Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「謝る」ということ

2006-05-31 08:09:27 | ひとから学ぶ
 最近会社でクレームが相次いだ。そうしたなかで部署の長は盛んにこちらの落ち度を認めるのであるが、最初はそれも仕方ないとは思ったのだが、相次いだ問題をこちらの落ち度であるとあまりにも簡単に認めるから、その関係者にとっては〝もう少し実際に関わった者がどう考えて、あるいはどういう過程でそういう結果を導いたかを見て欲しい〟という気持ちがあらためて湧いてくるのである。本当に落ち度はこちらにすべてあったのか、そこを簡単に認めたくないという気持ちは、誰にもあるもので、だから簡単に「謝らない」といういってみれば相手にとっては気分はよくない結果をもたらせることになるやもしれない。世の中では〝なぜ謝らないのか〟という言葉がよく聞かれるが、当事者にとっては確かに何らかの意図があったかもしれないし、たとえ間違いはあったとしても回避するべく過程もなかったとはいえなくもないわけだ。非は認めるものの、「すべては当事者が悪い」という言い方は、とくに内部であってはもう少し検討を、あるいは当事者の気持ちを考えて話をしてほしい、そう思うのだ。

 仕事がなくなり、仕事をもらうがために採算のない結論を出したりする。結局は仕事をこなしている当事者にその負担はくる。その過程で出てしまったクレームの存在は、確かにその当事者の評価に現れるから、それなら仕事など無理してたくさん受けずに「わたしにはこれがいっぱいです」と言っていれば、同じ部署内で他の人が受けることとなる。そうしてクレームが起きないように採算のことは考えずに手をかけてやれば、評判は上がるしクレームもつかない。そのへんの仕事量と個々の性格、そして実際の部署内での環境などさまざまに勘案すれば、〝監督不行き届き〟などといとも簡単に言葉がでることはないだろう。

 裁判にしても有罪と無罪という二者択一を出すためのものではなく、有罪の中身にもさまざまな理由があるわけで、それを公の場所で問われていくわけだ。〝謝れ〟とは簡単に言えるが、明らかな不正行為であったり、個人的な問題で他にかかわった者がいない、というようなことであれば致し方ない面もあるが、こと組織の話、あるいは本人以外の関係者があるとなれば、謝ることで「全面的に非を認めた」みたいな風が吹き、周辺にも大きな影響を与えていく。潔さはあっても、本当にそれでよいのか、ということを、人の上に立つ者は見る必要があるのだろう。ちまたで事件が起きると、トップが簡単には頭を下げずに、批判を受けるとことを常々見るが、この社会の構造はそんなものなのかもしれない。

 まあ潔さはあっても、最低でも内部の当事者にも〝おまえが悪い〟みたいに頭ごなしに言うのは、少しはためらってもらいたいものだ。
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ホウネンエビ

2006-05-30 08:05:26 | 自然から学ぶ



 田植え後の田んぼにホウネンエビが現れた。足跡の窪みには無数のホウネンエビが泳ぎ、そうでないところにもたくさんの姿が見られる。妻の実家で耕作している田んぼは、現在5枚ある。どれも小さな田んぼで、平地の田んぼを耕作している人たちには馬鹿にされるほどの大きさだ。そのもっとも大きな田んぼにとくにたくさんのホウネンエビが登場する。 

 豊年エビは、甲殻類無甲目ホウネンエビ科で、体長が15~20ミリメートル。体は細長く円筒形で甲殻を持っておらず、脚は11対で、最後部の体節に尾脚が1対ある。無色半透明だが、緑色を帯びることもある。卵は代かきのあと、水・温度(20度以上)・光に反応して孵化し、急速に大きくなる。土の中の光が当たらない卵は数年の寿命があるようだ。孵化して20日後から、産卵をはじめ、親は30日~40日で寿命がつきる。したがって、急にいなくなるような印象を与える。

 江戸時代には、鑑賞用に飼われたともいうホウネンエビ。田んぼの中を泳ぐ姿を眺めていても飽きないが、水槽に入れてよく観察してみると、ますますその魅力にはまる。5枚の田んぼのすべてを観察すると、大きな田んぼにはまさしく〝うじゃうじゃ〟いるのだが、そのほかの田んぼは少ない。それでも2枚にはそこそこ生息し、1枚にはほとんど姿が見えない。たくさんいる大きな田んぼは、収穫後は乾ききっている。他の2枚の田んぼもほぼ乾く。そうはいってもその2枚にはタニシの姿が見えたりするから、若干湿気を帯びて春を迎える。まったく姿を見ない田んぼは、常にじゅくじゅくしていて沼田とまではいかないが、完全に乾くことはない。前述したように、土の中で光があたらない卵は数年の寿命があるという。水を入れることによって孵化するわけで、乾ききった状態でも長く生きることができるわけだ。だから〝生きた化石〟なんて言われるわけだ。乾く田んぼほど個体数が多い。そんな結果となっている。

 さて、この5枚をとりまく隣接地の田んぼはどうかと見てみれば、よその田んぼには姿が見えない。強い除草剤を撒くことによって、卵を産み付ける前に死んでしまえば、いくら土の中で長生きをしていても、個体数は減少し、ついには絶滅してしまうのだろう。妻の実家でも一時妻が父に黙って除草剤を撒くことをしなかった年があったが、あまりの草の多さでバレてしまい、えらい眼にあったことがあった。その後大きなたんぼだけは、といってなるべく撒かないだりしていたが、さすがに草取りが大変で、最近は弱い除草剤を撒いている。その除草剤は、撒いてもホウネンエビが死なないという。もしかしたら除草剤としての機能を果たしていないのかもしれないが、いずれにしても除草剤は生物には天敵なのだ。

 かつて田んぼの肥料として買っていた牛の糞を混ぜたことから、このホウネンエビのことをマグソキンギョなんて呼ぶところもある。かつてにくらべると除草剤もさまざまなようで、再びホウネンエビの姿を見るようになった、なんていう話も聞く。近所の田んぼを眺めてみよう。

