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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

カッコ書きの名前

2008-02-29 12:40:30 | つぶやき
 新聞を読んでいていつも思うことなのだが、韓国人とか中国人などを表記するする際、漢字を書いて後にカッコ書きで読みを記している。読みを記入してなくてもおおかたの人が読むことのできる「金正日」はともかくとして、ほとんどのこうした漢字表記は読むことができない。かつてはこうした漢字表記の人物は日本読みをしていたが、もう何十年も前から漢字読みはしなくなった。読みが変わった時代の著名人が「金大中」である。いわゆる先々代の韓国大統領のキム・デジュン大統領が誘拐された事件がちまたに騒がれていた時代だったのではないだろうか。事件発生当時は「キン・ダイチュウ」とニュースで読んでいたはずである。まさに漢字をそのまま「てきとうに読んだ」みたいな読み方であった。現実的に韓国での発音は異なるからその国の発音に近い形にした方がよいということで読みが変わったのだが、これもまた、日本読みにしているとその国の人たちに失礼だというような意識の現われだったわけである。かつて日本に占領されていたという悪夢を断つためにも、そうした発音の是正は必要だったわけである。

 さて、そんなことで変更されて以降現在にいたるまで、こうしたカッコ書きスタイルが継続してきているのだが、果たして漢字で表記する必要があるのだろうか。カッコ書きがカタカナということで、一度カッコ書き表記をすると、その後同じ名前が登場してもカッコ書きはなくなる。一度教えたんだからもういいだろうみたいにだ。ところが、一度教えてもらったからといってなかなか二度目以降すらっとその名前が読めるものではない。先ごろ韓国の大統領の就任式があった。今度の大統領は「李明博」と書く。日本読みだったならどうだろう、「リ・メイハク」とでも言うのだろうか。今回のカッコ書きは「イ・ミョンバク」である。やはり一度では覚えられない。日本文の中にいきなりこの3字が登場しても人の名前とも判断しがたい。それでも今度の大統領はまだよい方で、前大統領の「盧武鉉」にいたってはおおかたの日本人は読めないだろう。日本読みなら「ロ・ムゲン」などという感じだろうか。こうしてみてくると、漢字表記などせずに、いきなり「ノ・ムヒョン」という具合にカタカナだけにすれば良いのに、と思うのだが、これは日本の周辺国に対しての独特の考えなのだろうか。どうしても腑に落ちない部分である。そのくらいなら人の名前も含めて、地名など読みにくいものはすべてカッコ書きにしてほしいものだ。それでもこうした難しい他国の人の名前に比較すれば、一度カッコ書きしてもらえば、二度目以降はなんとなく読めそうである。やはり無理やり難しい漢字を並べる意図が見えない。
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かつての一番

2008-02-28 12:35:29 | 農村環境
 「コントラスト」で触れたように、どんよりした空の下は物音がよく聞こえる。そして高速道路という物体は、騒音を垂れ流す。開通後10年ほどは高速道路でネズミ捕りをするほど空いていたが、今や中央自動車道も東名なみに混雑する。したがって日夜そんな音が響く谷は、他の音が遠くまで聞こえなくなった。

 どんよりした空の同じ日、ホームへ入ってくる線路の音はひときわ透明感があった。構内に響く「ゴトン、ゴトン」はドラマチックにさえ聞こえる。実は、わたしが朝駅へ向かうおり、近くの小学校の近くまでやってくると、警報機が鳴る音がかすかに聞こえる。まだ駅までは二百メートルほどあるというのに、そんな音が聞こえると、思わずポケットにしまい込んでいる腕時計を取り出す。「まだ数分あるはずなのに、なぜ」という具合にだ。よく耳を澄ますと、どこかでそんな音がしているように聞こえるが、確実な音ではない。もしや錯覚なのか、などと思ういっぽう、やはりどこかの風に乗って聞こえてくるような気もする。おそらくずいぶん遠いところの音なのかもしれない。そしてそんな音を運んでくる風道のようなものがあるのかもしれない。

 そんな焦りを小学校を意識すると感じながら、それでも何度もそんな経験をしているといいかげんに慣れてくる。そう、遠いところの警報機が鳴っているんだ、という具合に。実はホームに立っていても警報機が鳴り始めてからしばらくしないと電車はやってこない。その経過はこんな具合だ。①わたしの向かう下り線の信号が青になる。ほぼ時を同じくして駅は複線化されているため、上り線にシフトしていたレールが、下り線ホームの線路に切り替わる。遠くでは警報機の音がしている。②それから1分経過すると、駅南の踏み切りの警報機が鳴り始め、遮断機が降り始める。③30秒後駅北側の警報機が鳴り始め遮断機が降り始める。④電車がホームに停車してドアを開くことができるまでそれからまだ40秒ほど経過する。⑤停車した電車が発車するまで約1分かかる。こんな具合なのだ。ようは直近の警報機が鳴り始めて、電車に乗れるようになるまで2分余、発車までには3分余かかるわけで、わたしが小学校のあたりで駅南の警報機の音を聞いても、普通に歩いて発車までには充分間に合うわけである。とまあそんな具合に解っていても焦ってしまうのが、こうした乗り物なのである。

 さて、高速道路のなかった時代、この谷にもっとも響いていた音はこの電車の音であったに違いない。それも今とは異なり、かなり遠方まで電車の走る音が聞こえていたばすだ。そういえば、子どものころ、わが家から少し離れていた田んぼへ行って働いていると、すぐそこに線路があったのだが、段丘上の高台に田んぼがあったため、谷を挟んだ向かいにある駅を発車する電車の音が聞こえ、すぐに対岸にある警報機が鳴り始めたものである。そしてその電車が対岸の段丘を下り始めてしばらくすると、電車の姿が谷の中に消え、数分ほど経過するとその電車が目の前に突然現れるのである。対岸の音はよく聞こえるのだが、谷の中をこちら側の段丘を登っている音はまったく聞こえないのである。これもまた当たり前のことであるのだが、突然やってくる電車に少し驚くとともに、これほど音がしないと、その近くに駅があるのだが、駅に待っているときも、きっと突然電車の姿が見えるはずで、わたしが今利用している駅で待っているのとはずいぶんと待ちの姿勢が違ってくるのである。実はその突然電車が現れる駅を、わたしは高校時代に毎日利用していたわけであるが、対岸の音を聞いてから何分後、などという具合に予想をしていたわけである。

 このようにかつては一番この谷で認識できた音も、高速道路の車の音にかき消され、今や電車の音もかすかなものになってしまった。
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現代人の衛生観④

2008-02-27 12:34:06 | 民俗学
(跡見学園女子大学大学院人文科学研究科日本文化専攻の教授と院生による論文「明治期女子教育における衛生観の形成―『女学世界』を読む―」(『信濃』60-1)から読み取る現代人の衛生観その4である。)

