Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

無策

2008-07-31 20:07:56 | つぶやき
 WTO交渉が決裂したという。決裂の原因は日本ではなく、中国・インドといった国が自国の貧しい農業の現実を踏まえてのものだという。その原因国が日本でないというところに、日本の国内事情というか、農業だけを保護できないところにあるのだろう。与党自民党内においても、(1)重要品目8%を確保し、代償措置も認めない(2)低関税輸入枠がない品目でも重要品目にできる――の2点の死守といきまく人たちが多い。もちろんのこと野党側では「自民党議員からは、納得できなければ、まとめなくてよいという発言が出ていたはずだ。その方針を貫くべきだ(共産党の紙智子農水部会長)」と合意案を拒否するべしというように中国やインドの対応に寄っている。にも関わらず直前まで合意に向かうと思われていたほど、日本側の強い意志はなかったようだ。先に示したような自民党内での絶対阻止という内容とはほど遠く、「重要品目数で、日本は全品目の「原則4%」を受け入れる一方、代償付きで追加できる品目を2%から4%に増やす方針で、ぎりぎりの交渉を続けた。低関税輸入枠のない品目を重要品目に指定できるかも焦点に」というぐあいの報道が見えた。ようは交渉は交渉にあらず、相手側(農産物輸出国)の要求を聞きにいったようなものなのだ。

 決裂したことでひとまず先延ばしされたことになったが、この交渉には終末はなく、永遠に続く。どれほどコメが重要だといっても昔から交渉のたびに話題になってきたものである。ということは日本の国内事情からすれば見えていた問題であり、その予測に沿って政策が対応を怠っているから、交渉のたびに農家を落胆させることになるのだ。重要品目に指定されていても、関税額は引き下げられていく。さらには低関税による輸入枠というものがあって、その枠が広げられていくから、しだいにコメの輸入量は増加する。コメ以外のものはもちろんであるが、需要な生産物であるコメですら、の将来は危ういということになる。そもそも人口減少、コメ以外への主食の変化、身体を使わない仕事が主流になって消費量も減少、とくればコメの依存イメージは低下し、その背景ですら気にもしなくなっている国民である。食料自給率が低いといっても、だからといって高い食料へ簡単に手を出すものでもない。これほど自給率が低いと認識されてきていても、さらなる低下を招きそうな動きを阻止する動きは強くない。ようは工業輸出国である日本にあって、どちらを優先させるか、というところで、常に工業輸出を優先してきたといことであろう。誰でもそうだが、対外的な部分は優先せざるを得ない。家庭内の問題は先延ばしができるという印象を誰もが抱いているから、この国の政治は農業を潰してきた。果たして民主党が政権をとったからといって、この問題は容易にはいかない。ただし一度農業政策を野党に任せてみたらどうだろう、などと思ったりする。

 いまや水田の転作は約4割というのがこの地域での常識である。その転作された水田に転作田を示すカードが立てられる。地権者がそれを明示することで、お役所が転作確認をする。「ふーん」程度に聞こえるが、こうしてカードを立てること、そして確認をすること、その手間は計り知れないほど大きいと思う。それを毎年毎年やっているのだから、やっている側は「仕事」だと思ってやっているだろうが、こんな無駄な仕事はない。そんなことをしなくても良いように自己申告を信用するか、転作に対する政策を辞めるなどさまざまあるのだはないかと思うが、はた目からの勝手な言い分なのかもしれない。
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畦畔管理

2008-07-30 06:39:54 | 農村環境
 丸裸にされた畦畔は青々とした水田にけっこう似合うものだ。しかし、それを似合うといっていると、生態系多様性にはそぐわない。土手草の管理が大変だということで、グランドカバー的に花を植えるというところも多いが、必ずしも長続きはしない。花にしても無管理では枯れてきたり、違う植生に追われたりする。したがってもっとも手のかからないスタイル、ようは適度にいい加減な刈りかたを行うのが多様性に配慮した管理ということになる。ところが草の刈りかたというのも人それぞれである。丸裸に絶えず刈り払い、きれいに草を片付ける人は、景観的にはかなり評価されるだろう。なにより冒頭で述べたように、水田に管理された畦畔の風景は似合う。

 先日も触れた段丘崖に暮らすおばあさんは、土手草を手鎌で刈っている。手で刈るから根元から刈ることはない。地面の上10cmほどは残っているから、刈ったあとも草刈機で刈ったものより爽快さには欠ける。しかし、手で刈るから残したいと思う株は残すことができるし、そこそこ草の丈が伸びていたりするから、地を這うような草に席巻されてしまうことはない。ようは前者の場合は丸裸にしてしまうから、芝が土手を覆うことになり、他の植生は消えていく。したがって丸裸な畦畔は、最も単一化した植生を展開することになる。ただし、畦畔の強さということを考えると、芝化した畦畔は安定している。天端ばかりではなく、傾斜法面も芝化すると、かなり崩落への抵抗は強くなるだろう。それに比較すれば、いわゆるグランドカバー的に花を植えると、明らかに畦畔の表面は柔らかくなるととともに、それらに覆われた土の中にミミズやそうした空間を好む虫たちがやってくる。するとモグラにとっても餌にありつけることから畦畔はますます弱くなる。見た目は良いかもしれないが、グランドカバーで畦畔を覆うのは、草も刈らずに放置された空間よりも不都合は多くなるといってよいだろう。もちろんグランドカバー化したとしても、その合間を縫って草は生えてくる。そうした草を抜き取る管理は、草刈りよりも大変なことは言うまでもない。

 丸裸にされた畦畔の法面に茶色くなった刈られた草が放置されたままになっている姿もよくみる。除草剤を撒かれて茶色くなっている畦畔よりはましだろうが、放置されたままの畦畔はそうした枯れ草の下が温室状態になり、やはりミミズがやってきたりして表面はもろくなる。ちまたでは大雨が降ると農地の災害なるものが発生したりするが、かつてに比較すると、ほば整備などか進み畦畔そのものが強くなっていて、簡単には崩れない。しかし、それでも崩れるような場所は、もちろん土質など天災的なものもあるだろうが管理によって防げるものもある。たとえば畦畔が弱くなるような管理をしておいて、崩落を起すなんていうこともなくはない。れでも災害復旧として国から補助はもらえる。そのいっぽうで、狭い空間で手入れが行き届いていても、その要件にそぐわなければ補助はもらえない。段丘崖で手入れされているおばあさんの農地は、そうした事例に値するかもしれない。そんなところにも政策の間違いがあるとわたしは思う。
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変化のない舞台