 参考にホームページでも何度も紹介しているので、その画像も見てほしい。今回はピントが合うように一生懸命工夫をしたが、デジタルカメラでこういうものを撮るのは難しい。今回は田んぼの中ではうまく撮れなかったので、水槽に入れて撮影してみた。

 〝日々を描く〟から、
 ①「豊年エビ」
 ②「〝生きた化石"豊年エビと貝エビ」
 ③「マグソキンギョ登場」

 HPでも触れているように、緑色のものと透明なものが登場する。今回の写真は、大きな田んぼに生息しているもので、緑色が強いが、時がたつにしたがい、透明になっていく。

 撮影 2006.5.28

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本当に田舎は大丈夫か

2006-05-29 01:12:05 | 農村環境
 わたしが赴任先にいて不在だった時に大事にならなくて良かった、という事件である。先日、隣の家でボヤがあった。わたしの家とは隣組は異なるのだが、すぐ東側の直線距離で20メートルほど、いやもっと近いかもしれないところに隣の家がある。隣組のどの家よりもっとも近いところにあるのだが、隣組は違う。だからふだんのつき合いはほとんどない。わたしの住む地域は、果樹農家が多いということもあって、農家同士でのつき合いはけっこうあるのだろうが、よそから越してきたような、そして勤め人の家となると、なかなかつき合いはない。とくに果樹農家は忙しいということもあるのだろう、米作地帯に比較すると社会生活は希薄だ。隣組の行事も新年会があるくらいで、あとは全戸が一同に会す行事は冠婚葬祭くらいしかない。これほど希薄な地域は、同じ行政区域でも際立っているのかもしれない。そんなくらいだから、どんなに近い隣であっても、つきあいがそれほどないのもうなづける。

 さて、ボヤ騒ぎに気がついたのは、息子だった。息子の勉強部屋は、もっともその隣に近いところにある。勉強していたら隣が騒がしい。おじさんが「火事だ、火事だ」と騒いでいて、息子は火事だと気がついたという。少しではあるが火も見えたようだ。母のところに来て「隣が火事だ」と告げたわけだ。わたしの家の立地は、隣と近いが、家の向きからいくと、背後にその隣があるような関係のため、もし本当に火事になっていても、気がつかないかもしれない。たまたま息子が部屋にいたから気がついたが、ふだん利用している部屋からは死角なのだ。

 母は急いで隣に駆けつけたわけだが、おじさんが一生懸命消したようで、火は消えていたという。しかし、けっこう天井あたりまで燃えたようで、すごい匂いがしていたようだ。天井裏まで延焼していてはいけないといって、母は消防署に事情を説明したという。そしたら消防がサイレンを鳴らしてやってきて、火は消えてはいたが、火の粉が残っていないか調べてくれたようだ。母が駆けつけると同じくらいに、わたしの隣組で、わたしの家にもっとも近いところにある家の人も駆けつけてくれた。ところが、しばらくしてやはりわたしと同じ隣組で消防団に入っている若い人がやってきて、〝火が出ていたようだけど、どう〟という感じに話すのだという。「早くに認識していたなら、なぜもっと早い対応をしないんだ」と、母はちょっと不愉快だったようだ。それだけでは済まなかった。さらにしばらくしてから、その消防団員の父がやってきて、「火が出ていたけれど飲んでいたので、そのまま寝ていた」というのである。実はその家からは、わたしの家とは立地が異なり、正面にこのボヤを出した家が見えるのだ。ちょうど正面の眼下とまではいかないが、下方にその家が見える。きっと火が一番よく見えた家なのだ。ボヤで済んだからよいが、丸焼けだったらどうだったのだろう。いや、わたしの家に飛び火していたかもしれない。つきあいが希薄だから、近所の家が燃えてても気にもとめないのかそのあたりはよくわからない。

 母はしばらくボヤを出した家にいたが、結局その家の隣組の人は、消防車がサイレンを鳴らしてやってきたのに誰1人として様子を見にやってこなかったという。田舎のつきあいなんて「こんなもの」と教えてくれる事件であった。
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弁当に合わないコシヒカリ

2006-05-28 09:13:24 | つぶやき
 常日ごろ食べている米は、妻の実家でわたしも手伝いながら実った米である。品種は〝秋晴れ〟というもので、ずいぶん昔に飯田下伊那で盛んに作られた米のようだ。今でもこの品種を作付けしている農家はけっこうあるようだ。世の中は美味い米を望むから、どこへ行ってもコシヒカリを作る。県内の平地農村はもちろん、山間部の棚田でもけっこうコシヒカリを作る。ただでさえ、○○の米は美味いといって自慢するほどだから、コシヒカリを作ってもけして自慢にはならない。それほどみんなが作っている。だからかつての品種を作っていると言ったら馬鹿にされるくらいかもしれない。なぜコシヒカリを作らないのかといえば、土に合わないからだ。妻の家では有機質が高い。肥えているからコシヒカリを作つけると倒れてしまうという。そうでなくとも、実るころに台風や大風が吹くと、稲は倒れる。倒れれば収量は減る。この時代だから、収量なんか少なくたって美味い米が食べたい、というのも一理あるが、倒れた米を収穫するのは骨が折れる。

 以前はわたしの実家の米を食べていたが、無農薬あるいは減農薬米を妻が目指すようになってからは、妻の家の米を食べるようになった。わたしの実家はコシヒカリやシナノコガネなどの品種を昔は作っていたが、今は何を作っているかは知らない。特別美味しいという覚えもない。もちろん妻の実家の米も美味しいという印象はないが、慣れてしまえば「こんなもの」という感じである。

