、よく知られていない。
この時期のウルビーノは、イタリア国内に留まらずヨーロッパ各国にまで、ルネサンスの理想を発信する重要な芸術的中心地であった。ウルビーノで、ラファエロは父親とドゥカーレ宮殿の豪華な部屋部屋を巡りながら、宮廷の所有していたピエロ・デッラ・フランチェスカ、ルチャーノ・ラウラーナ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、ペドロ・ベッルグェーテ、ジュスト・ディ・ガンドの作品を学ぶ機会を得た。とりわけメロッツォの作品からは、多大なる影響を受けることになる。アントニオ・パオルッチは 「メロッツォの存在なくしては、16世紀にラファエロもミケランジェロも生まれなかったであろう」 と述べている。
父親が亡くなる以前、さらには母親が亡くなる以前、ラファエロは既にピエトロ・ヴァンヌッチ(通称ペルジーノ)の弟子となっていたとするジョルジョ・ヴァザーリの証言は、それほど信じがたいものではない。「ピエトロの手法を学び、それを非常によく真似たので、彼の描く肖像画は、師匠による原画と見分けがつかなかった。彼の作品とピエトロの作品を識別することはできなかったのである。」
美術批評の近年の傾向は、彼の青年時代に集中しており、ラファエロの形成期における父親およびその工房との関係、特にドゥカーレ宮殿とその芸術コレクションの偉大なる文化との関係に集中している。
彼の初期作品として、1497年に完成された、ファノのサンタ・マリア・ヌォーヴァ教会の《聖母の誕生》および、1498年のペルージャのコッレージョ・デル・カンビオのフレスコ画に、ラファエロの介入が指摘されてきたが、彼の最初の作品は《幼子の聖母》であろう。これは、ウルビーノのサンティ家の住居内の彼が誕生した部屋に描かれたフレスコ画で、1498年頃の作品と年代特定できる。
1501年に、チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会祭壇画(今日では断片のみが残る)を完成させ、1504年にはアルビッツィーニ家の発注による『聖母の結婚』を作成した。この頃の作品としては、ほかに『騎士の幻想』などがある。これらの作品はペルジーノの作風を残してはいるものの、すでにそれを完全に超越している。
( wikipedia より抄出、画像の添付や加筆などを加えた。 )
St. Michael and Satan 1518年
Oil on canvas. Museo del Prado, Madrid, Spain
Raphael Sanzio (ラファエロ・サンツィオ)作