2008-07-29 12:52:57 | ひとから学ぶ
 かつてはこれほど鬱蒼としていなかった。飯島町豊岡へ上る段丘崖の道は、本郷から飯島のマチへ向かう道である。下平釣竿工場や飯島木材の赤い屋根を背に、与田切川のつり橋を渡り、段丘崖の下までたどり着くと、そこからは急な道を登る。確かに周辺に木々はあったが、今ほど暗がりができる鬱蒼としたものではなかった。そういえば、かつてのこうした段丘崖の山は、遠くが透き通って見えたものだ。ところが今やまったく隔離された世界となる。防犯上思わしくないと言われれば確かにそうなのだが、それら山の木々は大きくなるばかりで、どうにも手のつかない状態となる。根元からばっさり伐ってしまわないかぎり、明かりは閉ざされたままだ。わたしの通学する道ではなかったが、この飯島への段丘崖を上る前に、伊那本郷駅から下平釣竿工場まで下る段丘崖の道を通う同級生もいた。この道は日陰道であるが、ここもまたかつては今ほど閉ざされた環境の道ではなかった。今ではその道を通う子どもも見なければ人影も見ない。

 そんな段丘崖の飯島への道を登っていたものの、いつのころか吊り橋が流され、橋が復旧するまでは上流500メートルほどの国道の橋を渡ったものだ。簡単には復旧しないから、最低1年ほどは遠回りをしていたのだろうがその期間の記憶は定かではない。豊岡の町営住宅から法面工事がされた脇の急な道があって、そんな道を降りて家へ向かったこともある。「あと少しです。もうひとがんばりです」と拡声器から流れてきた言葉を今も思い出す。ちょうど衆議院選挙のころで社会党の原茂の選挙カーだった。あのころのこの地域の選挙区は、落ちたり当選したりを繰り返す人が多かった。そんな拡声器の「あと少しです」という言葉を一緒に聞いた友人は、すでにこの世にはいない。かつてを懐かしむようでは、もうどこかその先に道が見えてきたようにも感じたりする。

 それほど昔と変わっていないと思うことがたくさんあるいっぽうで、本気で昔を思い起こすと、変化したものがたくさん目に映る。きっとこの地を拠点にして暮らしてきたからその変化にあまり気がつかないのだろうが、よそで暮らして戻ってきたりする里帰りの人たちは、きっとその変化を体感しているのかもしれない。昔は昔、今は今、それは事実なのだが、果たして懐かしむだけで生きてゆけるものでもない。下平釣竿工場も赤い屋根の飯島木材も今はすっかり姿が消え、かつての工場地帯であったその一帯は荒れた風景を見せている。確かにそれらが消えたのはずいぶん以前のことではあるが、わたしの記憶の中では、少しずつではあるがその変化していく過程が記憶にある。だからだろうか、「全く変化してしまった」と感ずる以上に、わたしの記憶の中では変わりつつある物語がつながっている。突然あの工場の姿が消えていれば、確かに大きな変化なのだが、日々どこかに意識しながら変化に接していると、気がつかないものなのだ。

 子どもの成長と言うのもまさにその通りといえる。ところが、思春期に至ると突然と変化を見せたりする。「何でこんなになってしまったんだろう」と思うほどの変化が、常々そこで見ている者にとっては大きな衝撃になるわけだ。そんな場合は、むしろ突然再会した方が衝撃は少なかったりする。日常では見えていても見えないもの、そして時おりでは見えないもの、そんな意識や感情が人と人との中にはおりまざって、それぞれの意見を見せる。奥は深いのである。
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日々の始まりと終わり

2008-07-28 12:27:15 | ひとから学ぶ
 暑い最中であるから、なるべく涼しい時間に働くというのは、農作業の基本である。だからこそ「昼寝の時間」でも触れたが、昼寝の時間にガアガアとやられるのは気分が良くない。とはいえ、明るくなったからといってすぐにガアガアやるのも、この時代は遅くまで寝ている人もいるから迷惑な話となる。とくに土日はそんな人が多いのだろうが、゜とはいえ、このごろの農村地帯のまだ明るくなったばかりの時間に人が農作業をする姿は少なくなった。これももちろんの話であるが、農業の衰退、機械化、多様化なども、おしなべて一様ではない農村の風景を描くことになる。

 朝、駅へ向かう道で挨拶を交わす人々は毎日同じというわけではない。こちらは同じ時間に通るが、相手が同じ時間とは限らないからだ。それでも畑で農作業をしている人々は、だいたい毎日に近いほど顔を合わせる。段丘崖の頭から降りる道は、木々が朝陽を遮断し、すでに暑さを増してきてはいるものの涼感を与えてくれる空間である。その周辺の小さな畑数枚は、その段丘崖の上にある家のおばあさんが耕作している。ほかの人が耕作している姿を見たことはないから、おばあさん一人で耕作しているのだろう。その畑を通りかかると、おばあさんの働く姿を毎日のように見る。もちろん道端で作業をされていると、「おはようございます」と必ず挨拶をしてくれるし、「いってらっしゃい」あるいは「おかえりなさい」と続けてくれる。畑は草もなく、よく管理されている。毎日のことだからこちらもどこか圧倒されてくる。この暑い季節ではあるが、必ず外で仕事をされ、わたしの帰宅時間はすでに日の短くなってきたことを感じさせる少し薄暗い時間帯である。わが母よりは年は少し上のようだから、大正末期から昭和一桁生まれだろうか。最後の昔を描き、また体験してきた世代ではないだろうか。

 段丘崖の頭ということもあって、畑はそれほど傾斜はないが、家の南側のかつて果樹園だったであろう畑は尾根の傾斜地である。道から少し離れているから、そこで働いている姿はわたしにはよく見えるが、舞台上のようなものでおばあさんから道は暗くて見えないかもしれない。家の周りの畑だから、耕作しやすい環境である。そんな畑に毎日おばあさんの姿を追いながら、わたしの毎日が始まり、終わる。それほどわたしにとっては大きな存在のおばあさんである。今時暑い最中とはいえ、そんな時間を避け、涼しい時間帯に畑で働いている人影は年寄りばかり。要するに暑さとか時間といった制約の中で要領よく働いているのは、その経験に裏打ちされた年配の方たちなのだ。わたしのそんな毎日に登場するのは、そのおはあさんだけではない。段丘崖への途上においても、かつて田んぼであっただろう水平畑で草をむしるおばあさんもよく挨拶を交わす一人、さらにはその隣のおばあさんはあまり挨拶は苦手なようだが、軽く会釈をかわしてくれる。それでもよい、わたしにとっては挨拶などどうでもよいのである。意識のどこかで会話が交わせれば、わたしにとっては毎日が始まり、終わるのである。今日もまた、1日の終わりを、会釈と共に「おかえりなさい」と言われ、まさに他人でありながら、息子のようにな自分を見送ってくれることを楽しみに駅を降り、帰路に向かうのである。
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ニホンジカの復活

2008-07-27 19:16:09 | 自然から学ぶ
 『信濃』(信濃史学会)の最新号の7号において、小山泰弘氏が「長野県におけるニホンジカの盛衰」について触れている。ニホンジカについては、先ごろも「ニホンジカの住まう景色」で触れたように盛んに問題視されている害獣である。害を被るから害獣ということになってしまうだろうが、被る側の考えだ。ニホンジカといえば奈良公園を思い浮かべるだろうが、あそこではシカせんべいなるものが売られていて、シカと人の接点にもなっている。そんなイメージでいるとシカはせんべいを食べているのか、などと思ってしまうが、ニホンジカは青物を食べる。青物がなければ木の皮を剥いで食べたり、落ち葉も食べたりする。