 最近妻の実家の近くに住む叔母さんの家で作ったコシヒカリをいただいた。その米を炊いて食べてみると、確かに妻の実家の米より美味しいという印象はあった。だが、妻は「叔母さんちの米は除草剤たくさん使っているから」と皮肉る。その米を少しもらって赴任先へ持参した。そして弁当に詰めていくのだが、どうも炊き立てで食べた美味しさがない。弁当は保温式ではないし、いわゆる詰め込みタイプだから、なるべく押し込めないようにはしているが、少しは〝詰める〟という感じだ。そして食べる時は冷えている。この状態のコシヒカリは、粘り気があるせいか、米粒がくっついている。それを粘り気といってしまえば確かにそうなのだが、ネチャとした感じがして、いまいちだ。それまでの妻の実家の米に比較すると、見た目は美味しそうだが、口にすると粘り気がありすぎる。軽ーくふんわりと詰めればよいのかもしれないが、となると、詰められる量は限られる。美味しく食べたいならもう一工夫いるのだろう。そんなことを思いながら、次の日には軽ーく詰めたのだが、思うようにいかない。結局、弁当に詰める米は粘り気が少ない方がよいということになった。コシヒカリはあきらめて、今までどおり秋晴れを詰めることにした。

 どういう状態で食べるかによって、必ずしも美味い米が一番ではない、ということに気がついた。
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代掻き馬

2006-05-27 09:35:38 | 自然から学ぶ


 北アルプス白馬岳の右手(写真の中央)に代掻き馬が現れている。中条村と小川村境の現場を訪れた際に、途中で眺めた北アルプスの山々である。ちょうど田植え前のシロカキの時期であったことから、シロカキの馬とされ白馬岳の名になったといわれる。また、年によってはこの馬が頭を高く上げたノボリウマになったり、頭を下げたクダリウマになったりすることで作柄を占うこともあったという。『長野県史 民俗編第三巻(二)中信地方 仕事と行事』には、小谷村奉納での伝承が書かれていて、そこには「白馬岳の残雪が馬の形になったり、向かいの山の台ぐらの残雪が馬の顔の形になると畑仕事にかかる。台ぐらの残雪がだんだんマグワの形に変わると、シロカキをする。」とある。「宝剣岳の駒形」でも述べたが、駒ケ岳の名の原点にも駒形の雪形がある。同様の事例は、北アルプスの爺ケ岳や蝶ケ岳にも見られ、各地にある駒ケ岳も代表的な雪形から名づけられた山が多いようだ。

 ところで、写真の山々だが、左手の尖っている山が白馬鑓ケ岳、その右手のなだらかな頂点は杓子岳、そして代掻き馬の左手の頂点が白馬岳となる。少し雲が出て隠れている山が小蓮華山、そして右端の白馬乗鞍岳となる。長野県観光課が数年前に作成した「信州の雪形」というパンフレットに、小蓮華山から乗鞍にかけての雪形が紹介されていて、そのパンフレットを読み取ったものがもう1枚の写真である。白馬乗鞍岳の④が嫁岩、⑤が鶏である。小蓮華山の⑥が種まき爺さん婆さん、⑦が仔馬、⑧が種まき爺と紹介されている。集団で現れる雪形であるが、確認しにくい雪形である。撮った写真と比較してみよう。



 右端の⑤にしてもその左の④にしても、写真をみる限り雪解けが進んですでに確認できない。ところが、⑧はまだ白い雪の中だし、⑦に至ってはまったく姿がない。⑥の種まき爺さん婆さんは、ちょうど良いくらいのように思うのだが、はっきりは確認できない。パンフレットには写真も併列にあり、その写真にはこの五つの雪形が確かに見えている。ということはどういうことかというと、年によって雪解けに変化があって、必ずしもこの五つが同時に見えるとは限らないわけだ。北アルプスにはいくつもの雪形があるようだが、白馬岳の代掻き馬ほどよくわかる雪形は少ない。

 撮影 2006.5.25 AM
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出生率が上がった村

2006-05-26 08:25:57 | 農村環境
 5/22朝日新聞の「地域マリオン」というページに〝出生率の上がった村〟と題して長野県下條村のことが紹介されている。全国版の記事だからけっこう目立っている。県南の飯田市から約20キロ南にあるこの村は、峰竜太の出身地として知られている。芸能人が極度に少ない長野県だけに、峰竜太というメジャーな芸能人が生まれたということが、この村の象徴である。そして、その有名人が高校卒業まで、この村に暮らしていたということも、地域にとっては身近さを印象付けている。ごく普通の田舎人が、有名になったといっても差し支えない。その村に、集合住宅が目立ち始めたのは10年ほど前からだ。当初は民間の不動産屋が建てているのか、と思ったりしたが、聞いてみると村営住宅だという。飯田市から南は、すぐに山間の風景になるから、下條村に至るまでの長い道のりでも、数階建ての集合住宅は見られない。それが下條村に入ると、そんな建物がいくつか目に入るのだ。すべて村営住宅である。

 人口を増やすことが村長の公約だったと言うから、公約のために必死だったのだろう。さすがに10年近く対策を講じてきたから、効果も現れてくる。妻の友人に役場職員がいるということもあって、財源確保のために行なわれた施策は、職員にとっても厳しいものだったようだ。そんな村の状況を聞いて、各地の自治体が視察に訪れるという。なぜ、この村によそから移り住む人たちが多いのか、理由はいろいろあるのだろうが、今だからそんなことが言える、そうわたしは思う。基本的な立地条件などから勘案すると、地域の中心地である飯田市から20kmも離れているとなると、移り住むには立地は良くない。飯田市近郊で、同じ市内にあって通勤にそれほど支障がないような地域であっても、人の流出に歯止めのかからない地域がある。同じようなことは、長野県内のあちこちに起きていて、県内一の市域を持つ長野市近郊でも同じである。できればなるべくマチに近いところに住みたい、そう思う人々が多い。飯田市内から下條村まで、国道151号を走ると、短くもまた早くもない。そしてその村に入っても、国道周辺はほとんど山峡の地で、唯一役場から南へ少し行ったところにある〝ひさわ〟のあたりだけ視界が開ける。それほどの地であっても移住者呼び寄せることができる。