4.洋式化と衛生観

 トイレで最も他人と接近するのは、便座であることは以前に触れた。便座に座るのに下衣を脱がないわけにはいかない。脱げば肌を露出することになる。そして不特定多数のひとが同じように肌を露出してそこへ座る。それを清潔だと思わせるだけの行為が必要になる。便座を拭くためのミストジェルや便座はシートが利用される。考えてみればこれらは便器の洋式化によるのである。和式便器であれば接点はなくなる。まだ洋式便器が入り始めた時代には、両者があれば和式を選ぶ人が多かったのもそんな接点意識がどこかにあったかもしれない。しかし、日常洋式を当たり前のように利用するようになると、洋式に対しての違和感はなくなる。唯一接点という部分で違和感はあっても、使いやすさという面では洋式を選択するようになる。今や、和式便器がないトイレも珍しくない。

 こうした洋式化が人との接点に対しての意識を、過剰にしてきた部分もある。彼女たちも触れているスリッパシートのことである。これも前回同様宿泊施設に見る衛生観なのであるが、ホテルなどを利用するとスリッパにシートを敷いて利用したりする。スリッパと足の裏の接点に対して、シートを介在させることで他人との接点をなくしているのである。ようはトイレの便座シートもそうであるが、カバーという介在物によって間接的にしているのである。介在させることで清潔であると思わせるというその意識に衛生観のはき違いがみてとれる。加えてこんなこともある。宿泊室の中では、外出時と違い自宅のように肌を露にするようになる。もちろんのことであるが、服を着たまま寝ることはない。普通なら靴下を脱ぐことになる。そうすると足は常に部屋の中で肌の触れる接点となる。畳敷きならともかく、フロアーを裸足で歩くのは鳴れない環境であるし、床上を裸足というのは違和感がある。そうした感触を無くすためにスリッパを用いるわけで、ようはフロアーは地肌が直接触れるには似合わない場所ということになる。したがって外を裸足で歩くのと同じようなもので、どうしても履物は必要となる。そして足は最も匂いを発する箇所であるということは誰しも認識しているだろう。そういう認識のなかから、自ずと直に接することを避けたくなるわけで、自宅に近い空間である宿泊室という環境には、素足という設定が生まれるからこそ、スリッパという道具に清潔意識が過剰になるわけである。これもまた、トイレ同様、和室時代から洋室時代への変化によって生まれてきた接点ということになる。かつてなら意識しなくてもよかったものを、暮らしの変化がもたらせたわけである。

 ところで彼女たちは、このスリッパのことに触れてこういう指摘をしている。「なぜ私達は掃除されているような場所でも「汚い」「不潔」と感じてしまうのか。スリッパを用いて考えてみる。スリッパを使用するというのは、足が冷えないようにするために用いる他に、床に落ちているもので、足が怪我をしないように保護する役割と、床の汚れで足が汚れないためだ。しかし、毎日、床を掃除していれば、床に落ちていたものをきちんと除去できるのである。つまり、掃除をきちんとしていれば、スリッパをわざわざ使用しなくても済むのである。自分の家の掃除を行っていないがために、宿泊施設で宿泊する際、きちんと掃除しているように見えるような場所でも、不安になってしまい、スリッパを用いる。しかし、宿泊者は、使用はするが、スリッパ自体の汚れや人が使用した事による「汚さ」が気になる。そのため宿泊施設の運営者は上記のような「除菌済み」とラベルを貼ることで、目に見える形で宿泊者に提示し、安心感を与えているのである」というものである。「自らが掃除をしなくなったから、宿泊施設で掃除が行き届いていても不安になる」というがこれは正しいだろうか。掃除をしていてもスリッパを利用する、これが様式化によるものと解いたように、畳の上だったらそんな意識は生まれない。

 さて、直に接するもので、人々が意識的にモノを介在させたいと思う事例は少ない。スリッパのように素足で利用する可能性があるからこそ、意識する。しかし、そうした意識を臨時に呼び起こした際に、それを除去するための方策も用意されている。すでに世に出回ってから歴史も長い濡れティッシュもそうした道具の一つだろう。乾いたティッシュでは痕跡を無くすには難しいが、濡れティッシュは汚れを落とすことも可能であって、とくに「除菌」専用のものはそうした用途として利用される。現代の環境問題は、こと日本の暮らしに照らし合わせてみると、過去の暮らしの方がより環境に優しかったということは歴然なのである。

 続く
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コントラスト

2008-02-26 12:16:44 | つぶやき
 どんよりした空の下、雪か雨かとそんなことを考える。空の様子では雨になりそうな気配。どんよりというからには、黒々した雲が、頭上そう遠くないところに差し掛かっている、だれにでも想像できそうな空である。家の中で聞こえはしないが、外へ出ると、常日ごろにも増して騒々しい。「ゴー、ゴー」という音が耳に障る。伊那谷を南北に走る高速道路が、山際に接近して走り、加えてその道路上の大型車が目視で確認できるような場所では、そうした道路上に巻き上がる路面とタイヤの摩擦音が反響して聞こえる。このことには以前にも触れた。かつてなら物静かな空間だったものが、車というものか登場するとともに、日夜騒音が行き交う空間へと変化した。そんな空間を、より一層強く感じる今朝であった。

 どんよりしていても、陽射しが降り注いでいるよりもなぜか視界が広がる。山々は雪を降らしているようで、霞んでいるにもかかわらず、下界の視界が意外とよい。なぜなのだと思うとともに、それは自分の視力に応じているのだろうと察知する。ようは視力が悪いと、まぶしい日差しは知らず知らず苦手になっているのだ。このごろよく思うのは、コントラストのはっきりした地面を見ると、影の部分がかつてより見にくい。あたりまえのことだと今までは思っていたが、どうもそれだけではない。例えば日の当たっている地面に窪地があって黒く影になっているとしよう。日の当たっている地面とその窪地は、まったく別世界で、窪地の中の様子はまったく闇の世界となってしまう。これは写真の世界と同じで、その暗い部分は、なかなか写しだすのは難しい。結局その暗部を見せようとすれば、フラッシュをたくこととなる。こんな操作に慣れてしまうから当たり前だと思っているのだが、まだそれほど視力が低下していなかったころには、あまり意識したことではない。ようは視力が低下し、モノを見るにも目を細めるようなしぐさになるとともに、光の加減をそうした動作でするようになっていたわけである。そしてそうしたしぐさを長い間しているうちに、体の慣れとでもいうべきか、目の慣れとでもいうべきか、自分の体と意識、そして行動という部分で「当たり前のこと」と判断するようになってしまったのではないだろうか。それとカメラを持つということもそうした意識を育ませているように思う。

