Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域を歩いたこの1年

2008-12-31 22:52:13 | 農村環境
 2008年も終わりである。一応のごとく門松を立て、年取魚を口にし、田つくりや豆を食べ、紅白を見る。我が家ではこのスタイルが変わることはなく、噂にも上る紅白廃止が現実化すると、どこか寂しいと思うことは確実である。穏やかな日々であることが一番だとは思うが、悩みもまた深い。そういえば昨年末にもそんなことを書いた。1年が経過してどこまで悩みが解消されたかは解らないが、そこそこの楽観的諦めも必要だと諭す。

 この1年、よく現場を歩いた。旧高遠町、旧長谷村、そして伊那市、最近は南箕輪村を盛んに歩く。自らの住む地、そして今まで歩んできたあまたの地、それぞれに違いはあるものの、いずれも農村、山村を歩いた。閉ざされた感のある地も、今や閉ざしていては先が無いと、さまざまに他へアプローチする。いかなる方法がその道を定めてくれるかは解らない。寺田一雄氏は「民俗調査の成果を現代に生かす」(『伊那民俗』75)において、野本寛一氏の遠山谷に対する再生の道に関する視点について触れた。農村・山村を多く歩いている研究者たちがいかにその実態を把握し、その策を見出せるかなどというのは、わたしにしてみれば過去から今に至るまでの課題であるが、いずれしても活性化を求めた視点では継続できないというのが結論だ。「遠山谷を細切れにしてはいけない」という視点はもちろんのことであるが、「遠山谷に泊まってもらう」とか「地場産業産品をどう買ってもらうか」などといった視点は従来からあるもので、ヤマに生きた人々は、マチやサトに住む人々以上に試してきたはずだ。むしろヤマの人々にサトやマチが教えられることは多いのだろう。「現代に生かす」とは地域を歩くだけではなく、現実との矛盾を把握するかである。けして民俗調査だけでは見えてこないものがあると思っている。

 さて、先ごろ南箕輪村でこんな光景を見た。行く度に広い庭に出て作業をしている中年の女性がいた。その人は必ずといってよいほど庭に出ているのだが、まだガーデンが未完成ということなのだろう。風のガーデンほどではないにしても、あんなガーデンが今や人気なのだろう。とてもふつうの家庭では望むことのできないような庭であり、管理である。もちろんそのガーデニングを否定するものでもない。しかし、いっぽうでその脇に広がる水田地帯の畦には雑草が生い茂り、そこを歩くとふわふわと弱々しい反応を示す。管理できないでいる水田地帯が当たり前といえば当たり前なのだが、まだまだ耕作されているだけましという考えもある。隣接地でなくとも、荒廃を進める農村にあって、自らの空間だけを見事なまでに作り上げる姿をみるたびに、「今必要なことって何なのだろう」などと思ってしまう。農業を営む人々の意識にも問題があるし、農村に異空間を作り上げようとする余裕にも違和感はある。どうにもならないと言うしかない構造もおかしい。かつてなら庭に草があるだけでも「人には見せられない」と最低限のことはしたものなのだろうが、今や「忙しい」で了解される。それをもってして異空間を作り上げる人々に何も言えるはずもない。

 そしてわたしも自らの庭の草を取りながら、同じことをしているということにもなりかねない。しかし、外も含めた空間で、自らの空間だけでもと思えばそれも必要だが、周りで大晦日も遅くまで働く農民の姿を見ていると、果たして同じ空間とはこんなもので良いのか、などとまた悩むのである。それをどうにも思わなくなったのは、農村が廃れたということになるのだろう。まだまだ歩き続け、そんな世界を見届けようと思う。
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リニアが通るという「問題」

2008-12-30 20:01:09 | ひとから学ぶ
 JR東海の松本正之社長が12/26に村井長野県知事をたずねてリニア整備計画への協力の挨拶をした。いよいよリニアによる駆引きが現実化するわけで、へたをすると長野県内には大きなしこりを残すことになる第一歩だったのかもしれない。これまでにも何回も触れてきた。

 長野県の地方区域分類という視点から
 もっと足元を見なくては
 分離を助長するお役所
 中央リニアについて三度
 冷静に考えるべき
 中央リニアのベストな構想
 分県もありうる
 中央新幹線建設報道にみる


 「長野県の一部がごり押しする迂回ルートと、日本全国で当たり前とする直線ルートのせめぎあいが始まりました」などということを言う伊那谷の人もいる。しかしよく考えてみると、やはり南アルプスの直下に穴を開けるのに抵抗のある人はいるはずだ。ところが直線ルート上においてこれを口にする人は極めて少ないというよりは、村八分にされるのではないかというほどに直線が当たり前という雰囲気がある。もちろんルート上とはいえ、通過するだけの地域の人々は反対したいところだろうが、そう遠くないところに駅ができるなら、という期待感がどこかにあるだろうし、周辺地域全体がそういう意識でいる以上、「反対」などとはちょっと言えないというのが田舎の現実なのかもしれない。

 妻がやはりという感じにこのことに触れ、「伊那谷自然友の会とかは反対していないの」などとわたしに聞くが、わたしに聞くよりは付き合いのある先生方に自ら聞いてみた方が早いだろう。そもそも迂回してルートが長くなるよりは、見えないところを最短で行く方が自然破壊は少ないかもしれない。などというと、妻はそもそも長野県など通らなければ良い、などという。確かにそれが最も自然への影響は少ない。

 現実味を帯びてくると「駅がどこに」という話が賑わう。長野県が求めている迂回ルート沿線の人口は、諏訪208,139人(ウィキペディア最新データより)、上伊那192,678人、下伊那171,870人である。三つも駅を造ったら一駅あたりの人口は平均20万人程度となる。もちろん諏訪地域には周辺地域が付随するから、たとえば松本圏の安曇野市まで含めた人口430,685人ともし二つとした場合の上伊那を加えると政令指定都市並みの人口にまで跳ね上がる。ところがこの場合は駅を諏訪圏に置かないと松本圏の人々は使いづらい。ここから解ることは、より多くの人々の利用価値を上げるには、どうしても諏訪圏まで迂回させないと意味がないということである。だからこそ長野県がごり押しするのも当然なのだ。そこへいくと直線ルートとなれば下伊那地域に駅ができる(一県一駅という思想にあわせれば)。下伊那地域の周辺を見てみよう。前述したように上伊那は192,678人。合計しても364,548人これに加えられる人口はない。岐阜県側の駅は、名古屋との距離を考慮すればそれほど名古屋近辺になることはない。とすれば中津川などということになれば、恵那山の向こう側の人々が下伊那にできる駅を利用することはない。そして南側地域に至っては山間地域ということや、飯田まで遠いという立地から名古屋に出た方が早い。ようは長野県の南端を通すというルートは、周辺人口からして地域性からみれば実は問題が多いということになる。それを地域エゴと言ってしまえば、では地域とは何かということになってしまう。そして下伊那地域に駅となれば、松本圏の人々はまず利用しづらい。中央線や篠ノ井線の特急で松本から長野が1時間ほど、南へは木曽福島まで1時間ほどという位置にある。木曽福島と緯度の同じくらいにある伊那市がそこそこということになる(ただし飯田線へ直接乗り入れられる環境を整えてのことであるが)。それより南に下ってしまうと、時間がかかりすぎてしまうということである。

 もうひとつ問題なのはこれも以前から触れている在来線とのかかわりである。東京から甲府まではリニアと在来線が平行する。駅を一県にひとつ造るということはそれらと絡んでくる。何も造らないといえば在来線が消されることもないだろうが駅を造る以上は人口の少ない地域の在来線は地元に下ろされる。とすると中途半端に在来線が消されると、たとえば諏訪や松本の人々は大きな痛手となる。直線ルートで了解したとしても、さらに在来線まで消されてしまったらマイナス効果となってしまう。もっといえば中津川あたりに駅が造られると中央西線も消されてしまう。これは大変なことである。

