(西徳寺)
久し振りに浦賀を訪ねた。浦賀周辺には、たくさんの史跡があるというのに、駅前にレンタサイクルが無いのは納得できない。しかたなくバスで鴨居を目指す。とはいえ、バスはだいたい1時間に三本くらいのペースで走っており、あまり不便さは感じない。
西徳寺
最初の目的地は、鴨居地区の西徳寺である。
日本近海には、ペリー来航以前から相次いで異国船が出現していた。ペリーは突然やってきたのではなく、その何十年も前から前兆があったのである。
文化七年(1810)、幕府は台場の建造と沿岸の警備を会津藩と白河藩に命じた。会津藩は、走水、浦賀、城ケ島の三か所に台場を築き、三浦半島沿岸を警備することになった。十年後の文政三年(1820)、沿岸警備の任務は浦賀奉行に引き継がれたが、この十年間に会津藩士およびその家族四十八名が病気等で亡くなっている。彼らの墓が、鴨居の西徳寺、能満寺、走水の円照寺などに散在している。
会津藩士の墓
西徳寺の会津藩士の墓は、寺の境内から離れた場所にある。寺から四百㍍ほど浦賀駅寄りに戻って、鴨居小学校の前の急な階段を上り切ると、その左手の雑木林の中に静かに眠っている。
(能満寺)
能満寺にも会津藩士と川越藩士の墓があるというので、境内および墓地を捜したが、発見できず。
能満寺
(観音崎)
観音崎灯台
鴨居から観音崎行のバスに乗って、終点で下車。ここから徒歩十分ほどで観音崎灯台に着く。明治元年(1868)九月、明治新政府は観音崎灯台の建設に着手した。建設を担当したのは、横須賀製鉄所首長、フランス人技師のウェルニ―であった。横須賀製鉄所で製造された煉瓦と石灰を用いた灯台が、年末に完成し、明治二年(1869)正月一日、我が国初の洋式灯台に光が点った。初代と二代目灯台は地震で倒壊したため、現在の灯台は大正十四年(1925)に完成された三代目である。
灯台からの眺望
灯台からの眺めは絶景である。横浜や川崎、更にアクアラインから対岸の富津市まで鮮明に見渡すことができる。観音崎から富津までの距離は約六㌔。東京湾で一番狭くなっており、そのためこの周辺に集中的に砲台が設けられた。
観音崎灯台点灯の碑
点灯明治巳己年正月元日
因みに碑に刻まれた「点灯」の文字は旧字体である。「点」は「點」に「灬」、「灯」は「燈」である。
観音崎北門第一砲台跡
灯台の麓には、北門第一砲台跡がある。この砲台は、明治になってから築造されたもので、口径二十四インチの巨砲が二基、据え付けられていた。写真は、二基の砲台を繋ぐトンネルである。
少し離れた場所に造られた第二砲台には、大砲が六基設置されていた。
(三軒屋公園)
三軒家砲台跡
横須賀美術館の裏側の山の中に三軒家公園という静かな公園がある。かつて砲台があった場所である。三軒家砲台は、明治二十四年(1891)に完成した砲台で、27加砲が四台、12加砲が2台を備えていた。昭和九年(1934)に廃止されたが、今も当時の原型を伝えている。
(旗山崎砲台跡)
旗山崎砲台跡
旗山崎には、幕府の命を受けた川越藩が、天保十四年(1843)に築造された砲台である。異国船の進入に備えて六問の大砲が置かれていた。砲台は、維新後も明治陸軍に引き継がれた。今も海岸沿いに半円形の石垣が残されているのを確認することができる。
(円照寺)
走水の円照寺には、沿岸の警備に従事した川越藩士の墓一基と会津藩士の墓六基がある。
円照寺
会津藩士の墓
川越藩士の墓(左)
会津藩士の墓(右)
(ウェルニ―水源地)
走水周辺は湧水があることで知られる。明治九年(1876)、横須賀造船所のウェルニ―は、この湧水を水源として横須賀まで送水した。明治四十一年(1908)には、水道水として地域に供給された。それから百周年を記念して平成二十年(2008)には一般の人も利用できるように施設が設けられた。
ウェルニ―水源地
