月岡 芳年 (つきおか よしとし)
(1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日)は、日本の画家。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師である。姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた。
河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている(後述)。
美人画・風俗画
美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』 でみずみずしい女性たちを描いた。
無惨絵
初期の作品 『英名二十八衆句』 (落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の 『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』 に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。
芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』(■右列に画像あり)など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。
その他の画題
月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで月の出てくる作品が多く、『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。幽霊画も 『幽霊之図』 や 『宿場女郎図』 などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。
芳年は弟子に厳しかったが、同時に大変かわいがった。これからは洋画の時代だと見越し、何人もの弟子を洋画家に弟子入りさせている。そのため、彼の弟子に大成した人は少なくない。涙もろい人情家でもあり、三遊亭円朝の人情話を聞いてすすり泣いたという話もある。眼は大きいが怖くない人だと、当時子供であった鏑木清方には思われていた。絵のモデルとして弟子を縛り付けているのを見た知人が驚いて「助けてやってくれ」と頼むと「こいつは悪いことをしたので縛り付けている」と悪乗りをして言い返すという逸話があり、ユーモラスな人でもあったようである。にぎやかなお祭り好きで、話し上手でもあった。芳年は神経衰弱を患っていたことがよく知られているゆえに、病んでいるようなイメージが一般的にはある。それでも病の床で絵を描き続けた。
影響
芳年の門人には、水野年方、稲野年恒、右田年英、山崎年信、山田年忠、新井芳宗などがおり、水野の門人に 鏑木清方、池田輝方など、その他多数がいる。特に鏑木は子供の頃から芳年の家に遊びにきていた。彼らは挿絵画家や日本画家として活躍した。また、芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩などの文士たちに愛された。芸術家では横尾忠則が芳年の影響を受けて画集を発売している。
( wikipedia )
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「月百姿 垣間見の月 かほよ」
明治19年(1886年)
顔世御前に横恋慕する高師直に顔世の侍女が風呂上りの
顔世の姿を覗き見させるというエピソードを描いた作品。source
魁題百撰相 小寺相模 source
大判錦絵
明治1年(1868)
size 縦 35.2cm×横 24.25cm