 ということで、どんよりしている世界の方がわたしの視界ははっきりする。不思議なことに、音が普段になくはっきり聞こえると、視力もいつになく良いような錯覚に陥る。騒々しいという印象を持ち、駅へ向かう。狭い道を、後ろからやってくる車の音がすぐに認識できる。もちろん少し振り返ると、その車の姿もはっきりする。「今日は頭の中がすっきりしている」とそんな印象を持つのだが、本当はふだんと変わりない短い睡眠時間で疲れもたまっているはずである。コントラストのない空間にふだん見えないモノが見える。そうなのだ、明暗がはっきりしていない方が、物事が見え、また判断ができるはずなのだ。
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廃村を行く人①

2008-02-25 12:19:31 | 農村環境
 別日記で「熱中人」(NHK「熱中時間」)に登場していたHEYANEKOさんについて感想を述べたら、ご本人からコメントをいただいた。まさか探し出していただけると予想もしていなかったため、本スペースではなく、裏番組というべきかそれとも表番組というべきかなんとも言えないが、そちらに記載した。だからかなり勝手なことを書いた。すると再びコメントをいただき、5名ほどの当番組に対してコメントしているブログを紹介して下さった。これもまたありがたいことで、休日だというのに仕事をしている時間を割いてのぞいてみた。

 おしなべてそのコメントから感じられるのは、みなさん好意的に取り上げている。「なにをそんなくだらないことをやっているんだ」みたいなことを実行する人というのは貴重な人だと思うものの、現実的にはマイナーな存在であるし考え方でもある。そういうわたしの視点もけっこうマイナーな視点であるとともに、「なに、そのくだらないこと」と言われることもけっこう多い。かつてまだわたしの民俗学の認識か、一般人の認識とたいして変わらなかったころ、「こんな当たり前のことを調べても・・・」と疑問を投げかけたら、「そんな当たり前のことでも調べられていないことだから意味がある」と言われ、その場ではまだ納得はいかなかったものである。加えて「このことは○○で調べられているのでは・・・」と問うと、違う視点(人)で調べてみると違う意見が生まれるもの、などと言われたりしたものだ。同様に「何の意味があるんだ」と問われても、確かに意味はないかもしれないが、その意味のなさそうな世界に透かしてみてみないと、その背景とか裏側が見えてこなかったりする。そういう捉えかたでいけば、かなりくだらないことなのかもしれないがどこかでその経験が、あるいは問いかけが生きるときもあるだろう、くらいな気持ちでやれば、より一層奥深いものになるんだろう。かかわってきた民俗学については、そんな考えをするようになったが、いまだそれが意味あるものだと感じたことは少ないし、社会問題にもつながるようなテーマであっても、なんら解決の糸を引き出すこともできず、「本当に意味があったのだろうか」などと考えることもしばしばである。だからどこかHEYANEKOさんの世界も似た世界なのである。

 さて、廃村めぐりをするHEYANEKOさんに対しておおむね好意的なコメンテーターであるが、その書き振りからいくと、廃村を現実的に訪れたことのある人はいそうもない。社会問題になりつつある限界集落をとりあげ、農村地帯を専門としている方々のコメントを紹介している「桃猫温泉三昧」さんがどういう関係の人か気になるが、脱グローバリゼーションだけではこうした問題を解決できるとはわたしは思っていない。あくまでもHEYANEKOさんはそんな問題解決を願っているとも思わない。元来平家の落人伝説が語られるほど、人間は秘境のような場所を開拓してきた。いずれこの国の人口が減少する時代がくることは解っていたはずであり、そしてまたその現実に向かって進んでいる以上、廃村が今後増えていくのは止めることはできないのであるし、そんな環境下で人々の暮らしを守っていくともなれば、以前わたしが触れたように、住環境をコンパクト化させていくのも共存していく中での一方策であるに違いないのだ。「らじすけ空間」さんが「今のわたしにできることは何だろうか」という。何もできないのである。せめてふるさとに親がいてその空間を維持しようと農業をしているのなら、できうる限りそのふるさとに回帰する策を考えることだろうし、手伝いをしに帰ることである。そしてそういう境遇ではない人たちは、その空間を眺めて切なくなるのは辞めて欲しい。またそこから趣味のように「ふるさと感」を覚えるのもわたしとしては辞めて欲しいことである。それほど地方、とくに山間地域に暮らすということは負担が大きいのである。

 続く
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住宅地周辺の不幸

2008-02-24 11:34:02 | 農村環境
 現代人は人とのかかわりに癒しを感じない。せいぜい寝ている赤ん坊を見つめるときと、泣かない赤ん坊をあやすときくらいかもしれない、それを感じるのは。ということで現代人は人間ではなく、動物、いわゆるペットに癒しを感じるものだ。芸能人なら犬やネコを飼うのは当たり前というくらいに癒しを人間外に求める。気持ちは十分に解るが、今や普通に暮らす人々もそういう傾向である。ストレスがたまる人間社会ということになるわけであるが、いっぽうで人間とのかかわりを忘れてしまって、なかなか相互作用ができなくなってもいる。それを現すものとして非婚とか、独居老人、今や老人だけではなく多くの独居世帯になっている。長い間のそうした関係は、自然と身につき、ほかの世界はことごとくストレスに感じるようになる。そして人事ではなく、自らもそうした流れにやり易さを覚えたりする。

 このごろ伊那市近郊の現場を歩く。わたしの現場はほとんど農村地帯にある耕作地、あるいはその周辺である。市近郊であるから耕作地帯が広がっていても、周辺には新たな住宅が点在、あるいは団地化していたりする。そんな地帯の水田の脇を歩くと、ふと犬の糞が視界に入る。「危ない」と思って踏もうとしていた地面から焦点をはずすと、その横にも違う塊が並ぶ。よその犬が排出した場所に同じように排出する犬だから、ひとつあれば二つあるのがごく普通のことである。気がついてから周辺を見回すと、けっこう犬の糞が目立つ。道端であるからこういうこともあるのだろうと視線を耕作地からはずすと、やはり近在に新規の住宅があちこちに見える。犬の散歩には糞をした際の処理を考えて道具を持ち歩くのが常識なのだが、そんな当たり前の常識が消えうせる。住宅地内なら排出された糞が目立つものの、土の上にされた糞は目立たない。混住地帯というのは、犬の散歩をする人たちにとっては好条件なのか。犬が糞をするとその量は大きさにもよるがけっこうな量となる。もちろん土に還るものだからゴミとして出すよりは土に還した方が環境負荷は少ない。狭い住宅地内で土に還すのが嫌なら、水田や畑地帯の中に捨ててしまえば簡単である。その一つの方法として「散歩をして糞をしてくる」という意識がないともかぎらない。あまり思いたくはないが、こうした耕作地周辺に住んでいる人たちのなかで、犬の散歩に出て糞をそのままにして帰る人たちは、耕作地をゴミ捨て場とでも考えているのだろうか。