久し振りに浦賀を訪ねた。浦賀周辺には、たくさんの史跡があるというのに、駅前にレンタサイクルが無いのは納得できない。しかたなくバスで鴨居を目指す。とはいえ、バスはだいたい1時間に三本くらいのペースで走っており、あまり不便さは感じない。
西徳寺
最初の目的地は、鴨居地区の西徳寺である。
日本近海には、ペリー来航以前から相次いで異国船が出現していた。ペリーは突然やってきたのではなく、その何十年も前から前兆があったのである。
文化七年(1810)、幕府は台場の建造と沿岸の警備を会津藩と白河藩に命じた。会津藩は、走水、浦賀、城ケ島の三か所に台場を築き、三浦半島沿岸を警備することになった。十年後の文政三年(1820)、沿岸警備の任務は浦賀奉行に引き継がれたが、この十年間に会津藩士およびその家族四十八名が病気等で亡くなっている。彼らの墓が、鴨居の西徳寺、能満寺、走水の円照寺などに散在している。
会津藩士の墓
西徳寺の会津藩士の墓は、寺の境内から離れた場所にある。寺から四百㍍ほど浦賀駅寄りに戻って、鴨居小学校の前の急な階段を上り切ると、その左手の雑木林の中に静かに眠っている。
(能満寺)
能満寺にも会津藩士と川越藩士の墓があるというので、境内および墓地を捜したが、発見できず。
能満寺
(観音崎)
観音崎灯台
鴨居から観音崎行のバスに乗って、終点で下車。ここから徒歩十分ほどで観音崎灯台に着く。明治元年(1868)九月、明治新政府は観音崎灯台の建設に着手した。建設を担当したのは、横須賀製鉄所首長、フランス人技師のウェルニ―であった。横須賀製鉄所で製造された煉瓦と石灰を用いた灯台が、年末に完成し、明治二年(1869)正月一日、我が国初の洋式灯台に光が点った。初代と二代目灯台は地震で倒壊したため、現在の灯台は大正十四年(1925)に完成された三代目である。
灯台からの眺望
灯台からの眺めは絶景である。横浜や川崎、更にアクアラインから対岸の富津市まで鮮明に見渡すことができる。観音崎から富津までの距離は約六㌔。東京湾で一番狭くなっており、そのためこの周辺に集中的に砲台が設けられた。
観音崎灯台点灯の碑
点灯明治巳己年正月元日
因みに碑に刻まれた「点灯」の文字は旧字体である。「点」は「點」に「灬」、「灯」は「燈」である。
観音崎北門第一砲台跡
灯台の麓には、北門第一砲台跡がある。この砲台は、明治になってから築造されたもので、口径二十四インチの巨砲が二基、据え付けられていた。写真は、二基の砲台を繋ぐトンネルである。
少し離れた場所に造られた第二砲台には、大砲が六基設置されていた。
(三軒屋公園)
三軒家砲台跡
横須賀美術館の裏側の山の中に三軒家公園という静かな公園がある。かつて砲台があった場所である。三軒家砲台は、明治二十四年(1891)に完成した砲台で、27加砲が四台、12加砲が2台を備えていた。昭和九年(1934)に廃止されたが、今も当時の原型を伝えている。
(旗山崎砲台跡)
旗山崎砲台跡
旗山崎には、幕府の命を受けた川越藩が、天保十四年(1843)に築造された砲台である。異国船の進入に備えて六問の大砲が置かれていた。砲台は、維新後も明治陸軍に引き継がれた。今も海岸沿いに半円形の石垣が残されているのを確認することができる。
(円照寺)
走水の円照寺には、沿岸の警備に従事した川越藩士の墓一基と会津藩士の墓六基がある。
円照寺
会津藩士の墓
川越藩士の墓(左)
会津藩士の墓(右)
(ウェルニ―水源地)
走水周辺は湧水があることで知られる。明治九年(1876)、横須賀造船所のウェルニ―は、この湧水を水源として横須賀まで送水した。明治四十一年(1908)には、水道水として地域に供給された。それから百周年を記念して平成二十年(2008)には一般の人も利用できるように施設が設けられた。
ウェルニ―水源地