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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

物と人の交流④

2008-08-31 23:58:06 | 民俗学
 「物と人の交流③」において、「果たしていっしょに生きる方法が模索されただろうか」とこの章をまとめてしまったが、『日本の民俗 3 物と人の交流』の中で大変参考になるものがあった。山本志乃氏の「市と行商」の中にそれはある。市での客と売り手のやりとりの中から実際の事例を紹介しているが、その中でわたしが気に留めた部分を列挙してみると次のようなものである。

 ①大多喜の市に出店するある農家の店で五○人ほどの客とのやりとりを録音して分析してみた。(中略)この店では、商品を山積みして計り売りしたり、皿に分けて盛ってあっても値段が表示されていないなど、そもそも会話なしでは取り引きが成立しないようなしくみになっているのである。

 ②全体として会話は売り手上位で進むけれども、品物についての説明をくりかえすことが主体となっているようすがうかがわれた。客との間に沈黙を作らないことも、売り手にとっても重要な戦略なのである。さらには商談成立後支払いまでの間に、会話がもっとも発展することもわかった。品物の話題だけに終始していたのが、家族の話や自分の体調など、いわゆる世間話がはずむのは商談がすんでしまったあとで、「おまけ」としてちょっとした一品を加えるのもこのときである。

 ③昭和二〇年代から四〇年台のいわゆる高度経済成長期を境に売られている物や買物の仕方も、ずいぶん変わっている。(中略)先代のYさんの頃には「葉っ葉ものなど持って行ったこともなかった」といい、たとえば六月頃には、梅だけを大量に持参してさばくなど、季節の山のものを集中的に売って収入にしていた。(中略)どの家庭でも漬物に加工して保存することがあたりまえだった時代であり、日々の蔬菜はもちろんだが、保存食用の材料を大量に手に入れる場として市が機能していたと考えることができる。Iさんがいうように、最近の市のほうが野菜のバラエティが豊富であるというのは、そうしたまとめ買いがもはやみられなくなり、むしろ日々の蔬菜調達に重点が置かれていることの証しである。出店者のSさんが語った「いろいろな種類を少しずつ持っていく」という原則は、いわばきわめて現代的な適応の一形態といえるのかもしれない。

 ④Sさんの代になってここ一○年ほどで、手作りのすしを品物に加えるようになった。農家の出店者で自家製のすしを持参する家は多く、味つけや形などが店ごとに違っていて個性的である。使う材料はだいたい似かよっていて、シメサバのほかは、リュウキュウ、ミョウガ、しいたけ、竹の子などの季節ものの野菜がすしネタになる。Sさんをはじめ、加工食品を手がけるそれぞれの農家では、調理師免許を取得し、衛生管理にも気をつけていて、販売用のすしには原材料や消費期限を記したラベルを貼るなど本格的である。

 ①②は千葉県夷隅郡大多喜町のもので、③④は高知市日曜市でのものという。こうした各農家が直接品物を持ち寄り自ら売る形式の大規模な市は、長野県内では事例が少ない。というよりもあまり聞かない。一時盛んにあった無人市というものは、簡単な小屋掛けをしたところに賽銭箱風のお金の投入箱を置き、客が勝手に好きなものを購入していくというものであった。ところがこのごろはすっかり姿を消した。人がいないことをよいことに、お金も払わずに持って行く人が多く、品物の半分も回収できないのは当たり前のことだった。こうした無人市に代わり、有人の市のようなものがそこそこ姿を見せているが、前述したような農家自らがそれぞれに売りに行くというスタイルではなく、協同組合的な売り手と生産者は別の顔というケースである。盛んにテレビなどで紹介される伊那市の広域農道沿いにある直販所は、農家がなんでも持ちいれることができ、それを直販所が置いてくれるというものである。大変賑わっているが①~④の事例のような市のやりとりとは少し違う。

 成果をあげている伊那市の例にならって同種の小規模なものが多くなったが、それほど盛っているところは少ない。農業の衰退とともに野菜などを求めるニーズはあるはずだが、そのニーズに売り手側が応えられていないのではないかと感じている。事例で紹介されたような市は、何世代にもわたって足を運びつづける地元客と売り手の存在があるわけでこうした地域内交流を通した農産物のあり方は興味深い。日曜市のような場面に事例のような農家自らが出店して人と交わりを持つという意味は大きいとともに、この地域でも取り組んで歴史を築けれるような市を展開するのもひとつの方法かもしれない。
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観光とは

2008-08-30 20:30:47 | つぶやき
 石見銀山というどちらかというとマイナーな史跡が世界遺産に指定されたのは2007年、誰もが意外に思ったにちがいない。ところが、誰でも指定されるだろうと思っていた平泉がされなかった。日本では世界遺産のあり方に対して正確な認識をしていなかったということになった。先ごろ「ガイアの夜明け」(テレビ東京)において、この世界遺産について触れた。石見銀山では観光客が前年の約4倍になったという。しかし、観光客への対応が間に合わず多くの問題が起きているという。観光客からは、観光地を巡るバスの満員運行や乗車待ちへの不満や、現地を訪れてもどこをポイントに観光すればいいのかわからないという不満があがっているという。インタビューでを聞く限り、こうした観光地での観光のしかたを知らない日本人らしい声が聞けた。果たして日本にとって観光とは何なのか。わたしたちは観光そのもののあり方すら認識を変えなくてはならないと思っているが、なかなかそうならないのが、この国の不幸ともいえる。番組では「訪れた観光客に悪い印象を植え付けるだけでなく、悪評が世界を駆け巡る可能性もある」と言うが、そんなことで世界遺産指定が白紙になるとは思えない。むしろ日本的観光地に作り上げた方が白紙になりかねないと思うが違うだろうか。バスとマイカーの乗り入れの規制を市に要請し、歩いてもらった方が石見のよさを知ってもらえると考えている自治協議会会長の意見は正しいだろう。確かに歩くこと5キロ余というのは、観光地では並みの距離ではないかもしれない。しかし、だからこそ広域指定をしている世界遺産の姿が残せるというものだ。

 身近でも松本城を、あるいは善光寺を、さらには南アルプスを、といった具合に観光目的に世界遺産化の動きが盛んだ。しかし、だからといって指定されることで人々の生活とか、自然とか、トータルな舞台を考えようという視点はない。たとえば松本城においては、周辺環境が問題だといって、その後形成されてきた城周辺の住空間を奪ってまで、周辺環境を復元しようという。復元とは言うが、それは造成された世界遺産と言っても過言ではない。なぜそこまでして世界遺産にこだわるのか、それほど地域に外貨を求めたいのか、またその外貨は誰が恩恵を受けるのか、などと考えていくと、相変わらずといった感想が浮かんでくる。地域にとって地域とは無縁の都会人の意識を変えようとか、都会人の恩恵を被ろうなどという考えは、どうしてもわたしは納得いかない。