 この要因は長年の施策の継続なのかもしれない。1、2年で成果を出したいと思っても無理だろう。現在こうした集合住宅が9棟あるという。造り始めたころの住宅が埋まり、次へ次へと展開していくなかで、しだいにそうした移住者を迎える体制が整ったと言えるだろう。田舎に移住者が住むという空間作りは、早急にはいかない。結果として成功と、〝今は〟言える、その程度だとわたしは思う。もう10年たったとき、再び成功だったといえるかどうかはわからないのだから。

 下條中学は卓球部が有名である。男女ともに長野県一である。そして最近は、皮肉にも卒業すると県内、あるいは県外の有力校へ進学する生徒もいるという。

 さて、同じことを他の自治体がやって必ずしも成功するとは限らない。下條村が必ずしも成功したとは言い切れないからそう思うし、飯田市と下條村という空間的立地や、この地域の特性が現在の出生率増加という要因になっているわけで、他の地域にそのまま当てはまらないはずだ。
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五人坊主

2006-05-25 12:32:07 | 自然から学ぶ


 上伊那郡飯島町から中川村、そして下伊那郡松川町あたりまで、中央アルプスの南駒ケ岳はよく望める。そしてそのあたりから眺めると、摺鉢窪カールがよく見える。写真中央の山が南駒ケ岳(2841m)であり、右手が赤梛岳、左が仙崖嶺である。南駒ケ岳と赤梛岳の間の窪んだ場所がカールなのである。このへこんだところの尾根伝いの残雪に点々と雪解けが見え始めている。まだわかりずらいが、点が五つある。この点が五つ並んだように見える雪形を「五人坊主」とか「五人坊」などという。5月も末に近づいて、ようやくこの雪形がかろうじて見え始めた。このカールの下端からナギが大きく見えている。この大崩れを百間ナギという。かなり大規模な崩落であり、このナギ下からオンボロ沢という沢になり、与田切川へ合流する。このナギの上に摺鉢窪の避難小屋があるのだが、しだいに崩れていく崩落で、いつかは小屋まで崩落が達するのではないかといわれている。こうした険しさかが人の足を遠ざけていて、この山へ登山する人は少ない。もちろん、わたしの生まれ故郷であるが、この毎日眺めている山に登ったことはない。

 『中川村誌・下巻』民俗編によると、「五人坊主が現れたら籾播きを始めると霜に合わないで良い苗ができる」といったという。また、「今年は南駒の雪の消え方が遅いので霜に気をつけろ」「山に雪が多いので梅雨に大水が出る」「南駒の雪が少ないから夏に水が足りない」などといったようである。

 さて、南駒ケ岳の山頂の下あたりに稗播き女の雪形も見えている。ちょうど山頂から少し右手に下がったあたりの雪解けした肌がそんな具合に見える。松村義也先生の『山裾筆記』によると、飯島町七久保の北村では、「稗播きじょろし(女郎衆)」と言うらしい。右側もう1人同じくらいの人影があり、さらに右手に人のようには見えないが、もう1人いて、3人合わせて女郎衆と言ったようだ。

 撮影 2006.5.21 AM
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外来語

2006-05-24 08:12:35 | つぶやき
 「わかりにくい外来語の使い方に悩む」という知人のブログを読んでいて、行政分野にかかわらず専門分野の言葉は外来語に限らず分かりづらい言葉が多いと思う。専門家やテレビに登場する評論家がわかりづらい言葉を使うことはステータスのようなものもあるだろうから「ふーん」程度に分かったつもりで聞いていればよいが、行政担当者が地域住民にそんな言葉の扱い方をしていたら、やはり問題ではないだろうか。基本的に一般的でない言葉を使いまわすことそのものが、固有の人々を対称にしているものならともかく、住民すべてに伝えるとしたら適正ではないだろう。日本語で言い換える必要性のあるような言葉を使えば、〝説明をする〟という無駄な時間を要すことになる。

 わたしもカタカナ言葉に格好良さを覚え、盛んに使った時代があった。しかし、あくまでも格好だけであり、その意味をどこまで理解していたかは怪しいものだ。人が知らないからといって、適当に説明すればその場はなんとか過ごせる、そんなこともあったように思う。外来語がすべて悪いというわけではないが、全世代に理解してもらえるためには、使い分けも必要だろうし、外来語を利用する必要がないのなら、無理に使う必要は何もないはずだ。行政が率先して意図不明な言葉を使うことは納得いかない。


 長野県の出先機関に地方事務所というものがある。いまだに地方事務所といっているから楽しい。これは皮肉で言っている。その事務所に行くと、今年から○○課という言い回しがなくなった。「なんとかかんとか○○チーム」なんていう表現だから読むにも時間がかかるし、もちろんしゃべるにも時間がかかる。先日その地方事務所の入り口でずらっと並んだチームの中から、目的のチーム名を探そうとしたが、すぐに見つけることができなかった。戒名が長いから、一瞬にして判断ができないのだ。「そりゃ、お前さんがボケてきたからさ」と言われれば、そうかもしれないが、わたしは納得いかない。農政課なら農業関係のことをやっているのだろう、林務課なら森林などの関係だろう、という具合にすぐわかる。ところが環境森林チームなんて書いてあったって、???である。森林は扱っているんだろうが、なんで環境という言葉が冠になっているんだ。環境を重視して森林を何とかしようなんていう意図なんだろうか。並んでいる名称をあげて見ると、「地域政策チーム」「県税チーム」「地域福祉チーム」「農業自立チーム」などである。〝地域政策〟ねー、怪しいねー。〝地域福祉〟か、なんで〝地域〟という名称がいるんだろう。〝農業自立〟って農業で自立していこうっていう意図なんだろうか。おそらく前の農政課なんだろうが、「もう自立できない農業は、バイバイってことだろうか。そんなことよりも目障りなくらいに繰り返される〝チーム〟という三文字も課でいいじゃないか。