 たとえばの話、富士山の直下に穴を開けるといったら多くの人が反対するのではないだろうか。もちろん活火山であるからそんなことは現実としてありえないが、それを南アルプスに置き換えると反対しないというのは南アルプスに対しての思い入れの違いか、ということになる。南アルプスを世界遺産に、という動きがあるが、それを理由に迂回させろといっているのも胡散臭いが、開けてもいいじゃないかと言っている人たちが南アルプスを世界遺産に、などという資格はない。ようは南アルプスをその程度にしか見ていないということだ。

 周辺人口ということを考慮すれば、こんなルートがあってもよい。山梨から南アルプスを南に迂回して浜松市の北側を通過して名古屋へ向かう。こうすれば長野県と岐阜県は通過しない。名古屋の次ぎの駅は「浜松」、浜松市民にとってちょっと使いづらいことになるかもしれないが、813,615人の市域人口は諏訪地域に駅を造った場合の周辺人口を上回る。いずれにしても中津川-飯田間も近すぎるという感じがするがどうだろう。
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小宇宙の行方②

2008-12-29 18:41:26 | 民俗学
小宇宙の行方①より

 福澤昭司氏は「マチの形成」(『日本の民俗2 山と川』)の中でマチの形成期をたどり、できあがったマチが古くからあるマチとどう違うかについた触れている。安曇野市の飛騨街道沿いに形成されたこのマチは、飛騨との交流が深く、飛騨から仕事に来ていて定着した人も多いという。昭和になるとマチが南側に拡大していったところで、膨張することにより、マチの名称と区割りの編成が変わっていく。新しく形成されたマチの中心は飲食店や職人になるという。いっぽう古くからあるマチは、衣料品店や雑貨屋、医者、銀行といった堅い商売が軒を連ねる。こうした図式はなんとなく想像できることであるが、「他地区からやってきて町のはずれに店を構え、土木作業の帰りの若い衆や、ウンソーヒキの人たちにコップ酒を売ったりして、膨張するマチの活力を担ったのは飲食店だったのである」と福澤氏は言う。古くからあるマチは古くからの固定客を持ち、いわゆる盆暮勘定で生活が成り立ったのかもしれないが、漂流していた人々が定着しつつある段階では、日銭を稼いで日々を超えていくしかなかったともいえる。そうした暮らしが膨張するマチにはあったということである。「裏町」というマチが各地にあるが、表に対して裏というだけで怪しい雰囲気を醸し出す。マチには表裏があるが、わたしの印象ではヤマやサトにはそれほど対比できる表裏はないと思う。マチの生活でいうところの「オク」というところも、けして表には出てこない隠された部分という印象がある。商いには必ず表裏があるということを暗黙のうちに確認できる。多様な世界といってしまえばそれまでであるが、やはりわたしの生まれ育った経験とはなかなか違うものがそこにはある。「人が違う」という印象を抱いても不思議ではない。

 松本城の西側にできたマチは、もとは堀だったところ。1919年に松本市が埋め立てて市営住宅を建設した。財のある商人が買い取って賃貸住宅としたところだというが、湿地だったこともあってあまり好まれる場所ではなかったという。そこへ市外の人々が入居したが、商売のできるような人の集まる場所ではなかったが、銭湯だけはたくさんあったという。それは私娼を行う店があったためのようで、人目をしのぶような商売には向いていたということになるだろうか。「ここへ客としてくるのはマチへ出てきたザイの人々で、マチの檀那衆はもっと高級な場所で芸者をあげたりして遊んだともいう。新しい土地には外部の人が住み着いて、外部の客を呼び込んだのである」と福澤氏はこの地区の姿から読み取っている。この図式を聞いて思うのは、かつて景気の良かった時代にも財力の無い若者たちは、安くて女の子のいる店へ好んで足を運んだものであるが、考えてみればそこで商いをしている人たちはザイの人たちで、そしてまたそこへ足を運ぶのもザイの者だった。ようは財力のある人たちの世界とはまったく縁がなかった。ちまたでは麻生首相に対して「国民の現実が見えていない」などという批判が出るが、もともと財力のある人々とは同じ土俵にあるはずもなく、それを「解れ」というのも少しばかり気の毒な気もするし、それが人の世界のそれぞれの文化ではないかと思ったりもする。

 ヤマやサトから見れば非日常の世界であるマチであるが、そこにいる人たちにとっては非日常が日常である。「都市はヤマやサトでの非日常を日常化して商品とすることで一年中日常にからめとられてしまい、そこから抜け出す術を失って窒息しかけているのである。してみると、東京に再度オリンピックを招致したいという思いも、単なる経済効果ばかりがねらいだともいえないだろう」と福澤氏は言う。オリンピックは日常化したマチの華やかさに、さらなる非日常的な世界を与えてくれるというのだろうか。日常と非日常の境目がなくなり、混沌としてきた世界でどう生きるか、ふと考えてみるとマチは表と裏という部分でそれを解消してきたのではないだろうか。マチの人々のプライドがなした業なのかもしれない。さらに飛躍すると、昨今ヤマやサトにマチの人々が移り住む。そこでは従来そこに住んでいる人たちにとって日常の連続であってもけして病にはならずそこに価値観を得ているようにも思える。ようは自給自足的な暮らしでも十分に有意義な暮らしをする術を持っている。そこには人生のプライドのようなものがあって、ヤマやサトで生まれ育った者とはまったく違うものがあるように思う。果たして「ヤマとサトもいずれ都市的生活をまぬがれることができないとしたら、私たちはますます心を病むしかないのだろうか」という私たちは誰なのだろう。

 続く
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記憶に残る山なみ

2008-12-28 23:27:47 | ひとから学ぶ


 山は日常眺めているから、その姿や形、そして遠近感などけっこう気にしている。我が家から陽の登る方角を望めば、そこには塩見岳がある。その形は尖っているから印象的なのであるが、前山として伊那山脈が横たわっているため、周辺まで含めてその山容を眺めることはできない。その南アルプスの山々は、荒川岳から赤石岳と続くが、やはり前山が裾野を覆う。いずれにしても覆われてはいるものの、その山々の雪を頂いた姿は印象深い。飯田下伊那地域から見ることのできる塩見岳も、市町村合併の結果、伊那市の最も高いところとなった。この塩見岳については以前にも触れたが、我が家からはそこそこ大きく目立っている。その山が伊那市でもっとも標高の高いところというのも不思議なのだが、その山は伊那市からはよく見えない。見えないということもないが、天竜川の端からはやはり前山が壁となって見えにくい。西天竜の水田地帯に立つと見えるが、それもけして威圧感があるほどの印象を与えない。なぜかといえば、もっと近くに見えている仙丈ケ岳が見事な姿を現しているからだ。

 写真は南箕輪村の伊那市境で撮影したものである。天竜川の向こう側に六道原が横たわり、その向こうには裾の方まで広がる雄大な仙丈ケ岳が見える。この左には甲斐駒ケ岳や鋸岳なども見えるが、なんといっても仙丈ケ岳の大きさは目に焼きつく。そして逆に南に目を向けていこう。伊那富士と言われて親しまれている戸倉山の脇に塩見岳が見える。遥か彼方ではあるが、伊那市はそこまで広がっている。ここから南へ移動していくと、戸倉山に一度隠れた塩見岳は、市営病院のあたりまで行くと姿をしっかりと見せる。しかしいずれにしても我が家から見る塩見岳同様に尖ってはいるものの、その雰囲気は「遠い」と印象付けることは言うまでもない。伊那市内から塩見岳が眺められるところは、それほど多くはない。そして山容も仙丈ケ岳とは比べ物にならないほど小さい印象である。きっと市内で「塩見岳はどれですか」と聞いても答えられる人はそう多くないかもしれない。