 昨日書いたリニアのことなど、都会人にしてみたら中間に「駅などいらない」という意識が大方のものだ。そして、そんな意識と対峙するような田舎人の都会向けの顔、「都会人よおいで」みたいな意識、とても滑稽としか言いようがない。一攫千金みたいな地域復活ではなく、地域維持という視点にはなぜならないのだろう。もちろんそんなことは言っていては、という意見も強いだろうが、人口減少に転じている国の中で、飛びぬけた飛躍はいつかきっと転倒することもあるという確率も高いはずだ。永遠ではないのだ。

 そういえば、最近観光という視点では「物と人の交流」において民俗学者柳田國男や宮本常一の旅のことについて触れた。宮本は五島列島の旅で道路建設の必要性を訴えた。「七つの島を密接につなぐため、各島の縦貫自動車道の完成が急がれる。そして島と島との間に、この道をつなぐ渡船を設け、多少のシケくらいでも、島と島との間なら船は往復できるから、この渡船をたよりに、陸路を主にして北から南まで一貫した交通路を完成すべきではないかと思う。他のあらゆる事業をさしおいても、まずこれを貫通せしめるというくらいの熱意がなければ、この島の本当の発展はないと考える」と述べた。近代化する時代の民俗学と現代の民俗学の背景がまったく違うことに気がつくととともに、かつて民俗学を築き上げてきた人々は、「発展」という意味で地域を捉えていたわけである。柳田もまた農政官僚だった。これほど地域が疲弊した現在において、都会人と田舎人の関係はいかなるものなのか、などと思うわけで、そうしたなかでこうした観光という舞台は、より銭勘定で存在してほしくない面なのだが、みなこぞってそこへ目を向けている。なんともはや・・・。
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中央リニアについて三度

2008-08-29 22:13:33 | ひとから学ぶ
 2025年営業開始を目指しているといわれる中央リニアに対しては通過地点にあたる長野県に限らず、いろいろ憶測が飛んでいる。とくにBルートという極端に迂回したルートを推し進めてきた長野県においては、直線ルートで建設すると表明したJR東海の考えに対して批判が相次いでいるのは承知のところである。これまでにも何度か触れてきたように、現実的な問題に置き換えてみると、わたしが提案した長野県内では地中化というのは良案だとは思うが、すでにそういう案はありえないことだとわたしも認識している。2025年といえば17年後である。もたもたしていればすぐにプロジェクトは進んでいく。現実に照らし、実現可能な計画を示して要求していくことが、この地域に求められるのだろう。でもしなければ、地域崩壊は時間の問題である。

 すでに90%以上の確率でありえない①Bルートと、②既定のルートであろう直線ルートの問題について触れてみよう。まず①ルートである。

 現在の流れでは中間駅の数は三つ程度と言われている。一県一駅という考えは、ただ通過するだけでは沿線が納得しないという基本スタイルによる。駅の建設には地元負担をというのが原則になるのだろうが、負担は差し置いても駅の建設は現実化していくのだろう。神奈川・山梨・長野といったところに駅が設置されるのは常道だろう。とするともしBルートが復活したらどうなるかである。Bルートを選定するとなれば、問題になるのが既存の中央東線である。いわゆる並行在来線となるから、既存利用者や国民のニーズという面からゆけば、駅は諏訪に設置され、諏訪-新宿間の特急、いわゆる在来線の「あずさ」は廃止されることになる。ということは北陸新幹線でも話題になっている在来線の運営はどうするかとなり、問題は大きい。Bルートを推し進めるというのなら、当然そのあたりの構想を整理して要求しなければ取り上げてもらえないだろう。果たして特急あずさを捨ててもリニアを求めるべきだろうか。もちろんもし整理されたとしても諏訪駅では伊那谷は通過していくだけになり、メリットがなくなるのは言うまでもない。伊那駅では在来線への連絡が悪く、それらの整備に多額な負担が生じるのは必然のことである。

 では②ルートはどうか。JR東海では直線ルートのラインは想定の上で進めているのだろう。わたしの予想では、長野県内では南アルプスをくぐり、大鹿村釜沢で一瞬顔を出したリニアが、次に顔を見せるのは喬木村氏乗あたりで、再びトンネルに入ったリニアは川路あたりで姿を現すのだろう。もし駅を設置するとすればこのあたり。川路といえば飯田駅よりもはるか南である。ここで次のトンネルに入ると阿智で顔を見せるかどうか。あとは恵那山の南をくぐって行くというルートである。現在、諏訪から飯田駅まで経路を探ると最短で2時間半程度、長いと3時間近く要する。実は中央線を利用して名古屋まで行くと、2時間半程度である。お分かりのように、諏訪から飯田まで行くうちに名古屋まで着いてしまうということで、メリットはない。わたしの予想のように川路あたりに駅でも造ったらもっとひどいことになる。以前にも触れたように、飯田に駅ができたとしても、この駅を利用する長野県人は、今の状況では伊那谷の人口だけということになる。これを解消するには、飯田線を高速化する以外にはないのだが、今の軌道では無理で、この負担の方が大きくなる。そして付加的な問題として、秩序ある計画を今のうちに作っておかないと、もっと大変な問題が起きても不思議ではない。解りやすいものとして、現在高速バス事業でバス事業持ちこたえている信南交通には大きな痛手で地域の路線バスは完全に姿を消すことになるだろう。もちろん現住民以外の新住民が多量に住みつけば別であるが、果たしてそれだけの受容できる空間はあるだろうか。またあったとしても、秩序を維持できるかというところも課題になる。天秤にかけるとしたら、現在住んでいる人たちのために何かをするか、それとも新たにそこに経済を見出す、あるいは新たに住み着く人たちのために何かをするのかという選択になるのだろう。

 以上のような問題点をクリアーできる策がまとめられているかというところになる。直線が既定のルートだというのなら、飯田駅へどう連絡させるか、もちろん他地域の人たちを踏み台にした施策は策にあらずであって、たとえば飯田線高速化、そして名古屋へとなると中央西線の存在ですら危うくなる。おそらく多数決的な発想ならばBルートで諏訪駅がベストなのだろうが、直線ともなればそうはゆかない。早川町-釜沢というラインが固定されるとなれば、あとは中央西線に近いところまで駅を引きずるか、ということになる。それでもって長野県内となると、すでに策はないのか・・・ということになる。県内をあきらめて中津川あたりまでずらしてもらうなどという意見が出てきても不思議ではない。ということで最終的には道州制までも視野に入れてゆかないと答えは見えてこない。いずれにしても地図にルートを入れてみれば、中央東線の新宿-甲府間は明らかに廃止対象になり、名古屋近辺のルート次第では、名古屋-中津川間も廃止となりうるわけで、長野県の出方は大変重要だということがわかるだろう。それらを踏まえてBルートだと言っているのだとしても、すでに希望ばかり言っている段階ではないと考えられる。
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物と人の交流③

