Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

仕事を電車内でする

2007-10-31 19:51:42 | つぶやき
 携帯しているパソコンをわざわ購入した理由は、電車の中でも利用できるというものかあった。テキストを書くくらいならケイタイでもできるだろうが、わたしのような年寄にはケイタイほどキーが小さく、ふだんのパソコンで日本語入力している者にとっては、そこで文字を打つのは苦痛である。流行のビジネスケイタイという手もあったが、機種交換をしたばかりだったため、そこまでして選択する気持ちはなかった。たかがテキストを打つ程度なら、パソコンまで持たなくても良いのだろうが、やはり場合によっては仕事もしたい、また保存したテレビを視聴することもできるパソコンの方が利用価値は極度に高い。もちろん今時はケイタイでもできるのだろうが、応用力の問題だ。

 先ごろ仕事が忙しいなか、不毛な会議に出かけた折、帰宅の電車内ではマウスまで取り出して仕事に没頭した。飯田線は揺れが大きいため、普通にキーを打っていてもミスを連発する。電車内で利用する際に、もっとも多く使うキーはBSである。おそらく10文字打つと6文字くらいは訂正している。だからどれほど没頭したとしてもしれた量しか仕事は進まない。それでも間に合わないから電車内が仕事の場となる。30分程度ではなかなか機械を出してまでやるつもりにはならないが、1時間単位で時間があるとすればできる可能性は広がる。それでも仕事、それもマウスを利用しなくてはならないということは、かなり細かい作業である。揺れる具合をみながらヒットしたいポイントに照準を合わせる。しかしなかなかそこにヒットしない。ソフトそのものがかなりいい加減に照準を合わせてもポイントに乗ってくれるものなのだが、それでもなかなかそこへヒットしないのだ。ヒットしたとしてもそこから先への作業もまた揺れとの駆け引きとなる。

 たとえ半分の仕事量だとしても、1時間なら30分の作業ができる。この日は飯田線に入ってからずっと作業をしていたから約2時間にわたる。その時間の割には成果がないという印象が残ったが、少し進んだだけでも納得せざるを得ない状況である。今までなら車で向かっていた長野。しばらくは高速バスを利用したが、狭い、後ろから見られる可能性がある、そして車酔い、とそんな理由でやはり電車の選択がもっとも時間の有効利用になる。時間的にはもっとも遅い電車である。長野まで3時間半から4時間という世界である。バスなら3時間、車なら2時間と時間単位で短縮可能である。2時間でパスして2時間働いた方が進むんじゃないか、という捉え方もあるだろうが、かつてはそんな考えだった。だから人一倍スピードを出したかもしれない。しかし、そういう賭けのようなリスクを負うのにも疲れてきた。リスクを負わずに、また絶えず違った人々の顔を見ることで、思う世界は広がるものだ。もともと人々の行動や考えに対してさまざまに考えてきただけに、少ない時間で多様なものを捉えるには、この方法がベストだと考え選択した。ただ仕事が間に合わなくて、そんな時間にすら事務室代わりの世界を維持しなくてはならないというのも情けない話かもしれない。もちろんそこまのでして「仕事」を日常的に考えている社員は他にはいないだろう。きっと毎日午前零時まで働いている人たちよりも、クリアーな気持ちで自分の時間を維持して仕事をしているに違いない。
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家族連れで電車に乗る

2007-10-30 12:30:09 | ひとから学ぶ
 休日の電車に乗ると、また新たなる思いをする。ふだん同じような時間帯に乗っている空間とは明らかに異なる。休日の日中に境界域(郡境)の電車に乗って家族連れが乗っていたりすると雰囲気が違う。こんな光景があると、電車に休日に乗るのも楽しいものだと思う。きっと子どもたちが「電車に乗りたい」というケースもあるだろう。また、ふだんにはない空間を楽しもうと乗る乗客もいるだろう。高校生なのか、もう少し上の世代かは解らないが、台風一過のずいぶんと白くなった中央アルプスの姿を撮ろうとケイタイをかざす。子どもたちは先頭の窓に展開する風景に声をあげる。すでに南アルプスは真っ白である。そんな光景と電車内の光景は、ふだんになく和やかな雰囲気を醸し出す。平日の電車内には乗客がまばらなのに、休日の電車内は、それほど乗客はいなくとも、どこか賑やかである。

 そんな休日の昼間の電車とは別に休日の通勤時間帯の電車もまたいつになく違ったものがある。もちろん平日の通勤時間帯に比較すれば混雑していない。しかし、そんな空間に平日と同じ顔がやってくると、この人たち「いつ休みなの」と思ったりする。土曜日にそんないつもと同じ顔を見たのに、日曜日にまた同じ顔を見る。たまたまわたしと同じで、この2日間だけ休日に乗ったのかもしれないが、そうでないのかもしれない。まったく休みなく働いているのか、それとも平日のどこかで休んでいるのか、そこまで意識したことはない。たまたま土日に同じ顔を見るから、「毎日」と思ってしまうのだ。

 わが家では子どもが小さかったころに、そんな具合に電車に乗ることはなかった。おそらく2人以上なら、自家用車の燃料費と電車賃を比較すれば、自家用車の方が経済的だ。もちろんそこに維持費は加算されていないが、、自家用車を所有している以上、乗っても乗らなくても維持費はかかる。そう考えれば、家族にとって自家用車は都合のよい道具である。しかし、ふだんなら「こんな人の乗らない区間」に家族連れで、それも遠くからやってきたわけでもなく、また遠くへ出かけるでもない人たちが乗っていると、飯田線もまんざらじゃないじゃないか、と教えられる。もっとこんな乗客が増えればと思ったり、そんな空間なら休日も電車を利用しようなんて思える。なんとなく心のゆとり、そんなところだ。自家用車で買い物にやってきて、とろくさい車に向かってクラクションをがんがんと鳴らし、罵声をかける家族連れのふざけた父親を見ないだけ、電車内は人間的である(今やそれは逆なのかもしれないが=電車利用者が非人間的)。
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最悪のシナリオの果てに

2007-10-29 12:10:56 | つぶやき
 わが社のこのところの最悪のシナリオは、予想通りでない方が、若年層の社員に対してはありがたいことだろうが、わたしの予測はけっこう当たるから、そんなこともあって、もう5年も前から「行く会社が見つかれば、他の会社を選択した方が良い」ということを言ってきた。わたしのようにもうそうした選択も難しくなったものには、せいぜい今の会社にゴマを擦るしかないだろうが、そうはいっても年配層も含めて、悩み続けている会社であることに違いはない。