 さて、ここからさらに南に目を移すと、伊那山脈の高烏谷山や陣場形山がやはり大きくその奥を覆う。そしてその奥に南アルプスの白い頂と言うわけではなく、前山が織り成す。その中にわたしの記憶に残る頂が姿をかろうじて見せる。その頂を意識する人はほとんどいないだろうが、その山については、我が家から望む頂を紹介したときにとっておこう。
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1年の区切り

2008-12-27 17:40:37 | つぶやき
 「忘れ物」で触れたように、わたしは常にポケットに小さなダイアリーを持ち歩く。年末を迎えると、いえ年末までいたらなくとも新年が見えてくると、本屋の一角にこうしたダイアリーや日記帳の類などがたくさん並ぶことになる。常に所持しているということもあって、時折そうした商品に目を通すのたが、先日もわたしが使えるようなものがないかと探すが、この季節だから1―12月というものしか並んでいない。すべてに目を通したわけではないが、4―3月という商品は見られない。わたしが利用しているものは、仕事の情報を多く書き込んでいるからもちろん4―3月というものである。わたしにとっては今の仕事をしている以上は、これが1年のサイクルである。もともと農業主体に動いていた世界で生まれ育ったわたしには1―12月が当たり前のものであったが、今の仕事について既に30年、もはやこのスタイルの方が長い。加えて世の中から正月というイメージが薄れた。

 年末商戦とか年賀状、そして大掃除から初詣とそれほど長くない期間に誰とも同じ行動をとればイメージとして「正月」は確立できるのだろうが、その年中行事たるものも、子どもが大きくなるとともに我が家からは薄らいだ。こうしたわが世界の正月興行を省いてしまえば、むしろ転勤による異動を伴っている年度末は大きな節目となる。ほとんど異動もない人々にすれば、その年度末は単なる仕事上の一場面にすぎないかもしれない。しかし、異動を伴うとすれば、住処を変えることもあるわけで、プライベートに至ってもこの季節の比重は大きい。もちろんいわゆる正月のような風情などそこにはないが、多忙な世の中にあって、そうした風情ある正月を「省ける」と思ってしまうあたりに自分の生活のメリハリの無さを感じたりする。「身体と技」(2008/10 『日本の民俗』)において宮本八惠子氏はハレとケのメリハリある生活も技術と説いた。そう考えればわたしの生活は技術を失い欠けているのかもしれないが、この時代の生業は、1日の中に十分にそのメリハリを与えてくれる。

 余談が長くなったが、いずれにしてもわたしのイメージする1年はねもはや4-3月と考えている。暦上の1年が終わるわけだから、書店などに並ぶダイアリーが、1-12月のものであるのは当たり前で、この時期に4-3月を置く方が戦略としては無駄なことなのかもしれない。それはともかくとして、解っているからわたしもこの季節に買うことはないのだが、なぜ目を通したかといえば、たくさん並んでいるから4-3月ものも「あるかも」と思ってのこと。3月に入ってそうした商品が並ぶ季節に比較すれば、明らかに品数も多く、たくさんの商品が並ぶ。ようは4-3月の品数は少なく、売り上げも今の方が多いのだろう。そこから思うのは、わたしは人と比較すると少数派ということになる。しかし、前述したようにこんなビジネス風ダイアリーなどというものは、使うのは仕事人間だろう。とすれば、そうした人たちはこの1-12月ものをどう利用しているのだろう。わたしには不思議でならない。保存しておくにも年度ごとの方があとから確認しやすい。たとえば「平成5年には何をしていただろう」、と記憶の中で紐解くときには、年度を区切りにして思い出す。やはりそのときにどこで働いていたかが記憶を引き出すのに楽だからだ。日記帳などもそうだが、これほど4月を意識させられるようになっている以上、年末にこうしたものがたくさん店に並ぶのが納得いかないのだ。とはいえ、わたしも今の仕事を退いたり、あるいは老後の余生を暮らすようになると、また1-12月のサイクルに戻るのかもしれないが、ところが地域社会も今や同じサイクルで会計が締められている。ますますいまだ1-12月が当たり前のごとくたくさん売られているのが不思議なのだ。そういえば、会社に縁のある関係者からこの季節はカレンダーやらダイアリーをいただくが、こうしたものが同様に1-12月というあたりも変わらぬ世界が見える。いらないとは言わないが、たまには4-3月のカレンダーがあったって面白いし、会社関係でダイアリーを配布するのなら4-3月もの(この季節に売っているのかどうかはまた調べてみるが)を欲しいものだ。
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小宇宙の行方①

2008-12-26 12:30:10 | 民俗学
 『日本の民俗 2山と川』(2008/12吉川弘文館)は、「山や里や川のそれぞれの環境に即した暮らしの独自な姿と、それぞれの地域の環境差を超えたところに成立する人や物の交流の大切さと重さとを描いて」(湯川洋司氏のあとがき)いる。そこで著者の一人福澤昭司氏は、それらの空間を小宇宙としてそれぞれが関連した空間として捉え、その空間がグローバル化の中で変化を遂げてしまっている姿を描き、その行方を展望している。いや、テーマとしている山と川という関係を超え、ひとかたまりの小宇宙の役割分担の均一化による現代の地域社会の根本的な問題に触れているといってよいかもしれない。これは常日頃わたしが捉えようとしている「伊那谷の南北」といった地域性の問題にもかかわるものであり、福澤氏の捉えかたは興味深いものである。

 均一化した現代においては、都会の人間も山奥の人間もそれほど違いがあるわけではない。かつてのようにしゃべり方でその出所が明らかになった時代もあったが、このごろはそれほと違いはなくなってきた。もちろんそれをいまだ強く感じる「方言」による違いを経験することはあっても、姿ではそれは捉えることはできない。福澤氏は柳田国男が関心を寄せた「山人(やまびと)」にふれ、次の文を引用している。

「相州箱根に山男と云うものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来たりて米に換ふる也。人馴れて怪しむこと無し。交易の他他言せず。用事終れば去る。其跡を追いて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如く去る故、終に住所を知ること能はずと謂へり。」(柳田国男 1968 「山の人生」『定本柳田国男集』四 筑摩書房)

というものである。話そのものを現代人が捉えると伝説的なものに聞こえるが、均一化していなかった時代には、たとえば現代でも地球上のどこかに原住民として暮らしている人々に似たような話があっても不思議ではない。情報の無い時代。移動をそれほどしなかった時代の人々の間には、こうした特異な存在に映る人がいたことだろう。そして山奥に暮らし、交易のために下りてきた人を捉え、伝説的物言いをして言い伝えた話は、福澤氏の言うように尾ひれのついた話しとして語られるわけである。伝説の深層にはそうした実際の話に尾ひれがつき、そして語り物として成立していったはずである。

 いっぽう前例のように神々しい人となりで伝説化されるものとは異なり、いかにも山からやってきたことを揶揄した物言いも伝えられる。長野市の事例である「おっさんどこだい □□かい 商売なんだい 炭焼きだい どうりでお顔が 真っ黒だい」を紹介している。子どもたちの囃子ことばとして似たようなものはかなりあるという。差別視されたことばであるが、炭焼きでなくとも同じような囃子ことばが生まれても不思議ではない。マチに物を売りにきた山付きの人やもっといえばサトの人でさえ揶揄されることがあったであろう。そこには「マチの人々に、ヤマの人々を見下した思いがあった」と福澤氏はいう。山人は少しばかり人間の姿に見えてくると、今度は見下された人に変わるのである。けして逆の視線(マチの人に対して見下すような)を浴びせることはない。福澤氏はマチとサトのことについても同様の視線を捉えている。「マチの商売人にとってサトの人々は商売の相手として重要なものだったにもかからず、マチに来るときの服装、言葉遣い、安価な物しか買わない懐具合などで、ヤマの人々に対するほどではないにしろ、やはりマチよりも一段劣ったものだと見る傾向があった」と。