2008-08-28 22:54:59 | 民俗学
物と人の交流②より

 島村恭則氏は「異文化の交流」の中でアイデンティティについて触れている。「生活の現場で実践される<生きる方法>に注目した場合、朝鮮系住民の「アイデンティティ」は、「民族的アイデンティティ」によってのみ構成それているわけではないこと、ある人物の「アイデンティティ」のなかで、「民族的アイデンティティ」が特権的な位置を占めているとは限らないこと、さらには「アイデンティティ」という問題設定の有効性がそれほどあるとは思えないケースも存在すること、などに気づかされる」と述べている。ようは意識として朝鮮系の住民であることは解っていても必ずしもそれが基底にあって暮らしの中に民族意識を常に持っているわけではないというのだ。それぞれの人が必死に日々を暮らしている中に、民族としての交わりよりも生きる方法としての交わりの方が大きいということになる。

 ここで島村氏は民族の違う異文化よりも視点を充てるべきものは別にあると述べているわけであるが、これは別の比較をすれば、民俗の地域性にも同じことが言えるということになるかもしれない。福岡市で毎年開催される「三・一文化祭」(サミルムナジェ)-農楽など朝鮮半島の「民族文化」を演じ、「民族的アイデンティティ」を確認しようとする祭り-に触れ、島村氏は次のように言う。

「「三・一分化祭」の会場が初回以来、一貫して東区に設定されているのは、同区が朝鮮系住民の集住する地域だからであろう。しかし、同区内の集住地区ににおける観察では、「三・一分化祭」は住民にとってそれほど身近なものとなっていないように見えた。(中略)「三・一文化祭」への関心をまったく示さない層も多数存在していることがわかった。あるいは「毎年、恵比須神社の「十日恵比須」や筥崎宮の「放生会」、そして「どんたく」と「祇園山笠」には必ず行く。「三・一分化祭」には昔一度行ったことがあるが、毎年は行っていない」といった人も少なくなかった。」というものである。そして「選択の基準は「おもしろいかどうか」である。「おもしろいから」、あるいは「子供が行きたがるから」行くのであって、「民族的アイデンティティ」や「日本人としてのアイデンティティ」のために行くのではない」と結論付けている。ふだんの暮らしの中で、民族的アイデンティティを意識しているけではなく、それぞれの生きる方法としての選択がそこにあるということなのだ。しかし、この背景、本心のところは果たしてそうなのか、ということについては触れていない。日々の暮らしに追われていれば催しをそれほど意識することはないのは、誰も同じことであって、日々そうした意識を根底において活動している人たちとは考え方が違う、あるいはかかわり方が違うというのは当然のことである。こうした行動力のある特別な人たちの行動や、そうではない普通の人たちの行動や意識を取り上げて、民族的アイデンティティよりも日々の生きる方法が優先だといっても、あまりに表面的な捉え方ではないだろうか。そしてこの考え方は、先にも述べたように、民族的アイデンティティに限らず、地域アイデンティティともいえるのではないだろうか。こういう捉え方は今までの民俗学の視点とかなりかけ離れていることになる。人々が日々行うあたりまえのことにどういう意味があり、またどういう地域性があるかと比較する場合は、特別な行動を取り上げて比較するということもあれば、誰もが行っていないが、行っている人もいるという論理で構成されてきたはずだ。にもかかわらず民族的アイデンティティよりも「生きる方法」が優先されるという印象を前提にして、理論を展開しており、実際はそれほど民族意識を前面に出していないということは理解できるが、結論をあまりにも現実社会に求めすぎているような気がするわけだ。これは民俗学なのかと思うとともに、現実の暮らしを優先するというのなら、どんな事件が起きようとも、ただ「現実を受け止めよ」ということになりはしないだろうか。それで現代の問題に取り組めるだろうか。あとがきに川森博司氏が触れているが、果たして「いっしょに生きる」方法が模索されたのだろうか、と思わずにはいられない。
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悲しい別れ

2008-08-27 21:28:51 | ひとから学ぶ
 ここ最近、立て続けにわたしより若い人たちを黄泉の国におくった。それだけわたしも年老いてきたということなのだろうが、病みついている世の中に言葉も出ないと思う自分がいる。今日はごく身近の若き青年の葬儀であった。このごろは隣近所といっても地方でもあまり縁が遠くなっている。加えて地域に住み着いたのが最近だから、地域に顔見知りが少ないのも事実だ。そんななか、庭で作業をしていれば、犬の散歩で顔を合わせていた青年が、妻もよく知っている人の娘さんと結婚したのは数年前のことだった。同じ隣組とはいってもこの時代である、顔を合わせていてもそれほど親しく話す青年ではなかったが、息子が廃品回収に訪れると、缶ジュースを下さるという若いのに昔ながらのつきあいのできる青年であった。ご家族もみな温和で、家族で仲良く行動をされている姿は、我が家にはなく、憧れの家族でもあった。もちろん内と外は違うだろうという意見もあるだろうが、今の人々にはない控えめで、常識をわきまえている家庭であった。それを象徴するように、葬儀後の精進落しでは、悲しみにくれるにもかかわらず、青年の弟さんたちが「お世話になりました」と真っ先に隣組の席を注いで歩いた。できることではないし、最近では悲しみにくれていない葬儀(言い方が悪いかもしれないが、往生された方の葬儀など)でもなかなか見ない光景である。若くして亡くなっただけに、大勢の友人がかけつけた。それだけに悲しみもまた湧くにちがいない。

 青年は心の病に病んでいたという。近くにいながら、なかなか知ることもなかった。家族仲良く、憧れるような家庭であるのに、そしてお嫁さんも迎え、家族で山にも登っていたのに、そこには周りでは解らない悩みがあったのだろう。時代は親殺し子殺しがまったく珍しくなくなったものの、はたではそうした家族へつめたい声が飛ぶ。しかし、どれほどそんな世界と無縁な家庭にも、深い悩みがあったり、悲しい事件があったりする。周りにはまったく解らない世界であって、簡単に言葉に表すことなどできないほど世間は、そして人は病んでいるような気がする。ただでさえ、近隣の地域には何も期待できる時代ではない。もちろん世の中、行政はもちろんさまざまなかかわる人たちに頼って頼れる時代ではないことはみな知っている。このごろ「結い」という言葉が取り上げられるが、あくまでもこの関係は無報酬の助け合いであったが、今はどれほど近しい関係であっても、背景では金銭的清算が求められる。それを悲しむこともできないし、それが現実の世界である。みなそれぞれの生活を全うすることで精一杯な状況なのだ。そして、では家族に何かを求めようが、家族もまたみな忙しく日々をおくる。「何かできただろう」「何かすることがあっただろう」とは、あとで思い悩むことではあるが、それを実践できないのがこの世の中の現実である。余裕がないという一言に尽きてしまうのだろうが、なぜもこう病んでいる関係ができあがってしまったのだろう、などと考えてしまう。

