CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

言葉で表現することの大切さ

2017-08-19 08:25:24 | 日記
表現することの大切さ・・・だけど、今日のカテゴリーは日記。
つまり、日常の中での『コトバ』のこと。

昨日、久しぶりにきちんと『話した』
意識的にきちんと話す場を持つ機会を得た。

裁判というほどではないし、
会議というほどのものでもない。
打ち合わせでもなく・・・
まぁ、日ごろ感じていることをお話しするって程度だけれど、
これって、案外、難しいことだ。

私はとてもおしゃべりな子供だった・・・もちろん今も(笑)
私のおしゃべりは、近所の大人たちとの会話がそのベースにある。

私が子どもの頃育った家は、配電盤などを製造する『日本電機』という会社の一角にあった。
本当に一角という感じで、我が家があるために日本電機はⅬ字型をしていた。
まるで、社長の自宅がそこに在る・・・状態の存在感(笑)
私がまだ幼かったころ、日本電機には多くの『金の卵』たちがいた。
昼休みには工場の敷地でバレーボールをしたり、食堂の片隅にある卓球台で卓球をしたりしていた。

私は・・・なぜか出入り自由な感じで、いつもバレーボールを眺めたり、ボールを拾ったり
食堂で、卓球の道具入れの箱を踏み台にして、ピンポンをさせてもらっていた。
小さな守衛室の狭い畳の上で日がな一日折り紙をしていることもあった。
休みの日曜日も・・・敷地内で、
ピンキーとキラーズの歌声をカーラジオから流しながら、
『ケンメリ』を洗車するお兄ちゃんのそばにいた。
社用車が入っている車庫の前でいつも洗車しているお兄さんのそばにいた。

うろちょろしている、うるさいガキ・・・の相手をみんなよくしてくれた。

そのお兄さんたちは、私の両親を『東京の親』のように慕ってくれていた。
秋になると必ず道路にはみ出た我が家の柿の木の実をジャンプして採って出勤していた。

私はお兄ちゃんたちが大好きで、いつもお兄ちゃんたちの部屋にも入り浸っていて・・・
初『カベドン』目撃もそのお兄ちゃんの部屋だった。

そんな幼少期を過ごした私は、子ども同士で遊んだ思い出より、
日本電機の工場の塀を歩いたり、大人たちに囲まれて遊んでいることが多かった。

そこで、交わされる『コトバ』を聞いて育った。
そして、その大人たちに
子どもながらに自分の思いを伝えるためにいっぱいお喋りをした。

近所のおじさんにも叱られながら、
煙草屋さんのお家に上がり込んでおやつをいただいたり、
水道屋さんのお嫁さんの愚痴を聞きながら、ロールキャベツを初体験したり、
クリーニング屋のお姉さんに造花の作り方教わったり・・・
もちろん、近所の由美ちゃん家で『リカちゃん』で遊んだけど、
私にとっては、近所のお家に上がり込んだりして、大人と会話する機会が多かった。

静かに本を読むタイプではなかった私の言語は、近所の大人たちとの会話で育ったと言える。

昨日、久しぶりにきちんと話す機会を得て、
しっかり話さなければいけない場面で、
自分の考えていることを整理しながら、
相手にきちんと伝わるように考えながら、お話をする機会を得た。

久しぶりだったが、きちんと話せた気がする。

理解していただけたかどうか・・・は、
話を聞いた側の意見や考えもある中での話でもあるので、よくわからない。
理解していただいたうえで、
私の意見を参考にしていただければよいわけで、賛成してほしいわけではない。

話というのは、とかく『わかってほしい』からするわけで、
それは『理解』してもらうということで『賛成』してもらうことではない。
そこを混同している人が多い。
『わかる』というのは、あくまで『理解』したということで『賛同』するということではない。
『混同』してしまいその後結果が自分の意のままででないと、
せっかく話したのに全然わかってもらえていないとなり、不満を生む。

たぶん多くの『会話』大人たちとしてきた就学前の私は、自然にそのことを理解している。
子どもの言うことなんて、ほとんど相手にされなかった。
が、それでも大人たちは私の話をちゃんと聞いてくれていた。

私は、昨日、久しぶりに『きちんと話す』ことができた。
つくづく『言葉で表現することの大切さ』を感じた日だった。

そして『理解』することの大切さも感じた。

昨今は、親子がゲームに興じていてほとんど会話をしていない状況がある。
会話が危険を知らせる・・・なんとかアラートのような状態になっている。

言語の獲得は・・・その筋の研究者ではないので、よくわからないが、
生まれてから、6歳くらいまでの時期がとても重要な気がする。

核家族の中では、赤ん坊と一人の大人という状況が多いだろう。
赤ん坊の耳に入るのは、テレビの声がほとんどかもしれない。
昔だったら、おばあちゃんもそこに加わって、
笑い声や、たまには喧嘩する声が聞こえていたころだろう。

『会話』ができることってすごく大切で、
それが社会を保つ大切な要素であることは・・・
きりがなくなるから、やめておくが・・・

そう『言葉で表現すること』は大切だと改めて思い、
今の社会が『言葉』を獲得しづらい状況にあるのではないかと思った。

『言葉』を失ったときそこに『暴力』が生まれるとさえ考えてしまう。
自己表現ができなくなった時に『暴力』訴えてしまう・・・
そういう社会にしないためにも・・・
考え直さなくてはいけない時期は、とっくの昔に来ている。
そう、30年くらい前に・・・来ている気がしてならない。

言葉で表現するとことの大切さ・・・
そしてその能力を獲得することの重要性・・・を改めて感じた日だった。

さぁ・・・洗濯物を干したら、だんぼっちにこもるとしましょう。
私の一日を始めるとしましょう(^^)

8月18日(金)のつぶやき

2017-08-19 05:53:57 | 日記