黎明の廃人日記

最近はやや更新が途切れがち、斜めに流し読み。
貴方にも私にも人生の役には立ちません。

何か疲れが取れない罠

2017年04月18日 21時00分47秒 | Weblog
4月18日分。

 毎度。仕事のデスマーチは終わったのですが、どうにもなかなか疲れが取れず……。困ったもんだなぁと苦笑いしつつの幽霊です。まあ、この土日は休むというより、動画編集に叩き込んで無理矢理に一本仕上げるという動きをしていたついでに、日曜の夕方から手帳やら本やら買いに出かけたので、余計それで疲れたような気はします。
 とりあえず、手帳は一応ちゃんと使い始めております。あればあったで、使うには使う模様。ただ、問題はそれがちゃんと続くかどうかなんですけどね。道具は無いと困ってしまいますが、道具だけあっても使いこなせなければ意味が無いわけで、と。
 しかし、今時にアナログな紙の手帳かよと思わんでもないのですが、ただ、未だやっぱりアナログの方が良い部分もあります。パソコン使いつつ、その脇に電卓を置いてぽちぽち叩いてることもしばしばで、特にお仕事の方では電卓を叩かない日が無いというくらい。エクセルだけではやりにくい場面もあるんですよねぇ。


 ……とはいえ、デジタルで処理出来るところは、その方が楽で速いよね、ということで「コンビニ大手5社が37年までにセルフレジを導入」といった辺りが今日の拾いものネタです。スーパーでセルフレジというのはたまに見かけるようになりましたが、より簡易化して、全商品に電子タグを取り付けて、カゴをぽんと置けば良い形にしよう、ということらしい。
 まあしかし、平成37年までにとなると、今が平成29年ですから、割と先だなぁ。恐らく都内の特定店舗から導入していくような動きになりそうですが……はて。もう少し短期間にやるのかと思ったのですが、まあこれは設備投資が結構必要になってきますから、「全国で」と考えるとそれなりの期間を取らざるを得ないのだろうと思われます。

 セルフレジというと、スーパーの一つ一つバーコードを自分で読み込ませるタイプのものと、後は上野駅だったような気がしますが、駅ナカのキオスクでSuica専用セルフレジは使ったことがあります。あとは、近所のオリジンが、値段の計算は店員さんがやって、料金精算はセルフというタイプのレジですね。手前側に料金投入口とおつりの排出口があって、こちらがお金を入れ終えてから店員さんがワンクリックする感じ。
 私自身は割とすぐ馴染んだのですが、うちの近所はどうしても年配の方がかなり多いので、お金の支払い方などを店員さんに聞いている場面をよく見かけます。まあ、ガソリンスタンドのセルフよりは安全なのかなぁと思いますが、定着するまではちと時間がかかるかもしれませんし、結局は有人のところとの使い分けにはなるでしょうね。
 この手の理想的な形としては、商品に電子タグがついていて、料金決済はスマホのお財布ケータイ機能で。出口のゲート通過時にタグをばっと読み込んで、お財布ケータイから自動的に引き落としとか。レジを通るという過程も省略して、出口のゲート通過時に商品認識と精算処理を済ませる形になっていくのかなぁという気はします。
 その内、「おつりの渡し方で揉めてた時代があったんだよ」というのが、笑い話になる時代がくるのかも。もしくは、そも「公衆電話って何? テレホンカードって何?」という今現在の状況と同じような扱いになる、のかもしれませんね。ただ、全てを無人にするとは書いていませんし、実際問題結局有人にしとかないとイカンのだろうなーとは思いますが。

 余談ですが。宅急便の配達員さんの苦労が諸々ニュースになっていますが、実際問題としてコンビニの店員さんもまた、今はかなり大変な仕事になってるなぁと見ていて思います。自室のすぐ近くにコンビニがあるので頻繁に利用するのですが、今のコンビニは非常に多機能になっただけに、そのオペレーションを数人で回すことになる店員さんは相当覚えることも広範囲になっている様子。
 正味、そういった状態なだけにレジを一つ二つ無人で出来るようにしておいて、そちらで済ませられる人は是非そっちでやってくれ……という意図なのかとは思います。どのみち、宅急便の受け付けやら、店内機器のトラブル対応等々、店員さんが表に出ていない状態には出来ないのが現状でしょうし。レジ打ちの時間を削減することで少しは楽になる……といいのですけれども。


 話としては一旦切りますが、上に絡んだ余談をもう一つ。元ネタにしている記事には、「機械化によって人間の労働が奪われていく」といった主旨のコメントが多く寄せられているようで。表面上は確かにその通りで、今の時点では人間が労働をするのが当たり前という状態だからこそ、過渡期としての現象としてはそういった側面が出てくるだろうとは思います。
 ただ、「過労死」やら何やら言われている現状が良いとはお世辞にも言えないわけですし、トータルとしては「人間の労働が減る」方向に進んでいくのが、技術の使い方としては正しい方向かと。人間は労働のために生まれるわけでもありませんし、労働のために40年50年を費やすのが果たして正しいのか? 成長、労働の美徳は言われますが、それは詰まるところは「労働の正当化」のための話であり、ソレが絶対の真実でも、正義でもありません。
 考え方としては、機械に労苦の部分を代替して貰うことで人間はより上位の事柄に専念できるようになるという考え方がまず一つ。もしくは、結局の所、蒸気機関の発明による産業革命や、IT革命もあった割に、今でも世の中「過労死」が発生している通りで、別の所でまた労働が発生してきてトータルでは大して減らない、むしろ増える可能性すらあるという考え方がもう一つ。

 個人的には、人間という種は現状数が多すぎるのであり、この先の方向としては総数を減らしていくことになるのだろうと考えています。先進国では既にその傾向に切り替わりつつあり、いずれ今の途上国もこの方向に追いついていくか、もしくは発展を待たずに衰退していくか……ということになるのではないかな、とぼんやり予測していたりもします。それなりに長い期間(100年単位まで見て)での話、ということにはなるでしょうが。
 ちとペシミズム過ぎるかなぁという気もしますが、ただ、ハッキリ言って今の途上国の人口全てが、たとえば今の日本の水準にまで豊かな生活をおくることが出来るか? ……ということを考えると、実質的に無理ではないかと思うのです。豊かな生活を享受している側の自分が言うのもなんですが、日本の今の生活というのは相当なエネルギーその他の消費の上で成り立っています。今の途上国人口全てがこの水準に来たら、さすがに諸々持続不可能でしょう。
 きっぱりといえば、「口減らし」が必要になる時期が来る。食糧でも、水でも、レアメタル等の資源でも、電力等のエネルギー消費という意味でもです。それが世界大戦という形になるのか、内戦になるのか、それとも宇宙移民という形になるのか……さて、読めないところですけれども。いずれどこかで吹き飛ぶことになろうなーと、そんなことを思っていたりするのでした。

 ではでは。今日はこの辺で、ひゅう、どろん。