 心の病というと、我が家も紙一重の世界にいる。問題が派生すると、日々の早さに何ができるだろう、などとそのときは思うが、「早くしろよ」と背中を押されているから何もできずにいる。人のこころの中になどうかかわっていくのか、病んでいる世の中を思いながらも答えはなかなか見えない。家族が家族としてなかなかうまく暮らしていけない病が、あちこちに見え隠れし、ますます地方は病んでゆく。同じくこころの病で娘さんを亡くした男性は、青年の父親に「後ろを向いてはいけない」「前を向いていかないと今度は自分たちがまいってしまう」と声をかけていた。確かに周りの人たちは支えになっている。にもかかわらず、実はそれを口に出せないでいる社会がある。とはいってもそのまま常に支えようとしても、うまくいかないことの方が多い。いかに読みとっていくのか、そんな彷徨いの世界に、わたしたちは入っているようだ。
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物と人の交流②

2008-08-26 22:05:13 | 民俗学
物と人の交流①より

 「物と人の交流」といっても多様である。経済至上主義社会にあって、まさに物の交流が国の豊かさに表れる。オリンピックが終わったが、これもまた人の交流であるとともに、どれほど批判があろうとも国の力を誇示するためにメダル獲得のために国も支援する。国という名の下に競い合うのだから、ではその国とはどういうものかということになるが、国籍によって判断される。高校野球において、他県の出身者を集めて甲子園にやってくるチームがあっても、これはあくまでも学校チームであって、県代表チームではない。ところが甲子園にやってくると、学校というよりは県という看板を背負っているような注目を集める。多国籍人種でない日本という国、また県も含めた地域のこれまでの経緯がこうした地元意識を育ませるのだろう。オリンピック代表チームが、もしすべて帰化した人たちで編成されていたらどうだろう。気持ちの中ですんなり受け入れられるかは疑問である。そして、そうした関係が普通ではないと認識させられるのは、個人種目で帰化してまでオリンピックに出るようなアスリートがいないことだ。環境に恵まれているからといってケニヤのワンジルが仙台育英高校を出たからといって、日本代表ではない。お国意識という場合、国は国内では県の枠になる。あえて日本人は地域意識の強い国民といえるだろう。大きくも小さくも、それぞれに地域枠を認識し、常にその枠を広げたり狭めたりしている。果たして物と人の交流という評価基準にもなりうる世界の視点を、民俗学はどこに置いているのだろう。

 『日本の民俗』3巻「物と人の交流」(吉川弘文館2008/6)では、「市と行商」において農山漁村を主眼におきながら物を求める側と提供する側の経緯を踏まえた上で現代の市とこれからの市を想定している。一つ目が求められて成立した交流だとすれば、二つ目として「招かれざる客」という捉えかたで「旅と観光」について触れ、民俗学者は柳田や宮本のように観光を体験する必要があるという。三つ目の「異文化の交流」では全国に100万人いるとも言われる朝鮮系住民の意識から、異文化には民族文化と設定するのではなく、「生きる方法」としての民俗をめぐる差異と交流に目を向けなくてはならないと説いている。異文化と交流するという視点では差異はあたりまえということになるだろう。むしろそれぞれが生きるために民族の材料を選択していることの方が民族的アイデンティティの違いよりも大きな意味を持っているという。

 市・観光・異文化という三点の交流現場において現代に生きる方法を探ったということになる。交流の現場ということになれば、この三点以外にもさまざまなものがあるだろうが、あえてこの三つの現場に視点を当てたというところに意図があったのだろう。その根底には、柳田にしても宮本にしても民俗学の旅に出ていたというところにあるのかもしれない。そもそも民俗学そのものが交流の現場で見出されてきたものだったといえる。

 続く。
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物と人の交流①

2008-08-25 22:38:35 | 民俗学
 吉川弘文館がの6月から刊行を始めている『日本の民俗』は13巻まで刊行される。案内にはこう書かれている。「民俗とは過去の遺物ではない。現在もなお命を保ち、変化しながらわれわれの暮らしの中に息づいている。「現在」を意識しながら、なぜ今ある形や民俗が形成されてきたのかその意味を問い、新たな役割を発見。日本各地の多様な姿を取り上げ、食や環境など今日われわれが直面するさまざまな課題にメスを入れ、現代日本の暮らしのあり方を見つめなおす」という。「激変する現代社会を生きる知恵を学ぶ」というのが目的のようだ。過去から伝えられてきた事象をもとにその意味を問いかけるとともに、現代人の行動に生かそうという狙いは、前述した「村とは何か」でも触れた6巻『村の暮らし』(7月刊)からも感じ取れた。そしてその最初に刊行された3巻『物と人の交流』(6月刊)でも根底にその意図がにじみ出ている。現代社会に生かされるべき内容があることは確かであるが、だからこそその視点が確かなものなのか、現代社会に生きるものとして考えてみたくなるのだ。

 交易という部分は、現代においてはよりいっそう人々に激しさを与えている。もちろんかつても交易がなかったわけではないのだが、人の動きのスピード化は、おのずと多くの交流を生む。そういう意味では交易・交流の変容はこの半世紀に大きく変わってきた。そう思っているわたしは車こそ時代を変えたと思い込んでいるが、『物と人の交流』において川森博司氏は、柳田國男や宮本常一がたどった旅から半世紀以前の変化をわかりやすく説明している。宮本が『村里を行く』に著したバスに関する記述から、「一九二○年代の柳田國男の旅の時代には、人力車か、そうでなければ歩くしかなかった山間部の村々の間を、小さな満員バスが移動していく様子が実感を込めて描き出されている」と述べ、「宮本の民俗学を支えた「歩く旅」は、バスによる移動と組み合わされて、柳田の旅にはなかった広がりを持つようになった」とその違いについて触れている。柳田が旅をした20世紀初頭は人力車が大きな役割をもったと柳田自身が評価している。しかし、宮本の時代は全国にバス路線網が発達していく時代だった。宮本が旅をする時代には、すでに主な汽車の路線は出来上がっていた。今でもそうであるように、軌道というものは専用道路だから、車のように誰でも通れるという空間ではない。したがって自由自在というわけにもいかないし、一定の骨組みができてしまえば、それ以上に発展していくわけではない。そこへゆくとバスは道さえできあがれば、あとは自由である。とくに道の整備が広がるとともに、バス路線も山間奥地へと展開していった。柳田と宮本の旅の環境は大きく違っていたわけである。そう考えてみると、旅人宮本はよき時代に生きていたということになる。いまやバス路線はことごとく廃止される方向にあり、とくに山間地域にあってはとっくに廃止されている路線が多い。このごろは残っている路線ですら廃止という流れが、長野県内でも聞かれる。もちろん宮本の時代と違い、今は自家用車というものがあって、もっと自由な行動ができる環境があるが、宮本が、そして柳田が歩いた時代と違う(人の考え方)のは言うまでもないし、加えて自家用車では、満員バスの中で見えるもの、汽車の中で見えるもの、どちらも体感することはできないわけである。