 この会社、実は役所との関わりが多い。ようは役所が財政難になって予算を切り詰めてきたから仕事がなくなった。もちろんそうでない要因もあるが、いずれ怪しげな会社はそれなりの運命をたどるのは致し方ないわけだ。それでもその背景で「わが社を絶対的に必要としている人たちがいる以上、その役を担う」と言う強い意志で営業しようとしている。それも当たり前で、社員が路頭に迷ってしまっては困るし、自らも路頭に迷ってしまっても困るわけだ。その背景での悩みの種が「れわれは誰のために働いているのか」ということだ。このごろの仕事というものは、生産したものが見えないものが多い。農業のようにモノができて、それを生産物として提供しているようなケースはもっとも形が見えるわけだが、流通上に存在していたり、もっといえばPCのキーを叩いているだけで銭を稼いでいるようだと、なかなか成果が見え難いわけだ。そうした仕事が増加するなかで生きてきた者にとっては、「それでよいのか」と葛藤することは必ずあるはずである。「いったいわたしたちがしていることは役に立っているのか、そして本来わたしたちがする仕事なのか」と悩み続けるのだ。そんな発想は「甘い」とか「ナンセンス」という同僚もいるし、また世間もそういうかもしれないが、そんな狭間で何十年と暮らし続けてきた者が、詐欺師としていき続けるか、堅気の人間として常識(常識も今や常識の基準がさまざまでなんともいえないだろうが)を持ち続けるべきなのか悩むのは当たり前なのだ。

 さて、毎年わが社で予算計画を立てられない仕事がある。災害関連である。そんな仕事もかつてとは異なって、さまざまなサービスを役所に提供するようになった。その要因の①つは、収入を増加させるために「何でもいいから仕事をもらう」という意識を持つ者が少なからずいて、仕事を手に入れてくるからだ。そして②つめは、役所も人員削減をしてきて事務的に間に合わなくなったから、というものかある。役所というところはズルイところで、委託として仕事を出せば誰かが仕事をやってくれる。昔なら税金が有り余るほどあっただろうから、そうして自分たちの仕事を外に出したわけだ。ところが、ちまたの景気が落ちてくると、請ける側も仕事を選択することができなくなり、仕事欲しさにサービスを提供することになる。ところがだ、田中康夫時代に入札率が低下して、そんなサービスをしていたら赤字連発で会社が立ち行かなくなるため、そうしたこまごましたサービスをことごとくしなくなった。それで困ったのは役所だったのだうが、実はだからといって自分(役所)たちか困ったのではなく、その背景をバックアップしていたサービス業に違いないのだ。そんなひとつであるわが社も低下する仕事量と、実入りを計算しながら生きながえるために検討してきたわけで、そんなあやふやな中で、前述したような「何でもやらなきゃ仕事がなくなる」という意見が上昇してきたわけだ。そのつけが非人道的勤務実態を生むことになるわけだ。

 災害関連に手をかけながら「この仕事、本来は役所がすることだよね」と思う社員がたくさんいるのに、そうした仕事をほとんどサービスのようにこなす。収入なくとも将来のために、なんていうのは、将来に大きな仕事が望めるのが前提であって、それがないのにサービスし続ける。それを指摘すれば、今度はそのサービスに対して対価を求める。銭のある役所は、いとも簡単にその予算を計上する。「違うだろう、その仕事は本来あなたたちがするべき仕事で、それを簡単に予算計上するなんていうのは住民無視じゃないのか」と言ってしまえば、自らの首を絞めることになる。そんな狭間でわが社は身を置いてきた。もともと役所の委託業務は、①専門の業者に委託した方が品質のよいものになる。②委託した方が安価だ。③その業務に長けた者がいない。などという理由で存在してきた業務だろう。おそらく30年前と今を比較したら、いかにかつては役所の人間が多くの業務をこなしていたかということがわかるだろう。よく言う言葉に「そんなにやってあげても、〝ありがたい〟と思ってくれる人はいない」というものだ。役所ほど表と裏がある空間はない。そんな人たちにたとえ〝ありがたい〟と言われてもとても信用できるものでもないし、だからといって、そんな関係でわたしたちが赤字を積み重ねていってよいものなのか、と思い悩むのだ。
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中学生の電車通学

2007-10-28 13:43:12 | ひとから学ぶ
 先日電車に乗ると、運動クラブの遠征なのか、垢抜けたウェアを着た若者が2人乗っていた。ふだんこの区間を乗ることはないようで、駅に停まるたびに「新たな発見」を口にしていた。見慣れた風景だと、それが当たり前のように映り、なかなか気がつかないのだが、そんなよそから来た人たちが口にする発見は、見慣れた環境に意外な事実を教えてくれたりする。当初は県外からやってきた人たちかと思ったが、途中で仲間が1人加わったことから、おそらく飯田あたりに住んでいて、電車で通学するような環境に住んでいるのではない、いわゆるマチ場に暮らす若者(高校生だろう)なのだろう。

 そんな2人づれの会話から出た「中学生が電車で通学している」という言葉が印象的だった。飯田線を通学時間帯に乗っていて、その電車に中学生が乗車するという区間は珍しいだろう。もちろん、社会見学に行くとか、中体連に行くなんていう特別な場合のことを言っているわけではない。通年、日常的に中学生が通学に使うのだ。息子の通っていた中学も、昭和の合併の際の条件で、町外れの境界域に暮らす子どもたちに電車通学が認められ、その通学費用を町で負担をする、というような約束が今も続けられているという。補助はなくとも、冬季間は電車で通学できるというシステムもあって、生徒数はそう多くはなかっただろうが利用している子どもたちもいた。学校が遠いからということで電車通学が行われたわけだが、こうした電車通学をしている区間は、飯田線の長野県内区間では数少ないだろう。わたしが認識する限りでは、日常的に利用されているのは、上伊那郡飯島町だけではないだろうか。この町の中学は一校だけである。その中学をわたしも卒業したわけだが、七久保といわれる地域は、わたしが通っていたころもすでにこの電車通学が行われていた。もっとも最南端て乗る生徒は、「高遠原」という駅で乗るわけで、中学まで通うには、駅にして三つ目まで乗ることになる。その時間、約15分ほどだろうか。当時は七久保という地域だけだったが、現在では、伊那本郷でも中学生が乗車する。わたしの時代より、電車による通学区間が広がったということなのだろう。