 冬季間はこうした耕作地に農家も足を踏み入れないが、耕作している時期にこれほど犬の糞をされると迷惑なものである。せめて埋めて行ってくれればよいが、むき出しの状態では、こうした行為に出る不特定多数の人たちへの不信感も生まれる。今や非農家が農村地域の環境維持のために関わって欲しいという国の流れである。例えば農業用水路であれば、その管理作業に非農家も参加したら銭を出すなんていう補助制度もある。しかし、現実の農家と非農家の関係など理解していない人たちの考えに違いない。農業を知らない人たちの増加に伴い。この関係を好転させる策も見えなくなっている。そして耕作者にもストレスがたまるばかりとなる。
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現代人の衛生観 その③

2008-02-23 12:46:38 | 民俗学
(跡見学園女子大学大学院人文科学研究科日本文化専攻の教授と院生による論文「明治期女子教育における衛生観の形成―『女学世界』を読む―」(『信濃』60-1)から読み取る現代人の衛生観その3である。)

3.個室化と衛生観

 次に人との接点として取り上げている場が宿泊施設である。その前に日常での人との接点をトイレ意外に取り上げてみよう。たとえばわたしの日常はどうだろう。家を出てからの接点といえばまず電車内である。座席に座ればその座席、立っていれば吊革(今もそういう言い方で酔いのだろうか)ということになる。もちろん吊革を利用しなくとも、飯田線のように複線部へ分離する際の大きな揺れがあればどこかへつかまることとなるから、それは取っ手などさまさまである。座席に座っていれば直接的に肌が接することはない。問題はそうし取っ手の類のものになる。とはいえ、人口密度の低い地域には変わった人は少ないから、おおむねそんなことを意識しているような雰囲気は見られない。

 路上を歩いていて接点はほとんどない。あとは会社である。デスクワークであれば基本的には自ら普段利用する机だからそれほど人との接点はない。あとは共有している設備ということになる。せいぜいPCの類、現場へ出かける際の車ぐらいだろうか。ようはトイレ以外の場所で、それほど意識するべく空間はないということである。とくに会社の場合は顔が見えている。普段のかかわりの中で例えばの話しであるが「この人は不潔そう」などというのは解っていることであって、対策が取れるわけである。とすればやはり不特定多数の人が出入りする空間に限られてくるだろう。したがって職種にもよるだろうが、日常の中ではなかなかそうした異常なまでの清潔意識を持つ場面はないと思うのだがどうだろう。

 そこで非日常の場面が登場することになる。冒頭に上げられた宿泊施設とは、非日常でありながら、自宅と同じような暮らしをそこで一時過ごすわけで、自宅のようにくつろげるというのが第一の条件になるだろう。とすれば宿泊施設はまっさらな状態でなくてはならない。無味無臭のような感覚、真新しければそれにこしたことはない。このことに彼女たちも次のように触れている。「前泊者がいたのにも関わらず、その痕跡を消し去る程の清掃をすることで、次に泊まる宿泊者に快適な部屋を提供することが出来、宿泊者もそれを望んでいる。従って、もし、前泊者の痕跡が少しでも残っていた場合、次の宿泊者は不快に感じてしまう。つまり、他人が使用した物を私達は、「汚い」「不潔」と認識してしまう」というものだ。実はこの意識の原点には、核家族化、そして自宅の中での個室化というものも影響しているだろう。かつてなら宿泊施設に共有空間と言うものがいくつかあっただろう。しかし、今では宿泊施設は完全なる個室化である。建物への入り口は共有していたとしても、部屋へ入ってしまえば自宅と同じなのである。食事を部屋でとれば、もう入ったきり一度も出なくとも一夜を過ごすことになる。旅館が低迷し、ホテルが好まれるのも個室化という形式をとっているからだ。ようは共有する施設だという意識がない以上、よそ者の痕跡は消さざるをえないわけである。これは衛生観というよりも自分の空間を維持したいという意識が上に立っているように思われる。

 続く
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駅という境界

2008-02-22 22:37:07 | 歴史から学ぶ
 わたしの利用している駅の駅舎にある財産登録票を見ると、「T9.12」とある。この駅が開設されたのは大正11年のことだから、まだ開設される前から数えること、88年経過している建物である。当時のまま現在も姿を残す駅舎は、長い間地域の人々と共に存在してきたわけである。『多摩のあゆみ』129号において、「変わりゆく駅風景」という特集を組んでいる。東京郊外の駅周辺の変化を捉えているわけである。青梅線拝島駅の歴史が語られているなかで、初代の駅舎が開設されたのは明治27年という。そして二代目の駅舎になったのが大正14年というから、わたしの利用している駅舎よりもあとのことになる。拝島駅はこの春に一新して五代目になるという。周辺の環境が変化すればするほどに駅の姿も変化する。東京近郊の駅はそうした変化をしてきたわけである。

 そこへゆくと人口が減少していく、そして鉄道利用者が減少していく環境では、駅の姿は変わらない。それだけ古い駅舎がそのまま残ることになる。飯田線にはそんな古い駅がたくさんある。88年といえば人の平均寿命より長い。とすればできたときからの駅をずっと知っている人はほとんどいないだろう。当時は駅員もいて普通の駅だったのだろうが、今や無人化していて駅舎そのものもこれほど大きくなくてよい。したがってもし老朽化で建て直しという話しにでもなれば、ごく簡単な待合室程度のものになってしまうのだろう。通勤上で利用している伊那市駅までの間には、白くペンキで外装を塗られた駅舎がいくつも見受けられる。それほど古いという意識をさせない雰囲気を醸し出しているが、化粧された裏にはずいぶんとしわが見える。とくに待合室内の中は往時をしのばせるほどの黒みを帯びている。

 同誌の中で佐藤美知男氏は「昭和40年代の多摩東部の駅」の冒頭でこんなことを述べている。「駅は橋に似ていると思っている。ある世界から別の世界へ行く通過点であり、人が集って別れ、散ってゆく場所である。だから駅の建物は具象として心のよりどころにもなる」という。百年近い歴史の中で、世の中は大きく変化してきた。駅ができて以降前半は戦争という世界にたたずんだ。当時駅は出征するための入り口であった。それを最後に帰らぬことになった人もいるだろう。そして出征先から帰還すれば、それはふるさとへの入り口でもあった。そうしたドラマの入り口、境界にあったものが駅なのである。毎日こうして駅を利用していると、車の移動にくらべれば自らの住空間は狭い範囲となる。それは駅という窓口を通してよそとつながるからだ。そこへゆくと車の場合は特別な境界意識を呼び起こさなくなってしまう。せめて橋を渡って別のムラだったりすると少しは意識するだろうが、必ず同じ駅の窓口を通過するのとはだいぶ違う。そういう意味で、都会以上に境界がはっきりしている地方でありながら、そこに住む人たちは自らの暮らしの中での境界を見失っているに違いない。だからこそ境界意識の基本が行政界になってしまうわけである。
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通りゃんせ