 「柳田の旅の視線は、個人の悲しみの領域に焦点を合わせている。このような側面には、通りすがりの聞き取り調査では触れることができない。「黙って笑うばかりで」話をしてくれなかった旅館の細君は「通りすがりの一夜の旅の者には、たとい話して聴かせてもこの心得は解らぬということを、知っていたのではないまでも感じていたのである」というように、柳田は話をまとめている」と川森氏は言う。そして「旅人の限界をみるとともに、旅でしか触れ得ない可能性の部分も同時にみることができる」というように、あくまでも旅人であって、住んでいるわけではないから、そこには限界というものが現れる。その限界を認識したうえで、どう旅人は捉えるのか、そんな視点を持ちえることが本当の旅人ということになるのだろう。

 スピード化した現代において、よそ者がいかに旅人になり得るか、また受け入れる側が接するか、このあたりのあり方を少しばかり考えてみたいものだ。

 続く。
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オリンピックを終えて

2008-08-24 20:18:59 | ひとから学ぶ
 いよいよオリンピックも終わる。アメリカの放映時間に合わせて午前中に行われた水泳の決勝。36個の金メダルのうち一人で8個も獲得した種目なんだからそんな調整があっても、金がものをいう五輪である以上仕方のないことだ。確かに五輪五輪とみながテレビ観戦となるが、中国の金メダル大国化に対して異論も多い。「金でつかんだ金メダル」などというのはとくに中国で開催されているだけにそう言われてしまう。ところが、金でメダルの数が決まるのは今に始まったことではない。日本もこれまでの経過から世界で戦えるアスリートには十分に金をかけている。そういう意味ではそんな金のことを気にしなくてもよいプロ選手にとって五輪とは何なのだ、ということになる。プロにしてみれば五輪は最終目標ではないはず。プロはプロとしての考えがあって仕事をしているわけだ。そういう意味ではプロが加わるというのは、アマチュアが混ざっているいる以上公平ではない。ということで、メダルの数を目標として掲げるのは良いが、少なかろうが多かろうが、あくまでもそれぞれの五輪に対する思いの結果である。

 別の日記で五輪野球チームについて何度も触れてしまったが、本音のところを口にして欲しいとも思う。なぜあれほど金縛りになってしまったかと。これを無言のまま終わらせたら、日本のプロは今後も野球に限らず五輪で同じことを繰り返すのではないだろうか。プロとして五輪とは何か、そしてプロ野球の選手として五輪とは何か、それを答えて欲しいとも思う。でなければ、これほど国民に期待を持たせて置きながら、プロとして「力がなかった」では済まされないはずだ。「アマチュアの権利を奪ってまでプロが出たんだから・・・」という意見も多い。五輪に野球を復活するのは、メジャーが出場するのが条件だなどというIOCの意見もあるという。これも当たり前のことで、五輪こそナンバーワンという称号をIOCにしては当然の意見だ。しかし、果たしてメジャーリーグにとって五輪がナンバーワンと言えるだろうか。もちろんそれはWBCも同じだ。国の威信といって戦うかもしれないが、あくまでも余興的位置づけであることに違いはない。プロは日常のシーズン戦が第一の場なのである。したがって五輪イズナンバーワンにはなり得ないのだ。このあたりを考えてくると、五輪にメジャーリーガーが出場することを条件に野球を復活させるなどというIOCの口車などに乗ってはいけない。もうずっと五輪に野球が復活せずとも、自分たちがプロとして何をするべきか、という信念を貫いて欲しいとも思う。

 4年に一度しかない五輪だからこそ、ふつうのアスリートはその場を待ち望んで日々を努力する。4年という長い期間の中を漂い、たったわずかな時間で勝敗は決する。もともとプロ野球とはあり方が違う。4年間アスリートにとっての最高峰の場にかけてきた人たちと、たまたまある五輪の場に登場してきたプロ野球、あるいはプロサッカー選手では同じ土俵ではないのだ。JOCの意見として、特別扱いであった野球に対して前提として選手村に入るべきだった、というものがあった。意外にこんなところは国民は認識していない。4年間町に待った選手と、特別扱いされてたまたまやってきた選手が、どれほど違うか、野球の出場にかかわった人たちは何を考えていたのだろう。これでもって、「予定通り金メダルを獲得した」などという軽い言葉を聴かなくて、本当は良かったのではないだろうか。そういう意味では男子サッカーにしても野球にしても、たいへん良い結果であったとわたしは思う。「オリンピックをナメルな」ということである。

 予断であるが、野球において金メダルを獲得した韓国チームに対して敬意を表するとともに、日本国内では盛んに「兵役免除」のおかげみたいなことを報道しているが、兵役ごときで目の色を変えるようでは国が滅ぶ。わたしは日本の選手へのあてつけにしか聞こえない。
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消耗品

2008-08-23 22:57:55 | つぶやき
 パソコンにしてもデジカメにしても最近の電化製品のたぐいは消耗品ととらえている。もちろん長く使えればそれにこしたことはないが、いずれにしてもメカニカルというよりは電子部品の組み合わせという感じだから部品がなくなれば修理もできなくなる。さらに機能向上があるから10年後に使えるとは限らない。そんなこともあってコンパクトなデジカメは仕事でも自分のものを使っている。現場に行くからリスクもあるのだが、万が一的な現場では会社の数少ないものを利用しているものの、そんなことはめったになくふだんは自分のものを持つ。なぜ自分のものを持つかといえば、けっこう仕事外のものを期待しているからだ。年老いてきてボケてくると、その場で感じ取ったものは、その場で処理をしておかないとすぐに忘れてしまう。それを補うためにも感じたものはその場で納める。もちろんそれはモノを捉えた写真だけではなく、新聞であったり、資料の一部であったりすることもある。実際は車で移動し、現場で仕事をし、また車で次ぎへという中では、そんな余裕もなく、そんなプランどおりの使い方をすることはめったにないのだが、持ち歩いていなければ、もしもの時に何もできない。仕事でも車でなく違う移動手段であれば、思うこともたくさんあって写真にする対象もたくさんあるのだろうが、やはり運転しながらそんなことを考えたり、行動することはできない。もちろん場面も少なくなる。

 ということでマイカメラは常に持ち歩くことにしている。自分の中では故障があっても消耗品という意識であれば気が楽だからである。まあ数万円程度という金額からくる意識かもしれない。