 さて、そんな中学生が乗車してくる姿を見てびっくりしていた若者には、電車で通学するということが、とても意外に映っていたに違いない。わたしはこの場で何度も電車内の高校生の姿に触れてきたが、実は電車で通学している高校生は、全体にしたらそれほど比率が高いわけではないだろう。徒歩や自転車、あるいはバスとさまざまな方法で通学している子どもたちがいるわけで、電車の空間にいる子どもたちがすべてではない、ということを理解しておかなくてはならない。ただ、これも少し以前に触れたのだが、電車で通っている子どもたちの多くは、マチ場の子どもたちではなく、境界域や周辺域の子どもたちであるということだ。
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最悪のシナリオへ

2007-10-27 16:16:30 | つぶやき
 今日は土曜日である。週休二日だからもちろん休みである。しかし、わが社の社員は、どのくらいの人が仕事をしているのだろう、などと考えてしまうようなこのところの勤務実態である。それが報酬へ結びつけばよいが、そうではないから問題は大きい。しかし、それを問題にしようにも頭は「聞かなかったことにしろ」みたいな状態で、実態を認識しようとはしない。出先の部署でウィークデーは午前零時まで勤務することを統一したというし、「土日も出勤」と部署の長は口にするという。口にするということが命令になっているのか定かではないが、その部署長が率先してそんな勤務実態に合わせて張り込んでいるという。まさに張り込んでいるという言葉は正しくて、見張っているといってもいいのかもしれない。その空間にいる人たちは、よほど人がいいのか、よほどその部署長に頭が上がらないのだろう。わたしだったらまず持たない。残業などせずに持ち帰って仕事をするに違いない。そんな空間で見張られていること自体が許せない。PCを使って仕事をこなすようになってからというもの、PC1台あれば仕事の9割くらいはこなせる。だからわざわざ見張られている空間でなくとも、十分に仕事はできるのだ。現に今も自宅で仕事をしている。もちろん資料などがそろっている会社の方がはかどることは否定しないが、休日に会社で、それもふだんと変わらない風景で過ごしていたら。それは休日ではない。せめて自由な時間の中での趣味だと思いたいものだ。

 このところ、そんなふざけた部署の仕事を合間に手伝っている。先週は自宅ではできない仕事だったこともあって、そんなふざけた部署同様に会社へ出かけた。ほぼ2週間、休みなく仕事に没頭する。それでも数ヶ月前の塞がれた状況に比較すれば「こんなもの人の仕事だから」みたいなところもあって、まじめに会社に詰めるなんていうことはしたくない。だから「忙しくとも余裕の2週間」と口にしている。いずれにしてもこの勤務実態を強いている部署は、今日もいつもと変わりない風景を続けているのだろう。同僚によれば、いつまで続くか、というような状況だ。それでもって無報酬に近く(残業の協定時間はとっくに越えているだろうから、無報酬といった方がよいだろう)、加えて会社の状況が悪く、数年先には更なる人員カット、加えて賃金カットが予定されている。モチベーションというが、そんな状況下で意識を高めることなどきっとできるはずもない。かろうじて存在している職員組合など、今や見る影もないほど低落している。もっとびっくりするのは、そんなふざけた部署の長は、数年前まですっとぼけの職員組合の委員長だった。それも6年にもわたってその場に居座っていた。当時から批判的だったわたしには、この状態が見えていただけに残念というか、ほかのやつらはそれで「良し」としていたのだから事項自得というものなのだろうが、そのふざけたやつの業績を上げるために強いられているこの状態だとしたら、「目を覚ませ」と言いたいが、次から次へと強いられる弾が降り注いで悪夢に陥っているだけのようだ。「内部告発をしろ」などと冗談で口にするようになって、今や「寸前」というところなのかもしれない。このバカな実態を遠目に見ているうちに、その火の粉は十分にわが身の上にも降り注ぎつつある。人それぞれ、いろいろ考えもあるし、そんな現実もあるだろう、と思うものの、このふざけたやつが今やわが社をもっとも誘導している人間だと思うと、そろそろかな・・・、と思うのはわたしばかりではないだろう。どう喝と騙し、そしていじめ、今や病に取り付かれているこの会社は、その病の発端に少なからずお役人の現実があって、そろそろこういうスタイルは辞めよう、そう思うのだが・・・。
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夢と現実の狭間

2007-10-26 12:24:37 | ひとから学ぶ
 仕事が忙しいときと、そうでないときの大きな違いがいくつかある。その一つは、〝夢〟である。結局のところ忙しいと疲れがたまって眠いのだが、寝ても深くない眠りだから夢を見るということになるのだろう。ふだんはあまり夢などみないのに(覚えていないだけだろうが)、眠っているか起きているのか解らないほどの曖昧な世界に陥る。ということは、かなり現実に近い夢を見ているわけで、そんな世界を彷徨っていると、なかなか疲れも抜けきらないものだ。現実に近い夢となると、仕事の夢である。当たり前なのかもしれないが、寝る際に仕事のことわ考えている。明日こなさなくてはならない項目、それをこなす方法、どうすれば無駄が省けるか、などが頭の中を廻る。寝つきの悪い人ならなかなか寝られなくなってしまうような内容だが、わたしの場合は寝つきがよいからそんなことを考えていても、あっという間に寝てしまう。ところがだ、朝方はそんな寝つきの良さと違って、まだ早い時間にもうろうとした世界に入り込み、その世界で仕事の夢を見る。完全に目を覚ましたときに、その内容はうつろなのだが、仕事の内容であることに間違いはないのだ。

 そんな朝を日々迎えていると、なかなか精神的には滅入るものだ。常に考えていることが夢に登場するのは当然のことなのだろうが、もしかしたらこれは正当な夢ではないのかもしれない。すでにノイローゼ気味とでもいえるのではないか、などと悪い方向に考えてしまう。とはいえ、そんなことで鬱状態に陥る人間ではないことは承知しているから、「そんなこともあるさ」程度に朝は始まる。

 夢といえば、このところの現実世界と見間違えるような夢ではない話にしよう。

 あまり記憶に残る夢は見ないのだが、最近になって、いや以前からも見ていたのかもしれないが、同じような空間設定が登場する。自分の部屋なのだろうが、そこに座っている。前にあるのはコタツなのかテーブルなのか、ちょっと思い出せないが、そこでわたしはなにやら資料に目を通している。気がつくと後ろには障子戸だろうか、それとも板戸だろうか戸がある。掃除好きだった(今は違うが)子どものころの経験のせいか、気がついたその後ろの戸が気になる。おそらく押入れなんだろう、ということに気がつき、そのうちに「そういえばこの中をしばらく掃除していない」と思い戸を開けるのだ。するとそこには蜘蛛の巣が張っていて、その現実に落胆するのだ。なぜ落胆するのかというと、掃除好きだったから、なぜこれほどまで蜘蛛の巣が張るまでここを掃除しなかったのか、と落胆するのだ。考えてみると、この空間設定には不思議なことが多い。すぐ後ろにある押入れらしき空間を、蜘蛛の巣が張るほど利用しないなんていうことはありえない。座っているのは椅子の上ではなく、座布団の上である。振り向けば戸、そしてそれは背中のすぐ後ろなのだ。気がつかないはずはないその押入れ、まるで玉手箱のような押入れの戸をあけるのが、夢の中でもためらいのある感情設定なのだ。この夢の舞台は、おそらく子どものころの自分の部屋である。まったく同じ設定ではないが、なんとなくその時代の雰囲気を持っていて、障子戸や板戸という設定でそれは解る。年老いてきて、子どものころの夢舞台が繰り返されるようになる。既に回帰に向いている自分が、ちょっと情けなくなる場面でもある。
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同じ年寄りだから哀れまない