 飯田市美術博物館の木下進氏は、さきごろの芝平の見学会の折に、かつては犬が放し飼いにされていたことからニホンジカにとっての天敵が人里から遠ざける役割を担っていたと語っていた。盛んに話題になるだけにニホンジカの生息の歴史が耳に入るようになった。かつては生息していないといわれた天竜川西岸についても、最近はかなり目撃されており、事実わたしも高森町山の寺近辺で何度か目撃している。群れをなして活動すると言われるが、その際は単独行動だった。かつて生息していなかった、という表現はもともとそこにはいなかったもの、と捉えられがちだが、実はそれは間違いで、昔は生息していたが歴史上の一時期に姿を消したというのが正しい。そして一時期は絶滅危惧されていたというのだから、動物たちもそう簡単には絶滅しないということがわかる。そしてこの論考において、なぜニホンジカが絶滅寸前に陥り、また害獣と呼ばれるほどに頭数を増やしたかというところが述べられている。

 猪垣については木曽山脈の麓にあることを子どものころから認識していた。もちろん字のごとく猪を防ぐためのものという印象を持っていたもので、万里の長城のような背丈の高いものではないことから猪専用と捉えていた。もちろんわたしの子どものころは、木曽山脈側でニホンジカを見かけることはほとんどなかっただろう。それよりもニホンジカというものは近くにはいないものだという印象すら持っていたものだ。このようにわたしの認識では猪垣は猪を防護するべくものだったわけであるが、小山氏は河野齢蔵氏が「鉢伏連邦西麓の猪土手」(長野県史蹟名勝天然記念物調査報告五―1935)の中で触れた「猪土手には猪と鹿と狼を防ぐ目的があった」という報告から、猪ばかりではなく鹿や狼をも防ぐ役割も持っていたということに注目している。オオカミを放ち、ニホンジカの天敵とすることを口にする研究者がいるが、果たしてオオカミを増やしたからといってニホンジカが減るとは限らず、むしろ益獣は時には害獣にもなりうるということを述べている。ここから猪土手はオオカミを防ぐ目的もあったというもので、諏訪高島藩における元禄15年の記録にあるように猟師を雇ってオオカミの駆除に当たるということも行われたほど、オオカミ被害が顕著な時代もあったわけである。どれほど猪土手にニホンジカやオオカミを防ぐ効力があったのかは定かではなく、わたしの印象ではやはり猪防御という主旨であったのではないかと思う。いずれにしてもこれら遺構は江戸時代に造られたもので、その時代には小山氏の言うようにニホンジカを防ぐ目的も有していたとすれば、その時代も現代同様に害獣に悩まされていたということになるのだろう。

 そんな害獣に悩まされた時代を過ぎ、ニホンジカが絶滅寸前にまで減少した理由について小山氏は、次のように述べている。「明治中期から大正にかけての狩猟者の推移を見ると、明治から大正にかけて狩猟者の数は増加している。なかでも狩猟を職業とする職猟者ではなく、狩猟を楽しむ遊猟者の増加が顕著である。(中略)大正十二年に農商務省がニホンジカの捕獲禁止措置を講じたのは、あまりにも高い狩猟圧の影響で、狩猟獣そのものが激減してしまった結果、捕獲禁止にに寄って個体数の回復を図ろうとしたものであると考えられる」と述べており、明治以降の開墾や森林破壊といったもの以上に要因として大きいという。とはいえ、猟銃の所有者数は、現在と明治時代と比較すれば現在の方が多い。もちろん現在はさまざまな制約があって、所有しているからといって獣を自由に捕獲してよいというものではない。それに比較すれば、狩猟を職業としていた人々が多くいた時代には、獣にとって人間はもっとも危険な天敵だったといえるだろう。そこへ小山氏の言うような遊猟者が増加すれば、制限なく捕獲されていったことだろう。それが故の捕獲禁止令となるわけである。

 こうした狩猟圧が減じるとともに、開発されていた里山が荒廃し、木が増え、それらの空間に天敵であった人間がいなくなれば、獣たちにとっては生息環境が好転するのは必然で、そうしたなかニホンジカは明らかに増殖してきていたのだろう。

 さて、小山氏はこんなことを言う。「江戸時代の猪垣が築造された場所を見ると、伊那谷や塩尻周辺、八ヶ岳山麓など現在ニホンジカの被害に悩まされている地域と一致する」。そして、「生息域が江戸時代に築造された猪垣の線を大きく越えていないことは注目」できるといい、現在の状況は、江戸時代の野生獣類の個体数とほぼ一致しているのではないかという。江戸時代の害獣の存在と現在の害獣の存在が似ているというようにも捉えられるが、果たしていかがなものだろう。このあたりは歴史学の視点からも考えを聞きたいところである。

 よく山に食べ物がないから里に獣が下りてくるということを言うが、獣によっても違うだろうし、果たして現在の山に食べ物がないかどうかは疑問だある。かつて里山といわれるところは今以上に緑は少なかった。もちろん荒れ果てていたというよりは、管理され肥料として若木は採取された。そういう意味でも、一時的に獣が激減したことはき明白で、そうした記憶に新しい時代と比較してわたしたちは印象を口にする。しかし、歴史上にその様子をうかがっていくと、ふだんわたしたちが印象で述べているものと違うものが見えてくる。記憶に新しい変化だけを捉えることも不要とは言わないが、果たしてさらにそれ以前はどうであったか、ということを常にひも解く柔軟さが必要なんだと教えられる。
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電車内での物語

2008-07-26 18:29:31 | ひとから学ぶ
 間もなく降りるのだろう、ふだんは見ない顔だから通勤通学ではないおばさんが、携帯電話でどこかへ連絡している。もちろんこういうケースでは「いま○○のあたり。もうすぐ着くから」という感じの会話になる。郡境域に達してきて乗客は少ないから、その電話に対して気を悪くする人はいないが、乗客の少なくなった空間で、けっこう声が車内に響く。通路を挟んだ反対側に座っていたおばあさんは、珍しいものでも見るように、そのおばさんの方を眺めている。どうおばあさんに見えているのだろうか、などと思いながら、わたしはおばあさんの様子をうかがう。

 通勤でないたまに乗る大人の場合、けっこうこんな感じに電話をする人が多い。電車内で携帯電話をするのは禁止されていることを知らないのかもしれない。騒々しくなければ、そんな大人の電話の会話は、けっこう周辺に聞こえる。周りにいるのは高校生ばかり。もちろん大人もいるが、数は少ない。そんな光景を高校生はどう見ているのか。大人が電話しているから自分たちだって許される、と思うか、それともいまどき電話を会話する機械だと思っていないから、珍しい動物でも見るような感じなのか、もちろん無反応である。そういえば、電車に毎日2時間乗っているが、「車内では携帯電話のスイッチをオフにしてください」といった放送はめったに聞かない。地方のローカル線ともなると利用している人の顔は同じになってくるから、何度も同じ事を聞きたくない自分もいるが、たまに乗った大人には、いわゆる電車内のマナーなどほとんど認識にない。大人のマナーが悪いということになるから、くどくてもある程度そうした放送をすることを勧める。