 このごろパソコンが2台同時に故障した。少し高額であるが、こちらもわたしにとっては消耗品という意識を持っている。時を経るほどに価値の下がる時代だけに、今使わずにしていつ使う、ということになる。使わずに床の間に置いておくようなものはわたしにはいらない。だから使ってなんぼなのだ。一日の時間は24時間と限られている。本当なら仕事でもプライベートでも同じモノを使った方がロスもなく、加えて日々価値の下がるものは使い切るにこしたことはない。できれば仕事でも使いたいところだが、そうもいかないのがこのごろのセキュリティー問題だ。だから仕方なく会社では会社のもの、自宅では自分のものということになる。それでも意識は使い切るというところに置いている。そんなパソコン、わたしの利用の仕方が悪いのかトラブルが多い。今回も1台は急にランがつかえなくなった。ちょうど落雷が激しかった日からだから落雷が原因なのか・・・。しかし、いくつもパソコンがつながっているのになぜこのパソコンだけ?という印象もある。それをきっかけに高額な修理費が見積もられた。買うよりは安いが、へたをすれば安いパソコンが買える金額である。いまやパーツごとブラックボックスのようなものだから、パーツさら交換というのが修理を早急に行なう手段である。ある会社は修理のスピードで売っているが、考えてみればパーツをそっくり交換してしまった方がそうしたニーズには応えられる。ところが金額がのすことになる。このあたり、実際いくつもの会社を比較したわけではないから正確なことは言えないが、一概に速さだけでサービスが良いというものではないということになる。その1台は、本日修理が終わり届けられた。

 さてもう1台の修理に出されたパソコンは、いまだ何も返答がない。同じ日に2台引き取ってもらったからその後の対応が比較できる。こちららはまったく原因がわからない故障である。ソフトの起動中に別のソフトのアンインストールをかけたのがいけなかったのか、せっかちなわたしにありがちな操作である。果たしていくら請求されるか、今からショックを受けないように気持ちを落ち着かせておかなくてはならない。
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コンクリート水路のツメレンゲ

2008-08-22 23:30:24 | 自然から学ぶ


 JR飯田線高遠原駅のすぐ南側にコバノギボウシの姿が見える。それほど珍しい花ではないが、それほど頻繁に見る花でもない。伊那市富県の貝沼の幹線用水路の脇にもこのコバノギボウシが咲いていた。高遠原駅でみかけたものに比べれば株の数は少ないが、広がる水田地帯の中ではその株が少なければより目立たない存在となる。このコバノギボウシは、ムラサキ色の花を咲かせているから気がつくかもしれないが、そのすぐ近くのコンクリート水路に、ツメレンゲが生えていた。まだ夏季ではないだけに、その姿はコンクリートや石垣の色に同化していて、意識して見なければ生えていることすら気がつかない。

 この水路、近く改修されるというが、その端にある宅地の石垣にツメレンゲはたくさん生えている。石垣の間にたまった土、あるいはへばりついたコケに根付いて生えてくるから、意外と人工的な構造物に生えていることが多い。以前にも松川町の天竜川宮が瀬橋のたもとにある小屋の屋根に生えていることについて触れた。わたしの記憶の中では、人工構造物に生えている姿しか見たことがない。ところがこのツメレンゲが準絶滅危惧種というのだからちょっと不思議な感じさえする。写真の株はコンクリートで造られた水路の脇、それも脇のすぐが道路になっていて、アスファルトで舗装されているのに、わざわざ生えてきている。みごとな株で大きな花(とはいっても見た目には花と気がつかないほど小さいが・・・)が咲くのだろう。あたりを探してみたが、水路内にニョキッと生えているものは、数株で、脇にある石垣が主な自生地のようだ。地元の方に聞いてみると、石垣の方が水路より後にできたものという。「あのあたりは皆シンヤ(新屋)だから」というように、分家して出てきた人たちが住んでいる集落のようだ。水路は昭和30年から昭和40年にかけて行なわれた三峰川総合開発で造られたものだから、それ以降にできた石垣ということになる。だいぶ波をうっていて、不安定な石垣だが、そんな石垣にツメレンゲがたくさん姿を見せている。

 これまでにも触れてきたが、ツメレンゲを食草といるチョウにクロツバメシジミがいる。ツメレンゲがたくさん生えていると、飛んでいるチョウが気になるが、ここではチョウの姿はなかった。『伊那市史 自然編』を開いてみるが、「ツメレンゲ」という記述はまったくない。頻繁に見る花ではないが、市町村史だからといって必ずしも網羅されているわけではない。発行年次の古いものの自然編は現状を把握した上で作られたもはむしろ少ないかもしれない。自然編に限らず『伊那市史』は既存の発行物を引用して作られた部分が多い。それほど古い本ではないが、近年の様子を把握するには期待できない本である。
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鉄道敷のキキョウ

2008-08-21 22:41:32 | 自然から学ぶ


 毎年たくさんキキョウが咲く飯島町本郷のため池を、盆に生家を訪れた際に遠目に見たところ、今年は紫色が少なく見えた。どういう影響かはわからないが、秋を迎える季節には、行く夏を惜しむような花である。絶滅危惧種と言われるものの、あまりそういう意識にならないのは、家々の庭でも咲いている姿を見るからだ。しかし、野でキキョウを見ることは大変珍しい。残念ながらほ場整備が行なわれた空間ではまず見ないし、そうでなくともこの半世紀以上手の加えられなかった水田の土手でもキキョウを見ることはほとんどない。そんなキキョウを飯田線の伊那本郷駅の北側の踏切の近くに、電車の窓越しに見つけた。たった数株なのだが、藪と化した雑草の中に、紫色の花が目立ったのだ。丈が長く、そこそこの大きさの花を咲かせるキキョウが、雑草の中に咲いていればすぐに目につく。その窓越しに見つけたキキョウを盆に生家に帰った折に、近くまで行って確認してきた。以前からも触れているように、鉄道敷きにはこうして今では珍しくなった花がけっこう咲いている。「ブタクサとワレモコウ」で触れたように、あまり手の加えられなかった水田地帯で、かつ開発がじわじわと進んできた空間には、昔からの植生と新興の植生の両者を見ることになるが、鉄道敷きは意外と新興の雑草は少なかったりする。もしあったとしても、それは鉄道がもたらしたものというよりは、隣接する道路を介してのものではないかと思えるほど、鉄道敷きの方が環境変化は少ない。

 鉄道脇でブタクサやアレチウリといったこのごろ話題の外来植物をあのり見ない。そういえば日本にやってきてすでに長い歴史のあるニセアカシアの姿も少ないことに気がつく。人工の空間だからといって外来のものに駆逐されているわけではないのである。とそんなことを印象としてもったことから、数日乗車区間の鉄道敷きの様子をうかがってみた。大田切駅の西側にはたくさんのブタクサが花を咲かせているが、どう見ても鉄道がもたらしたものというよりは、その向こう側の盛土の際にやってきた雰囲気だ。

 とはいえ、鉄道草といわれ、鉄道が開通していくとともに全国に広がったヒメジョオンがあるから外来生物をもたらさないというわけではないが、それをくつがえすほどこの空間には昔ながらの花が咲いていたりする。