 ヤマとかサト、そしてマチといった具合にそれぞれの暮らしを補完するかたちで交易が行われた。しかしそこにはそれぞれの人間性が育まれていく。もちろんこうしてそれぞれに上下意識を持つことにもなるけで、人権として平等があったとしても、それぞれの意識の中には必ず上下を持つことになる。マチとはいわなくとも商売人は大勢の人を客として招く。とすると小宇宙の多様な人と接するわけで、そして腹の中には真意を納めて物を買ってもらうことに専念する。そこに嘘が存在するとまでは言わないが、自ずと人となりを伺いながら人を評価することになる。妻はかつて「商売をやっている家に生まれた者は信用おけない部分がある」と言った。口は上手いものの、腹の中は見えないというものだ。けして腹黒いなどとは言わないが、人とそれほど交流しないサトの人々は口下手になるのは当たり前である。加えて垢抜けなくなるのも当然である。そこへいけば揶揄されようと、ヤマの人々の方がヨソの人たちとの接し方を知っているのかもしれない。実は農業が廃れた要因に、交流圏が広がりスピード化することにより、こうした意識に束縛されてしまい自らを見下してしまうことを避けたいというその環境にあったとも言えないだろうか。

 続く。
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「森」と「林」

2008-12-25 12:35:33 | ひとから学ぶ
 扇田孝之氏は長野県政タイムス最新号において「「森」という言葉が生き返る日」というコラムを書いている。森と林の違いについて触れ、自身の体験から人が出入りするようなところを林、人を拒絶するようなところを森と解釈していたという。自身の体験からこうした空間認識と言葉との関係は変化するものである。よく使うマチとムラであっても年代による認識差があるのはもちろんのこと、そのエリアの意識は人それぞれである。扇田氏はその自身の経験から持っていた解釈をこの記事で同一のものと捉えなおして「森」が生き返る取り組みについて触れているのだ。同一であるという解釈の変化は、海外では森も林も同じだと捉えていることが自身が訪れて見て解ったためである。

 ここでは結論として長野県が行っている「森づくり県民税」の効果をあげて「森」が復活することを説いているのだが、そこにはかつて解釈していた「森は人を拒絶するところ」という経験はまったく消え、手入れされて整然としている姿を「森」として捉えているのである。

 そう考えてみるとなぜ「森づくり」というネーミングなのかということになるが、森林、いわゆる木々を守ろうというのだからその対象は「森」か「林」ということになるのだろう。どちらも同じような言葉であるのにそれを並べて「森林」となることで、より一層深みを感じているわたしたちは、多くの人が「森林」とは森や林より一層緑の濃いところとイメージするだろう。ここには「林」<「森」<「森林」という式が成立する。しかしそんなに単純なものではないはずだ。扇田氏が認識していたように、「森」と「林」は違うものであるはずだ。考えてみれば身近ではあまり「森」をネーミングすることはない。近在で、そして自分の世界で「森」を利用している言葉は「鎮守の森」といったものや、固有なものでは駒ヶ根市にある「十二天の森」ぐらいであまり記憶にはない。十二天の森は駒ヶ根市福岡地区にある三万坪余の広大な森で、針葉樹、広葉樹の高低木に混じり、多くの草花が見られることで知られている。平地林ではあるがそこは人々の暮らしから見ると神聖な空間にも映る。鎮守の森もそうであるが、やはり特別な空間であるようにわたしたちは捉えているのではないだろうか。とすると海外の森や林はどうあれ、わたしたちの心の中にある「森」や「林」は違うはずである。そしてそれをもって長野県の行う「森づくり」に当てはめるのも、なんとも寂しく感じたりする。というよりも長野県が「森づくり」とネーミングしたこともわたしたちの捉え方をどの程度認識した上のものなのかと問いたくなってしまう。

 この「森」と「林」について、最近発刊された『日本の民俗 2山と川』(2008/11吉川弘文館)の中で湯川洋司氏が触れている。『日本方言大辞典』から引用し、「もり(森)」と「はやし(林)」の方言分布を説き、一般的には「森」はモリ、「林」はハヤシと呼ぶところが多いが、「森」をハヤシと呼んだり、「林」をモリと呼ぶ所や、両者共にヤマと呼ぶ所もあるという。また『日本国語大辞典』より引用し、「林」については「樹木の群がり生えている所」、「森」については「樹木が多くこんもりと茂ったところ」で、方言として「自然林」「人の入ってはならない林」の例を示しているという。ここから解るのは扇田氏が持っていた解釈は特異なものではなく、一般的にものであったということである。前述したようにわたしの身の回りを探しても、なかなか「森」は存在しない。「林」は平地林なのだろうが、「ハヤシ」と言うよりも「ヤマ」と言ってしまうことが多い。よく論争にもなるが、高くそびえる山も里の平地林も「ヤマ」と呼ぶのはおかしくないかというところに行き着く。しかし、わたしの生活空間では一定の面積を有していればどちらもヤマなのである。防風林程度の分散したものは「ハヤシ」になるが、段丘崖にある林も里山に展開する林も、そしてまさに森林地帯である中央アルプスの裾野や中腹に広がる森林もヤマと呼んできたのである。地域社会では区有林のある場所を「○○の山」などと呼んで区別したりする。そこが林なのか森なのかは意識せず、ヤマなのである。山作業とか山の口開け、あるいは山ノ神、山道などヤマが多様な使われ方をしているのがわたしたちの身の回りでは実際なのである。

 湯川氏は「林を「ヤマ」と呼ぶことの意味」について次ぎのように語っている。「山という語が、自然林のイメージが強い「森」よりも、人工林のイメージが強い「林」に多く用いられるのは、どのように理解できるだろうか。その一つの解答は、歴史的にみて人は山に対して「開発」をおこない、そのことにより暮らしの安定を求めようとしてきたからではないか。そしてその行為を肯定し確実に実行してきたからではないだろうか。つまり、日本では「山の自然」に手を加えることを是認してきたのであり、その場合、「開発」の対象となったのがハヤシ(林)であった。しかし、その一方で守るべきものとしてモリ(森)を位置づけ、これにはできるだけ手を加えなかった。それがハヤシ(林)とモリ(森)の関係であった」という。かつての里山はそこにある樹木が多様に利用された。今でこそ一年中緑色の木々が生えている場所も、かつては利用されたがうえに一年中緑色をしていることはなかった。遮るものなく見通しの良い時代だったのである。かつて三角点が山の頂はもちろん、小高い丘陵の頂点に設置された。それは見通しが良いからそこに設置されたわけで、それぞれの点はお互いから見通しが良くなければ測量にならなかったわけである。ところが、かつてそうして設置された三角点は、今では多くが木々に覆われ見通しがきかなくなっている。荒れているという言い方もできるが、山を人々は利用しなくなったためである。湯川氏の記述の中に「開発」という言葉が登場するが、あくまでもその開発は樹木をなくし土地を造成し町を造り上げるような開発ではなく、人の手によってその山から恵みを受けるための開発であったばずである。

 ここから見えてくるものは、やはり「森」と「林」は違うものであって、その捉え方の背景にわたしたちが山に恩恵を受けてきた歴史があるのだろう。原生のままの、あるいは神聖視されるような森ではなく、本来の対象はこうしたヤマであったことが解る。果たしてそれらを理解したうえで「森づくり県民税」が導入されたとはとても考えられないが、これは大切な視点だとわたしは思っている。
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隣人への視線

2008-12-24 12:34:04 | ひとから学ぶ
 NEWS23で“凶気の矛先”という特集を放映した。渋谷で今年起きた79歳の女性による通り魔事件もその事例として紹介された。事例取り上げながら無差別殺傷事件の解決策のようなものを捉えようとした内容であるが、とくに気になったこの事例の部分について少し触れてみたい。この通り魔事件で被害にあった若い女性が見たものは何だったのか。事件の傷は3センチほどと大きくはないものの、身体の他の部分に傷がないかと開けられた腹部の術後の傷は下腹部から胸にわたって30センチもの長いものである。若い女性にとってこの大きな傷はそれこそ大きな痛手であったことだろう。

