ミロのヴィーナス
(ギリシア語: Αφροδίτη της Μήλου、フランス語: Vénus de Milo)
古代ギリシアで制作された彫刻の女性像。現在はパリのルーヴル美術館で展示・管理されている。
ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタス(Yorgos Kentrotas)によってオスマン帝国統治下の ミロス島 で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。
後に、フランス海軍提督 ジュール・デュモン・デュルヴィル は、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後に、ルイ18世に献上された。ルイ18世は、これをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
以後、ルーヴルを出て海外へ渡ったことはただ1度、1964年4月~6月、日本の東京(国立西洋美術館)および京都(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。
1900年頃にルーヴルで一度だけ型取りされており、現在もその型を元にレプリカや縮小モデルが作られている。
( Wikipedia )
ミロス島 (ギリシャ語: Μήλος / Milos)
世界の至宝、ヴィーナス像が発見されたミロス島
(現代ギリシャ語: Μήλος / Milos)
当時はオスマントルコ領であったが、現在はギリシャ領。
エーゲ海南西部、キクラデス諸島の西端にある。
古典ギリシア語ではメーロス島(Μῆλος / Melos)
( 「ミロのヴィーナス」 の “ミロ” は 「ミロス島」 のイタリア語形 )
英・仏・露が介入して、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャは独立させられた。
アドリアノープル条約(Treaty of Adrianople)は、1828年から1829年にかけてのロシア・トルコ戦争(露土戦争)における講和条約。1829年に締結された。
1821年に勃発したギリシア独立戦争に対して、ロシア帝国はこれを支持する態度をとった。穀物輸出を重要な国家財源とするロシアにとって、黒海・エーゲ海における影響力を強化することは、その販路を確保することにつながるため、この独立戦争に乗じて オスマントルコ帝國 に対する圧力を強化しようという狙いがあった。1828年に単独でオスマン帝国と開戦したロシアは、翌1829年にアドリアノープル条約を受け入れさせた。その内容は以下のようなものであった。
ギリシアの自治を承認
ドナウ河口、カフカース地方のうち黒海沿岸地域をロシアへ割譲
モルダヴィア・ワラキア・セルビアの自治を承認
ロシア船舶がボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を自由に通行することを承認
この条約で前進したロシアの南下政策は、1833年のウンキャル・スケレッシ条約(Treaty of Hünkâr İskelesi)で、さらに推進されることになる。
キオス島の虐殺
(Scènes des massacres de Scio) 1823-24年
417×354cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)
(フランス金融帝国主義の面目躍如と謂うわけで、ウィーン会議のフランス代表として知られる
タレーラン が実の父とかも言われている、ドラクロアはフランスがオスマントルコを侵略する
戦争の宣伝絵画を描いたわけで……。)
La grande odalisque 1814年
オスマントルコの滅亡 【わが郷】
英国やフランスはトルコを助けるとの名目でこの戦争に介入してきた。満州に進んだ日本帝國から支那を助けるとの名目で、太平洋戦争をしかけてきた米英と似たようなもの。けっかはもう一つの第一次大戦を経てオスマントルコは解体された。大日本帝国も、明治時代のロシアとの戦いでは米英から支援を受けたが、後の大東亜戦争を経て帝国の版図は分割された。政体は改変させられ、帝政はかろうじてシンボルとして温存された。トルコではメフメト6世が追放され、世俗政治つまり欧州謂うところの 「共和制」 となった。つまり経済は実質イギリスなどの金融の菌糸に侵されるようになった。
マレーシアのマハティール氏が著作の中で書いている。
『欧米人は、好色で利欲的である。』 【金色のあめ】