 キキョウがこうして見かけられるのは、わたしの認識では、飯田から伊那市駅の間で前述した伊那本郷駅近くのものと、大沢信号所の北側、相の沢川の鉄橋へ迂回する西側の荒れた畑の中だけである。
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盆正月

2008-08-20 12:46:25 | ひとから学ぶ
 この8月17日、明治時代から行なわれているという盆正月の行事が上伊那郡南箕輪村田畑で行なわれた。ムラの若い衆(かつては青年会が、なくなるとそのOB、今は30代から40代の有志で作る「伝統を守る会」)が、盆休みをもう一日欲しいといってムラの三役の家の玄関先に正月飾りとともに家を出られないようにバリケードをするというものだ。玄関先には石灰で「お正月」と地面に書かれ、ようは今日は正月ですよという意味になる。

 この盆正月の行事をかつて訪れたことがあるが、当時と飾られるものにそれほど変化はないようだ。基本的に正月飾りをするのは昔から慣わしのようだ。農休みを延長するように求めて「農正月」という盆正月と同じようなことをした地域が、伊那市美すずや旧長谷村にもあったようだ。休みが欲しければ「正月」を倣うというあたりが楽しい発想である。そういう楽しさからゆけば、「伝統を守る」という解説ではつまらない。この時代にこの行事を実施している人たちにとってどういう意味があるのか定かではないが、今年などは17日が日曜日である。もともと休みなので「休みにしろ」といって正月を求めるのも違和感がある。いっそ18日にすればよいのにと思うのだが、そこはそれぞれが会社勤めの時代であるからそうはいかない。でもそんな楽しみがあって良いのではないだろうか。

 ちなみに農正月について長谷村の記録をみると、農休み二日目の夜、若い衆が相談して夜がふけてから、家々の立臼をころがして集めて、区長の家に積み重ね、それに松を切ってきて家々の馬の鞍から抜いてきた縄で縛り付け「農正月」という紙を張るという。馬の鞍の縄を引抜くことで、馬が使えなくなるというものなのだ。これを現代にあわせれば車のキーを盗み出して隠してしまうという感じだろうか。そんなことをしたらそれこそお縄に掛けられそうだが、そのくらいの冗談めいた社会が楽しくて仕方がない。

 田畑でも昔はウンソーの輪や馬の鞍、立臼といった農作業に欠かせないものが持ち出されたという。そのことを思うと現在持ち出されているものは決定的なものではない。もちろんそれが冗談を越えた形ばかりのものという姿を描いているからだが、今年のように日曜日ならともかく、平日だったら休む人はほとんどいないともいう。そのくらいならやっても仕方がない、という具合にはならないところが現代地方人のユーモアの無さかもしれない。かつて話を聞いた際にも、人によってはあまり関わらなかったという人もいて、必ずしも積極的に行なわれたということも明言できなかった。あくまでも伝統という名のもとに行なわれているが、もともとそう古い時代に始まったものでもないわけで、古にとらわれることなく変化しても良いのではないかと思ったりもする。



 写真は平成2年の盆に撮影したものである。

 ちなみに当時の田畑ではどこの家でもカンバを焚いて仏様を迎えていた。今年あたりは新聞報道でカンバが不足していて、いよいよ中国産のものが盛況だといっていた。もともとカンバを焚いたわけではなく、麦からを焚いたのだろうが材料不足もあって店頭に並ぶカンバに変化していった。さまざまな日本の行事の材料も、いまや中国のおかげで間に合っているわけだ。五輪を期に中国を叩く言動も多いが、それ以前に自らの暮らしを清算してみよう。
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ペンを持ち考える

2008-08-19 12:27:19 | つぶやき
 PC修理のため、四六時中PCを手元に置くということがなくなった。日記を書いていた電車内ですらPCがなければ手元が寂しい。そうはと思ってペンで少し気づいたこと、思ったことを記録しておこうとするが、PCを前にしているよりも文字が浮かばない。以前にボケについて触れたが、このところの忘れかたは昔の比ではない。会社でも家でも、そして公共交通機関での移動の際にもPC環境を維持できる環境なためか、文字を書くことはもちろんだが、ペンを持ってものを考える力がダウンする。PCのキーなら何かが浮かんでくるのにペンでは頭の中に霞がかかる。

 仕事がらPCを利用し始めたのはもう25年ほど前のこと。もちろん当時はドス版以前のものであったわけだが、当時は文書までPCという時代ではなかった。一般のものは手書きのもので、いわゆる計算機の延長といった方が正しかった。そのうちにワープロが登場することで、文書も活字化していったわけだが、昭和から平成という時代は、まさにPCではなくワープロ専用機の全盛だった。まだまだペンで下書きをし、ワープロ化するというタイプの代用のようなものであった。当然のごとく年輩の人たちはへたくそな下書きを出して女性に活字化してもらうという、今考えれば「なんと言う無駄な」と思うような作業が行なわれていた。若い人たちは年輩の人たちのように人に頼むこともできず、自ら活字化するのが通常だった。そのくらいなら直接ワープロに打ってしまった方がよいわけだが、若い人たちもなかなかそこまですぐに順応できることはできず、時間を要したわけだ。比較的早い段階でそうした時間をなくそうと思ったわたしは、下書きというものをせずに直接キーを打つようになったもので、そんな環境になってからも20年を越える。これだけ長い間まともな文を書く際にペンを持たなかったから文字が浮かんでこなくても仕方がないのかもしれない。というよりそこにボケも加わったせいか、ペンを持てば考える、という思考に至らないのである。駅に向かう道で、家のまわりの草を取っているとき、いろいろな考えが頭の中でまわるというのにペンを持ってもなかなか思考回路が動かない。歩いている際に浮かんでくるのは文字ではなく、言葉なのだ。考えることと文字というものは同じようでそうでないことが解る。考えたことを素直に言葉にすることができるということが実は難しいことだったのではないのか、などと考えてしまう。常に文字化してしまおうとするPC上での思考はいったいどこから生まれたものなのだろうと、自ら不思議に思ったりする。そう考えると若者がケイタイ小説を書くというのも解るような気がする。簡単に言えば慣れれば「そんな無茶な」と思うことも自然にできてしまうのだ。そんな人はむしろ従来の常識的な行動ができないということになるのだろう。地球上の環境変化を言うが、実は人間のほうがはるかに早い時間で変化していると思ったりする。なぜか適応しているが、それが人間のすごいところなのだろうが、果たしてその反動はどこに出るのだろう。

 さて、それにしてもペンを持っても手紙すら書けないというのもいけない。ボケ防止にペンを手にしてモノを書こう、などと強く感じる今日この頃である。
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盆踊り