 79年間を振り返り「幸せではなかった」と答える受刑者は、住む場所もなく、警察をそして刑務所を求めた。その筋道にあった事件。いや、そのために起こさなくてはならなかった事件。高齢者による犯罪は、この時代の先に向かってさらに増えていくのだろう。もはやそうした人々は社会に生き続ける道は閉ざされているといってよい。不幸を背に負いながら死を待つのみなのだろう。もちろんそれは本人の理由であることは言うまでもない。

 背景はともかく、被害者の女性は痛手を負うとともに、おかしなこの時代の姿を実感した。そのコメントに驚いているわけにはいかない。これが現代の冷たい視線なのだ。
①救急車よりも先に警官がやって来て、それも何人も来て同じような質問をそれぞれがした。もちろん傷を負っているのだから痛みがあるというのに。
②救急車は20分ぐらいしてようやくやってきたが、その間に群がった見物人はケイタイで写真を撮っていた。
③検察でいきなり犯行直前の刺すところの写真を見せられた。この写真は防犯カメラが撮っていたものである。

 どれもこれもなるほどと思えることである。思えてしまうわたしはどこかで同じようなことを聞いたことがあるからだ。①警察は事件を仕事として客観的に捉える。だから同じことを繰り返すのは答えに相違点がないかを確認するためだ。そして都会の警官は、地方の派出所のおまわりさんではない。②ケイタイで写真を撮るなどいうのはこのごろは当たり前のことになっている。場合によっては「今事件があったよ。写真送るね」程度に事件がワイドショー化している。③考えてみれば都会などはいたるところにカメラがあるのだろう。自分が刺される瞬間が記録されているなどというのを聞くと、複雑な思いだろう。ようは「なんだお前見ていたのか」という感じである。検察側がそんなものを見せて何を意図しているかしらないが、ここに写っている人は「あなたですか」と確認するのだろう。そこまで見ているのなら「助けてくれよ」と思うが、あくまでもそれは人の目ではない。にもかかわらずこうして見ていたがごとく証拠を提示されると憤慨してくる。

 被疑者に対する目は厳しくなっている。もちろん事件を起こす人たちにだけのものではない。非正規労働者が切られるなか、それをサポートしろという言葉が氾濫する。でもそれってどういうことなの、ということになる。どれもこれも平等感というところで皆口々に疑問を口にする。

 みんながみんな不満を持っている。ようは首を切られる人たちはただ切られているわけではない。事件を起こす者たちはただ起こしているわけではない。しかし、そういう人たちに対していろいろ言う前に「自分たちだって苦労している」という気持ちがこうした舞台に遡上してくる人たちへの言葉の暴力として人々は吐き出す。すべてが「不満」の噴出なのである。確かにそれぞれに苦労しているのは確かなのだが、それは感度であって同じ基準ではないのはもちろん、人によってその認識は違う。確かにそうなのだろうが、だからといって自分の不幸を皆に当てても足の引っ張りあいだ。犯罪者に対して許せるくらいの心がないと、もはやこの国の人々の構造欠陥からは抜けられないのかもしれない。とそんなことを思う深夜であった。若き路上生活者の隣人を優しく見るという考えは、印象深い。路上で知った接し方だったのだろう。どんな目で見られようと、何を言われようと、その矛先を隣人には向けない、そういう視点なのだ。
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地域を繋ぐ縄

2008-12-23 19:00:23 | ひとから学ぶ
 先日の日曜日は氏神さまの注連縄作りであった。注連縄を4本のほか、元旦祭用の榊とりや松飾りの準備した。隣組に当番が回ってきての仕事だったが、準備の次には実際の元旦祭も祭事当番となる。この正月はまだ陽の上がる前から忙しいことになる。神社には4時半集合ということになったから、ずいぶん早朝から地域のための仕事始めのようなものである。注連縄は鳥居と拝殿、そして神殿に掲げるものになるが、鳥居に掛けるものが最も太いものとなる。とはいえ、それほど太いものではないから、完成までにはそれほど時間は要さない。めったに回ってくる当番ではないので、注連縄をなうと言っても「解らない」という人が多い。そういえばカメラを持って行って写真に収めようと思っていたのに、1枚も成果にならなかった。忘れていたということになる。

 いよいよ年末ということであるが、11月に入ったころは余裕であった気分が、すでに年末ということで焦っているこのごろである。何より仕事が予定通りに終わっていない。このまま年を越えてしまうと、正月早々から忙しいとともに、年度末もあっと言う間にやってくるだろう。例年これからの季節はみな顔色が違う。ようは当面の仕事を終えて、新年度に向けて余裕を持つ時期である。ところがそんな時期になると毎年焦っている自分がいるようにも思う。「これで同じ仕事量なのか」とみてみれば、同じではないのだ。もちろんそれを解っていてこの数年間はこなしてきたが、のほほんとしたやつがいたりすると「悪い人間」に変化したくなる。これもまたわたしの性格である。そろそろ「いい歳」になった自分は、今や誰にも何を言われても負けはしないくらい反論する。それをわたしは良いこととは思っていないが、では「あなたたちは何をしているんだ」と突きつけたくなる。世の中は景気後退で仕事にありつけない人たちもいるというのに、こののんきな会社を見ていると、「何が正月だ」と口にしたくなるのも、不良中年たる所以である。

 さて、同じ日、自治会の年末総会があった。かつてなら年度末総会であるが、今は年末総会である。とくに年末におこなわなくても良いのだが、やはり「年末」という気分は「年度末」とは違い、従来からの人々の思いもあるのだろう。まあそれを感じている人がどれほどいるかは知らないが、年末には一応忘年会なるものを行う。ようは会所で一杯やるのだが、会議が終わって忘年会が始まるころには頭数は半減した。ここにも宴会当番という人たちが2割近くいるから、当番がいなかったらもっと頭数は少ないのかもしれない。ここに越してきたころには、忘年会といえばほとんどの人たちが残っていた。気がついたのはここ5年ほどだろうか。急にその人数が減り始めた。それもまた自治会の年度末が年末から年度末に変更されたころからだ。役所から指導されて年度末切り替えになったというが、何も考えずに同調するからこんなことになる。もはや地域自治も風前のともしびといったところである。半数ではないかと感じたのは今回が初めてである。これほど少なくなると、わたしもわざわざそこに残っている必要を感じなくなる。とくに当主なのか定かではないが、若い人たちの姿が率先して消える。世代を超えたかかわりを望まないこの時代は、地域自治の中にも確実に現れている。そして年寄りたちもわざわざ若い者に声は掛けなくなった。もちろんわたしも同じくである。

 消え入るような地域のかかわり、毎年行っている元旦の新年会も、周りではほとんどしなくなっているようで、いよいよわが隣組もそんな傾向を口にする人も出てきた。果たしてこの地域のつながりはどこへいってしまうのだろう。



 注連縄作りをしたということで、滋賀県での「勧請吊り」行事を思い出した。こちらは正月にかんじょう縄と呼ばれるものを鳥居などに吊るす行事がある。注連縄と基本的には似ているものの、いわゆる注連縄よりは多様で飾りそのものも充実したものである。「勧請吊り」は外からの疫神の侵入だけではなく、在所内の規律と秩序を守ることも同時に誓ったというから、この行事で地域の綱も繋いでいたということになるだろうか。写真は昭和64年1月4日(今は12月の第3日曜日に行うらしい)、昭和天皇崩御直前の日野町熊野神社の勧請縄作りである。
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トライアングル交差点

