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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

須磨 利之

2010-05-15 | 日本人作家

日本人作家の索引

須磨 利之【日本人作家】 須磨 利之 挿絵など

 

須磨利之

須磨利之 すま としゆき、1920年(大正 9年) - 1992年(平成 4年)。
変名は美濃村晃、喜多玲子など。
1940年代末から1970年代にかけて活動した絵師・文筆家・緊縛師。
「緊縛美」 を追究し、アートとしてのSMを深めた。
「昭和SM文化の母」 ともいえる存在。
(Smpedia)            


 

 

絵師。緊縛師。文筆家。編集者。主な変名は美濃村晃、喜多玲子。『奇譚クラブ』 『裏窓』 『SMコレクター』 『アブハンター』 『SM奇譚』 などの初期SM雑誌の編集に関わり、戦後SM文化の形成に大きな役割を果たした。絵師としても高いレベルの作品を残し、緊縛師、文筆家としても活躍した。須磨利之の絵師としての活動は、喜多玲子のページにもまとめてある。

奇譚クラブ【雑誌など】 奇譚クラブ 【挿絵など

 


Toshiyuki Suma, Reiko Kita, Kou Minomura,
須磨としゆき、 喜多玲子、美濃村晃、その他 (下記参照)。


奇譚クラブ時代の変名[1]

【絵師として】須磨利之、魁京二*、亀井七郎*、七郎*、須磨としゆき、喜多玲子、㐂夛玲子、美濃村晃、箕田京二、箕田京太郎、箕田京、志乃田よしろう*、峯玄太*、松岡敏一*、まつのけんじ、曾根三太郎*、加住としを*、森あきら*、竹中英二郎[注 1]、竹中えいじろ、今幾久造、秋田冷光*、明石三平*、沖研二*、天野健* など。また絵のサインとしては『MINOMURA』『晃』『KEN』『弱』『えいじろ』。絵師としての活動は、喜多玲子のページにもまとめてある。(「*」印の名前については、画風からおそらく須磨利之の変名だろうと予想したもの)

【文筆家として】兵庫一平*、壬生すみ子、藤安節子、花山剣作、高月大三、早乙女晃、鬼山絢作(けんさく)、赤坂剛、秋山ルミ子、三村幾夫、染田玄、

風俗草紙時代の変名

喜多玲子、美濃村晃(絵)、志見透(文)、高月大三(文)

裏窓時代の変名

喜多玲子、美濃村晃、円城寺達、沢拳史(絵)、柴志野別(絵)、猪島昌也(写真)

SM雑誌時代の変名

喜多玲子、美濃村晃、仲島炬司(絵)、照魔加司[注 2]、須賀敏[注 3](文)、松村武史(劇画作)、古賀純一(文)、石塚章二(文)、絵のサインとしては『玲』


 

略 歴

須磨の自伝には創作部分がかなり含まれており、以下の略歴も将来的に訂正される可能性もある。

1920年(大正9年) 、京都の印刷業の家に生まれる[2][注 4]。須磨家は薩摩藩士で維新後京都に移る。本宅は岡崎で印刷屋は京都駅前。芦屋に別荘[3]。四国で育ったという記述もある[4]。

1927年(昭和2年) 頃、叔父須磨勘兵衛の土蔵で江戸期の黄表紙に描かれた責め絵に衝撃[3][注 5]。

1930年(昭和5年)頃、土蔵で縛られた母の姿を見る[注 5]。

1932年頃、祖父の蔵書の中にあった『変態風俗資料』という本に責め絵画家として紹介されている伊藤晴雨を知る[2][5]。

1930年代、京都美術工芸学校を結核で中退[6][5]。

1930年代、小林楳仙(こばやしばいせん)[注 6]という日本画家の内弟子になる[5][6][7][2]。

1939年(昭和14年)5月、舞鶴の海兵団に志願[7]。衛生兵であったという記述もある[4]。

1944年(昭和19年)3月18日、「北陸丸」乗船中にバシー海峡で沈没[7][注 7]。9月18日、バシー海峡で「第二氷川丸」という記述もある[3][注 5]。

1944年(昭和19年)3月、須磨家は陸軍に戦闘機二機、海軍に零戦を一機献納[3]。

1945年頃、復員後、日本各地を放浪していろいろな職業につく[5]。

1945年頃、京都の夕刊新聞社「京都中央新聞社」の編集記者[5]。

1947年(昭和22年)夏、京都中央新聞社の杉山清詩[注 8]につれられ曙書房に行ったのが縁で奇譚クラブに挿絵を描き出す[5][注 9]。まだ不定期刊行のカストリ雑誌であった奇譚クラブ以外にも、「情艶新集」などににも挿絵を描いていた[注 10][5]。