 まもなく駅に着くと、おばさんは降りていった。実はちょっと暑苦しい感じだったので、最初は向かい側に合席していたが、空いてきてわたしは場所を変えていた。おばさんが降りたことで、場所としてはわたし好みの席だったこともあって、おばさんのいた場所に移動した。しばらくするとおばさんを眺めていたおばあさんが車掌さんとなにやらやり取りをしている。話の内容でおばあさんの降車駅はわたしの降りる駅と同じだと解った。同じだというところに親しみがあったのかもしれないが、その駅名は印象にあった。次の駅に到着すると、おばあさんは荷物を持って席を立ち上がり、歩き始めた。「どこへ行くんだろう」と咄嗟に頭に浮かんだわけであるが、その先はドアであり、外ではたくさんの中学生がドアの開くのを待っていた。「おかしいなー、確か○○駅と言っていたように聞こえたが」。そう思っているとドアが開き、降りる前におばあさんは、「ここは○○駅ですか」と中学生に聞いている。やはりわたしの降りる駅名である。ここで中学生が「違います」と言うと思っていたら、「はい」と言っているように聞こえる。その通りおばあさんは中学生の集団をかき分けるように降りてゆくのである。おそらく中学生には、おばあさんが何を聞いたかよく聞こえなかったのだろう。ドアが開いて、いきなり駅名を聞かれるなんていうのは想定外のことである。降りていったおばあさんが明からかに間違えていることを知り、中学生が乗り込む合間からおばあさんを呼び止め、「ここは○○ですよ」と確認すると、「○○じゃないんだ」と気がつき再び乗車してくれた。少し足腰が不自由なようで、間に合って良かったとこちらも安堵したわけだ。おばあさんが間違えたのは、車掌とのやり取りが少し長かったということもあるのだろう。駅が近づくと車掌はその場を離れていった。そして駅に到着だから、会話の時間がどれほどだったかということは、年寄には少し測りきれないものがあったのかもしれない。それとともに飯田線には少ない快速電車だから、停まる駅が限られる。それほど時短されるわけだもないのに、駅を飛ばしていくので、「あれもう○○駅か」と思うこともよくある。ふだん各駅停車が当たり前と思って利用している者にとっては、けっこうこの快速というやつ気をつけなくてはいけない。そして快速というからには早いはずなのだが、たとえば辰野から飯田駅まで、約2時間余かかるわけだが、当然のこと、前の電車を抜くことはないわけで、ようは飛ばしていてもどこかで停車時間が長いということになる。
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見えない土地

2008-07-25 12:30:38 | ひとから学ぶ
 少し前の噂の東京マガジンで太陽光発電に対する問題を取り上げていた。太陽光発電の制度で補助金をもらって設置したのに、隣にその施設を遮るような建物が建つというが、これではせっかく高額な施設を設置して、エコへの宣伝にしようとしていたのに話が違うじゃないかというものだ。役所としては、隣接地に建物を建てるのが違法ではない以上、それを制限することはできないといい、隣接地へ建物を建てる人も、違法ではないから異議には応じない。金銭で解決できるものならまだよいが、そもそも太陽光発電を推進している行政側の対応がお粗末だというのも解る。金銭で解決するような問題ではなく、そうした問題もクリアーできる対応策があっての補助制度ではないだろうか。ただただ、クリーンエネルギーを促進するたの数字合わせと言われてもいたしかたないわけだ。

 この話は東京都区内での話であったが、東京では太陽光発電システムを個人の家に設置するという例は少ないようだ。そこへいくと地方の方が太陽光発電のパネルを載せた家をよくみる。住宅地が密接していない、そして空間が広いから高層のビルが建つ可能性も低く、こうした問題は起き難い。そんな問題が聞こえなかったのも、都市部での設置が少なかったせいだろう。

 都市部に限らず隣接するもの同士の問題はよく聞く話だ。違法ではなくとも、それぞれの思惑があるからいさかいが起きても仕方がない。昔なら後から住み着くものが、それなりの低姿勢で調整したものだが、今や後先はあまり重要ではなくなりつつある。声の大きな者は声を張り上げ、小さな者は身を小さくしている。そんななかで人との関係もしっくりこなくなるのだが、境界での問題はとくに後々までも影響する。隣に家がなくとも、そこに家が建てば境ぎりぎりに何をしても違法ではない。たとえばいきなり5メートルくらいの擁壁が立てられ、そこにお城のような建物ができようが、人の土地のこととなる。建築基準法の制約はあっても、地方にいけばそうした制約も緩やかになる。先住民のことなどお構いなしでも、文句は言えないということになる。先ごろある伊那市内の山間地にある大きなお屋敷の周辺を歩いた。山の中から流れ出てきたそれほど大きくない水路は、塀で囲われたそのお屋敷に入っていき、大きな空間を経た水はお屋敷からまた出て流れてゆく。数年前の大雨の際に、少し水路が荒れて、お屋敷の中に大水が押し寄せたという。だいぶ荒れたという話だが、地域ともほとんど関わりのない住人だから、そんな噂話程度だったという。流れ出てきた水路は、下流へいき、農業用水として利用される。この大きなお屋敷の空間を通過しているから、その間で水を吸い上げてしまってもわからないし、何かを混入されてもわからない。

 ちまたでは農業の規制緩和が唱えられる。しかし、大きな空間を所有されると、その空間の中が見えないことになる。果たして地域と関わらない農業が発生したとして、それもあちこちにそんな空間ができてしまって、農と地域は共存できるというのだろうか。農村ではなくとも、大規模所有していた企業の土地から、有毒物が検出されるなどということは珍しいことではない。〝人の土地〟という意識が高まった農村地帯にあって、隣は何をする人ぞ、ぐらいなら良いが、空間を汚すような事件が起きないことを望むばかりだ。
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供託金没収点引き下げのはなし

2008-07-24 12:39:28 | ひとから学ぶ
 政党色が濃くなれば、利権が背景で動くようになっても仕方のないことだ。かつて高度成長時代における利権政治は、今やまったく批判の的となる。しかし、そもそも政党支持をする団体や個人にしても、利点があるから支持するもの。そこから利権に絡む行動が起きない方が不思議なことだ。

 盛んに批判の的となっている大分県教育委員会。教育の畑に利権という言葉は似合わないが、権力ある者が特権を振りかざすのはなくなるはずもない。それをまっさらな表舞台にさらけ出したとして、では政治家は何のためにいるの、ということになる。政治家にはその手腕が問われる。だいたい手腕を問うことそのものが、すでに利権への始まりであって、徒党を組んだ企みの始まりなのだ。いかに組織を固め、実権を握るか、その目標に関して違うと言える政治家などほとんどいるはずもない。民主党の現状などはまさにその最中にある。