2008-12-22 12:40:11 | つぶやき
 伊那市駅から権兵衛トンネルに向かって西進する道は、駅から真っ直ぐに西に向かうと小沢川を渡り川北町へ入る。段丘を登ると信号機にたどり着き、角には真光教会の白い建物が現れる。ここの信号機を「河北町」という。かつてはY字形の三叉路だったのだろうが、小沢川を登ってきた幹線道路がつながり一応十字路になっているが、かつてのY字形をした道路の姿は残っていて、真っ直ぐ西に向かうと権兵衛トンネル。右折して北西に向かうと伊那ICへ向かう。伊那ICはもとより、伊那市街地から北進する春日街道へ入る人は、大方この「川北町」の信号機を右折して行く。春日街道は右折して300メートルほどのところにある次の信号機を右折すると連絡でき、この道は伊那市と南箕輪村境を通過して箕輪町、辰野町方面へ連絡する幹線道路である。今でこそ上段に広域農道が開通して南北を縦走する車はこの道と二分されているが、広域農道がかなり上段を走っていること、小黒川に春日街道とを連絡する橋が開通し、さらにその道が前述の「川北町」の交差点に連絡するようになって、縦走する車が広域農道へ集中していたものが、再び春日街道へ移ってきている。街中を走る国道153号もバイパスが完全ではないこともあって、ちょうど谷の中ごろを縦走している春日街道は、伊那谷北部の最も中心的な道路ともいえるだろう。なお「春日街道」は通称で、正式には県道沢尻箕輪線という。

 「川北町」と次ぎの「沢尻」の交差点は、そういう意味ではこのあたりの人は誰しも一度は通ったことがある交差点である。市内から「川北町」まで登る道は、けして広い道ではないが一応国道361号で、この道がそのまま権兵衛トンネルにつながり、木曽谷へ連絡する。権兵衛トンネルは平成18年2月4日に開通したトンネルで、木曽と伊那という谷を直結した画期的なトンネルでもある。まだ開通して3年弱というところであるが、この開通に合わせ、伊那ICとの連絡を良くするために、「沢尻」の信号機から春日街道をまっすぐ南に行って市内から登ってきた国道361号とТ字に連絡できるようわずか200メートルの区間に新たに道路を開けた。Y字の頭の部分を直結したわけだ。その道がなければ伊那ICから権兵衛トンネルに向かうには、「沢尻」で左折して「川北町」で鋭角に右折するというルートをとるわけで、とても大型車が右折する環境では「川北町」はなかったのである。直結されて新たに「川北町」の西側の国道361号上にできた交差点に信号機が設けられたのは、開通して1年以上を経てからである。この信号機が「沢尻南」である。



 さて、前述したように「川北町」から「沢尻」を経て北へ向かうのがこれまでの流れであったため、市街から登って北へ向かう車のほとんどは、「川北町」で右折することになる。これが今までの慣れであることは言うまでもないが、距離的にも最短となる。ところがこの三つの信号機は連動していない。ようは「川北町」の信号が青になって右折した車が「沢尻」で必ず青になっているわけでもないし、必ず赤になっているわけでもない。それぞれの信号機はそれぞれに仕組まれているから最短ルートであるからといって最短時間とは限らないのである。わたしはこのトライアングル地帯を毎日のように通る。市街から登っていって「川北町」を右折するのと、そのまま西進して「沢尻南」を右折するのとでは、「沢尻」を通過する際には後者が8割、前者が2割の割合で先に通過することになる。簡単に言えば今までどおり「川北町」を右折するよりは、「沢尻南」を右折した方が早いということである。しかし、今までの慣れがあるために、ほとんどの車は「川北町」を右折する。当初はわたしも同じルートをとっていたが、連動しない信号機にいらいらして、後者のルートを絶えずとるようになると、後者が早いことが明確に解った。しかし、逆に市街地に入るルートでは必ずしもその通りではなく、「沢尻」を左折するのと「沢尻南」を左折するのは混雑度合いにもよるが、五分五分、あるいは「沢尻」で左折する方が早いことの方が多い結果となる。何度も言うが連動させないがための不思議なトライアングルなのである。

 慣れと選択という繰り返しを誰しも試すものなのだが、このトライアングルに関しては、いまだその選択に疑問を持っていない人が多いということなのだろう。わが町にも似たような交差点がある。こういう交差点は、だいたいが新しくショートカットしたような新設道路に付随して登場することになる。そして今までの慣れなら従来どおりのルートをとるものの、果たして「どちらが早いだろう」と疑問を持てば、いろいろ試行錯誤をするものである。せっかくショートカット道路を造っても、その道を利用するのは右左折や道路の広さなどから大型車だけという道路が存在したする。
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佐久長聖の優勝

2008-12-21 22:37:33 | ひとから学ぶ
 巧臣君がブレーキにならなくて良かった、とは本音のところだが、区間5位で繋いでくれた。最短区間の3キロだから、それほどブレーキにはなりにくい区間であることは事実ながら、それでも不安があった。とはいえ、長野県縦断駅伝でも区間新記録を出しているだけに、並みの長野県内の選手ではないことはそれが証明している。長野県縦断駅伝は、高校駅伝の北信越大会と同日であった。ようは長野県縦断駅伝に出場している佐久長聖の選手は控えにも入られない二軍選手ということになるかもしれないが、全国大会では控えながらメンバーに入った。巧臣君の他にも修平君も控えに入った。そしてまさかと思えるメンバー入りした巧臣君がしっかりと走りぬいた。

 21日行われた高校駅伝。当然と言われていた佐久長聖が、その当然のごとく予定通りに全国制覇した。11年連続出場の中での、悲願であった優勝である。トラックでの5000メートルの記録が優勝を想定する根拠にもなっていたが、タイムだけを見れば、2分もの差が当然のように出るような差ではなかったはずである。にも関わらず他校との間には大きな差があった。いかにトラックのデータのままにロードで走ることができるか、というところが、佐久長聖の違うところである。トラックデータに差がなくても必ずロードでも成果を収めていた佐久長聖の強さは、トラックのままにいかにロードで走れるかというものであった。トラックデータのままに走りぬいた底力が、他にはない力であったわけである。県大会、地方大会共に三分台を出していた西脇工業が本番では5分代に甘んじたように、トラックデータだけでは優勝ラインにはたどり着けないロードの違い、楽しみというものを示してくれたわけである。

 「伊那高校駅伝」で今年の佐久長聖のことについて触れた。「さしあたって、佐久長聖の目標は昨年あと少しのところで逃した全国優勝となるだろうが、昨年のタイム2時間3分55秒というタイムの大幅更新だろう。昨年のメンバーが5人残るという今年の布陣は、勝って当然といわれるほどのものである。したがって全国高校駅伝での目標は、2時間1分代の大会記録更新ということになるのかもしれない」と予想していた。それに比べると2分代にとどまったということで、最高の結果とは必ずしもいえなかったと言えるかもしれない。ただ、最長の1区に外国人留学生を走らせることが出来なくなった今大会において、日本人だけではどうしてもけん制しあうことになる。そのけん制すると予想される区間にエース村沢をあてることなく、絶対的に差をつけられる外国人留学生区間である3区に村沢を起用した両角監督の作戦は、「けん制しあう」全国大会の現実をしっかりと把握した上での布陣であっただろう。目立ちはせず、さらには最も差を空けられた第3中継所の32秒は、計算づくのことであり、それをベストの走りを見せた村沢の大きな貢献だったということは言うまでもない。個人の記録ではなく(区間記録とか区間新という)トータルで優勝することを念頭においた、駅伝のための、そしてみんなのためのチーム優勝であったということである。優勝インタビューの中で両角監督が言ったように、26人の部員全員で勝ち取った頂点であったわけである。

 控えから繰り上がって走った巧臣君。そして控えメンバーに入った修平君。いよいよ来年はこの地元から行った子どもたちが複数人、場合によっては4人くらいメンバー入りしたチームが登場することになりそうだ。タイムから見れば今年のチームとはまだまだ差があるかもしれないが、晴れの舞台に向け、再びチーム力を上げて京都の地に帰ってきてくれることを楽しみに待ちたい。
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大泉の里 その参