1948年(昭和23年)、5月20日発行の奇譚クラブ5月号(第7號)には、まだ須磨利之の痕跡は見いだせない[8]。

1948年(昭和23年)、10月15日発行の奇譚クラブ(第9號)「爽秋読切傑作号」の表紙は須磨利之。他にもいくつかの作品に須磨利之の名で挿絵を描いている。

1949年(昭和24年)、『別冊奇譚クラブ』4月号、10月号の表紙は須磨利之。

1949年(昭和24年)9月15日、奇譚クラブ第3巻第8号の高村暢児『ルポ 夜のTOBITA』、園田光『女への復習』の挿絵で初めて喜多玲子の名前が登場。

1950年(昭和25年)春、結婚し、まもなく妊娠[6]。

1950年(昭和25年)、奇譚クラブ7月号(通巻22号)の伊豆俊夫『地下組織の秘密ナイトクラブをえぐる』の挿絵に、単純ながら縛り絵が登場。

1950年(昭和25年)11月、吉田稔に乞われ、月刊化するカストリ雑誌時代の奇譚クラブの編集に専念するために、京都から堺市西湊5-27に引っ越しをする[6]。

1951年(昭和26年)頃、飛田遊郭の「銀巴里楼」で「縛られ女郎ショー」を演じたと自伝にしばしば書いているが、実話なのか作り話なのか定かでない。

1951年(昭和26年)、4月より1954年(昭和29年)1月まで伊藤晴雨と喜多玲子の書簡交換が記録に残っている[9]。

1951年(昭和26年)、奇譚クラブ12月号より編集人が吉田稔から箕田京二に変わる。これは須磨利之が箕田京二の変名を使っていたことを考慮すると、これは須磨利之が本格的に奇譚クラブの編集に関わりだしたことを示しているのかもしれない。

1952年(昭和27年)、奇譚クラブは6月号からそれまでのB5版をA5版に変え、変態路線を強めていく。

1953年(昭和28年)1月、伊藤晴雨が奇譚クラブ1月号に短文を寄稿し、その中で喜多玲子への想いを語っている[10]。

1953年(昭和28年)、奇譚クラブを6月号で辞める。同人誌『たのしみ草紙』を発行[注 11][5]。

1953年(昭和28年)7月、風俗草紙創刊号である7月号に喜多玲子の名前で絵と告白文。

1953年(昭和28年)8月、玲光社という出版社を京都に起こし、私家版的な絵画集を出していた模様。

1954年(昭和29年)5月、風俗クラブ5月号に喜多令子、高月大三の名で記事を書いている。

1954年(昭和29年)秋、上京[注 12][5][注 13]

1954年(昭和29年)、伊藤晴雨と始めて実際に会う[注 14][2][5]。

1954年(昭和29年)、風俗草紙が10月号で廃刊。

1955年(昭和30年)、あまとりあ社(=久保書店)に入社。あまとりあの第5巻2号と3号に喜多玲子の口絵。終刊号(8月号)の編集に携わる。

1955年(昭和30年)、裏窓の前身となる『かっぱ』を創刊[注 15][5]。

1956年(昭和31年)、久保書店から裏窓創刊[注 16][1]。

1959年(昭和34年)、この頃、団鬼六と交友関係が深まる(要確認)。

1960年(昭和35年)、裏窓は角綴から中綴に変わり、変態雑誌を大きく標榜。

1961年(昭和36年)8月、浦戸宏が裏窓編集室に参加。

1962年(昭和37年)、裏窓の編集長を濡木痴夢男にバトンタッチし、少女雑誌『灯』(後の『抒情文芸』)の編集をてがける[5]。

1970年(昭和45年)、久保書店を退社し、濡木痴夢男と虻プロを設立。社長は須磨。あぶめんとを創刊。同年9月号で廃刊。

1970年(昭和45年)11月、SMセレクトの創刊に関与。

1971年(昭和46年)10月、SMコレクターの創刊に関与。

1974年(昭和49年)6月、S&Mアブハンターの創刊に関与したもとのと思える。

1979年(昭和54年)5月、脳溢血で倒れ東京女子医大に1年半入院[11]。その後、神奈川県厚木市七沢の温泉療養所でリハビリ[1]。

1980年(昭和55年)10月15日、「脳梗塞で療養中に発作を起こし救急車で初めて運ばれ、1ヶ月入院」とある[12]。

1989年(昭和元年)、シネマジックの吉村彰一によるドキュメント作品『縄炎 ~美濃村晃の世界~』が制作される。監督は雪村春樹で須磨利之自身に加え、濡木痴夢男、団鬼六、櫻木徹郎、有末剛、椋陽児、吉村彰一等が出演。

1992年(平成4年)、死去。

 

 

 

 

 

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