 なぜ従来の単純明快な呼び方ではいけないのか、説明してほしいものだ。いや、説明はしているんだろうが、どうもこれこそが無駄の象徴のような気がしてならない。
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愛国心について

2006-05-23 08:09:36 | 歴史から学ぶ
 教育基本法改正について意見はさまざまである。多様な時代だからさまざまでけこうである。しかしながら、愛国心を表現しようとする改正派の意図はうさんくさいといえばうさんくさい。結局改正させる側と、それに反対する側が二者択一という世界であーだこーだ言うから、そのうさんくささはいまいち飛んでしまう。うさんくさい部分をさし当たって拾ってみると、たとえば政府案の第2条で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という部分である。

 まず、「伝統と文化を尊重し」とあるが、今までの政治は伝統と文化を本当に尊重してきたのだろうか。いや、政治が目指していた伝統と文化とはどんなものだったのだろうか。地方に住むわたしにとってはそういわざるを得ないわけだ。地方の伝統と文化は、すでに風前の灯火を過ぎて消えてしまったといっても差し支えない。なぜそれがいえるかといえば、地域が伝統を大事にしなくなった根底には、国の施策がそうさせたと明らかにいえるからだ。その典型的なものが農業施策の失敗といえるだろう。農村の落胆振りを見るにつけ、地方の伝統文化などというものは金にもならず、中央に画一化されていったわけだ。サラリーマンのためのハッピーマンデー制度などというものは、あきらかに地方の伝統を奈落の底に陥れていった。

 つぎに「それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに」というが、これも前記同様に郷土を捨てる施策を行なってきた国が、何を言うかということになる。そして「他国を尊重し」と続く。隣国との外交がなかなかうまくいかない現状をみるにつけ、尊重する必要のあるのは、あなたたち改正派の政治家ではないだろうか。

 いっぽう民主党の対案は「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」というものだ。こちらも対案というがどこがどう対案なのかわたしにはよくわからない。

 つまるところ、子どもたちに「自分たちにはそんな気持ちが欠けていたから、ぜひあなたたちにはこの精神で勉学に励んでほしい、そしてそうした環境を整える努力をするとともに、わたしたちもあなたたちと一緒に勉強していきたい」ぐらいのことを言ってもらえればずいぶん気持ちは伝わる。こともなげに「今の若いやつらは」なんていうふしだらな言葉を前置きして、子どもたちに自分たちの時代を経験しろ、みたいに改正論が浮上したのならうさんくさいことになるのは当たり前だ。

 5/19朝日新聞の三者三論は、そんな意味でどれも的を得ている言葉である。とくに江川達也氏が、「国を愛したいのであれば、まず「知」を愛する心を持たないと危険だ」という。改正論者にもっとも欠けている部分かもしれない。伝統や文化、国や郷土を愛する、というのなら、まずそれらをどれだけ知っているかということになる。自らの国のことを理解せずに他国のことは理解できない。他国ばかり見ていて「愛国」などといえない。「英語教育を小学校から」に対してそれよりも国語をもっと理解しろ、という意見があるが、英語も必要だろうが自国の言葉も勉強しなくては同じことになったしまう。まずもって足元をもう一度「知る」ことだ。にもかかわらず、今の多くの人々はよそばかりを見ている。生まれた地を愛せずに国など愛せるわけがない。そう思う。

 なお、生まれた地を愛するとは、生まれた地が「良いところだ」風に良いところだけを拾って愛するというばかりではなく、まずいところもしっかり把握し、受け止めることは言うまでもない。
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宝剣岳の駒形

2006-05-22 08:14:24 | 自然から学ぶ


 「島田娘」で書いた雪形が、2週間を経過したということもあって、だいぶ雰囲気を変えてきた。前の島田娘は厳かな感じがするが、今の島田娘はずいぶんと大柄になった。そういえば「大柄な娘の雪形」で紹介した雪形は、山肌が完全に現れてしまって、姿はない。やはり皆見向き斜面の雪はどんどん解けるようで、あっという間に消えてしまった。そこへいくと島田娘の輪郭は、大柄にはなったものの、それほど変わっていない。だからこそ地域の多くの人に馴染まれている雪形ということになる。

 さて、島田娘の左側にある雪形は「盆踊り娘」といわれるようだ。そして右側の宝剣岳の左下あたりに駒形がはっきりと見えてきた。今年はまだまだ雪が多いようで例年にくらべると姿を現した時期が遅いようだ。見えにくいが駒形の下あたりに千畳敷のホテルがある。さすがにロープウェーの架線の様子はうかがえないが、雪が解けるとロープウェーの架線の位置が確認できたりする。駒形から右手にかけての窪地が千畳敷カールである。ちょっとここからは木曽駒が岳の山頂は奥になっていて見えない。

 さて、著名な雪形三種がここに現れているが、よーく見ていると他にもいろいろな形が浮かんでこないだろうか。

 撮影 2006.5.21 AM
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田んぼの水持ち

2006-05-21 13:10:17 | 農村環境
 先週「代掻き作業の人々」でも書いたように、代掻き後の梯子引きをした。ところが、水をつけても次の日になると水が漏ってしまってなくなってしまうということで、この土曜日に再び代掻きをした。代掻きをすれば漏らなくなるというものでもないが、原因は「そうだろう」という想定でもう一度代掻きをすることになった。先週と同じように義弟がトラクターで代掻きをし、わたしは梯子を引いた。傾斜地の田んぼだから、田んぼと田んぼとの段差は2メートル以上ある。土手を見れば漏る場所がわかったりするが、では田んぼのどこから漏るのかはよくわからない。だから代掻きをしなおすことで、漏る穴が埋まると想定するのである。そうした穴は、モグラによってできたりする。山間においてはモグラとも戦わなくてはならない。