2007-10-25 12:11:07 | ひとから学ぶ
 電車の中が高校生に席巻されていて、そこに年寄が乗ってきても席を譲るという姿をなかなかみない、ということを前にも触れた。高校生ばかりでなく、多くの大人も、なかなかそういう行動を起す人は少ない。優先席と言うのは、年寄りや体の不自由な人のために設けられた窓口寄りの席である。しかし、そうした席以外は譲らなくてもよいという席というわけではない。わたしはまったくの空席状態の空間に乗り込むから、当然のことだが毎日座席に座ってゆける。車掌によってはそんな空席だらけの空間であっても、「座席はモノを置く場所ではありません。座席に荷物を置いている方は膝の上、あるいは網棚の上に置いていただくようお願いします」と何度も車内放送をする。そして車内を循環しては、盛んに荷物を座席の上に置かないようにと注意して歩く。そんな車掌さんはまれであって、ふだんは座席にモノが置かれていることがあたりまえだ。

 混雑するとともに、お年寄が乗車してくることはよくあることだ。しかし、飯田線の場合は、「中央線から」で触れたように、混雑していても空席が必ずある。だからわたしが席を空けるまでもなく、ほどなく空席にたどり着いてお年よりは座ることができる。

 先日、そんな混雑している空間に、おばあさんの2人連れが乗ってきた。2人で座れる場所を見回していたがないようなので、わたしのすぐ横で立って行くようなそぶりがあった。これは「いかん」と思うのだが、わたしは窓側の奥に座っていて、譲ったとしても横に客が座っていることから譲った場合の状況をノロイ頭脳で考えていた。たまたま横に座っているのは高校生だから、高校生に譲ってあげるように促すべきなのか、などと考えているうちに、おばあさんたちは別々に座ることで一致したようだったので、行動を起す必要はなくなった。そう思ったすぐあとのことだ。もう1人乗車してきた年配の方(おじいさんと呼ばれてもよい年代の方)が、自分の横が空いているからといって、場所を変わってやるというのだ。そのとき年配の男性は「同じ年寄りだから哀れまない」という言葉を発した。おばあさんたちはありがたかったから「お礼の気持ち」が頭の中でいっぱいで、この言葉を解釈する余裕があったかどうか解らないが、この意味はどういうものだったのか。若者が譲れば哀れみで、年寄りが譲れば哀れみではないということなのだろうか。もしそうだとすれば、この言葉を発した年配の方にとって「譲る」と言う行為と「哀れみ」という行為は、そう変わらないものということになるのだろうか。あくまでも同じ年寄りだから、譲っても他意はない、という意味だったのだろうが、そう捉えても、では同じ年寄りでなかったら何か意味があるのか、ということになってしまって、その場で思いつきで発せられた言葉なのだろうが言葉の奥深さを感じるとともに、そういう言葉が出るという世の中にも哀れみを覚えしまうわけだ。
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中央線から

2007-10-24 12:34:51 | ひとから学ぶ
 長野発午後6時の電車で帰宅しようとしていたが、不毛な会議が長引いて、同じ方向に帰る同僚に松本電鉄信濃荒井駅まで乗せてもらった。二度目の経験(松本電鉄)を再び、というところだったが、次の電車まで30分以上あるため、松本駅まで歩くことにした。それほど遠くないはず、という認識があったから、松本電鉄の駅にして三つ目の駅まで歩くことになる。市内から上高地へ向かう国道の裏通りのような道を歩いていくのだが、ふだんではあまり見ないような町並みが見える。さすがに田舎の田舎ではないから、風変わりな店がまえの店もあったり、「へー、こんな感じの店もありなんだ」と楽しみながら歩く。約20分という時間であるが、松本駅西口までそんな意外な側面をみながら進む。かつて松本で聞き取り調査をして、さまざまな家々を訪れたが、限られた世界だったと気づかされるとともに、当時と今では心の持ちようがずいぶんと変化している。今、この地域で歩くならまた違った視点でモノが見ることができるような気がする。しかし、なかなかそうした機会もなく、さまざまな余裕もない。

 松本から中央線の電車に乗る。ふだん乗っている飯田線とは違う。まず乗客の数が多いとともに、その乗客数にそれほど変化がない。わが自宅のある地域のように区間によって乗客が激減するということはない。そんな空間で様子をうかがってみる。もっとも違うと思うのは、座席が空いていればその空間で高校生が席巻していたとしても座る人が必ずいる。必ずというのも言い過ぎかもしれないが、大混雑していても空席が目立つ飯田線とは人柄が違うのか、それだけ多様な人がいるのか、定かではない。先日、飯田線でドアの近くに高校生が集中していて、乗客が出入りしづらい状態だったところ、東南アジア系の親子連れの母が車掌に「じゃまだと」注意しろ言う。その通り車掌は高校生に奥に入るように指導していてたが、こんなことは日本人ならまず言わない。とくに飯田線のように他人の様子をうかがうそぶりがうかがえる空間では、そこには駆け引きのようなものが生まれてしまって、人と人との間に空間が必要となる。そんな雰囲気が、松本から岡谷の間にはまったくないのである。簡単に言えば東京の鉄道とそれほど変わらない空気が流れている。対面座席がなく、すべて窓側に一列に座席があったら、空席はほとんどなくなるだろう。ところが飯田線にそんな列車が走っていたら、人が据われない程度に空いた座席が目立つことだろう。その理由にもなるのだろうが、中央線の空間には、一般人の乗客が多いということだ。ようは高校生に乗っ取られたような空間では、空いているという雰囲気がなくなってしまうということなんだろう。

