「物と人の交流③」において、「果たしていっしょに生きる方法が模索されただろうか」とこの章をまとめてしまったが、『日本の民俗 3 物と人の交流』の中で大変参考になるものがあった。山本志乃氏の「市と行商」の中にそれはある。市での客と売り手のやりとりの中から実際の事例を紹介しているが、その中でわたしが気に留めた部分を列挙してみると次のようなものである。
①大多喜の市に出店するある農家の店で五○人ほどの客とのやりとりを録音して分析してみた。(中略)この店では、商品を山積みして計り売りしたり、皿に分けて盛ってあっても値段が表示されていないなど、そもそも会話なしでは取り引きが成立しないようなしくみになっているのである。
②全体として会話は売り手上位で進むけれども、品物についての説明をくりかえすことが主体となっているようすがうかがわれた。客との間に沈黙を作らないことも、売り手にとっても重要な戦略なのである。さらには商談成立後支払いまでの間に、会話がもっとも発展することもわかった。品物の話題だけに終始していたのが、家族の話や自分の体調など、いわゆる世間話がはずむのは商談がすんでしまったあとで、「おまけ」としてちょっとした一品を加えるのもこのときである。
③昭和二〇年代から四〇年台のいわゆる高度経済成長期を境に売られている物や買物の仕方も、ずいぶん変わっている。(中略)先代のYさんの頃には「葉っ葉ものなど持って行ったこともなかった」といい、たとえば六月頃には、梅だけを大量に持参してさばくなど、季節の山のものを集中的に売って収入にしていた。(中略)どの家庭でも漬物に加工して保存することがあたりまえだった時代であり、日々の蔬菜はもちろんだが、保存食用の材料を大量に手に入れる場として市が機能していたと考えることができる。Iさんがいうように、最近の市のほうが野菜のバラエティが豊富であるというのは、そうしたまとめ買いがもはやみられなくなり、むしろ日々の蔬菜調達に重点が置かれていることの証しである。出店者のSさんが語った「いろいろな種類を少しずつ持っていく」という原則は、いわばきわめて現代的な適応の一形態といえるのかもしれない。
④Sさんの代になってここ一○年ほどで、手作りのすしを品物に加えるようになった。農家の出店者で自家製のすしを持参する家は多く、味つけや形などが店ごとに違っていて個性的である。使う材料はだいたい似かよっていて、シメサバのほかは、リュウキュウ、ミョウガ、しいたけ、竹の子などの季節ものの野菜がすしネタになる。Sさんをはじめ、加工食品を手がけるそれぞれの農家では、調理師免許を取得し、衛生管理にも気をつけていて、販売用のすしには原材料や消費期限を記したラベルを貼るなど本格的である。
①②は千葉県夷隅郡大多喜町のもので、③④は高知市日曜市でのものという。こうした各農家が直接品物を持ち寄り自ら売る形式の大規模な市は、長野県内では事例が少ない。というよりもあまり聞かない。一時盛んにあった無人市というものは、簡単な小屋掛けをしたところに賽銭箱風のお金の投入箱を置き、客が勝手に好きなものを購入していくというものであった。ところがこのごろはすっかり姿を消した。人がいないことをよいことに、お金も払わずに持って行く人が多く、品物の半分も回収できないのは当たり前のことだった。こうした無人市に代わり、有人の市のようなものがそこそこ姿を見せているが、前述したような農家自らがそれぞれに売りに行くというスタイルではなく、協同組合的な売り手と生産者は別の顔というケースである。盛んにテレビなどで紹介される伊那市の広域農道沿いにある直販所は、農家がなんでも持ちいれることができ、それを直販所が置いてくれるというものである。大変賑わっているが①~④の事例のような市のやりとりとは少し違う。
成果をあげている伊那市の例にならって同種の小規模なものが多くなったが、それほど盛っているところは少ない。農業の衰退とともに野菜などを求めるニーズはあるはずだが、そのニーズに売り手側が応えられていないのではないかと感じている。事例で紹介されたような市は、何世代にもわたって足を運びつづける地元客と売り手の存在があるわけでこうした地域内交流を通した農産物のあり方は興味深い。日曜市のような場面に事例のような農家自らが出店して人と交わりを持つという意味は大きいとともに、この地域でも取り組んで歴史を築けれるような市を展開するのもひとつの方法かもしれない。
