史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浦賀 Ⅱ

2010年01月03日 | 神奈川県
(西徳寺)
 久し振りに浦賀を訪ねた。浦賀周辺には、たくさんの史跡があるというのに、駅前にレンタサイクルが無いのは納得できない。しかたなくバスで鴨居を目指す。とはいえ、バスはだいたい1時間に三本くらいのペースで走っており、あまり不便さは感じない。


西徳寺

 最初の目的地は、鴨居地区の西徳寺である。
 日本近海には、ペリー来航以前から相次いで異国船が出現していた。ペリーは突然やってきたのではなく、その何十年も前から前兆があったのである。
 文化七年(1810)、幕府は台場の建造と沿岸の警備を会津藩と白河藩に命じた。会津藩は、走水、浦賀、城ケ島の三か所に台場を築き、三浦半島沿岸を警備することになった。十年後の文政三年(1820)、沿岸警備の任務は浦賀奉行に引き継がれたが、この十年間に会津藩士およびその家族四十八名が病気等で亡くなっている。彼らの墓が、鴨居の西徳寺、能満寺、走水の円照寺などに散在している。


会津藩士の墓

 西徳寺の会津藩士の墓は、寺の境内から離れた場所にある。寺から四百㍍ほど浦賀駅寄りに戻って、鴨居小学校の前の急な階段を上り切ると、その左手の雑木林の中に静かに眠っている。

(能満寺)
 能満寺にも会津藩士と川越藩士の墓があるというので、境内および墓地を捜したが、発見できず。


能満寺

(観音崎)


観音崎灯台

 鴨居から観音崎行のバスに乗って、終点で下車。ここから徒歩十分ほどで観音崎灯台に着く。明治元年(1868)九月、明治新政府は観音崎灯台の建設に着手した。建設を担当したのは、横須賀製鉄所首長、フランス人技師のウェルニ―であった。横須賀製鉄所で製造された煉瓦と石灰を用いた灯台が、年末に完成し、明治二年(1869)正月一日、我が国初の洋式灯台に光が点った。初代と二代目灯台は地震で倒壊したため、現在の灯台は大正十四年(1925)に完成された三代目である。


灯台からの眺望

 灯台からの眺めは絶景である。横浜や川崎、更にアクアラインから対岸の富津市まで鮮明に見渡すことができる。観音崎から富津までの距離は約六㌔。東京湾で一番狭くなっており、そのためこの周辺に集中的に砲台が設けられた。


観音崎灯台点灯の碑
点灯明治巳己年正月元日

 因みに碑に刻まれた「点灯」の文字は旧字体である。「点」は「點」に「灬」、「灯」は「燈」である。


観音崎北門第一砲台跡

 灯台の麓には、北門第一砲台跡がある。この砲台は、明治になってから築造されたもので、口径二十四インチの巨砲が二基、据え付けられていた。写真は、二基の砲台を繋ぐトンネルである。
 少し離れた場所に造られた第二砲台には、大砲が六基設置されていた。

(三軒屋公園)


三軒家砲台跡

 横須賀美術館の裏側の山の中に三軒家公園という静かな公園がある。かつて砲台があった場所である。三軒家砲台は、明治二十四年(1891)に完成した砲台で、27加砲が四台、12加砲が2台を備えていた。昭和九年(1934)に廃止されたが、今も当時の原型を伝えている。

(旗山崎砲台跡)


旗山崎砲台跡

 旗山崎には、幕府の命を受けた川越藩が、天保十四年(1843)に築造された砲台である。異国船の進入に備えて六問の大砲が置かれていた。砲台は、維新後も明治陸軍に引き継がれた。今も海岸沿いに半円形の石垣が残されているのを確認することができる。

(円照寺)
 走水の円照寺には、沿岸の警備に従事した川越藩士の墓一基と会津藩士の墓六基がある。


円照寺


会津藩士の墓


川越藩士の墓(左)
会津藩士の墓(右)

(ウェルニ―水源地)
 走水周辺は湧水があることで知られる。明治九年(1876)、横須賀造船所のウェルニ―は、この湧水を水源として横須賀まで送水した。明治四十一年(1908)には、水道水として地域に供給された。それから百周年を記念して平成二十年(2008)には一般の人も利用できるように施設が設けられた。


ウェルニ―水源地

コメント (2)
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横須賀 Ⅱ

2010年01月03日 | 神奈川県
(おりょう会館)
 この日は、茨城県方面への遠征を計画していたが、出発前にテレビをつけると高速道路で帰省ラッシュが始まっていると報じられていた。途端にハンドルを握る気力が失せ、急遽予定を変更して、電車で行ける三浦半島方面に切り替えた。


おりょう胸像

 京急横須賀中央駅から東に歩くと、「おりょう会館」という建物に行き着く。「おりょう会館」は葬祭場のようであるが、その建物の前に坂本龍馬の妻、おりょうの胸像がある。
 おりょうは、龍馬の死後、一時高知の坂本家に身を寄せたが、折り合いがうまくいかず、京都に戻った。その後、東京に出たが、頼るべき海援隊士が洋行中だったこともあり、東京の居心地も悪くなったらしい。やがて横須賀に移って、そこで西村松平衛と暮らすようになる。西村松平衛は、横須賀で回漕業を営んでいたと言われる(別に呉服商との説もある)。おりょうと松平衛の結婚生活は三十年以上に及んだ。明治三十九年(1906)一月、おりょうは六十六歳で横須賀米が浜通一丁目で死去した。


坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地

(横須賀商工会議所)


ペリー提督の予言

 おりょう会館から更に東に行くと、うみかぜ公園の手前に横須賀商工会議所のビルが建っている。その入口正面にペリー提督の予言を刻んだレリーフがある。ペリーが帰国後にまとめた「日本遠征記1856年版」の一節である。レリーフの全文を紹介はできないが、末尾にはこのように記している。
――― ひとたび文明世界の過去および現在の技能等を手に納めたら、日本人は将来機械工業の成功を目指す競争に、強力な競争者として加わるであろう。
 当時日本から贈られた漆器や工芸品を見て、このような感想を抱いたのだろうが、ペリーの観察眼には驚くほかはない。しかし、さすがのペリーも、その百数十年後、ジャパン・ブランドの自動車や電化製品が世界中に溢れているところまでは予想はできなかっただろうが。

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