 さて、そんな空間でわたしは飯田線人間のように立っていくことにする。前の座席に座っている看護学生2人は、プリントを手にレポートの話しをしている。そのうちに雑談に変わっていくが、その間手にしたパンを口にしつづける。2人それぞれに買ったパンを、「これおいしい」などといって評価している。今時の人たちは、パンを食べても水物を口にしない、という印象があっだがその通りしばらくは食べ続けていた。食べ終わったら「飲み物は・・・」という声が聞こえて、ようやくバックからペットボトルを取り出す。ずっとそんなやり取りを見学していたら〝怪しい〟おじさんと思われるだろうが、そんなことを思う様子はまったくない。ようは前に突っ立っているおじさんにまったく意識しないのだ。と、そんな2人の姿をずっと眺めている幼顔の女子高生が横にいた。この子もずっと眺めているが、その横でその眺めている子の様子を観察している人がいるとは気づいていない。ところが、その子の様子を見て「何を思ってこの2人の食べている姿を見ているのだろう」などと思っているわたしを眺めている女子高生がいたりして、そちらに目をやると目をそらすのだ。なかなかこんな空間は楽しいものだ。こうして中央線、約30分の空間から解き放れて、ふだんの飯田線に戻るのだ。
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よそ者のみた駒ヶ根の暮らしⅣ

2007-10-23 12:17:57 | ひとから学ぶ
 駒ヶ根暮らしした都会人の「緑陰生活体験記」を捉えた最終章である。

⑩米の話し
 緑陰生活をされている方の視点で最も気づかされたものが、「野菜はくれても米はくれない」というものだ。正確に言うと「米はくれることが少ない」と言っているから、米をもらうということもあるのだといっぽうで知らされたわけだが、その「米をくれる」という詳細なシチュエーションには触れられていないから実態は不明だ。よく知られているように、田舎特有の付き合いに物々交換というものがある。「いい野菜がとれたから」などといって隣近所に分けたり、あるいは珍しいものが手に入ったからといって同様におすそ分けすることはよくある話である。もの余りの時代だから、もらっても喜ばないということもあって、農家同士でモノをやり取りするなんていうことも少なくなっただろうが、それでも「あそこの家は○○を作っていないから」などといって、初物が採れると配るなんていうことは今でも行われることだ(平地農村と山間農村は意識にだいぶ差があるだろうが)。わたしのように農村地帯によそから入ってきたものは、農家でないことをみんな知っているから、周辺の果樹農家からおすそ分けが毎年のようにある。果樹だけではなく、畑もないからといって野菜をもらうこともある。こうしてモノをもらえば、「お返し」ということをしなければならない。もちろんこの「お返し」をしに訪れると「そんなつもりでやったんじゃないに」などと言われるわけであるが、そのまま過ごしてしまっては、「お付き合いが悪い」ということになってしまう。モノをもらえばお返しをするということは、田舎に限ったことではないだろうが、田舎ではとくにこの「お返し」に気を使わなければならない。しかし、こうしたやり取りがあったからこそ、田舎は助け合いと言うものが生きていたはずだ。ところが、「モノをもらっても嬉しくないだろう」と、やる側も気を使うようになって、それくらいなら「やらない方が、相手にとっても良いだろう」ということになってそうした行為が減少してきている部分もある。

 だいぶ地域になじんでくると、「あそこは2人とも農家の出だから」といって「○○はつくっとるの」などといって聞いてくれるようになる。だから手に入るものをもらうことは少なくなったが、家で作っているものをもらっても「ありがたい」という気持ちを十分に相手に伝えないといけない、と妻はいう。それほどモノのやり取りと言うものは、人と人の関係で大きなポイントとなるんだと思う。とはいうものの、妻はもらったあとに「あんた食べる」と聞き、答えないと「食べないよね」などと言うこともよくある。自ら「ありがたい」という顔をしなくちゃ駄目だと言いながら、けっこうわたしには際どいことを言う。いずれにしてもくれるものはありがたくもらう、けして「いらない」なんて言ってはいけない、と身内では話すか、正直なわたしはけっこう顔に出てしまうタイプだ。

 さて話しがそれてしまった。「米はくれない」と言う言葉を聞いて気がついたのだが、米を隣近所に配るということはまずしない。果物ができたといって会社に持って行き食べてもらうことはあっても、美味しい米ができたからといって食べてもらうことはない。緑陰生活をされた方は、「それだけ米に思い入れがあるのでしょうか」という。わたしは米作りの地帯で生まれ育ったから、その言葉に「なるほど」
と思うわけだが、どうなんだろう。たまたま現在住んでいる場所は米作り主体の地域ではない。田んぼがないわけではないが、傾斜とだから畑が多い。だから生業の主生産物についてはどう考えているのか、ということになる。米作りの主体の人たちにとって、副産物である野菜や果物をどうとらえているのか、また果樹生産主体の人たちはその主生産物の果樹に対してどう思い入れがあるのか、ということである。「ものをやる」ということと生業の中の生産物という視点で農家の人たちに話を聞いたことはない。こんな視点も面白いと気づかされたのだ。生家でもそうであったが、米を隣近所にやることはなかった。それは単に、どこでも作っているからそうなっただけで、米に思い入れがあったためとはなかなか言い難い。隣近所にやることはなくても、家から出た子どもたちには米をやったものだ。いや、米を作っていない親しい人にはやっていたようにも記憶する。それでも「家で採れた野菜です」なんていう物言いは米にはまずない。なぜそういう意識だったのかは、自ら米を作っていないからちょっとわかり難い。もちろん農家によっても異なるはずだ。米の品質は採れたものの中に差は見出し難い。しかし、野菜にしても果樹にしても、同じ場所で採れたもののなかには必ず品質の差がある。「傷があるから」といっていただける場合もある。しかし、もらう時の「傷物だから」あるいは「へぼいもので悪いけれど」という言葉の背景で、本当に傷が見えていればともかく、必ずしも品質の悪いものとは見た目では解らない。日本人特有の言い回しでは、本意とは捉えがたいものもたくさんあるからだ。モノのやり取りの世界、少し気を使って書き留めてみたいものだ。

 終わり。
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ふとんを踏むな

2007-10-22 23:18:43 | ひとから学ぶ
 夏場はそうでもないのだが、こたつが登場して、ふとんが部屋の中で畳の上を席巻するようになると、必ず妻に注意されることがある。「ふとんの上にモノを置かないで」とか「ふとんを踏まないように」というものだ。なぜそうしてはいけないのか、というところについて説明しないと解りづらいだろう。モノを置かない、というものは、ようはふとんが汚れないようにという意味だ。もちろんふとんに覆いが被せられているから、それほど気にすることはないじゃないか、ということになるが、家の中のこうした道具を守っている立場としては、できうる限り汚れることは防ぎたいし、ふとんは床とは違うのだから、埃を保ちやすい。というこで「大事」にしたいということがその根本にある。

