江田 憲司 (えだ けんじ)
1956年 4月28日 -
日本の政治家。衆議院議員(4期)。
通商産業大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、みんなの党幹事長などを歴任した。
テレビ、選挙ポスターなどでは江田けんじと表記されている。
( wikipedia より抄出、経歴などは、この記事の後半にあります。)
2014 03 29 頭が痛い 【わが郷】
2013 12 08 結構毛だらけ 【わが郷】
2013 08 24 みんなの党は パニック 【わが郷】
2013 06 25 なんだか わからない 【わが郷】
これからは、政治の力を弱くして、国際的な大企業が勝手気ままにやるような、その政治に加担するような政党は支持されない。企業の大幅な減税をして、その穴埋めに消費税を作った。それで景気がさらに悪くなったので、さらなる消費税増税を売国企業たちは要請してきた。いつまでも、国民を騙すことなど出来ない。
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経歴の概要
岡山県岡山市出身。1979年に東京大学法学部を卒業。大学在学中の1976年に公務員試験及び旧司法試験の第二次試験択一式試験及び論文式試験に合格。翌1979年には旧司法試験に最終合格した。
通産官僚から首相秘書官へ[編集]
大学を卒業後は通商産業省に入省。大臣官房、生活産業局、資源エネルギー庁などを経て、1987年から1988年までハーバード大学国際問題研究所研究員として在米。帰国後は、工業技術院、産業政策局総務課長補佐、通商政策局経済協力室長を歴任。
村山内閣当時の通商産業大臣秘書官事務取扱として橋本龍太郎に仕えたことがきっかけとなり、橋本内閣では橋本の政務担当内閣総理大臣秘書官(首席秘書官)に現役官僚から当時39歳で異例の抜擢を受け、メディアは“官邸の森蘭丸”と報道した。橋本の下で中央省庁再編や金融改革等、重要案件の調整に当たった。橋本内閣総辞職と同時に退官。
政界入り[編集]
2000年6月25日の第42回衆議院議員総選挙で神奈川8区から自由民主党公認で出馬したが、落選。その後、自民党を離党し、テレビ番組のコメンテーターなどをしながら無所属で政治活動を続けた。
2002年10月27日、第42回衆議院議員補欠選挙に神奈川8区から立候補して初当選。2003年の第43回衆議院議員総選挙に神奈川8区から無所属で立候補して落選。2005年の第44回衆議院議員総選挙で神奈川8区から無所属で立候補して当選。
2006年9月、2007年9月に行われた首班指名選挙では投票者(江田自身)の名前だけを書き、被投票者の氏名を書かず無効票を投じた(それぞれ選出されたのは安倍晋三、福田康夫)。いずれの指名選挙でも、全衆議院議員で唯一の白票を投じている。2008年の指名選挙では過去2回の首班指名選挙で白票を投じたのとは違い、第一野党党首である民主党代表の小沢一郎に投票した(後述)。
無所属から新党結成へ[編集]
2008年に官僚国家日本を変える元官僚の会(脱藩官僚の会)を結成して代表幹事に就任。
2009年1月、自民党を離党した渡辺喜美と共に政治団体「国民運動体」を結成。同年5月に「国民運動体 日本の夜明け」へ改称し、渡辺と共にパートナー(共同代表)へ就任。同年8月の第45回衆議院議員総選挙に際して「みんなの党」を結党し、「パートナー(党務)」(幹事長に相当)に就任した。総選挙では再選され、同年9月に役員名称の変更で幹事長となった。
2013年8月、みんなの党幹事長を渡辺喜美代表の発議により解任される。同年12月、みんなの党に離党届を提出し、みんなの党を離党(離党届は受理されず、除名処分が下った)[2]。その後、江田を含む離党届を提出した13人に加え、江田が幹事長を解任された際に離党していた柿沢未途が合流して結いの党を結党し、代表に就任した[3]。