 自民党が衆議院選挙の小選挙区における供託金没収点を有効投票総数の10%から5%へ引き下げる公職選挙法の改正案を、この秋の臨時国会に提出することについてコメントするブログがいくつも目に入った。「姑息」な手段と非難する人が多いが、もともと選挙制度など、政権政党のいいように改正されてきたもので、いまさらながらに「姑息」と表現するのもいかがなものだろう。国政を握る人々のシステムを自らの良いように改正できるところに、大分県教育委員会の問題とそれほど変わらないという印象を持つ。それも公にそれができるというのだから、政治のシステムは政治家にしか議論できないものなのだ。

 したがって「姑息」というのはその行動に対して言われることであって、供託金没収点を引き下げるのはけして悪いことではないはずだ。だから、姑息といって批判している民主党は、そんなことで批判する以上に、そうした手段をもクリアーできるだけの支持を得ればよいだけのことである。いっぽう小選挙区制度以降急激に減退した社会党にとっては、「姑息」などという批判が起こるはずもなく、もともと全選挙区に立候補者を擁立していた共産党も、いよいよ社会党と同じ道を歩むかと思えた中での少しの光とばかり感じているはずだ。

 世の中に無党派層といわれる人々が増えた要因に、政党色の濃い政治を選択したくなくなったことがある。同様に投票率の低下もそんなところにあるだろう。権力のために大勢の組織配下を同じ方向に向かせる時代ではないというのに、それをあいも変わらずに続ける。これほど多様化したにも関わらず、二大政党化へと歩んでいるという。この「二大政党」と表現するのは本来間違っていると思うが違うだろうか。ふたつの政党とどちらも選択しない人々と言えるだろう。それを無党派層と表現するが、それもちょっと違和感がある。小選挙区以降、大きな支持母体、ようは政党代表でなければ国政には立てなくなった。けして既存政党の考えには沿えないという人々が、新たな政党を作って立ち上がるなどということはできない。いや、なったとしてもそこに発言権がなければなった意味もなくなる。もともとこの国の政治システムに、「姑息」などという言葉はそぐわないのである。
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見えない

2008-07-23 12:19:33 | つぶやき
 知人の女性が新しい車に乗っていたので「新車にしたのですか」と聞くと、「もう2回もぶつけているのよ」と言う。まだ半年くらいの新車なのだろうが、「なぜ」と聞くと二度ともうっかりというケースのようだ。正確な年齢は知らないが、わたしよりは年上であるあることは確か。一度はバックしていて気がつかずに木にドスンとやったらしい。かなり凹んだようで、「まだ変えたばかりみたいですね」というわたしの感想に、「それ修理したからキレイなんですよ」という。まったく後ろに木があるなんて思ってもみなかったようで、けっこう見えていないものがこのごろ多くなったという。年齢的なものなのだろうという言葉はお互い年だから出なかったが、暗黙のなかでそんな雰囲気が漂った。

 最近自家用車に乗らないことは何度も触れているが、仕事で会社の車を運転するから、まったく運転から遠ざかっているわけではない。かろうじて彼女のようなケースまでなったことはないのだが、彼女が言う「見えない」という感覚は、このごろ感じている。たまに自家用車を動かすのだが自宅を出る際に、まず石垣に挟まれた出口から町道へ出る。その際の出方がまったくもみじマークの人たちと変わらない。しっかりと確認もせずに、「こんなくらいで良いだろう」みたいに出てしまう(「もみじマークの人たちみたい」なんていうと失礼か?)。あまり車の往来のない道だからということもあるが、さらにその道を進み、大通りに出る際も、自宅から出るのとそうは変わらない。それでも確認はするのだが、自分の意識の中に「絶対大丈夫」というものがない。どうも「見えていない」という言い方がしっくりする。運転歴も長く、運転することも好きな方だった自分が、けっこう運転そのものをいいかげんにするようになったと最近気がついている。それはマイカー通勤をしなくなったこと、そして長距離運転もしなくなったことにより月にせいぜい200キロ走れば多い方というこのごろだ。そんな経験的なものもあるのかもしれないが、わたしの中ではそういう理由では納得いかない。どう考えても年齢的な背景が頭の中をよぎる。そういえば昨日も、電話で予定を確認して日程を調整したのに、それも数時間後記録にとめておかなくては、と頭の中にあったのに、夕方あらためて違う予定の調整をしていると、先ほど予定した日時と内容が消えてしまっている。だれかと予定を組んだけれど、いったい何だっただろう、などという状態だ。ひとつひとつ記憶をたどろうとするが、全く白紙になっている。「まずい」と思いながら、その日電話をした人を逐一頭に浮かべていく。どうもそれらしい人が浮かんで、予定の話をしたことを記録に残すが、いまひとつもっと大事な予定だったような記憶がある。

 結局そのまま記憶が確実には戻らなかった。記憶だけならボケということになるのだろうが、車を運転しているときの不確実さは、意に反して勝手に身体が動いてしまうことに起因する。ようは頭の中の指令と、動作が一致しないのだ。もちろん彼女のような思い込みというやつの方が、明確な「うっかり」と言えるかもしれないが、「見えない」という感覚は、やはりどちらにも共通しているもののように思う。

 高齢者ドライバーが増えている。そうした世代の事故が多いとも言われるが、うっかりで木に当てたくらいならまだよい。人でもひいていたらと思うと冷や汗ものだ。わたしの母免許を持っていない。同じ世代でも持っている人もいるが、どちらかというと持っていない人の方が多い。昭和二桁以降だろうか、誰でも持つようになったのは。そう考えると高齢者ドライバーはまだまだ増え続ける。わたしのように自信満々だったドライバーが、ふと凶器を振りかざすようなことがないよう、認識しておかなくてはならないことはたくさんある。
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いまだに繰り広げられる悪い夢

2008-07-22 12:20:53 | 農村環境
 先日久しぶりに駒ヶ根市まで自家用車を走らせた。福岡の旧ケーヨーの跡地あたりから国道を北へ向かうが、車の影は少ない。「あれっ」と思いすぐ気がついたのは、すでにバイパスが開通してしばらくたつ。その間わたしはあまり車を利用しなかったこともあり、この道を走ることもなかった。あらためてバイパス開通後のこの道の現実が見えてきて、すぐに頭に浮かんだのは、道沿いの店のことである。これほど車が通らなくなれば、こぞって道から姿を消しても不思議ではない。丈長屋のGSはもうしばらく前から閉鎖したという。福岡から中心街までの間で唯一だったセブンイレブンはまだ営業を続けているが、大きな駐車場に停まっている車は少ない。すでにバイパス沿いに同じ経営者が同店を開店しているようで、国道店の閉店も近いのかもしれない。バイパス開通前にすでに察知して消えた店もある。明らかに国道沿いにかつての姿は見る影もない。