2008-02-21 18:27:00 | つぶやき
 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細道じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちっと通して くだしゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つのお祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ

とは童謡の「通りゃんせ」である。江戸時代には「御用のないもの」という部分が「手形のないもの」だったと中日新聞2/19「童謡の風景」で触れている。そして「こわい」は「硬い」を意味するのではないかと解く。ようは行きは体が動くからよいが、帰りは疲れてしまって大変だというような意味だという。なるほどと思うが、こうした歌を解こうとすると、なかなか違和感のある部分が多い。天神様の境内がどれほど広いかわからないが、階段が何百段もあるかもしれない。それなら帰りは膝が笑ってしまって危険かもしれない。そうだきっと階段の数が多いから登りは良いが下りは大変なことになるやもしれない。お宮なら下ってお参りすることはない、上ってお参りが普通だ。例えば金比羅さんにお参りに行って、年よりはなかなか上まで上るのは大変である。帰りのことを考えて途中までであきらめるなんてうケースも珍しくはない。きっとこの歌の舞台は階段の多い天神さんなのだ。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』では「遊廓に行った男が(行きはよいよい)遊女に梅毒などの性病をうつされた(帰りはこわい)という説もある」という。「行きはよいよい 帰りはこわい」についてどういう意味なんだ、という問いをしてまた答えているページがたくさんある。しかし、よく考えてみると、それ以外にも違和感のある言葉がある。たとえば通ろうとしているものは、「ここはどこ」と質問している。どこかへ迷い込んだのか、それともひやかしなのか。そして「天神さま」への道だと聞くと「通して」と願う。その迷いのない願いは、やはり天神さまへ向かおうとしていたが迷ってしまったのか、であるならば「ここはどこ」などとなどという質問の仕方にはならないだろう。さらに「用のないものは通さん」といっているのに、用事をしっかりとお参りだという。やはり天神さん、あるいは天神さんでなくとも趣からそこが参るべくお宮であると認識していたが、確認の意味で「どこ」と聞いたのだろうか。そんな流れの中に「行きはよいよい 帰りはこわい」となるからその言葉に違和感が生まれてしまう。基本的には地獄への通り道みたいなもので、「通らない方が良いが、通るなら責任は持ちませんよ」と言っている印象である。
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現代人の衛生観 その②

2008-02-20 18:10:18 | 民俗学
(跡見学園女子大学大学院人文科学研究科日本文化専攻の教授と院生による論文「明治期女子教育における衛生観の形成―『女学世界』を読む―」(『信濃』60-1)から読み取る現代人の衛生観その2である。)

2.トイレに見る衛生観

 トイレは清潔に見えるにこしたことはない。彼女たち(跡見学園女子大学大学院生)が接する東京のトイレのことは解らないが、地方のトイレも清潔にするという観点は昔にくらべればいきとどいていて、とくに公共のトイレは1日に一回は清掃されている。このごろ財政難の村がこうしたトイレ清掃を外部委託せず、職員が自ら行うというニュースが流れたりするが、主に利用するのが職員だとすれば、節税のためにも「自分のことは自分でする」という行いはよいことだろう。とはいえ、昔はみな自分たちでやっていたことではないのだろうか。高速道路のサービスエリアなどに入ると時間単位で清掃が行われていて、「○○時に掃除をしました」みたいな表示もされている。表示をする意図がどういうものなのか知らないが、あからさまな表示は「きれいにしていますよ」というアピールにも見える。そうした公な場所のトイレも中には立派なものがあって、中条村の道の駅のように見事な大理石で造られたものもある。しかし、高級感よりも清潔感というのが理想なのだが、そこが「道の駅」というお役所的な思想が背景にあって高級志向のものが良い、みたいな意識が少し前にはあったのだろう。不特定多数の赤の他人と接するこうしたトイレ空間。もともとが「排泄」という自らの排泄物でも「汚い」から早くどこかへ行ってくれた方がありがたいと思っているモノが他人のものと混在する空間である。意識として「汚い」というものがあるから、そんな空間で赤の他人と接するのは最小限にしたいと思うのもごく普通なのだろう。だからこそ彼女たちが唱える「境界の衛生観」が登場するわけである。汚い場所だからよりきれいにしていて欲しい、そして他人とは触れたくない、そうした人と人との境界なのである。

 トイレへ入って他人との接点をあげてみる。まず、ドアがあればその取っ手。男性の場合なら大小別空間であるから違いが出てくるが、女性は大小同空間であるからより人との接点は多くなる。必ず個室に入るわけだからトイレ全体のドアがあれば個室のドアもあって2つのドアを通過する。洋式トイレなら、女性は1日に何回も便座という他人との接点に遭遇することになる。それに比較すると男性の小便所はそうした接点は極めて少ない。男性の清潔意識が高まらないのも解るような現実的な違いである。用をたすと次の接点は水を流す操作である。現在ではほとんど自動になっているため、とくに男性にいたってはドアに触れることさえなければ小便行為に他人との接点はほとんどなく、手洗い場へ移動してからの水栓の操作くらいである。それも自動ならば、接点ゼロでトイレから出ることが可能である。もし水栓が自動でなければ手を洗わずに出てしまえばよいわけである。このように男性は比較的接点か少ないが、接点の多い女性はどうなのだろう。そんな接点をなくしたいこころをくみ取ったように、都会では先進的なトイレ事情になっている。論文には次のようなトイレが紹介されている。

「便所で用をたし、流す際には、便所自体に直接手を触れることがなく、センサー式の洗浄ボタンで自動で流すことが出来る。手洗いの場合は、水が出る所、石鹸が出る所、温風が出る所、それぞれに手をかざすとそれぞれのことが自動で行える。これらの機能は、最近では、どこのトイレでも見られるが、池袋ROBUでは、生理用品を捨てる際のエチケットボックスまでもが電動式になっている。」

 男性にはない設備に対しても接点がないよう仕組まれているわけである。生理用品を置くと蓋が開いて飲み込んでくれるという。不思議な世界であるとともに、見事というしかない。