 ふとんを踏まない、というのも同じような意味である。踏めば踏むほどに綿はつぶれてしまう。歩く場所は畳の上、ふとんの上は歩く場所ではないのだ。

 よく外出の際に利用するバッグや道具を、同様にふとんの上に置いたりしても叱られる。意図は同じなのだが、とくにこうした持ち物は、人様が歩く地面や床に置かれることはよくある。電車に乗っていても混雑していれば床に荷物を置く。そんな荷物は時には、座席の上に置かれる。場面を置き換えてみれば、地面も人様が座る座布団の上も同じ空間ということになる。どこに置かれたともないものを、ふとんの上に置くのは「汚い」ということなのだ。高校生の様子をうかがっていれば、まさにこの両者はそう変わるものではなく、荷物を地面に置くのもさして気にはならないようだ。きれい好きな日本人なのではあるが、床と居室の床が同一の空間になってしまっていることに気がつく。かつてのように、畳が主流の居室暮らしだとしたら、両者には違いがあるのだろうが、住宅環境も変化して、今や畳の部屋を日常的に利用している家庭は少なくなったはずだ。もちろん年配の方々は畳の暮らしを望むだろうが、若い人ほど床暮らしである。現代の高校生が両者の空間に意識の違いを見せないのも、ふだんの住宅事情があるのたろう。

 妻に言われるばかりではなく、子どものころ母にも同様のことを言われた。どうしても男のように、家庭内の道具に気を使わない類にはそんな言葉を鬱陶しく思うわけだが、それも致し方ないことだ。しかしそうした言葉が、時おり聞こえてくるのも毎日のように言われた躾だからである。よその家はどうされているのか定かではないが、かつての女たちは、それほどまでに〝ふとん〟に思い入れがあったのだ。それは、そうしたものが嫁入りの道具であったということも忘れてはならない。
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初冠雪を思う

2007-10-21 08:28:30 | つぶやき
 「あそこの息子が○○した」とか「あの家の人が○○した」とか事件が多いから目立ちもしないと思うが、それなりに噂は広がる。日々余裕なく暮らしている人々にとっては、広まるのも早いが、消えるのも早いという印象の中で、田舎の狭い空間は忘れ去られることなく、そうしたさまざまな事情が積み重なる。大過なくすごしていると、そういう噂話も人事のようなもので「そうなんだ」程度なのだが、そろそろわが家もそんな噂に立つようなコトか起きそうになると、ただでさえ沈んでいる状況は、ますますいら立ちや妬みのようなものに増幅する。狭い空間というのは、そんな関係を微妙に維持しながら成り立っている。人と人との情報にさえ法律が立ちはだかるから、噂でしか物事はわからない。

 守秘義務というものは、人の情報や事件に関わると成立する。各々が暮らしを成していた生業とはことなり、多くが人との流通のなかで生業を求めれば、情報量は増えるいっぽうだ。そしてそこには「契約」というものが生まれ、権利を主張することとなる。問題が派生したときにその問題の責はどこにあるのか、日々そんな処理が生まれ、そうした問題を処理する専門分野も登場する。義務や権利という暮らしに縛られ、口にできることはなくなる。どこか人々の顔には真実味がなくなり、会話の背景にも「嘘」があるのではないかと疑いたくなる。

 事件が多発する社会も、そう考えていくと仕方のない結果だろう。そしてそうした縛りがない子どもたちやお年寄と会話をすると、こちらも解放されたようになるのは、これも当たり前のことだ。

 今日もまた、いつものように電車に乗る。車窓から毎日眺めている山々が、紅葉の盛りであり、その頂には初冠雪が見える。昨日、三千メートル級の山々で初冠雪の便りがあった。北アルプスもだいぶ白くなったという。そこへゆくと中央アルプスの山々は気をつけて見てみないと気がつかないかもしれないほどだ。南駒ケ岳の北向き斜面や空木岳、そして木曽駒ケ岳前岳の頂に雪らしきものが見える。いよいよ霜の降りる季節である。〝紅葉〟〝初冠雪〟という季節を迎えるたびにポジティブな気分になるものなのだろうが、毎年この季節を複雑な気分で迎えることになる。庭の雑草が伸びなくなり、気持ちにゆとりができるとともに、さまざまな問題を抱える季節は、このまま冬へ向かって突き進む。
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〝美しい村〟に一言

2007-10-20 08:31:42 | つぶやき
 「日本で最も美しい村連合」に参加している大鹿村の中川村長が、『農林統計長野』の最新号にこのことについて触れている。以前少し触れたこともあるが、この連合に参加している地域(わざわざ〝地域〟と書かざるをえないのところに不思議さがあるが)は9地域あるという。その中の一つに大鹿村が入るのだが、長野県にはほかに木曽町開田高原が加わっている。なぜかこの〝開田高原〟だけ〝村〟ではなく、地域なのだ。だからわざわざわたしは〝地域〟と捉えたわけだ。もともと開田高原地域は旧開田村だったところで、合併してしまったから〝村〟とならないのだ。にもかかわらず〝美しい村〟連合に加わっているところが不思議なのだ。

 とそんなことを前から思っていたのだが、中川村長はこの連合に加わる資格基準のようなものを紹介している。その基準によると、①人口がおおむね1万人以下であること、②人口密度が1平方メートル当たり50人以下であること、③地域資格として、景観と環境、そして文化という三つが与えられていて、このうちの二つ以上が該当すること、④地域資格を生かす活動をしていること、以上がその基準だという。資格委員会の審査で基準を満たさないと判定されると、連合への加入が認められないという。そして実際に資格審査で参加できなかった村があったという。

 この審査基準は定量的な審査基準がほとんどない。しいていえば①と②だろうか。おそらく〝おおむね〟の数値であって、断定的なものではないのではないだろうか。それほど曖昧でありながら審査で認められないということがあるとしたら、何が原因なんだと考えてしまう。人口が極端に多かったのか、あるいは都市周辺の村だったのか定かではない。ただ、中川村長が盛んにこの審査基準のことを重点的に触れているところの背景はなんなんだ、と意識せざるをえないのだ。先の内閣が〝美しい〟を連発したが、あまりの曖昧さに短命な内閣を招いた。何をもって美しいのかその判断はわかりづらい。美しい村の条件として、なぜ人口や人口密度が優先されるのか、そして、こういう基準をもってして「過疎対策」を行っていくという。そういう施策としてサポーター企業との連携、都市と農村の連携を目指すというのだ。①や②という条件があるということは、あり得ないかもしれないが、人口が増加して活性化策が成功したらこの連合から脱退することになるのだろうか。〝美しい村〟と冠しているが、過疎対策連合の一つというだけのことではないのだろうか。