 昨年中条村の現場を何日も訪れていた際、お婆さんが現場で働いているわたしのところに来ては、「田んぼの水が漏って困るんだ」と何度もやってくるのだ。確かにお婆さんの家の田んぼの下の道には、水がじわじわと流れている。「モグラの穴でもあるんじゃないですか」と答えると「そーかなー」と言うのだが、しばらくするとまたやってきて「どうしてなんだ」と独り言?を言っている。妻の実家の田んぼも同じように漏るので人事ではないのだが、一箇所からどんどん漏っているのならともかく、じわっと出ていたりすると原因は簡単にはわからない。

 思い出せばわたしの実家の田んぼでも昔はよく漏ったものだ。そのころは、秋になればスガレが土手に巣を作ったりして、その巣をとったりしたから、そんな場所はとくに土手が弱くなっていて水を溜めると漏った。スガレ追いに父は遠く新潟の方まで行ったが、よそ者に土手を掘られるのは迷惑なもので、北信や新潟の人たちにとっては「松本」ナンバーの車は要注意だっただろう。その後実家の田んぼはことごとくほ場整備が行なわれ、土手が重機によって固められたため、水持ちは極端に変化した。だから水が漏るなどということはもう20年くらいないだろう。妻の実家の田んぼも、中条村のお婆さんの田んぼも、どちらも昔のままの田んぼである。だから水持ちはよくない。毎年水が漏らないようにと気を使い、そして戦うのである。田んぼの水の必要量というものも、水路で漏水する以上に田んぼの漏水が大きいかもしれない。まあ田んぼの場合、上の田んぼで漏れば下の田んぼで受け止めてくれるからロスにはならないかもしれないが、どこの田んぼも漏っていたら大変なことだ。
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もみじマーク

2006-05-20 09:33:45 | つぶやき
 NHKの長野版の番組で高齢者運転手による事故増加問題を扱っていた。誰でも免許を持つ時代のさきがけともいえる世代が、まさしく80歳代に入り、かなりの高齢者ドライバーがちまたにあふれ始めてくる。自動車の免許証を持っているか持っていないかの境目は、長野県のような田舎では昭和の生まれか大正の生まれかというあたりにある。妻の父は大正生まれで自動車の免許は取得しなかった。わたしの父は昭和一桁で免許を取得した。わたしのこどものころはまだまだ免許を持たない家はたくさんあった。そしてしだいに取得していったわけで、女性の場合は、もう少し年代が下る。まさしくこれから高齢者のドライバーが増えて、田舎を走ったらほとんどが高齢者なんていうことも珍しいことではなくなるかもしれない。

 まだこれから、というのにすでに高齢者による事故は増加を続け、ようやく問題視されてきた。

 高齢者ドライバーには、もみじマークという高齢者であることを表示するマークがある。番組で「このマークは何のマーク?」とインタビューをしていたが、おおかたの人は知っている。しかし、そのマークをつけている人は少ない。2割程度だという。初心者マークとは異なり、表示義務はない。わざわざ「年寄りだ」なんていって走っているのは抵抗があるだろう。初心者マークが登場したのが1972年というから、わたしが中学生のころである。その数年後にはわたしも免許を取得したから、時代が国民総運転手時代が見えてきて、若者の運転が危険だと社会問題にされてきて登場したのだろう。こちらは表示義務があって、取得後1年間は見えるところにつけなくてはならない。しかし、わたしもそうであったが、「初心者」と思われるのも嫌で、「警察に見つからなければ・・・」ということで表示せずに走ったことも頻繁にあった。シートベルトとか、携帯電話のように、明らかに外から見ても認識できるものならすぐに警察にわかってしまうが、初心者マークに関しては、免許証を提示しなければわからない。そんなこともあったから、できればつけたくないという気持ちはあった。ましてやもみじマークともなれば、抵抗はもっと強いだろう。

 何歳になったらつけるのか、その辺はあまり認識していなかったが、平成9年に導入された際には、75歳だったという。それが平成14年に70歳に引き下げられたというから、田舎はずいぶん高齢者ドライバーがいるはずだ。先のインタビューで「落ち葉マーク」と答えていた人がいたが、「それ違うだろう」と内心思ったが、そんな呼び方もあるという。もっというと、若葉に対しての反意語なら落ち葉より「枯葉」じゃないの、と思ったら「枯葉マーク」という呼び方もあるという。「もみじ」も「枯葉」もあまりにも印象はよくない。いや、もみじはけして悪くはないかもしれないが、その意図と名称の意味を整合させると、印象は落ちる。もともと若葉のマークも印象は良くないし、もみじに至っては「年寄り」をいかにも示していて「納得できねー」と思う爺さんもたくさんいるはずだ。そうはいっても印象が悪いくらい目立つから、動くものには「最適なのか」と気づく。

 そういえば時には初心者でなくても若葉マークをつけている人もいる。もみじマークもそうだが、該当車両の運転者が恐怖を覚えるような方法で追い越し・幅寄せ・割り込みなどの行為を行なってはならないというから、そんなことをされないためには有効かもしれない。また、初心者より危険なおばさん運転手がいるから、マークがついているついていないにかかわらず、最近はどんな車にも気をつけろ、と戒めないと、いつもらい事故にかかわるとも限らない。
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期限オーバー

2006-05-19 08:20:03 | つぶやき
 農産物はわたしの実家も妻の実家も一応農家だから豊富にある。そしてわたしはそんな農産物は好きな方だ。だから単身赴任先へ月曜日に出発する時は、一週間分の食べ物を持って出かける。もちろん多くは野菜であるが、野菜ばかりではいけないといって、妻はいろいろ入れてくれる(わたしが要求しているのかもしれない)。そのいろいろとは、牛乳、ヨーグルト、豆腐、もずくなどのほか、冷凍ものの食品などが混ざる。一応消費期限や賞味期限があるが、持っていったその日が賞味期限ということもちょくちょくある。「おい、ふざけんなよ」と思いながら携帯を持つ。妻はこう言うのである。「大丈夫だよ、少しくらい」と。まあだいたいが大丈夫だと自分でも理解してはいるが、毎度のことのように賞味期限切れ間近、あるいは切れているものが入っていると気分はよくない。それでも「賞味期限ならまだいいか」と最近は文句もいわない。冷凍すれば大丈夫と、といわれながらそのまま冷凍庫に何ヶ月もたまっていたりする。「まあ、死ぬことはないだろうし、今まであたったこともないから大丈夫」と慣れきったものだ。