 ところで昔わたしが始めて和式の水洗トイレに入った際、流すときに「これは手で操作するものなの?」とそのレバーの位置に少しとまどったものだ。そしてきっとこれを手ではなく足で操作しようとする人もきっといるに違いないと思ったが、それはあくまでも戸惑いのなかでの勘違いであって、意図的にそうするという意識ではなかった。ところが今回彼女たちがこのことに触れていて、

「自分以外の人が使ったものを「汚い」「不衛生」と感じてしまう私達は、この設備(文からここでいう設備が何なのかいまひとつ読み取り難いが、「タッチレス機能」だろう)を使用することで、前使用者の痕跡を消すことができるため、「清潔」「衛生的」と認識するのである。しかし、前使用者の痕跡を消し去るものがトイレに置いていない場合、例えば和式便所の際、設備を触って流す場合、その設備に触れたくないがために、つまり、その設備を「汚い」「不潔」と考えているため、足で押すといったことを平気でする人が多い。この足で押す行為というのは、次に使用する人のことを全く考えていない行動である。」

と述べている。「平気でする人が多い」と言っているわけで、女性の間でそういう行為が平気で行われているということだ。前回、「家庭内商品に対して除菌抗菌という文字が躍る」ことに対して、家庭内でそんな意識はないのではないかと解いたが、もしや家族間でも接触したくない時代がすでにやってきているのかもしれない。「汚いのではないか・・・」ではなく、「汚い」という意識があるとしたら、他人=汚いということになってしまう。ここまでわたしは、触れたくない原点に、「誰が触ったともわからない部分に触れたくない」という意識があってそういう行為に出るものだと思っていたが、そんな生易しい微妙な感覚ではなく、割り切った形で「汚い」とか「触れたくない」というものが存在しているのかもしれない。

 続く
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報われない時代

2008-02-19 12:36:39 | ひとから学ぶ
 このごろになってそんなテレビドラマを好むようになったわけではないが、家にいるとあまり重たくないドラマをいくらでも見る。昔から好きなものが水戸黄門、あるいは大岡越前なんていう時代劇の単純なものである。そしていわゆるサスペンスものの2時間ドラマというものも時間さえあれば頻繁に見る。内業をしながら見るには理解しやすいということもあってバックグラウンドには最適である。その横で妻は寝転んで転寝をしているが、寝転んで何も考ええずに見られれば、そんな幸福なことはない。そんな勧善懲悪的なドラマを見ていると、妻は「また見ている」とひやかしを入れる。

 ところがこうした単純なドラマは、年寄り向きである。若者はどう捉えているのだろう。先ごろ深夜のテレビドラマでは特別高い視聴率をとったSPが終わった。すでに次のドラマが始まって何回か経過しているが、次へ次へと期待させたドラマでは珍しくわたしも興味を持った。しかし、最終話には意味ありげなラストがあったように、本当の年寄りにはちょっと解りづらいドラマ仕立てであったに違いない。大雑把に捉えれば、前述した水戸黄門が年寄り向けのサスペンスなら、後者は若者向けのサスペンスとなる。単純なストーリーと意味ありげなストーリー、どちらも好んで見ている者として分類をしてみたわけであるが、ごく当たり前のことでもある。少しはストーリーに変化が欲しいと思うものの、おおかたのサスペンスものは、登場人物の人数がだいたい決まっているから意外と単純である。犯人が予想できる、だから単純になる。2時間ドラマの多くは、前者の水戸黄門系ドラマに入る。

 昔も意味不明なドラマはいくらでもあっただろうが、サスペンスものに限らず最終話が悲劇で終わるケースは少なかったはずだ。もちろん今もその傾向は強く、主人公が死んでしまうというドラマはそう多くはない。しかし、死んでしまったとしてもストーリー上報われていればなんら問題はない。視聴者は涙を流して「うんうん」と頷けば、一応正当な終わりである。ところが、最近のドラマなんかを見ると報われないドラマがけっこう多いとともに、意外とそんな報われない世界が受け入れられている。勧善懲悪というと悪がこらしめられて、善が勝つというものだろうが、わたしにしてみると、ただそれだけではハッピーエンドとは捉えられない。例えばSPの主人公、どう考えても主人公がハッピーエンドというスタイルではない。ようは虐げられた世界の中で力を発揮するから視聴する側は楽しいのかもしれないが、報われた境遇ではない。そんなドラマをわたしも楽しいと思うが、どこかで報われない部分は気持ちの中に残る。だからこそ楽しいのかもしれないが、それが受け入れられる時代背景には、悩み多き世界がうかがわれる。もちろん昔だってそういうドラマ仕立てはいくらでもあった。子どものころ好んで見ていた「大江戸捜査網」。「死して屍拾うものなし」という合言葉は、闇の世界を現しているが、あくまでも報われない人たちが主人公である。裏を返せば、大学の抗争が流行ったなんていう時代は、まさに報われない人たちにとっての勧善懲悪的な世界であったに違いない。しかし同じような報われないかつてのものと現代のものは違うような気がする。報われなくとも明らかに勧善懲悪が見えていたドラマと、報われないとともに勧善懲悪が予想し難いドラマの違いだろうか。だからこそ、再放送でない現代の「水戸黄門」が好きなのだ。

 PS 本当はTBSで放映される月8シリーズでは、「大岡越前」が「水戸黄門」以上に好きなのだが、シリーズに最近は登場しない。なぜ大岡越前が良いかというと、水戸黄門より穏やかな仕立てだからだ。時代がそれは求めないのだろうか。
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牛の爪切り場

2008-02-18 12:22:08 | 民俗学


 先日参加した長野県民俗の会例会では、飯島町の伊藤修氏から馬の血下げ場・馬捨て場などの遺構について話をうかがった。機械の導入されるまでの農業は、人手はもちろんであるが、牛馬に頼っていた部分も多い。モノの運搬となれば、それこそ馬が利用されていたわけで、県内ではいたるところに馬頭観音が祀られている。こうした馬頭観音は、馬を祀っているわけで、そこで馬が死んでしまった、とか墓として碑を建てるなどということが盛んに行なわれたわけである。考えてみれば、道端に建てられたこうした碑は、必ずしも土地の所有者の了解が得られているのかは不明である。もちろん道の脇にあれば公の土地ということにもなるだろう。人様の土地に建てるよりは、まだ公の土地の方が建てやすい。死亡事故があったような現場に、お地蔵さんを建てるなんていうことがされているが、ほとんどは公の土地にそうした碑は建てられている。建てるにあたって了解が得られているのか、はたまた無断で建てられているのか、馬頭観音の碑のことを考えながらそんなことを考えた。