 これだけ通行量が減少すれば、人通りもなくなり、店がなくなるのは必然のことなのだろうが、バイパスは分離帯のある道で、右へ左へと簡単に行き来はできない。そういう意味では、左右どちらにも入りやすい国道沿いにはそれなりのメリットがあるはずなのだが、それを補うだけのアイデアは浮かばないようだ。その気持ちを萎えさせるのが、バイパス沿いの大型店なのだろう。加えてそうした大型店の出店は、飲食店なども呼び寄せる。人々の足がバイパスに向いてしまうことは、予想されもするし、予想通りになっていく。バイパス沿いの土地を駒ヶ根市の大手が所有しているというところからも、利権の絡んだ道路と言われても仕方ないわけだ。

 国道の閑散とした風景をみるにつけ、以前からも触れていたように、バイパスの必要性はほとんどなかったといえるだろう。この閑散とした道とそこに広がる空き店舗をどう捉えるのだろう、バイパス推進をした人々は。バイパスが必要だというのなら、この閑散とした空間の将来を描くべきだ。必要ない道路なら、通学用の歩道を優先して、道路を縮小すればよい。人々の行き来のある空間作りというものもあるだろう。しかし、いかんせんこの町は小さい。勢いづいたバイパス沿いは賑やかだが、そうではないところには市街地以外にも空き店舗が見受けられる。ようは需要が限られている中で、撤退すればよいという広域展開の商店が見え始めてから、ますます環境悪化が色濃くなった。どう考えても駒ヶ根市に人口が流れたとしてもしれたもので、バイパスを受け止めるだけの環境はなかったと思われる。

 前述したようなアイデアを考えたとしても、人々はそれを受け止めてくれるとは限らない。この町は最悪な展開をしていると思うが、実はそんな町が全国のあちこちにあるのだろう。それを経験値として認識できなかった行政は銭の入る方を選択したのだろうが、こんな選択をいつまでも続ける町を相手にする(最近駒ヶ根市を住み易い町などというものが目につく)報道もうさんくさくて仕方がない。
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地域社会はどこへ

2008-07-21 16:21:34 | つぶやき
 毎週内山節氏の「風土と哲学」(信濃毎日新聞土曜日文化欄)からヒントをもらって思うところを書いている。今回もそのことについて触れる。7/19朝刊で内山氏は、「速すぎる変化」について触れている。世の中のスピードが「速い」と感じるようになったのはもうずいぶん前のことである。殺人事件が起きようが、大災害が起きようが、今やそれらは一時のニュースとして流れていく。もちろん世の中がの流れが速いから流れていくばかりではない。次から次へと同じような大事件が発生するから、いちいち古の事件に固執しているわけにはいかない。加えて情報化の時代は、日本全国に瞬く間に同じニュースが流れるようになった。したがって休む間もなく、水が流れるがごとく変化のないニュースが流れているように見えてくる。そんな速さは日常の暮らしをも忙しくさせた。次から次へと頭の中を整理していかないと、社会の流れについてゆけない。そしてそこについていくことがステータスだと思えば、みな追随していく。個性があろうがなかろうが、一応の基本スタイルは速さの中に存在していて、それを否定することは、かなりマイナーな世界に陥る。実はそんな追随できずに落ちこぼれていく人たちも大勢いるのだろうが、世の中はそんな人たちに視点はあてない。どんどん前へ前へと進んでいく。だれも「本当にそれでいいの」とは言わないし、言ったところで言った側も相手に理解してもらえるような理論を持ち得ない。

 内山氏は、農山村が長い時間の中で築いてきたモノを、速すぎる変化で失うことになるという。〝「地域的な空間」の激しい変化を受け入れながら、そこに地域らしい地域をつくろうとすれば、自己矛盾に陥ってしまう〟という。ようは速く変化する地域社会に、かつてのような地域社会は成り立たないということになるのだろう。

 はからずも地域はその問題を認識していても、今までとそう変わらない流れを持っている。これは人々の間に、地域はそれほど早い変化はしないという錯覚があるからではないだろうか。おそらくこれほど地域社会が崩壊したにもかかわらず、その根本的な部分を見直そうという動きは見られない。ようは頭の中では内山氏の言うようなことが解っていても、暮らし向きがそんなゆとりをなくしてしまう。一瞬立ち止まることはできても、みな相変わらず世の中の速い変化に順応していこうとする。それを食いとめられない原点には、若者の意識に変化をもたらすことができないということだろう。義務教育から高校、そして大学と、明らかに若者は外へ向かっていく。外へ向かう以上はその速さに順応しなくてはならない。地域社会がゆっくりとした変わらない社会を作ろうとしても、そこには世代のギャップが生まれることは必然である。もちろん、そこまで地域社会が意識をもった行動を取れたとしてものことで、その段階までも遠いことである。そして現実のこととなっても、若者たちにどう教え、どう将来を築かせるか、そこまで物語を語れる人はいないだろう。

 ちまたでは農業がいつまで持つかという言葉をまことしやかに口にする人が多い。農業者が口にするのは許せるが、そうでない同じ空間に暮らす人々が口にするのを、最近「許せない」と思うようになった。もはや、地域に若者が残らない。残ったとしても生まれ育ったところではなく、地方の小さな都市周辺であったり、まったく「家」とは縁のない新興地である。自らの生まれ育ったムラには、優秀な子どもが残らない。そして都会の言いなりになったムラが、都会に騙されながらか細く生きて行くなんていう社会はますます許せないものだ。
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松商学園よ再び

2008-07-20 22:40:37 | ひとから学ぶ
 「このチームに東海大三のエースがいたならなー」と同僚が口にしたのは、昨年松商学園が34回目の甲子園を決めた後のことだった。松商学園が春選抜に準優勝、夏選手権大会でベスト8に進んだのは、もう17年も前のことだ。上田を擁して甲子園を沸かせた世代は、やはりシニア時代に全国優勝していた。主だった選手はそのまま松商学園に進み、甲子園では全国優勝まで一歩のレベルまで達していた。同じように今年の3年生は、シニアで全国優勝を果たした世代。ところが、17年前と違うのは、エースだった甲斐が松商学園を選択しなかったことだ。それを同僚は悔いていたのだ。2年生の多かった昨夏、一回戦で大差で敗北した。しかし、全国優勝メンバーが多い、松商学園の平成20年は本命といわれていたのは、昨秋からのことである。ところが、その後甲子園出場選手が多くいる松商学園は、長野県内で低迷を続ける。もちろん地力のあるチームだけに、そこそこまではいくものの、甲子園経験チームという印象が薄い戦いだった。

 土日に準決勝と決勝が行なわれるという今夏の県大会。自宅の仕事をしながらも、しっかりと3試合を視聴できた。毎年そこそこいいチームを作ってくる県立で進学校の諏訪清陵。順当なら佐久長聖という準決勝第一試合は、最終回までもつれる好ゲームとなった。諏訪清陵のピッチャー山田は、眼鏡をかけて投げる。2年生ということもあるのだろうが、見ためはひ弱に見えるものの、身体能力はかなりのものというのはすぐに解る。諏訪清陵の最近年ではもっとも投打が良い。だからこそ優勝候補とも互角の戦いだった(結果は最終回にサヨナラ打で3:2で佐久長聖)。

