Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代人の衛生観 その②

2008-02-20 18:10:18 | 民俗学
(跡見学園女子大学大学院人文科学研究科日本文化専攻の教授と院生による論文「明治期女子教育における衛生観の形成―『女学世界』を読む―」(『信濃』60-1)から読み取る現代人の衛生観その2である。)

2.トイレに見る衛生観

 トイレは清潔に見えるにこしたことはない。彼女たち(跡見学園女子大学大学院生)が接する東京のトイレのことは解らないが、地方のトイレも清潔にするという観点は昔にくらべればいきとどいていて、とくに公共のトイレは1日に一回は清掃されている。このごろ財政難の村がこうしたトイレ清掃を外部委託せず、職員が自ら行うというニュースが流れたりするが、主に利用するのが職員だとすれば、節税のためにも「自分のことは自分でする」という行いはよいことだろう。とはいえ、昔はみな自分たちでやっていたことではないのだろうか。高速道路のサービスエリアなどに入ると時間単位で清掃が行われていて、「○○時に掃除をしました」みたいな表示もされている。表示をする意図がどういうものなのか知らないが、あからさまな表示は「きれいにしていますよ」というアピールにも見える。そうした公な場所のトイレも中には立派なものがあって、中条村の道の駅のように見事な大理石で造られたものもある。しかし、高級感よりも清潔感というのが理想なのだが、そこが「道の駅」というお役所的な思想が背景にあって高級志向のものが良い、みたいな意識が少し前にはあったのだろう。不特定多数の赤の他人と接するこうしたトイレ空間。もともとが「排泄」という自らの排泄物でも「汚い」から早くどこかへ行ってくれた方がありがたいと思っているモノが他人のものと混在する空間である。意識として「汚い」というものがあるから、そんな空間で赤の他人と接するのは最小限にしたいと思うのもごく普通なのだろう。だからこそ彼女たちが唱える「境界の衛生観」が登場するわけである。汚い場所だからよりきれいにしていて欲しい、そして他人とは触れたくない、そうした人と人との境界なのである。

 トイレへ入って他人との接点をあげてみる。まず、ドアがあればその取っ手。男性の場合なら大小別空間であるから違いが出てくるが、女性は大小同空間であるからより人との接点は多くなる。必ず個室に入るわけだからトイレ全体のドアがあれば個室のドアもあって2つのドアを通過する。洋式トイレなら、女性は1日に何回も便座という他人との接点に遭遇することになる。それに比較すると男性の小便所はそうした接点は極めて少ない。男性の清潔意識が高まらないのも解るような現実的な違いである。用をたすと次の接点は水を流す操作である。現在ではほとんど自動になっているため、とくに男性にいたってはドアに触れることさえなければ小便行為に他人との接点はほとんどなく、手洗い場へ移動してからの水栓の操作くらいである。それも自動ならば、接点ゼロでトイレから出ることが可能である。もし水栓が自動でなければ手を洗わずに出てしまえばよいわけである。このように男性は比較的接点か少ないが、接点の多い女性はどうなのだろう。そんな接点をなくしたいこころをくみ取ったように、都会では先進的なトイレ事情になっている。論文には次のようなトイレが紹介されている。

「便所で用をたし、流す際には、便所自体に直接手を触れることがなく、センサー式の洗浄ボタンで自動で流すことが出来る。手洗いの場合は、水が出る所、石鹸が出る所、温風が出る所、それぞれに手をかざすとそれぞれのことが自動で行える。これらの機能は、最近では、どこのトイレでも見られるが、池袋ROBUでは、生理用品を捨てる際のエチケットボックスまでもが電動式になっている。」

 男性にはない設備に対しても接点がないよう仕組まれているわけである。生理用品を置くと蓋が開いて飲み込んでくれるという。不思議な世界であるとともに、見事というしかない。

 ところで昔わたしが始めて和式の水洗トイレに入った際、流すときに「これは手で操作するものなの?」とそのレバーの位置に少しとまどったものだ。そしてきっとこれを手ではなく足で操作しようとする人もきっといるに違いないと思ったが、それはあくまでも戸惑いのなかでの勘違いであって、意図的にそうするという意識ではなかった。ところが今回彼女たちがこのことに触れていて、

「自分以外の人が使ったものを「汚い」「不衛生」と感じてしまう私達は、この設備(文からここでいう設備が何なのかいまひとつ読み取り難いが、「タッチレス機能」だろう)を使用することで、前使用者の痕跡を消すことができるため、「清潔」「衛生的」と認識するのである。しかし、前使用者の痕跡を消し去るものがトイレに置いていない場合、例えば和式便所の際、設備を触って流す場合、その設備に触れたくないがために、つまり、その設備を「汚い」「不潔」と考えているため、足で押すといったことを平気でする人が多い。この足で押す行為というのは、次に使用する人のことを全く考えていない行動である。」

と述べている。「平気でする人が多い」と言っているわけで、女性の間でそういう行為が平気で行われているということだ。前回、「家庭内商品に対して除菌抗菌という文字が躍る」ことに対して、家庭内でそんな意識はないのではないかと解いたが、もしや家族間でも接触したくない時代がすでにやってきているのかもしれない。「汚いのではないか・・・」ではなく、「汚い」という意識があるとしたら、他人=汚いということになってしまう。ここまでわたしは、触れたくない原点に、「誰が触ったともわからない部分に触れたくない」という意識があってそういう行為に出るものだと思っていたが、そんな生易しい微妙な感覚ではなく、割り切った形で「汚い」とか「触れたくない」というものが存在しているのかもしれない。

 続く

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