 冬の間じっとしている馬は春先に血下げといって血を抜いておとなしくさせる。そんな血下げは地域のなかで一か所に集めて行なわれたわけで、そうした場所を「血下げ場」といったという。そういう場所には馬頭観音の碑がいくつも並んでいたりする。わたしの子どものころ遊んだ場所が、伊藤氏が紹介した遺構の中にある。飯島町本郷第六にある保定枠というものである。米山さんという近くの方に聞きとった話が紹介された。「昔は農協の人から通知がありここへ馬や牛を連れてきて爪切りをした。馬はおとなしいが牛は気性が荒いので木枠に足を四本縛り一本ずつはずして爪を切った」というものである。こうした保定枠が現存している例はとても少ないという。わたしはこの話を聞いたとき、「今でも残っているんだ」と驚いたほどである。わたしがそこの場所で遊んだのはもう40年近く前のことである。実はわたしが聞いていたこの施設、「牛の爪切り場」と言っていた。馬の時代はすでに遠くなっていたこともあって、牛の爪切りのためにある施設と思っていた。事実牛の足の爪を切っている様子が、記憶のどこかにある。生家の牛も「今日は爪切りの日だで」といって父が連れて行ったことを覚えている。既に牛の時代、それも農作業に使うためではなく肉牛として出荷するための時代であっただけに、馬の遺構という認識をしていなかった。そしてまだ真新しい保定枠だったように思う。その保定枠が現存しているのである。伊藤氏は中川村の南田島に残っていた保定枠も紹介してくれたが、実はその保定枠、ついさきごろ伊藤氏が訪れてみると姿がなくなっていたという。確かに朽ち果てそうな保定枠は、とてもよれよれの状態で、かつて馬や牛が暴れるのを防ぐために縛り付けた枠だとは見えない。いつ消えても不思議ではないかもしれない。会の中でもこの「本郷の枠は今でもあるんですか」という質問が上がった。気がつくとなくなっていた中田島の保定枠のことがあったため、伊藤氏も確実にあるということを口にはできなかった。

 ということでわたしが見に行ってみたところ、保定枠はしっかりと現存していた。枠の中に椿の木があって、ほかにも小さな木々が密集している。きっと夏場になると緑で覆われているにちがいない。枠の下に並ぶ石もなんらかの用途があったのではないだろうか。集会所の脇にあるということで、わたしの子どものころは、ひとつの遊び場になっていたし、この前を必ず通って学校に通った。またこの前を通って通った子どもたちが多い。そして記憶に残っている場所であるはずだ。そんな場所がずっと残っていると言うことが楽しいのである。
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新聞紙面の変化

2008-02-17 10:17:00 | 歴史から学ぶ
 3/24から新聞の紙面が変わると言う(信濃毎日新聞)。現在は15段組で一行の字数が11字、行数は75行ある。単純に掛けると12,375字になるが、実際は15段すべてに文字が並んでいる紙面は少ない。皆無と思ってよくみてみると、経済面の株価が表示されている面は紙面いっぱいに文字が並ぶ。あまり縁のない紙面だから気がつかなかった。ただ一般面ではせいぜい10段前後ということになる。10段として8,250字となる。それが今後は一行13字、71行で12段組になるという。単純には11,076字となるが、広告を狭めて字数を調整するのか紙面を多くするのかどうなるのだろう。今回の変更のうたい文句のひとつに、新聞を折った際の8段目が偶数段にすることで読みやすくなるという点だ。この不満は以前から持っていた。新聞を広げて読むことのできないとき、例えば電車内とか飲食店内とか、そんな際にこの8段目とはいやな場所だったし、以外のこの8段目が記事の最終行になっていることが多く、大事な部分が分断されているという印象があった。偶数段に区切られることによって、この障害が消えるわけである。文字の大きさは年々大きくなってきたが、この段数が変更されることはなかったというから、意外な部分である。だれしも思っていた読み悪さがなぜこれほど長い間続けられてきたのだろう。奇数を好む国民性なのだろうか。

 今から29年前の昭和54年2/18の新聞がある。一行の字数は15字、93行ある。10段に文字が埋まるとして13,950字となる。一面の字数差5,700字となり、現在は約60%ということになる。当時の新聞の面数がどれほどであったかまで手元の新聞ではわからないが、おそらく字数そのものはかなり多くのものをコンパクトに表していたことは確かである。当時も年寄が老眼鏡を掛けて読んだり、目を細めて読むなんていうのを見かけたものだが、そんな時代にくらべると読者は明らかに高齢化しているはずだ。わたしは近視のため本当の老眼というものがわからないが、今回の変更でそうした人たちには少しは助けになるのだろうか。はたまた近視人口が多い中、むしろ新聞読者は文字が小さくても気にならないのだろうか。ちなみに昭和54年の紙面、わたしは裸眼で読むことができる。

 新聞読者そのものも減少しているだろうから、文字の拡大はそれほど必要性を感じないが、いずれにしても折り目に文字が重ならなくなるのはヒットである。そういえばメリットがもうひとつ。わたしはよく新聞の記事を読んでココで変換することがある。もちろん昭和54年の新聞を読み取るのと、現在の新聞を読み取るのでは、文字の変換の適正率が違う。文字は大きいほどに読み取りは完全な形になる。そういう意味ではありがたいことになる。
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トラブルの日々

2008-02-16 23:52:20 | つぶやき
 今日は長野県民俗の会162回例会を企画して、なんとか収めることができた。昨日訪れた厄神除け行事に関するわたしの発表も入れたが、この発表に際してトラブル続きだった。最たるものが、類例のデータを250件ほどそろえていよいよまとめをしようとしていたらデータファイルが読み出せなくなった。ようはファイルが壊れたわけである。「○○にアクセスできません。ファイルは読み取り専用であるか、または読み取り専用の場所にアクセスしようとしています。または、サーバー上に保存されているドキュメントから応答がありません。」というメッセージである。最近こうしたトラブルがなかっただけに、まさに「忘れたころにやってきた悪夢」といったところである。同僚に聞いても「そのメッセージの場合おそらくダメ」という。同様のことがウェブ上の質問箱にもあっていつまでも悔やんでいてもしかたないと、方針を変えた。当初は全国のデータもある程度集めておいてそうしたデータも含めて行事を解こうとしていたが、とりあえず長野県データに対しての位置づけにするとともに、データそのものもテキストデータで読み取ってデータ化する前の生のものをかき集めて資料化して勘弁してもらうことにした。かき集めのために1日使ったため、まとめの1日が消えてしまって、いつものごとく時間不足のばらばらなものとなってしまった。データを収集したことからも、いずれは文章としてまとめる予定であっただけに、このロスと言うか要した時間の消滅は重くのしかかる。バックアップをしておかなくてはならないと改めて思うとともに、寝不足の中で寝ぼけて作業をして作業を終了するようなときはとくに気をつけなくてはならない。久しぶりの出来事であったが、意外にもかつてもそんな不真面目な状態で同じようなことを繰り返してきた。