2008-12-20 19:48:29 | 歴史から学ぶ
 大泉の里 その弐より

 かつては湧水の豊富であっただろう大泉も、今はそれほど水の湧きいずる姿をみない。ところが以前に「マンボとは言うけれど」で触れたように、この地域はイラン式といわれる横井戸によって用水を供給しようとした。明治初期以降のことである。縦井戸を掘り、そこから次の縦井戸とを連絡させ、不透水層に沿って井戸をつなげていくのである。延々と掘り続ける横井戸は何百メートルもにもなる。そうして水を求めるということは、普通の縦井戸では水の量が乏しいということになるのだろう。飲み水などの生活用水ならともかく、農業用水のように一定量を供給する必要があれば、より一層安定した水を求める必要がある。そういう意味でこの方式の井戸が、東西に広く展開する伊那市天竜川以西の扇状地で掘られたのである。2008/7/10の伊那谷自然友の会講座「上伊那における水の求め方」資料によれば、上伊那中西部に21箇所の横井戸を確認されている。確認されているものでは明治15年のものが最も古く、明治30年前後のものに延長の長い井戸が見られる。最も長いものは、南箕輪村南殿にある1620メートルというもので、これは段丘崖下から西山に向かって掘られたもので、現在も水が豊富に湧出しているという。多くは段丘崖下から掘られたものであるが、段丘上の窪地へ誘導するようなものも掘られている。

 大泉にもそうした井戸が造られており、前述した資料によると4ヵ所の横井戸が紹介されている。このうち上河原横井戸については、ずいぶん前に「湧き水もいろいろ」という日記で触れた。現在はほとんど水は枯れているが、大正年代に造られたというから、すでに西天竜幹線水路が設置されていた時代である。当時はこの碑の前の河原は水田になっていなかったのだろう。新たに水田化するにあたり、確実な用水を確保するためにこの横井戸が掘られたのかもしれない。ちなみに現在は西天竜幹線用水路の水が高層マンションの下部を通って供給されている。他の3ヵ所の井戸のうち、2ヶ所は現在も姿を残しているが、ムクリ横井戸といわれる大泉集落の西方にあるものは、地下井戸の口が空けられていてフェンスで囲まれている。覗き込むとほとんど水の流れた痕跡はない。それでも時によっては流れていることもあるというが、いずれにしても完全に段丘から離れたこの地でせいぜい数メートルという地下ではなかなか水が出ないのではないだろうか。もう一つ現存する西村横井戸は、つい先日訪れた際も水は流れていた。延長350間(634m)というから西側を通る中央自動車道の下を西に抜けている。4年間の歳月をかけ、明治32年に竣工したという。この井戸と同時に大泉川沿岸の開田も始めたというから、 井戸の完成は大きな変化をもたらしていたのだろう。

 実は集落の中を歩いてみると、かつて井戸であったであろう痕跡を見ることができる。利用はしていないものの、井戸の姿を残しているものもある。横井戸が明治以降ということでそれまではどうしていたかということになるが、前述したように水がなくては耕作するにもままならず、稼ぐことができなかったのだろう。生活の用水として掘られた井戸も枯れることが頻繁だったようである。『南箕輪村誌』によれば、明治42年には、42ヶ所の縦井戸があったという。井戸を掘っても水が出ない、あるいは枯れてしまうということがあったと同書には記されている。そうしたなか、「大泉川の締め切り」ということも試されたという。「大泉川三か所を掘り切ってみたら、地底「九尺~七尺」の所を水が通っていた。そこで幅「五十間」も横に掘り割って締め切ったら水が上がってくるだろう」と言うものが意図である。簡単に言えばもぐって流れている水を堰きとめて上昇させるというもので止水壁を設ける考えなのだ。飯島代官の企てで村惣代たちは元禄14年に締切りを実行したのである。ところが大雨によってたちまち埋まってしまい、失敗に終わったという。

 「泉」という名のもとではあるが、泉との葛藤の歴史がこの村にはあったのである。



 写真は春日街道沿いに東を向いて立っている石碑で「立石」(最も手前のもの)という。地名も立石というらしく、宿駅があったあたりという。碑面には「奉供養青面金剛」とありいわゆる庚申塔である。宝永8年に建てられたもののようで「大泉村中」とある。辻に立っていたこともあって、厄落としの対象として茶碗を投げつけられていたともいう。
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分別すべき緑

2008-12-19 12:37:09 | 農村環境
 道の脇の雑木林の中に墓石が立ち並ぶ。しかし、秋も深まれば葉は落ち、一面に褐色の葉が埋まる。その厚さどのくらいだろう、などと思うほどに嵩んだ褐色は、一様ではなく葉の輪郭をしっかりと見せながら重なり合う。夏の日に日陰を作って地面を露にしていた墓への参り道は、折り重なった葉でとても歩く道ではない。このまま春に土に還ることはないだろうから、いずれ正月や彼岸を迎えるころに、少しは手が入れられるのだろう。

 広葉樹はこうして毎年葉を落とし、地面を覆いつくす。落ち葉を掃く姿がどこか晩秋の風景であったことは、頭のどこかに残る。それは子どものころ、学校での清掃の風景か。いずれにしても集められた葉は「燃やす」という流れがごく普通の行いであったが、焼却禁止の流れの中で、そうした煙もなかなか見えなくなった。ではそうしたおびただしく広がった落ち葉の世界はどこへ行くのか。かつてなら落ち葉も利用価値があっただろうに、それを堆肥にするという行為も限られた人々のものであって、この落ち葉の世界を解消するほどの需要はない。いや、需要がないともいえなくはないが、それを需要として転換する社会ではない。東京都が緑の回廊計画を実行したところで、さてその緑は循環化されるだろうか。それが基本的条件と言えるだろう。

 先日市内のゴミ出し場を見ると、袋の中に落ち葉がいっぱいに入っていた。落ち葉も「燃やすゴミ」であることは承知しているが、実際家庭ゴミに混ざって落ち葉いっぱいの袋が見えたりすると、はたしてこれが正常な循環社会なのかと疑うことになる。燃やせないから燃やせるゴミにして出す、これが課題として上げられもせず、地方都市で平気で実行されているのが不思議でならない。市内という環境ではどうにも処理しがたいということでこうして焼却ゴミとして処理されることになるが、田園地帯でも同じことは行われている。今や田園地帯にも多くの非農家が住み着き、せいぜい百坪程度の空間にそれらを処理する場所は見当たらない。しかし緑があることを人々は望むから、落ち葉が少なからず発生することもある。百坪の空間に地面が出ていれば、雑草も生える。寮に住む同僚に、雑草はどうしているかと聞けば、少し乾かしてから焼却ゴミとして出すという。これらをゴミとして正規に対応すれば、こうした自然発生のゴミが大量焼却されることになる。あくまでもゴミと認識したらのことである。まったくの田舎なのにこうして生ゴミ扱いの嵩んだゴミが運ばれていく。かといって落ち葉専用の廃棄ルートをたどることもない。産業廃棄物ではないが、きっと処理してくれる業はあるのだろうが、今のところ焼却ゴミルートが通常のようである。

 道の脇の積もった落ち葉を見るたびに、町の中の、そして田舎のゴミステーションが思いやられる。堆肥化するような呼びかけがあるわけでもない。ゴミの分別はずいぶんと細分化されたものの、本来はゴミではないものを分別して処理することが待たれる。
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日々眺める彼方