 ところがだ、今週持参したヨーグルトを見て「おい、またかよー」と思わずひとり言である。生っぽいものだが、ヨーグルトは賞味期限であって消費期限ではない。だから今までと変わりないかもしれないが、その期限は一週間以上前である。持ってきたその日はとうに過ぎている日なのである。思わず蓋を開けると匂いを確認するが、いまいちよくわからない。携帯に手がかかったが、どうせまた「匂いをかいでへんじゃなければ大丈夫」といわれるのが落ちだ。へんな匂いってどんな匂いなのか、そこがまた問題だ。わたしはどちらかというと匂いは苦手な方だ。ヨーグルトなんてもともと匂っているから、良否の判断はしにくい。まあ、よほどひどければ極端な匂いがするだろうから分かるだろうが、微妙だったら難しい。そんな葛藤をしながら、「まあ大丈夫さ」と結局みんな食べてしまった。そしてどうということはなかった。昨夜食べたものは、そんな具合で購入したものは全部期限切れのものである。なかには消費期限を切れて数日というものもあった。「もったいない」と思うから持ってきたものはすべて食べてしまおうとは思うが、野菜などは残って再び自宅に持ち帰ったりする。しかし、購入品は持ち帰ったとしても期限が切れていてはよくないと思い持ち帰らない。そうはいっても生ゴミで出すには気分が乗らない。だからそんなものを優先で食べるがなかなか減らない。昨夜食べたモズクは4月頭の賞味期限である。きっとそんな心配をしているのはわたしだけで、世の中「そんなの当たり前よ」というのかもしれない。どうなんだろう。そういえば以前「食品の賞味期限と消費期限」について触れたことがあった。やはりみんな気にはしているようだが、では、買ってしまったものはどう判断して処理するのか、気になるところだ。
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二者択一の危険

2006-05-18 08:14:39 | ひとから学ぶ
 二者択一の選択をしようとする動きは、さまざまな部分にある。そうした選択をするために、ルールを作る。われわれはよくチェックリスト、あるいはチェックシートのようなものを作りたがる。もちろんマニュアルの類も似てはいるが、とくにチェックの考え方はどらかの選択であり、「できているか、できていないか」という判断である。東北大学教授の清水哲郎氏は、射水市民病院で起きた患者の人工呼吸器をはずした問題に触れて、この二者択一のあり方を批判されている。ルールを決めていくよりも個別の判断が必要な場面もあるだろう、という意図である。「家族の同意を得た」というチェックがされているかどうかで問題視されがちだが、そのシートにチェックが入るまでのプロセスはどうだったのか、ということになる。

 いたずらに延命措置をするよりは「尊厳死」の選択もある、という考え方をチェックシートにチェックを入れるがごとく家族の同意を得るような導きがあったとしたら、それは尊厳死とはかけ離れているだろう。清水氏は「生命維持装置を着けて、生き続けようとしている患者に対して〝もうそろそろ中止を意思してはどうか〟と無言の圧力がかかるという点がある。(中略)・・・二者択一の割り切った選択をできるようにするルールだけがルールなのではない」という。これは人の生死という重要なチェックシートであり、それが結果だけを求めよう、あるいはその選択をしたことが正しいという証を求めるがためにチェックボックスがあったとしたら、人の生死とはそれほど軽いものなのかと思わざるをえない。

 以上は生死という場面であるが、重要度はともかくとして、こうしたチェックシートによる判断は、自らの確認作業であったり、第三者への判断をした証を示すものでもあり、わたしたちの生活のあらゆる場面に登場する。昨日も歯医者を訪れて、受診するにあたりのチェックシートを記入した。重要度も低いから、躊躇すれば記入しなければよいことだが、書く側の認識の差や、個人の性格によってもチェックへの思い入れは異なる。しかし、選択されたチェックでどうとなるものでもなく、歯医者程度なら・・・と思って選択しておいて、もしかしたら勘違いされてはいけない、なんて心配してしまうこともあるだろう。そのくらいなら直接問診して欲しいと思うのも、患者の気持ちではある。ところが、最近は歯医者に限らず、そんなチェックシートを書かないと受診してもらえない場合は多い。人間ドックの際にも、あらかじめ送られてきたシートへ、ある程度の答えを書いて持ち込むというのが一般的だ。自らの確認の意味でチェック一覧を作ることは、わたしの場合はよくある。とくに仕事などの場合は、同時にいくつもの業務をこなしたり、あるいは段階ごとの確認の意味で、自分なりの確認シートを作る。そうでもしないとボケてきたせいか忘れてしまう。だからけして悪いとは思わないのだが、何を客が、あるいは患者が、さらにはその家族が求めているかというときに、チェックシートはどうだろう。
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蚕の昔話

2006-05-17 08:11:50 | 民俗学
 『伊那路』(上伊那郷土研究会)最新号592号に赤羽篤氏が蚕の伝承について触れているが、一時的(一時的といってよいかは意見が異なるかも)に世の中を席巻した養蚕がこうした伝承や行事の中に今も残るような大きな影響を与えたことを再認識させてくれる。

 赤羽氏は『中国のむかし話』「蚕になったむすめ」と辰野町に伝承されている伝承との類似を、伝承の出所は中国東晋時代(4世紀)成立の怪異説話集『捜神記』(そうしんき)にあると紹介している。干宝著『捜神記』から赤羽氏が抜粋した全文をここに紹介すると次のようである。