 最後にこんなことも述べている。「都市は変わり続けることでその活力を維持し、農山村は変わらないことで癒しの空間を提供する。そうしたお互いの存在を認め合い、都市と農山村が共に発展できるような関係を構築していく必要がある」と。この言い回しは一見正しく、またごく普通に聞こえるのだが、都市は「変わり」、農山村は「変わらない」という考えは正しくないと思うが違うだろうか。農村の文化は変わらないことで維持されたものもあるだろうが、そうでないものもたくさんあるはずだ。

 資格基準を定めるのならば、例えば村の中心部から六等星がいくつ見える、とか中心部でカッコーの鳴き声が聞こえる、とかコンビニがない、なんていう具体的なものをあげた方がよくないだろうか。わたしの認識にはないが、そういう指標を独自で設けている地域が必ずあるはずだ。
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よそ者の見た駒ヶ根の暮らし其のⅢ

2007-10-19 12:11:29 | ひとから学ぶ
 駒ヶ根暮らしした都会人の「緑陰生活体験記」から教えられたものについて触れた第三章である。

⑦墓掘り
 隣組のおばあさんが亡くなって葬式の手伝いに加わった。隣組長だったため普通なら葬儀委員長になるところを、永住者じゃないといこともあっただろうし、慣れていないということもあってその大役は大家さんが引き受けてくれたという。そして役割は墓掘り。もちろんこの時代に土葬はないから、かたちばかりの墓掘りである。このあたりでは当日に納骨するから、墓に行って納骨の準備をしたのだろう。初耳だったのは、精進落としにおいて墓掘りの人が最も上座に座ることになるということだ。わたしも現在の地域に入って葬式を何度も経験しているが、上座は組長となる。墓掘りが上座ということはこのあたりでは言わない。この方の場合、もともと組長だったということもあって上座に座ることになったのでないのか、などという解釈をしてみるがどうだろう。

⑧ホスト
 わたしも会社に入ってからというもの、宴会と言えば注ぎ歩くのが常識という感覚を教わった。それだけ宴会が昔は多かったものだが、常識的に注ぎ歩いたからといって相手は覚えていない。口は上手ではないから、注ぎながら相手の世界に入るということはなかなかないし、それほど共通の話題というものもなかったから仕方ないことなのだが、慣れはしたもののストレスのたまる行為だ。しかし、その行為を否定するものではないし、わたしも人並みにそんな常識は持ち合わせていたから、ある程度人と会話をすることができたわけだ。そんな行為で自分を見つける人もいる。しかし、こうした因習とでもいえる習俗は、かつてに比較すれば少なくなったし、意識も低下したといえる。宴会で注いで歩かないからといって怒る人もいなくなったし、注ぎ歩くような空間で飲み会をすることも極度に減った。狭い空間ではそんな行為をするという雰囲気もない。緑陰生活をされた方は、冠婚葬祭、とくに結婚式で注ぎ歩く親族に閉口したという。わたしも兄の結婚式の際には、「注いで歩くように」と父母にきつく言われたものだ。「弟です」と注ぎ歩くのだが、宴会で注ぎ歩くよりは気楽なものだった。もう20年以上前のそんな結婚式だったが、いつごろからだろうか、結婚式に行っても親族が注いで来なくなった。もちろん当事者の父母はやってくるのだが、兄弟がやってくるなどということはほとんどなくなった。近ごろは父母であってもかつてのように盛んに注ぎ歩くという姿をみなくなった。ということで「ホスト役」と表現されたものの、それも絶滅状態というところだろうか。

⑨交通事情
 このページを見つけた理由が交通事情だった。駒ヶ根市の道路を走ると大変渋滞することは何度も触れた。「駒ヶ根市 交通事情」という検索から始まったわけだ。緑陰生活された方も言うように「田舎は車社会で交通弱者には厳しく、またそのため駅前商店街なども衰退し、コミュニティも破壊されていくのです。なにしろ人が歩いてる姿を見かけないから路上の世間話というのもない。子供の通学も親が車で連れて行ったりしている。子供が電車に乗る機会もないから車内マナーも悪くなるわけだ。歩いていると不審に見られるくらいです。まあこうした現象は車優先政策を変えない限り根本的に解決しないでしょう」という視点はみごとにこの地域の現状を捉えている。地方に世間話というものはなくなったのではないかと思うほど貧困状態だ。もちろん集りというものはあるから、そういう場での世間話というものはあるのだろうが、道端の会話というものはまったくなくなったといってよい。その代わりに〝ケイタイ〟というものが存在するのだろうが、路上の世間話とケイタイの世間話の違いはいずれ考えてみたいものだ。
 
 子どもが電車に乗る機会がないから・・・というが、高校生くらいになると通学に使う。まだ大人に比較すれば乗る方で、大人の頭の中に「電車」などというものは抜け去っている。そんな意識だから公共交通機関を利用するという意識はまず発生しない。きっと大人だってマナーを知らないかもしれない。

 続く。
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死の針山

2007-10-18 12:21:11 | 自然から学ぶ
 三峰川河川公園に行った。現場に出て、弁当を食べる空間を探しながらたどり着いた。外出していると、昼をとる場所というものも重要なポイントとなる。どれだけそれを重要と捉えるかも人それぞれだろうが、その場に居合わせる仕事仲間の人数によっても異なってくる。若いころは弁当などは持ち歩かなかったから、必ず外食となった。この外食する場所をどこにするかもポイントになるのたが、このことはまた別の機会に記録するとして、ここでは弁当持ちの場合を考えてみる。

 先日数人で出かけた佐久での現場。仕事が間に合わなかったということもあるが、弁当を持っていなかった者もすぐそばにあったコンビにで購入し、国道ばたの歩道で食べることになった。1ヶ月ほど前も、やはり数人ででかけた現場で、外食すべく食堂を探したが定休日の店が多かったため、仕方なくスーパーで購入してその店の前に置かれていたベンチで食べたこともあった。今時は歩いてものを食べる人も多いから、とくだん気にすることもないのたが、食べることだけを意識すればそれでもよいのだが、一応「昼休み」という休息時間なのだから、もう少し落ち着いて食べたいと思うのはわたしばかりではないはずだ。大型車が横を猛スピードで走り続けている空間や、買い物客が頻繁に通る空間で食べることほど落ち着かないことはない。これが立って、あるいは歩きながら食べていれば人にはそれほど意識されないが、ほかの人は動いている、わちしは座って食べているという行動の明らかな違いが、その場に違和感を与えるのだ。

