史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐伯 Ⅱ

2022年08月06日 | 大分県

(海福寺)

 

海福寺

 

佐伯市鶴望の海福寺は、青木猛比古が幼少期を過ごした寺である。

青木猛比古は、天保二年(1831)の生まれ。父は農民清助。父の早世のため佐伯領内の海福寺に入り僧となったが、のち出奔。還俗して勤王の士と交わった。京都の神祇伯白川資訓王に会い、居ること一年余。内命を受けて九州に下り、防長の境に入り、勤王の士を糾合した。文久三年(1863)、三条実美ら七卿落ちの際には七卿を護衛して長州に下り、慶応元年(1865)、豊前宇佐に楠公会を組織して九州の同志を募った。慶應二年(1866)、長州の奇兵隊に入って小倉で幕軍と戦い、また宇佐の御許山挙兵にも参画し、慶応三年(1867)、有力公卿推戴のため、同志と上京したが、同年十月、三条大橋上で佐幕派浪士のために暗殺された。年三十七。

 

(大日寺)

 

大日寺

 

大日寺は西南戦争の際に、約三百の薩摩軍が城下に入り、この通りにあった山内八郎兵衛宅に本部を置いた。

 

(長昌寺)

 佐伯市宇目重岡町の長昌寺は、佐伯市街から三十キロメートル以上離れた山の中にある。重岡は、延岡から竹田・三重方面に向かう経路上にあり、北上しようとする薩軍を、官軍の拠点となった。官軍は、熊本鎮台司令長官谷干城少将が重岡で指揮をとった。

 明治初年、長昌寺は佐伯警察署の分署である重岡分署(藤丸警部が分署長を務めていた)があった所である。

 

長昌寺

 

長昌寺からの眺め

 

(蔵小野砦)

 

蔵小野砦

 

 蔵小野砦は、中世末期の山城跡である。小高い丘の上に大きさは周囲百メートルほどの空間が確保されている。その中に片側の高さ一メートル、片側が高さ二メートルという空堀が設けられ、百人程度が守れるようになっている。

 この場所は、前方に豊後・日向国境の梓峠、後方には駒鳴堡、東方に朝日岳城を望む要害堅固な山城であった。

 明治十年(1877)の西南戦争時には薩軍抜刀隊の拠点となり、官薩両軍入り乱れての戦場となった。

 

(黒土峠)

 

古戦場跡 黒土峠

 

 黒土峠も西南戦争の激戦地の一つである。峠には今にも倒れそうな、「古戦場跡 黒土峠」という掲示があるのと、その支柱に「黒土峠古戦場」と書かれた木柱が縛り付けてあるのみである。

 

(陸地峠)

 

西南之役陸地峠戦闘跡

 

西南の役、陸地峠戦跡碑

 

陸地峠延命地蔵

 

佐伯市直川大字赤木の陸地(かちじ)峠である。ここも西南戦争の激戦地である。

レンタカーのカーナビで検索すると、二時間以上もかかる道路しか表示されない。国道10号を走っていると、巨大なかぶとむしのモニュメントが現れる。「かぶとむし温泉」の入り口である。そこから県道603号へ入って、約五分すると直川ダムが現れる。ダムを対岸に渡ると直ぐに右折し、直川ダム沿いに約十五分走ると陸地峠に行き着く。このルートであれば、カブトムシのモニュメントから三十分足らずで、難所陸地峠に行くことができる。

 明治十年(1877)五月上旬から七月中旬まで約二か月間、直川での戦闘が続いた。七月十五日から降り出した雨は、益々激しく、風が加わった。この悪天候を好機として、官軍の決死隊は陸地峠の正面と、又杭ノ内より天狗領塁下を迂回し、峠の後方に潜行して塹壕の背面に出た。

 薩軍は悪天候に油断もあり、或いは連日連夜の戦闘で疲弊もあり、一人の哨兵もおらず眠っていた。決死隊は銃剣を擬し、「起きろ」と大声で怒鳴って一斉に壕に飛び込み刺殺した。天狗領、額返しの塁下に潜行待機していた部隊は、陸地峠の奇襲成功に応じて、それぞれ直ちに突入して占領に成功した。

 時に明治十年(1877)七月十六日正午頃である。

 途中、延命地蔵があるが、これは文化年間に作られたものという。さらに進むと、陸地峠山頂付近に記念碑が建っている。

 

 これにて今回計画していた大分県下の史跡探訪は終了。峠を下って宮崎県延岡市に入る。ここから宮崎県編に移る。

 

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