わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

伊東 深水

2010-07-27 | 日本人作家

 

  


伊東 深水  いとう しんすい

1898年(明治31年)24日 - 1972年(昭和47年)58
は大正・昭和期の浮世絵師、日本画家、版画家。
本名、一(はじめ)。女優・タレント・歌手の朝丘雪路は娘。


 
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。上村 松園 や 鏑木清方 と並んで三大美人画作家のひとりとも言われる。

 

 


1898年‐東京深川に生まれる
 1907年‐小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く
 1908年‐職工となり東京印刷の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う
 1911年‐縁あって鏑木清方へ入門。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する、14歳
 1912年‐第12回巽画会展に『のどか』が初入選
 1913年‐巽画会1等褒状
 1914年‐再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する
 1915年‐第9回文展に『十六の女』が初入選
 1916年‐渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く
 1919年‐好子と結婚し長男と二男をもうける
 1922年‐平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌
 1927年‐大井町に深水画塾設立
 1932年‐人物画の再興を目指し「青々会」設立
 1935年‐料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうける
 1943年‐召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする
 1945年‐長野県小諸市に疎開
 1948年‐『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞
 1949年‐鎌倉に転居
 1950年‐白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる
 1958年‐日本芸術院会員に推挙
 1972年‐癌により5月8日没 享年74 墓所は品川区上大崎の隆崇院 法名は画光院一誉明澄深水大居士

 

代表的な作品[編集]
 『指』(1911年)1922年平和博覧会出品。
 『対鏡』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
 『遊女』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
 『明石の曙』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵 
 『湯気』(1924年)
 『羽子の音』(1927年)
 『潮干狩』(6曲1隻1929年)
 『秋晴れ』(1929年)帝展特選
 『暮方』(1932年)
 『宵』(1933年)
 『桜花図』(6曲1隻1939年)
 『銀河祭』(1946年)
 『吹雪』(1947年)
 『信濃路風景』(1948年)
 『髪』(2曲1隻1949年)
 『聞香』 絹本着色 (1950年) 東京国立近代美術館所蔵
 『清方先生像』 絹本着色 (1951年) 東京国立近代美術館所蔵
 『春宵(東おどり)』(4曲1隻1954年)
 『吉野太夫』(1966年)
 『伊達巻の女』
 『口紅』
 『雪の女』
 『丸髷』
 『社頭の雪』
 『姿見』 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
 『大島婦女図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵
 『月夜図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵 など

 

日本人作家の索引
わたしの里 美術館  わが郷 HOME

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。