 例会は下伊那郡松川町で開催した。昼食で「何かご希望は」と問う中で地元で最近力をいれている「ごぼ豚どん」の話をしたところ「それがいい」という話になった。長野市や松本市といった遠方からの参加者だけに聞きなれないご当地丼に興味が湧くのは当然なことかもしれない。以前に触れたことがあるように、わたしはあまりお勧めではなかったが、そんな看板を掲げる店を訪れる。わたし以外はすべてこの丼を注文する。店ごとに違いがあることは知っていたが、わたしが以前食べたものとは違っていた。食後に「どうでした」と問うと「美味しかった」と応える。がしかし、そのあとに「うーん、二度も三度もは頼まないかも」という。わたしと同意見である。お世辞で「美味しい」と言ってくれたかと思ったらお世辞ではなかったが、そのあとの言葉がこのご当地丼の危うき実態といったところである。



 諏訪形というところで行なわれたヤクジンヨケという行事。もともとは青年会が行なっていた行事が、戦争で中止され、復活したのは老人クラブというまったくの環境の変化。それでも行事で作られている大ゾウリを厄神除けに利用している現在も行なわれている事例はそう多くない。かつて青年会が行なっていたころのことを思い出しながら当時の様子を語る。近くのお不動様の祭日と行事を行なう日が同じだったといい、祭りに向かう若い人たちがこの集落を通った。できあがった大ゾウリを道祖神のある前で道に置き、若い女衆が通ると「この上を跨げ」といって通せんぼをしたという。通ろうとすると、両側でツナを引き、着物の裾がまくりあがるのを楽しんだという。今やったら犯罪行為になるかもしれないが、おおらかな時代であった。ほぼ完成した大ゾウリを整える写真である。女性たちの表情がとても印象的である。データが消えたという滅入る話と、まったく異質な行事での顔、とてもそれだけでは発表にならないと思いながら、行事終了後、翌日の準備に追われ、ついでに今朝はさらなるトラブルとつながった。とりあえず資料は完成したが、突然の消滅、突然の故障、などなどトラブルめいた事象が頭の中に浮かぶ、そんなことが多いこのごろである。
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厄神除け

2008-02-15 23:38:57 | 民俗学


 昭和46年(1971)に下伊那郡松川町教育委員会が発行した『松川町の年中行事』という本は大変興味深い。以前PTAの役員をしていた際、「オヤス作り」をするといって年末に子どもたちを集めて正月飾りを作る催しがあった際、それほど難しい作りではないものの、視覚で説明できる資料がないものかと探したら、この本に図説されていた。実はこの本、松川中央小学校の子どもたちがまとめたものである。飯田市以北の地域では、詳しい民俗調査がされていない。ということで、資料もない地域である。そんななかで松川町の年中行事だけではあるが、子どもたちがまとめてくれた資料がとても参考になる。子どもたちとはいってもこれをまとめた子どもたちはわたしより年配の人たちである。既に40年近く前のことであるからだ。

 さてその本は参考にはなるのだが、いまひとつどこで聞いたことなのか不明な部分があるとともに、解りづらい部分もけっこうある。そんなひとつの例が下記のものである。

「紙に馬という字を十二書き(たてに三つ横に四つ)それを封筒の中に入れ、よそのの四つ辻に持って行って捨て、後を振り向かないようにして帰ってくる。そうすると一年中に悪いやまいがはいらなかった。
 どうしてこのようにしたかについて次のようにいわれている。
 年寄りが「馬の夢を見ると風邪をひく」ということを昔は言ったということを聞いたことがあるような記憶がある。あるいはこの地にそんな言い伝えがあり、そのため馬を書いたのかも知れません。
 十二書いた理由は果して何かわかりません。あるいは十二か月でもあらわす意でしょうか?
 昔から馬の夢を見ると風邪をひくといい伝えがあるが、たしかにうなづける。
 それで馬の字を書いて道に捨てておく。それを外の人が拾うとその人が風邪をひいてくれて、自分の風邪が軽くてすむ。こんな事を少し前までする人がいたが、現在はそんな人に迷惑のかかることは良くないのでしないようになった。
 どうして馬と書くかわからないが、よく風邪をひくと紙に馬の字を一字ずつ十二枚書いて辻に捨てた。何げなしにそれを拾うと風邪がうつるとか言った。
 昔は家内中風邪をひくと馬の字十二字を書いて封筒に入れて道の四つ辻にすてて風邪を追い出した。
 風邪にかかると紙に馬という字を書き、竹ざさにつけ道路の四つ辻に立て全快を祈ったという。
 この時に鶏の絵を一枚紙に書いて馬頭観音に供えると、子供の鳥ぜきがよくなるといった。
 村中へはやり病や悪者がはいりこまないように、村の入口のところに「塞の神」というものを竹の皮や太の小さい箱、中には単に建札を立てて、防ぐおまじないをする。塞の神のお札を竹の棒にはさみ道ばたに立てる。これを「厄神よけ」という。今ではもうみられない。厄病神除けのお札を竹の皮で包み、前だけ見えるようにして二米ぐらいの竹竿の先につけ、区の入口(県道・大きな道の境界)にむこう(よその方をむけて)むきに建て、むこうのから厄病神が来ないようにする。となりのでもそうするのでお札が向き合って立つ状態になる。によっては直径一mもある大きなわらじを作っての入口に吊して置いた。このにはこんな偉大な男がいるから悪神など来れないぞという示威運動だそうです。」

というものである。事例によっては調査地が記入されているが、このデータにはそれがない。そして一か所で聞かれたことではなく、複数の回答が絡んでしまっているような記述である。とはいえ、この行事は2月6日に行なわれたものだというが、大変興味深いことが書いてある。事念仏と風の神送りは、飯田市上久堅を中心として天竜川以東に顕著に見られる行事である。それが少し離れたこの地域にも同じような形で行なわれていたというのだ。もちろん現在は跡形もない。最も楽しいのは「馬の字を書いて道に捨てておく。それを外の人が拾うとその人が風邪をひいてくれて、自分の風邪が軽くてすむ。こんな事を少し前までする人がいたが、現在はそんな人に迷惑のかかることは良くないのでしないようになった」という部分である。道に捨てて誰かが拾うと迷惑になる、だからしないようになったという感覚である。神頼みのワザであるにもかかわらず、迷惑になるから辞めたということが聞けたとすれば、事例としてそんな現実的がいくつもあったのだろうか。

 そして本日は最後に記述されている厄神除けの草履作りを見学してきた。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****