 そして準決勝第二試合。そうはいってもしっかりと夏の大会に照準を合わせてきた松商学園と松商学園ではなく東海大三を選択した甲斐率いるチーム。甲斐も大型ピッチャーと言われながら、なかなか良い成績を納められてこなかった。なにより甲斐を見たかった。そしてかつてシニア時代の仲間が敵味方に分かれて戦うというその一戦を逃すわけにはいかなかった。マウンドに立つ甲斐。確かにふてぶてしさを醸し出している。すっと投げると簡単に145キロ以上を記録する。こんなピッチャーは高校生にそういるものじゃない。かつてシニア時代から、ワンマンで感情を露にしたという。その趣は今も十分に漂う。しかし、それをセーブする成長があったのだろう。投球に関しては県大会で消えるには惜しいほど見事なものだ。松商学園に3安打、それもまともなヒットは1本という内容だったものの、守備の乱れで消えることになった。あまりのエラー連続で、一時は不満な顔も見せていたが、彼なりに試合を楽しんでいたように見える。あらためてこのピッチャーが今年の松商学園にいたら、あの17年前を再現したかもしれない。いや、このふてぶてしさは、上田以上であることは間違いない。だからこそ、仲間とは違う学校を選んだのかもしれない。彼なら、今年の松商学園、あるいは佐久長聖、そのどちらにいても優勝間違いなかったかもしれない。

 決勝はそんな準決勝を戦ってきた松商学園と佐久長聖。近年の大会の中でもずいぶんレベルの高いのは誰もが認めていたはずで、その通り、決勝もどちらが勝っても不思議ではない戦いだった。前日の東海大三戦にくらべると調子の悪かった松商学園林投手。試合開始から先取点は佐久長聖という雰囲気があった。その通り先取点は取られたものの、踏ん張っているうちに、松商学園の打球が勢いづき逆転し、3:2で9回裏を迎える。佐久長聖もねばって二死1、2塁で4番打者を迎える。考えてみれば長打で逆転サヨナラという場面。そしてその通りセンター頭上への打球が飛ぶ。画面がその打球を追うセンターの動きを捉える。「もしかして」と思った瞬間、センターがこの打球を背走しながらキャッチ。

 甲斐とくらべると小粒ではあるが、松商学園の林も見事なピッチャーである。同僚が「もし」といった奥底に17年前よ再び、という気持ちがあったのだろうが、甲斐の分までも林が投げて、甲子園で活躍して欲しいものだ。

■今日の烏帽子岳
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天竜川を越える

2008-07-19 14:05:40 | ひとから学ぶ
 「伊那毎日新聞」の7/15朝刊に〝「東中のよさ」を理解〟と言う記事が見えた。赤穂東小学校の5、6年生がこの14日に駒ヶ根東中学校を見学したというのだ。見学を実施するということは東中学への進学を希望してもらおうというものなのだろうが、駒ヶ根市内の通学区の考え方が具体的にどうなのかは、地元でもないから詳細は解らな(後術する「子供の個性と学校の特色」を読む限り、自由通学になっているが、市内全域ではなく、限定地域のようだ)。しかし、もともと駒ヶ根市の天竜川西岸と東岸には人口的に落差があり、加えて西岸には大規模校があることで知られていた。今でこそ小学校は三つに分離されたが、わたしの知っている時代には小学校が一つしかなかった。二つに分離させる際に通学区の話でずいぶんともめたという話をよく聞いたものだ。たいへん不思議な地域で、赤須と上穂という地域でのさまざまな対立があったと聞く。それを民俗的にあらわすなら、国道より上にある五十鈴神社と下にある大御食神社との対立がある。それぞれの神社が特徴ある祭りを繰り広げており、両者はいずれも地域のより所として存在してきた。そうした二つの地域が合併する際に、それぞれの文字をとって赤穂という名称にした。赤穂といえば、兵庫県の赤穂の方が歴史も知名度もある。こうした新しい地域名をつけざるをえなかったというあたりにも、両者の対立があったという背景を感じるわけだ。とくに明治8年というずいぶん昔に「赤穂」としたあたりに歴史を感じるわけだ。

 赤穂小学校から赤穂南小学校に分離し、さらに今は赤穂東小学校もできて三つに分離した。もともとなかった地名なのに、いまだに赤穂という地名に執着している面も見られ、そうした執着があるからなのだろうか、いずれの小学校も「赤穂」なのである。対立した地域が「赤穂」として始まったことにより、より一層両者の対立が後世に伝承されているのではないかという印象を持つ。だからこそ、すでに市制を敷いて何十年にもなるというのに、赤穂というかつてなかった地名が強く意識されているのである。もちろん周辺の地域から「赤穂のマチ」と言われてきただけに、すでにこの地名が地域に親しまれているという印象もある。わたしも子どものころ「駒ヶ根市に行ってくる」とは言わなかった。「赤穂町に行ってくる」と言ったものだ。この地域の不思議な地域性は、ずいぶんとこの地域の人々の意識の象徴的なものとなってきたといえるのだろう。したがって、天竜川を越えて東岸の中学に通うわせるという勇気が、なかなか親たちは持てないのだろう。赤穂というところに固執するが故の歴史的なものなのだ。

 この記事とは別に「子供の個性と学校の特色」という駒ヶ根市政に対してコメントを続けるブログでも、この小学生が中学校を見学したことについて触れていた。大規模校と小規模校それぞれに問題があるのはどこでも同じで、駒ヶ根市に限ったことではない。またどちらが必ずしも良いともいえないが、教育環境という面では小規模である方がより生徒重視のものとなり、目も行き届くだろう。そんなことは当たり前なことなのだが、それほど大きな町でもない駒ヶ根市が、前述したような赤穂小学校という大規模校をなんとか分散させてきたこの市には、同様に中学も赤穂中学という大規模校があって長年続けられてきた。県内でも屈指といわれる大規模な学校が小学、中学両課程で存在した地域なのである。環境が良いからといって、みな悔いの生じない教育を受けられるというものでもない。多感な子どもたちにとってどうあればよかったかなどということは後にならなければ見えてこないだろうし、また見えないかもしれない。子どもとたちがどこにいようと、そこでどう学び成長したかということになるだろう。可能性という面でどう成長するだろうという確率的なことはいえても、その子どもに合ったものかはわからない。だからこそ、選択の余地があることは良いことなのだろうが、いっぽうで選択があるということは、後に悔いを残す可能性も高まる。何かがあれば、「もし」といった言葉が口に出る。逃避、回避、どれをとっても逃げという言葉につながるが、選択がある以上、それを全うする、そして愚痴を言わないという親の心持が必要になるのだろう。果たして小学生に学校を選択するなどという判断を任せる必要があるのか、ということも疑問である。そういう意味で学校見学などというものの意図が何なのか、迷走する教育行政の一端を見る思いがする。
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盆花