①大多喜の市に出店するある農家の店で五○人ほどの客とのやりとりを録音して分析してみた。(中略)この店では、商品を山積みして計り売りしたり、皿に分けて盛ってあっても値段が表示されていないなど、そもそも会話なしでは取り引きが成立しないようなしくみになっているのである。
②全体として会話は売り手上位で進むけれども、品物についての説明をくりかえすことが主体となっているようすがうかがわれた。客との間に沈黙を作らないことも、売り手にとっても重要な戦略なのである。さらには商談成立後支払いまでの間に、会話がもっとも発展することもわかった。品物の話題だけに終始していたのが、家族の話や自分の体調など、いわゆる世間話がはずむのは商談がすんでしまったあとで、「おまけ」としてちょっとした一品を加えるのもこのときである。
③昭和二〇年代から四〇年台のいわゆる高度経済成長期を境に売られている物や買物の仕方も、ずいぶん変わっている。(中略)先代のYさんの頃には「葉っ葉ものなど持って行ったこともなかった」といい、たとえば六月頃には、梅だけを大量に持参してさばくなど、季節の山のものを集中的に売って収入にしていた。(中略)どの家庭でも漬物に加工して保存することがあたりまえだった時代であり、日々の蔬菜はもちろんだが、保存食用の材料を大量に手に入れる場として市が機能していたと考えることができる。Iさんがいうように、最近の市のほうが野菜のバラエティが豊富であるというのは、そうしたまとめ買いがもはやみられなくなり、むしろ日々の蔬菜調達に重点が置かれていることの証しである。出店者のSさんが語った「いろいろな種類を少しずつ持っていく」という原則は、いわばきわめて現代的な適応の一形態といえるのかもしれない。
④Sさんの代になってここ一○年ほどで、手作りのすしを品物に加えるようになった。農家の出店者で自家製のすしを持参する家は多く、味つけや形などが店ごとに違っていて個性的である。使う材料はだいたい似かよっていて、シメサバのほかは、リュウキュウ、ミョウガ、しいたけ、竹の子などの季節ものの野菜がすしネタになる。Sさんをはじめ、加工食品を手がけるそれぞれの農家では、調理師免許を取得し、衛生管理にも気をつけていて、販売用のすしには原材料や消費期限を記したラベルを貼るなど本格的である。
①②は千葉県夷隅郡大多喜町のもので、③④は高知市日曜市でのものという。こうした各農家が直接品物を持ち寄り自ら売る形式の大規模な市は、長野県内では事例が少ない。というよりもあまり聞かない。一時盛んにあった無人市というものは、簡単な小屋掛けをしたところに賽銭箱風のお金の投入箱を置き、客が勝手に好きなものを購入していくというものであった。ところがこのごろはすっかり姿を消した。人がいないことをよいことに、お金も払わずに持って行く人が多く、品物の半分も回収できないのは当たり前のことだった。こうした無人市に代わり、有人の市のようなものがそこそこ姿を見せているが、前述したような農家自らがそれぞれに売りに行くというスタイルではなく、協同組合的な売り手と生産者は別の顔というケースである。盛んにテレビなどで紹介される伊那市の広域農道沿いにある直販所は、農家がなんでも持ちいれることができ、それを直販所が置いてくれるというものである。大変賑わっているが①~④の事例のような市のやりとりとは少し違う。
成果をあげている伊那市の例にならって同種の小規模なものが多くなったが、それほど盛っているところは少ない。農業の衰退とともに野菜などを求めるニーズはあるはずだが、そのニーズに売り手側が応えられていないのではないかと感じている。事例で紹介されたような市は、何世代にもわたって足を運びつづける地元客と売り手の存在があるわけでこうした地域内交流を通した農産物のあり方は興味深い。日曜市のような場面に事例のような農家自らが出店して人と交わりを持つという意味は大きいとともに、この地域でも取り組んで歴史を築けれるような市を展開するのもひとつの方法かもしれない。