ジャック=ルイ・ダヴィッド
(Jacques-Louis David )が生まれたのは, 1748年8月のこと。
1738年にヘルクラネウム、48年にはポンペイの都市遺構が発掘され、これが新古典主義絵画の潮流の源泉のひとつです。これらの都市はナポリの東方、ヴェスヴィオ火山の麓にありました。
彼の母親のいとこに、フランソワ・ ブーシェ (François Boucher) がおり、水浴のディアナは、1742年の作品で、39才の時に描かれました。 『ポンパドゥール夫人』 は1758年でこの頃ダヴィッドは10才の少年でした。20台半ばでローマ賞を受賞し、1780年までイタリアに留学していました。1789年7月14日は有名なフランス革命の発端と言われている、バスティーユ襲撃(prise de la Bastille)事件でこのときダヴィッドもジャコバン党の一員として加わっています。
ダヴィッド 1799年の作品です。テーマは和解なのでしょう。ローマの創世期の神話が モチーフです。この絵の物語の前には 『サビニの略奪』 がありました。ニコラ・プッサン (Nicolas Poussin) 1633-34年の作品です。
始祖ロムルスは双子の兄弟のレムスを殺して、ローマを造りました。町には荒くれ達が集まってきましたが、女が足りない。そこで一計を案じて祭りを開き、そこに集まってきた女達を略奪して嫁にしてしまったのです。サビニとは女達を奪われた村の名で、男達は武力を蓄え三年後に娘等を奪還しにローマを襲いました。故郷のサビニの親兄弟とローマの夫の間に略奪されたが現在は子も成し平和に暮らす娘達が割って入って、戦いを収めて両者は和議したという故事のお話しです。この絵を見ると現在の日本人は北朝鮮による日本人の拉致を連想してしまいます。『つまらん画だ』思わず心の中でつぶやいてしまいますね。そして、結末が和議では納得できる気分ではなくなります。ましてやローマのロムルスとサビニの王ティトゥス・タティウスとの共同統治までは何とか我慢もあるかなとは思いますが、このティトス王の死後はロムルスが統一国の王となるでは面白くはありません。羊を飼い最期には肉にして喰らうことを生業とする人たちにしてみれば、当たり前の結末かも知れません。
ダヴィッドが『サビニの女たち』を描いたのは、1799年のことでした。ルイ14世とマリー・アントワネットを断頭台で処刑した革命フランスは、マリー王妃の実兄神聖ローマ皇帝レオポルト2世等の周辺勢力の干渉を排するために戦乱に明け暮れました。ジャコバン党の党首のロベスピエールらは1794年7月27日(フランス革命暦テルミドール9日)に反対派によって逮捕されギロチンに送られてしまいました。このような政治的・軍事的混乱を収束させたのが、1799年11月9日、のナポレオンのクーデターでした。そんな内外の混乱の中にあれば彼の心情も分かってやらないといけないのかも知れません。フランス革命の混乱をひとまず収束させ、フランス革命戦争で武功を立てたナポレオンは第一執政となり、 1802年3月25日、フランス北部のアミアンで講和条約を締結します。
日本の政治的混乱は、総選挙の後にやってくるのでしょうか。その政界再編劇の一つのテーマは日本経済の世界金融資本による拉致・監禁なのです。それに対する対応の仕方が一つの分水嶺となるのでしょう。寛容はことを曖昧にして、日本国の世界金融資本の隷属からの脱出、頸木の破棄を不可能にするでしょう。妥協して統一経済の下請け工場の道も一つの選択肢と諦めるのはよくありません。