2008-07-18 12:17:02 | 自然から学ぶ
 先ごろ近くのため池の草刈りをするといって妻はでかけて行った。ちょうど今の時期は、ため池に限らず、あちこち草の丈が伸びている。農村では第一に田んぼの草が刈られる。ため池やそれ以外の場所は二の次となるから、伸び放題の草が目立つ。とくにそのため池の受益者でもないのだが、地元の自然の会に入っていて、その会の活動の一つで草刈りをした。あまりかんがい用に利用されているのか定かではないようなため池で、満面と水を湛えている姿は見たことがない。だからため池の中の斜面にも、たくさんの草が生えている。ようは水位が低いから、中側にも草が生えやすいわけだ。このため池はわたしも年に何度か訪れる。犬の散歩でもよく訪れたものだが、犬が妻の実家暮らしを始めてからは、すっかり訪れる回数が減った。それでも自然が残っていることから、花の咲き具合を観察に、何度かは今でも訪れる。

 陽の強い日の午前中だったが、常に田んぼの草を刈って慣れているにも関わらず、妻はすっかり疲れきって帰ってきた。時間を忘れるほどに少し寝入っていたようだ。ふだんの草刈りとはかってが違うということと、萱のような太いものが生えていて、妻の紐型の草刈機ではなかなか刈れなかったということなどふだんとは違うものがそこにはあったのだろう。草刈りをする場合、なかなか刃が効かないと疲れるものだ。草刈りに限らないだろうが、しようとしている作業がはかどらないと疲れるのと同じだ。

 ため池の土手にフジバカマを植えようという話があるという。フジバカマといえばアサギマダラと言われるほど相性のある花とチョウである。常日ごろ農業に浸かっている妻にとっては、本当のところは趣味の世界で自然と関わっている人たちにはどこか壁を感じている。日常が自然とのかかわりだから、その中で自然を大切にしていこうという気持ちがあるが、ただただ自然を守ろうとしている保護系意識とはどこか違う。忙しく農業に追われる者は、そんな自然保護を口にする趣味の人たちとは知識が異なる。家の周りの草花はそこそこ詳しいが、そうではないものについては詳しくない。だからきっと関わってはいるものの、そんな人たちとは知識差があるからあまり会話は通じない。聞くばかり、といったところなんだろう。もちろん参加している理由は、日常の農業とのかかわりの中で、わからない草花があるからそれを知りたい、また珍しいものなのかどうなのかもはっきりしないから、そうした人々の知識をもらおうという気持ちがあっての参加である。

 さて、このあたりでは山野草が根こそぎ取られてしまうことがよくあるとその際に聞いてきた。その中でオミナエシを取っていってしまう人がいると参加した女性が口にしていたことに触れ、妻は「もともと盆花として供えるために取るのは当たり前だったわけだから、根こそぎ取られるというのならともかく、それを非難するのも変だよね」という。あくまでも生活の中での自然、人とのかかわりの中での自然だということを意識している。だからこそ妻の日常の舞台では、メダカだって獲って食べるわけだ。

 何度か触れているが、伊那谷自然友の会の主だった方たちと話をした際にも、けして自然保護だけを口にしているわけではないと印象を持った。だからこそ人々の暮らしとのかかわりを扱った報告が多い。ところが、たとえば先の伊那市での出前講座の中でも、そういう意図があるものの、聴講している人たちの顔をうかがっていると、どうも自然保護一点張りになりがちな雰囲気がある。妻と同様に、わたしもそうした人々の空間に入ると、どこか壁があるような気がするのは、そんな人々との意識の違いにあるように思うわけだ。なかなかこうした意図は伝わらないということを、はっきりと解らしてくれる。世界の違う人たちと関わるというのもそんな勉強にもなるのだ。
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ポイ捨て

2008-07-17 19:16:56 | ひとから学ぶ
 タスポなるものがないとタバコが変えなくなった。購入用の身分証明のようなものなのだろうが、世の中で身分証明がなくては商品が買えないものはそう多くはない。まさかタバコがそうなろうとは、ほど遠くない時代には考えられもしなかった。禁煙権なるものはすでに遠い昔のもので、今は喫煙権、いやそれを口に出すことさえままならなくなっている。未成年者への喫煙の防止を狙った夜間販売が、二重の規制は必要ないといって解消されるという。不思議な発想である。何のためのタスポの導入なのか、タバコにはとんと縁のないわたしにはまったく解らないことである。未成年者も暮らしづらいというか、なんというか、この善悪明快を求める社会において、どういう陰の行動を求めていくか、さらに若者たちの混迷が続くように感じられる。自由な世界は、今や規制された世界に陥っている。そして不正にはことごとく批判が向くが、いっこうにその背景の闇は消えない。いや、闇はあってよいもので、闇を明るい世界に出してしまっては先は見えすぎる。隠れるところがないと、負担に思う人もいるし、あからさまの世界は荷が重い。

 などという逃げの口上は批判を受けるやもしれないが、かつて外の仕事では、「いっぷくするか」といって腰を下ろして休んだものだ。もちろんいっぷくの意味はタバコを吸う意味であるが、タバコを吸わない人たちばかりだとそんな口上は出てこない。だから休もうという言葉が見つからない。タバコを吸う人たちはどうしてもその時間が欲しい。だからだれかれとなく「いっぷくしよう」ということになる。タバコに縁のなかったわたしなどは、そんな言葉が出せる人たちが羨ましくてしかたなかった。今やタバコを吸う人たちは、無言でタバコをポケットから取り出す。知らない間にぷかぷかとやっている人もいるが、そんな姿すら見せたくなく、よそへ姿を消すのも珍しくない。タバコを吸わない人たちばかりになると、仕事中のいっぷくがなくなる。この場合の「いっぷく」とは、タバコのいっぷくではなく、休むいっぷくである。わたしの感覚では、タバコを吸う人たちがいたことにより、いっぷくとは一休みと同等なのだ。いっぷくがなくなるから、仕事中の折り目がなくなる。するとメリハリがなくなるから、どんどんだらだらしてくる。最近の人たちは、きびきびと動かない。だらだら、だらだらと身体を揺する。ひとえに慌てなくなった。慌てるのがよいわけではないが、どうもマイペースな人たちばかりで、人に合わせるということはなくなった。タバコのせいとは言わないが、かつての「いっぷく」に変わる口上を口にしなくてはならないし、でないとどうも身体も持たない。外でそんな具合だから、流れ作業でもないわたしたちの会社内も、どうも動きが見えなくなった。果てしなくだらだら状態である。

 さて、最近駅で電車を待っていると、同じ駅で乗車する若い女性がタバコをぷかぷかやっている。このタバコが敬遠される時代になかなか目立った女性である。待ち人がろくにいないから目立つとはいっても、わたしに目だっているだけのことで、きっと若い男性が群れていたら、気にしてそんな姿は見せないかもしれない。そんな彼女が電車がやってくると、そこらに「ポイッ」とやる。ほぼ毎日だからそのうちに吸殻が地面を覆うかもしれないが、そこは駅。このあたりでは最も乱れた高校の良き生徒たちが掃除をすのだろう。生徒の吸った吸殻だと思わなければよいが・・・。
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