2008-08-18 21:54:29 | 民俗学


 「盆休みに」で触れたように盆の間は新盆見舞いに家々を回る。新盆の家ではそうした見舞い客をもてなすためにご馳走をしなくてはならなかったが、最近はお茶を出すくらいで「ご馳走」という言葉も過去の雰囲気すらある。ムラの祭りでも客呼びをすれば、女衆はご馳走を用意するべく昼間から準備に忙しい。そして祭りといえば催しが何もないわけではなく、芸能がつきものである。わたしの生家のある地域では花火が揚がる。今でこそ花火は専門の業者に頼んで作られているが、かつては自分たちで花火を作っていたという。それだけに花火の出来不出来を批評するのが祭りの楽しみだったようだ。もちろんこうした芸能に携わるのは男たちだった。ということは女たちにとっては、楽しみがないわけで、あくまでも客をもてなすために働くのが女たちだったのかもしれない。生家でも祭りの日といえば、女衆は打ち揚げ花火を自宅で見ることはあっても、庭花火まで神社に見に行くことはあまりなかった。客が花火を見に行けば、その間に女衆は片付けに精を出したわけである。考えてみれば、女衆にとって祭りは必ずしも楽しいものではなかったのかもしれない。男たちは飲んだくれて、花火を批評していれば良いのだろうが、その間にも台所でいつもと同じように働く女衆は働いていたのである。

 さて、そんな祭りと同様に盆もまた、男たちは新盆見舞いに歩けば、女たちは里帰りした兄弟をもてなし、また新盆の家では忙しく働いたのである。今でこそ流行らなくなったが、かつてはどこの地域でも盆には盆踊りというものをした。その盆踊りは古の昔から続いているものではなく、近代に流行ったものである。このあたりなら木曽節や伊那節といった民謡で踊ったのである。そんな盆踊りも若い人たちが集まっては楽しんだものなのだろうが、家を守る女衆にとっては、必ずしも皆がみな楽しむというわけにはいかなかっただろう。盆という先祖を迎えまつるトキに、いっぽうでは楽しみの場が提供された。いや提供されたというよりもそういう場を望んだわけだ。これもまた子どもたちが分家もできないから都会へ出て行ったという現実と、盆だから里帰りをするというなんとも不思議な関係が築かれたからこそのものなのかもしれない。

 そういう意味では新盆の家を回っていく盆の行事は、女衆にとっても楽しむことのできるものである。写真は昭和61年8月14日に、下伊那郡天龍村大河内で撮ったものである。ここでは新盆の家を「かけ踊り」という踊りがまわっていく。そして新盆の家で踊り手たちを振る舞い、その後新盆の家ごとに盆踊りが踊られ、一通り終わると、また次の家へとかけて行くのである。家にいながらにして芸能を見ることができ、もてなしながら盆踊りの会場となるわけで、これほど利にかなった盆の風景はない。このかけ踊りは、盆踊りの旧態を示すものだという。ようはかつての盆踊りはこうして新盆の家を巡って歩いたわけである。
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盆休みに

2008-08-17 19:48:03 | つぶやき
 PCが壊れてサービスセンターを検索していると、こうした会社も「盆休み」とは言わないが「夏休み」で休業している。けっこうこの期間に休業している会社は多く、田舎だけの「盆」ではないことが解る。高速道路がこの時期に正月並みに混雑するところをみれば、今や正月と同等とは言わないものの、盆という期間が国民にとっては休日というイメージになっている。そのいっぽうで、お役所は盆の時期でも暦どおりにやっている。この時期には「留守番」などという言葉も出るほど、一般的には休業イメージがあるにもかかわらず、お役所は涼しい部屋の中で営業を続ける。「家にいるより涼しいから」などといって留守番を選択する人たちもいるというのだから、果たしてそんな暇な人たちのために通常業務をする必要があるのだろうか。

 先ごろ明日から盆という日の夕方、役所から電話がかかってきてすぐに仕事をやって欲しいという。冗談ではない明日から休む予定なのにそれは無理だと言うが、「なるべく早くやって欲しい」という。期日を指定してくださいといっても明言しない。このあたりからしてうまいもので、こちらにその日を先に言わせようとする。役所の人たちはこういう人たちが多い。それができないのなら仕事はやらない、ということなのだろうが、もともと仕事に命を懸けているわけではないからそんなことを気にしないようにしている。それでも律儀な方だから一応盆休み後の余裕をみて回答すると、やはりという感じに納得していないようす。口には出さないが盆中に成果を求めているようだ。もちろんこちらも納得はしない。あらかじめそういう約束ならともかくそうではない。盆明けの予定も詰まっていて、本当ならもっと猶予が欲しいのに、気を使って口にした期日が納得いかないというのだから、もともとわたしの仕事じゃないから、嫌なら仕事はお返しする。そこまでは至らなかったが、しぶしぶ納得してもらった後、元受からいきなり上司に電話がかかってきて、「早くしろ」ということらしい。盆には盆にしかできないことがあるのに無理をいうものである。

 実は、わが社には盆休みというものはない。だからこんなやり取りになる。とはいえ、こちらにも予定があるのだからそう簡単に予定を変えて盆に出てくるというわけにはいかない。そんなことがあって言いなりにはなりたくないが、少しばかり気を使って仏様を送る16日、だれもいない会社へ向かう。誰もいない会社の方が留守番と錯覚して会社に来ているような輩がいないから、仕事もしやすい。役所の仕事を引き受けている会社だけに、こんな季節は休業にすれば良いと前から思っている。もちろん役所だって正月のように旗日にすれば良いのにと思うが、そんなことを言う人はいない。

 盆の季節は新盆見舞いにたくさんの家を回る人も多い。地方はそれが当たり前のように行われている。そして都会からはそんな仏様を参りに里帰りする人が多い。これほど多様化した時代でも繰り返し行われている。それでもこの13日、親戚へ新盆の見舞いに訪れると、都会に出た顔はあまりなかった。だいぶ新盆の供養も廃れてきた、というよりも無理にその時期に訪れるというほどのこともなくなったようだ。長子ではなかったわたしには、それほど家の付き合いもなく、同じ日に新盆の見舞いにあちこち回るということはないが、地方にあっては盆という期間は忙しい時期である。

 新盆の席で親戚と顔を合わる。こんなことでもなければめったに顔を合わせない人たちとも宴席で同席し、これがもしかしたら今生の最後かもしれないと思われるような人たちと会話を交わす。葬式で顔を合わせたときもほとんど挨拶も交わさなかったおじさんと話をする。同じように葬式では遠くに座っていて一言も交わさなかったいとこともずいぶんと昔話をした。これが盆だと強く認識できる一日だった。亡くなった者にとっても、そんな昔話のために親戚の人たちが集まってくれたことを喜んでいるだろう。悲しい時代になった。だからこそこぞって地方をめざしているこの時期を、国民の休日にするべきだとわたしは思う(もちろん盆の時期が異なるところもあるだろうから異論も多いだろうが)。
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