2008-12-18 12:41:45 | 自然から学ぶ


 天気さえ良ければ毎日のようにこんな具合の空を眺めているところに住んでいる人たちは、その毎日をどんな具合に感じているだろう。どこまでも扇状地の造ったなだらかな丘陵が続いているが、実際はこの丘陵をたぎるように天竜川の支流が流れている。しかし、その谷はずいぶんと急激な段丘をこしらえているから、こうしてどこまでも丘陵は続いているように見える。そんな具合に見晴らしのよいのは、伊那市より北側の南箕輪村や箕輪町の天竜川以西の地域である。「大泉の里」で触れているように、こうした丘陵地には水が乏しかったため、かつては平地林だっただろう。そこへ用水が引かれるようになり、水田化したり、また人々が開拓して平地林をなくしていった。いまやこんな具合に遮るものがないほどになだらかな土地は耕作地へと変わっている。その耕作地に、今は点在して新興の住宅地が増えている。このただっぴろい空間のどこそかで宅地が造成され、また建築中の家が目立つ。そしてこんなような広い空間を眺めて、それらの人々は暮らしを始めるのである。もちろんここに暮らしている人たちではなかったから、暮らし始めて意外にも風が強く、また寒さが厳しいことを感じている人たちもいるのだろう。それにしても陽が沈む光景を我が家から毎日のように見ていれば、何らかの思いが育まれるはずだ。仕事に明け暮れていれば、そんな光景に目を向けることもそれほどないかもしれないが、この広がりある空間は、休日でも十分に認識できるだけのものがある。

 考えてみれば同じ伊那谷に暮らしているのに、こうした光景を常に目にすることのできる地域はそれほど多くはない。我が家から南を見渡しても遮るもの、たとえば果樹園や起伏のある尾根などがそれを許さない。北側にいたってはこれほど一定した緩傾斜ではないために、家も果樹園も、そして雑草すらそれを遮ってしまう。天竜川の方向に傾斜しているこの洪積地が南北にも凹凸を造るなか、凸部である尾根のような場所に住まいを構えていればともかくとして、そのような場所の風の強さはまた格別なのだろう。ようは伊那谷でこうした光景を目にする場所は、それほど住みやすい場所とはいえないのだ。ところがこの写真を目にする地域は、それほど南北方向に凹凸が激しい場所ではない。もちろん雨が降れば低いところに水は流れるから、少なからず凹凸を造り出しているものの、その高低差がそれほど大きなものではないから、広大な水田地帯の多くの場所から、これと同じ光景を目にすることができる。そしてこの写真のように南側は中央アルプスからの裾野が右側から、南アルプスを背景に伊那山脈の裾野が左側から天竜川に向かい、それぞれは地平線として交わるのである。いわゆるV字型のくぼみがしっかりと解るわけで、これほど理想的な展開はない。いや、V字というよりは半円状にやわらかく見せてくれるから、より一層印象は「その先」へ導く。

 いっぽう北側を望むと同じように左右から裾野がやってくるものの、正面には長野県のど真ん中に居座ってそれぞれの地域を分断している山々が見え、南側のような広大な展開とはいかないのだ。加えてこの季節、左右に寒々とした山々がそびえるとともに、正面には常に雲のかかった冬の山があったりすると、あまり方向として北側を目指したくなくなると思う。不思議とこうした空間に日々暮らしていると、きっと南への指向性があると思うのだが違うだろうか。「あの凹部のの先には何があるだろうか、とそんなことを昔から人々は考えたはずである。そういえば南箕輪とか箕輪の人たちは飯田へよく足を運ぶということを聞いたことがあるような気がする。けして昔からこの地に住んでいる人たちより、新たにこの地に住み着いた人たちの方が「あの向こう」をきっと強く意識するとわたしは思う。

 わたしは地域性を考えながら伊那と飯田の不一致について何度も触れている。しかし、毎日のようにこうした光景を見ていると、方向性ということに関しては南をそれほど毛嫌いしているはずはないとわたしは思うのである。もちろんあの凹部のあたり、そして向こうは、まだまだ飯田にはほど遠いと思うが、南へ広がるこの空間は、けして侮れないものだと思う。
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住まうことの技術

2008-12-17 12:38:42 | 民俗学
 宮本八惠子氏は「身体と技」(2008/10 『日本の民俗11 物づくりと技』吉川弘文館)において「住まうことの技術」について触れている。埼玉県大利根町の千代さんという明治40年生まれの女性の昭和2年の日常の動線を追い、住まいの中でどの空間で何をしていたかをあからさまにしている。宮本氏は「住まいにさまざまな生活用具や物資を配置する行為や、その空間に描かれる動線は、まさに身体か為し得る「行動の技」である。動線は、体内に流れる血液のように住まいの空間を日々流れつづけ、これには太い動脈もあれば毛細血管もある。また、動線の集中する場所は心臓部に値し、ここにし多数のモノが配置され、モノを絡めた行為が展開される。こうした動線は、住まいを作る(創る)行為にほかならず、動線がスムーズに描かれることで住まいは居心地よい空間へと形成されていく」と述べる。住まうことを行動の技といい、居心地よい空間、そして暮らしは技とまで言い切る。本書のタイトル「物づくりと技」からは想像もできない飛躍的な視点であるが、なるほどと思わせる面もある。居心地の良さを見出せない人は、そこに配置されたモノ、あるいは所持しているモノに問題があるのか、それとも居住する空間に問題があるのか、いずれにしても人の暮らしそのものが技の為し得るものということになる。住まうことの技を持ち得ないことは残念な暮らしをしているということにもなり、人は皆居心地よい住まい方をそれぞれの思うところに描いていくわけである。そういう視点でいけば、路上生活者にも技があるのだろうか。

 モノをいかに利用して住まう空間を描くか。ところが人には隣の庭がよく見えるもので、必ずしも住まう技を出したからといって満足はしていないだろう。となると、動線から導き出される技はわたしたちに何を教えてくれるというのだろう。少しばかり具体的なものを描けないでいるのも事実である。千代さんの暮らしでは、家の中すべてを通常利用しているわけではないことを証明し、日常はオカッテやダイドコロを中心にして寝るときだけネドコロ(寝室)へ入る。住まいの空間には日常と非日常がありこれをハレとケに区分されることであるという。こうして区分されることで暮らしにめりはりが効いてくるとする。閉ざされた空間いわゆる非日常の空間は、外部の者を招くための「開かれた空間」であって、そこは「いつ来客があっても慌てぬように常に整然とされる。余分なモノは一切置かれず、すっきりと片付いているのである。まさ、潔いほどの住み分けの技術といえる」と結論付けている。ここに曖昧な雑然とした住処はなく、それぞれの空間をどう位置づけているか、またどう利用するかということが整理されていることが解るわけであるが、必ずしもハレとケが区分されていなくとも住むための技術というのは存在すると宮本氏の考えからわたしは導くが、宮本氏はあくまでも「めりはりのある」生活には区分けがされているという考えのようだ。

 いまやモノは自ら調達することはほとんどなくなった。これもまた経済効果の比較となれば、手間よりは購入という選択に流れていった結果ではある。したがって多くの人々が自らの手から技が無くなり、また技を売り物にするいわゆる職人の低迷を感じているだろう。しかしわたしたちはそうした現実的な見える技ではなく、さまざまな経験としての技を持ち合わせていた。住まう技はそうした視点をあてたものであって、教えてくれるものは多い。考えてみれば、住み分けを行う空間は、しだいに若い人たちからは消えてきているといえよう。客を招くための空間は「必要か」という問いに、いまや「必要ない」と答える人々は多いはず。なぜならば核家族化による住処の分散は、客は限定されたものではなく、すでに客は身内的な存在にさえなりつつある。ようは客間に通すような客はやってこないのである。「めりはり」にこだわる宮本氏の言うような空間はすでに不要となりつつある。しかし、それが果たして居心地の良いものかどうかは別である。これは住居に限られた問題ではないだろう。人と接する技を持ち得ない現代の人々が、いかにめりはりの効いた暮らしができるかということにもつながる。そして不快感の伴うモノは廃棄していく現代は、すべてがそうしたモノとの付き合いの技術に関連しているといえるのかもしれない。
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