 大昔のこと。ある役人が遠くへでかけることになり、むすめがたったひとりで、るす番をすることになりました。
 むすめはたいそうかわいがっている一頭の牡馬がいました。それでも、さびしいにつけ、かなしいにつけ、思いだすのは父親のことばかりです。あるとき、たわむれに、むすめは馬にいいました。
 「とうさんをつれて帰ってくれたら、わたし、おまえのお嫁になってあげるんだけれど。」
 それをきくやいなや、馬は、たづなをひきちぎって走りさり、まっしぐらに父親のもとへかけつけました。
 父親は馬を見てたいへんよろこび、背に乗りました。ところが馬は、やってきた方向を見て、かなしげにいななくのです。
 「けがをしているところもないのに、こんなに鳴くとは。まさか、むすめになにかあったのではあるまいか。」
 父親は、いそいで家へ帰りました。
 馬のまごころにうたれた父親は、まぐさをたっぷりやりましたが、馬は見むきもしません。馬は、むすめのすがたを見かけると、よろこんだり、おこったり、足をふみならすのです。
 こんなことが一度ならずおこるので、ふしぎに思った父親が、こっそりむすめにたずねてみました。むすめは、ことのしだいを父親に話しました。すると、父親は、
 「このことはだれにもいうな。家門の恥になる。おまえは家からでるんじゃないぞ。」
というと、石弓で馬を射殺し、皮をはいで庭にほうっておきました。
 父親がでかけた後、娘は、となりの娘と、馬の皮のところで遊んでいましたが、足で皮をふみながら、
 「畜生のぶんざいで、わたしをお嫁にしたいなんて考えるから、皮をはがれたのよ。」
 そのことばがおわらぬうちに、馬の皮がぱっとむすめをつつみこみ、飛んでいってしまいました。
 となりのむすめは、あまりのことにおどろき、たすけることもできません。大いそぎで、父親に知らせました。
 父親は、すぐにとってかえし、むすめをさがしましたが、もう、むすめのすがたはどこにも見あたりませんでした。
 数日後のこと、むすめと馬の皮が、大木の枝にかかっているのが発見されました。むすめは、馬の皮にくるまったまま蚕になって、樹上で糸をはきだしていたのです。
 そのまゆはとても大きく、ふつうのまゆとはちがっていました。となりのむすめが、枝からとって蚕をそだてたところ、数倍の糸がとれたということです。
 そこで、この木を桑と名づけました。「桑」とは、「喪」という意味です。人びとは、あらそってこの大きなまゆのとれる蚕を飼うことにしました。これが、いま飼われている蚕のはじまりというわけです。


以上であるが、もうひとつ紹介している『小学生の調べたる上伊那郡川島村郷土誌続編』(昭和11年)に掲載されている「養蚕のいわれの昔話」の伝承は次のようである。


 昔、金長者と子長者があった。子長者は子供をしゃらかしてつれて歩いた。金長者は金を一ぱい箱に入れ、馬につけて歩いた。人はみな子長者の子供を見て、奇麗だといって羨ましがったけれど、金長者の方を羨ましがって見る者は誰もいなかった。金長者は家へ帰ってきて、どうかして子供を欲しいと思った。すると、神様が白馬に爪を煎じて飲めば子供ができると言ったので、家に飼っている白馬の爪を切って飲んだら本当に子供が生まれた。金長者は喜んでその娘を育てた。
 とろろが、その白馬はその娘の呉れるものでなければ何も食べなかった。そこで家の者はこんな馬はいけないで焼き殺してしまうといって、原っぱへ連れて行って焼いた。娘は可愛そうに思って縁側に出て見ていると、馬を焼いた煙が降りてきて娘を巻いて、その侭天へ上っていってしまった。母は悲しがって縁側に立っていると、天から黒い固まったものが落ちてきた。それを母が前掛けに受けて見ると、黒い虫であった。それに桑を呉れてみると、だんだん大きくなって蚕になった。
 それで蚕神様の絵には馬と娘がいるという。また蚕神様は馬だともいう。


 というぐあいである。自家の飼育馬と娘がねんごろになったのを知って、馬を殺してしまったという話で始まる同様の伝承はあちこちにある。詳細はことなっても中国の昔話の変化といっても差し支えない内容だ。赤羽氏も述べているが蚕神の信仰として蚕玉(こだま)信仰はさまざまな形で残っている。繭玉の形に餅を作って食べる行事は小正月の火祭りなどに代表されるし、蚕玉様の石碑は長野県内にはたくさんある。しかしそれらがけして古いものではなく、石碑の多くは明治以降のものが多いし、江戸時代のものも末期のものである。ということは養蚕が盛んになったのは明治以降のことであり、江戸時代にはそれほど盛んでなかったことがわかる。「かつてはみんな桑園であった」なんていうが、実は桑園だらけであった時代とは、それほど長い期間ではなかったのだ。桑園にするために里山が開かれたということもあったのだろう。しかしながら、年中行事に蚕にかかわる文字がずいぶんと登場する。もちろん信仰として「五穀豊穣」などという文字とともに「養蚕繁盛」のような文字も躍る。そんな姿をみるにつけ、中国の昔話にもあるように、桑をくれることで蚕から数倍の糸がとれるようになったという事実が伝わるとともに、養蚕が大繁盛するようになったというようにもとれるわけだ。中国の話は4世紀の昔話であるが、日本においても同様の伝承が近世、あるいは近代において飛躍的に伝わったともいえる。



 写真にもあるような馬に乗る女神の蚕玉神を、伊那谷では時折見ることができる。また、馬に乗っていなくとも、女神が桑を持つ石像が多い。なお、写真は上伊那郡辰野町川島木曽沢のものである。左手に持っている算盤のようなものは繭の入った箱である。昭和11年造立の銘文がある。前記で紹介した川島村の蚕玉神である。
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