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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

棟方 志功

2010-01-06 | 日本人作家

 

 

棟方 志功   ( むなかた しこう )

1903年(明治36年)95日 - 1975年(昭和50年)913日)
日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。

 

 

1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。


1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。

少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。

1924年(大正13年)、東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。

1926年(大正15年)、に 川上澄生 が国画会に木版画作品「初夏の風」を出品、これが川上澄生の代表作となる。棟方 志功 はこれに触発され版画家への転向を決意したという。

1928年(昭和3年)、第9回帝展に『雑園』(油絵)を出品し、入選する。

1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。

1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。

1934年(昭和9年)佐藤一英の“大和し美し”を読んで感動、制作のきっかけとなる。

1936年(昭和11年) 国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。

 

1945年(昭和20年) 戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛した。

1946年(昭和21年) 富山県福光町栄町に住居を建て、自宅を「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付け、また谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」ともよぶ。

1956年(昭和31年)、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に『湧然する女者達々』などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。

 


 門世の柵 」  昭和43

 

 

1969年(昭和44年)2月17日、青森市から名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。従三位。

1975年(昭和50年)9月13日、東京にて永眠。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた“静眠碑”と名付けられた墓がある。


棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名である。

「いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」 と言っている。

 

「画集」は相当数あり、装画等で共著も多い。「板画」の代表作は以下

釈迦十大弟子
御鷹揚げの妃々達々
大和し美し
東海道棟方板画
板画奥の細道  講談社文庫で1979年刊
『棟方志功作品集 富山福光疎開時代』 東方出版、2004年
『棟方志功 ヨロコビノウタ』 棟方板画美術館編、二玄社 2003年


( wikipedia より抄出、わたしの里にて編集などをくわえた。 )

 

 

天の岩戸

 

 

棟方志功

 

 

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