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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

2007-09-13 | 作家の記録

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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ【作家の記録】 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

 

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

Dante Gabriel Rossetti, 1828512日-1882410日)
19世紀のイギリスの画家・詩人。
ラファエル前派の一員に数えられる。
詩人 クリスティーナ・ジョージナ・ロセッティ の兄。
姉のマリアと弟のウィリアムも著述家である。
医師・作家であるジョン・ポリドリは叔父にあたる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dante_Gabriel_Rossetti

 


1828年、ロンドンでイタリア系移民の子として生まれる。父はナポリ出身の学者・詩人であった。息子のロセッティも詩をよくし、若い頃は文学と美術のどちらの方面へ進むかで迷ったという。1846年、ロンドンの ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ に入学。1848年、同校の学生であったウィリアム・ホルマン・ハント(1827年 - 1910年)、ジョン・エヴァレット・ミレー (1829年 - 1896年)らとともに「ラファエル前派」(Pre-Raphaelite Brotherhood)を結成した。

 

 

                                ラファエル前派

「ラファエル」 とはイタリア・ルネサンスの巨匠であり、西洋古典絵画の代名詞とも言える画家 ラファエロ のことを指す。「ラファエロ以前」 という言葉には、19世紀当時のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える意味があった。ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは、同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキンであった。ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば 「自然をありのままに再現すべきだ」 ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すというラスキンの信仰があった。しかし、明確な理論をもった芸術運動ではなかったラファエル前派は長続きせず、1853年にミレーがロイヤル・アカデミーの準会員になったことなどをきっかけとして、数年後にはグループは解散した。なお、ロセッティの影響を大きく受けた バエドワード・バーン=ジョーンズ (1833年 - 1898年)など、ヴィクトリア朝 イギリスの画家たちを含めて広く 「ラファエル前派」 ととらえる場合もある。

     

 

ロセッティは、他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などに題材を求めた作品を多く描いたが、技法的には仲間の他の画家たちのような徹底した細密描写は得意でなかった。また、人物像の解剖学的把握にもやや難があり、全体として装飾的・耽美的な画面構成の作品が多い。

ロセッティの生涯はエリザベス・シダルとジェーン・バーデンという 2人の女性と関連づけて述べられることが多い。この 2人の女性とロセッティとの関係は複雑であるが、ロセッティの芸術を語る上で避けて通れない事項でもあり、以下に概略を述べる。

 

 『オフィーリア』 のモデルは、エリザベス・シダル

エリザベス・シダルは長い婚約期間の後、ロセッティの妻となった女性で、ロセッティの代表作の一つである 『ベアタ・ベアトリクス』 の、またミレーの代表作 『オフィーリア』 やハントのモデルも務めた女性である。

 

 

一方のジェーン・バーデンは、19世紀イギリスの装飾芸術家・デザイナーとして著名なウィリアム・モリス(1834年-1896年)の妻となった女性であり、『プロセルピナ』 をはじめとするロセッティの多くの絵でモデルを務めている。ジェーンはロセッティが終生追い求めた理想の女性であったとされ、男を破滅に追いやる「ファム・ファタル」(femme fatal=運命の女)の一例とされている。

      女性騎士のギャラリー【Galleries】 John kissing sword release 1863

ロセッティがジェーン・バーデンに出会ったのは1857年、ウィリアム・モリスらの仲間とともに、アーサー王伝説に登場する王妃グィネヴィアの壁画を制作中の時であった。当初、壁画はエリザベス・シダルをモデルに制作されていたが制作に難航し、気分転換にと出向いたロンドンの下町の劇場で、ロセッティらはやはり観劇に訪れていたジェーンを見出した。当時、ロセッティはエリザベスと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあったようで、以後、ロセッティの作品にはしばしばジェーンがモデルとして登場するようになる。繊細で病気がちな女性だったと言われているエリザベスにとって、ジェーンの存在は激しい心痛の種となった。結局、ジェーンはロセッティの弟子にあたるウィリアム・モリスと結婚し、ロセッティは婚約者のエリザベスと予定どおり結婚した。しかし、これら2組のカップルの結婚生活はともに幸福なものではなく、ロセッティの、人妻になったジェーンに対する思慕は止むことはなかったと言われる。冷え切った夫婦関係や女児の死産に心を痛めたエリザベスは、薬(阿片チンキ、クロラ-ルという鎮痛麻酔剤の一種)に溺れるようになり、結婚2年目のある日、大量の薬を服用して自殺同然の死を遂げた。彼女の死を悼んだロセッティによって描かれたのが、前出の『ベアタ・ベタトリクス』である。ロセッティはその後も絵画制作を続け、世間的な成功は得たものの、人妻への思慕と自分の妻への罪悪感にさいなまれて次第に心身を病み、1872年には自殺を図ったこともあった。晩年は酒と薬に溺れる生活で、不眠症のため真夜中にロウソクの灯りで絵を描いていたという。

ロセッティは1882年、ケント州バーチントンで失意のうちに54歳の生涯を終えた。

 

 

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