 ということで、1人で現場を訪れる際は、必ず落ち着いた場所を探す。人がいないからといって山の中ならどこでもよいというものでもない。見晴らしが良ければそれにこしたこともないし、座る場所がある休憩所で人影がないようなところならそれ以上の場所はない。長年そうした選択をしていると、だいたい傾向が出てくる。とりあえず、公園・神社・寺なんていう場所が多くなる。

 さて、三峰河川公園は伊那市東春近の三峰川左岸にある。平日ではあるが、そこそこの人がいる。昼の時間ということもあって、わたしたちと同じ目的でやってくる人たちも多い。河川堤防をウォーキングしている年配の方たちも多い。食事後、少し周りを歩いてみる。公園にされているから植生は単一化している。河川内は比較的手が入れられているせいか、柳の立ち木が残り、ニセアカシアは排除されている。それでも繁殖力が強いから、稚木がたくさん控えている。盛んにアレチウリの駆除作業が話題になる三峰川だけに、河川公園の周囲にはその姿が見えない。そんな河川内に今、盛んに咲いていているのがセンダングサである。いわゆる「ひっつき草」である。子どものころの印象では、田んぼの土手に盛んにアメリカセンダングサがあったことを記憶するが、そのアメリカセンダングサもあるが、ここにはセンダングサが多い。歩きながらも、単一化した植生で、センダングサの周りを盛んにキチョウやモンシロチョウが飛んでいるくらいで変化はなく、面白みはなかったのだが、そのうちに気がついたことがあった。このセンダングサにトンボがたくさんとまっているのだ。実はとまっているのではない。捕捉されて動けなくなり、そのまま死んでいるものや、まだ翅をバタバタしているものなのだ。チョウに比較すると周辺に体色が同調しているため、目立ちはしないのだが、よくみると、捕捉されたトンボがたくさんいるのだ。トンボの種もさまざまで、トンボを観察するにはよいシチュエーションといえるだろう。



 センダングサの黄色い花もまだ咲いてはいるのだが、花の終わったものは、すでに棘のある枯れた草となっている。アメリカセンダングサに比較すると、花の大きさは小さいくらいなのに、枯れたあとの姿は大きく、線香花火が開いたごとくみごとな姿を見せる。この大きな針山にとまったトンボは、そのまま飛びたてなくなるのだ。バタバタしているトンボをそこから放してやると、トンボの体にその棘がくっついてくるほどだ。トンボたちにとっては死の針山である。変化のないどうという空間ではなかったのだが、この針山に気がついてから、きっとわたしの目の色は変わったに違いない。変化のない空間でヒントを得ると、楽しいものだ。持ち帰りの仕事に集中して1時すぎまで作業をしていて寝不足だったが、昼寝をするか、散策をするか、結果はいかに・・・というところだった。



 写真はそんな捕捉されたトンボと、見事なセンダングサの針山を捉えたものだ。針山の向こうに映る山は、伊那市のシンボル的山のひとつ、経ヶ岳である。

 撮影 2007.10.15
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よそ者の見た駒ヶ根の暮らし其のⅡ

2007-10-17 12:22:31 | ひとから学ぶ
 再び駒ヶ根暮らしした都会人の「緑陰生活体験記」から教えられたものについて触れる。

④拡声器とお見舞い
 田舎には防災無線というものがだいたいのところにある。いつごろから整備されたものか、かれこれ20年ほど前からだろうか。その防災無線がもっとも効果を発するのは、火事の発生の知らせである。緑陰生活をされていた人は、この拡声器について「今時いかがなものか」と夜中でも起されてしまうことへの不満を述べている。実は前述したように昔からこんなものがあったものではなく、東海地震の指定地にもなっているように、防災上の目的で設置されたものだ。彼はこのあと、「知り合いが火事にあったりすると、お見舞いをあげなくてはならない、という考えがあるようで、そのためにも全市に知らせる必要があるのかもしれません」と述べているが、これは間違いで、あくまでも防災上の緊急情報なのだ。

 10月1日から緊急地震情報のシステムが一般化されたが、拡声器から発生する情報というか騒音に似ている世界のものである。しかし、それは迷惑なものではなく、緊急性の高い情報を受ける側にはメリットのあるものである。そういえば緊急情報といえば、迷惑なものがある。テレビを見ていて、よそで地震が起きると、「地震情報」というものが画面上に流れることだ。きっとデジタル時代だから、デジタル対応している人はそういう文字情報を回避して録画できるのだろうが、アナログで見ている者にとっては迷惑なことだ。だから緑陰生活をされた方も、きっと人の情報を無理に聞かされることは迷惑だったに違いない。そこに「お見舞い」という都会にはない行為が行われることから、両者をつなげて考えることになったわけだ。日常的に使われるこうした拡声器について、その経緯を知っているものは何とも思わないが、よそから住みついた人には違和感のあるものなんだと気がつく。

⑤「おくやみ」欄
 いつごろからこの欄がこんなに賑やかになったものか知らないが、かなり古い時代からこの欄はあったように記憶する。ただ、一面を支配するほどの量はなかったし、目立つこともなかった。現在の火事見舞いのお礼などと同程度という印象があった。だから「おくやみ」欄に掲載されない人たちも大勢いたわけだ。流行はじめたころは、親族の意思とは別に掲載されてしまったこともあるのだろうが、今は掲載について確認されているだろうから、実際の死亡者の数は多いのだろう。そんな「おくやみ」欄を見るために新聞をとるという人も現実的にはいるのだろう。「必ず読むページ」の一つにあげる人は多い。どことなく④の拡声器と似ているが、たまたま掲載されているだけで、おしつけではない。都会の新聞にはこんな欄はないのだろうか?。

⑥開かれた気風
 「駒ヶ根という土地が以前から外国人も多く住み、開かれた気風を持ってるということがありそうです」と住みやすかった印象を語る。たまたまこの方にはそう思えただけで、必ずしも適正なのかはわからない。もともと上穂と赤須という地域が一緒になって「赤穂」という町の名をつけていたが、地域の字をとって組み合わせるという地域には、どちらかというと争いを避けるための配慮のようなものが見え隠れする。このごろは聞かないが、両者には対立の構図があるという話しを何度も聞いたものだ。それだけ競い合うという意識がかならずしも悪いことではなく、そうしたライバル心が地域を底上げしていくということもある。いずれにしても比較的古い感覚の地域という印象があるが、例えば昭和36年に起きた梅雨前線豪雨の災害に際して、中川村とか大鹿村といった地域の被災者が駒ヶ根市に移り住んだ例が多く、よそ者を受け入れるという気風はあったのかもしれない。

 続く。
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