不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

桑の実と野イチゴ

2006-06-30 08:18:49 | 自然から学ぶ
 中条村の現場で一緒に歩いていた人が、木の葉っぱの中から実を採って食べながら「懐かしいなー」といっている。大木になっているから下ばかり見ていると気がつかないのだが、桑の木である。かつて盛んに養蚕が行なわれたころには、桑の葉をかいたりして、枝さら切るということもあったから、木が大きく伸びるということはなかった。養蚕が廃れたとともに、桑畑は根抜されて、果樹が植えられたり、普通の畑に転換されていったが、比較的傾斜がきついような場所や、山に植えられていたような桑の木はそのまま今まで残っている木がある。中には大変な林になっていることもあって、遠目では桑の木の林となかなか気がつかないのだが、葉っぱを見れば明らかに桑の木なのである。

 群馬県養蚕試験場の「桑の実図鑑」によると、どうも品種名「一ノ瀬」というのに近いように思う。そこに「蚕飼育用に仕立てると、実は着きにくいが、木を大きくするとたくさん実が着く」とあるように、まさしく木を大きくしているから、実がたくさんついている。木の下には、ぼとぼとと黒い塊が落ちていて、知らぬ間に靴の裏側は紫色になっていた。

 子どものころ、まだまだ養蚕をしている家は多かった。我が家も養蚕をしていて、桑つみによくいったものだ。そしてこの季節にはやはり桑の実を採って食べた。ご存知の方はわかると思うが、桑の実を食べると紫色に口の中が染まる。歯や唇なんかにもその色がついたりするから、桑の実を食べたことはすぐにわかってしまうのだ。そんなことを思い出しながらわたしも桑の実を採って食べてみた。懐かしいといえば懐かしい。中条村にはまだまだ桑の木がたくさん残っている。残っているというよりも荒れていて木がそのまま大きくなっているといった方が正しいだろうか。数年前、飯田市箱川の現場で草を刈ろうとして山に(もとは田んぼである)入ったが、見上げるような林が数アールつながっていた。夏場だったので、藪の海をかき分けて入っていったが、丈の長い草を刈り倒して見上げると、やはり桑の木林だった。よくも伸びたものだと感心したが、農業の衰退はそんなところにもみてとれた。

 桑の実とともによく食べたのが野イチゴである。少なくなったとはいえ、けっこう野イチゴが成っている。ちょうど桑の実と時を同じくする。今の子どもたちはそんなものは食べないかもしれないが、昔の子どもたちには貴重なおやつだった。



 撮影 桑の実  中条村下長井 2006.6.27
     野イチゴ 喬木村    2006.6.25
コメント

消えた村をもう一度③

2006-06-29 08:13:03 | 歴史から学ぶ
 昨年飯田市に合併した下伊那郡上村は、合併したとはいうものの、標高1800メートル前後の伊那山地によって旧飯田市とは分離されている。川をさかのぼればたどり着くという地ではないのだ。だから上村を流れる上村川は遠山川に合流して、長野県境に近くまで流下して天竜川に合流する。谷筋がなくていきなり二千メートル近い山々の向こう側と合併した市町村合併は、今回の平成の大合併でも珍しいのではないか。

 初めてこの村を訪れたのは、20年ほど前だ。当時は三遠南信道の矢筈トンネルなるものはなく、「赤石林道」といわれるうねうね道をひたすら上って、峠のトンネルをくぐると、またまたひたすらうねうね道を下るという行程の末にたどり着いたのである。とはいえ、時間にしたら飯田市街から1時間程度という行程であるから、すごく遠いという地ではなかったが、知らない人が行ったら時間以上に「遠さ」を実感したに違いないし、あの「うねうね道」で疲れてしまうこと必至であった。そんな地が同じ飯田市なのだから、気分的には許せない感もある。

 パンフレットは昭和54年の正月過ぎに上村から送っていただいたものである。このイメージはのちのパンフレットの基本的スタイルにもなっていて、それほど古さを感じないが、同じ写真はもう撮影できない。こんな感じに正面に上河内岳が望めるのは、もちろん下栗の風景である。撮影された大野は、下栗の本村からさらに3キロほど奥に入る。初めて訪れたころには集落内には道路が開いていなかった。その後まもなく各家への道が開いたが、開いたのを契機に無住の家が多くなって、今は2軒ほどしか居住者はいない。A5版のパンフレットは8ページ立てである。表紙を開くと、「山神」碑がたたずむ山林の写真が見開きに展開され、「日本の原風景とは何だろう」と問うている。7ページ目に紹介される霜月祭りに代表されるように、村全体が神域ともいってよいほど独特な趣のある村である。4ページから5ページではしらびそ高原と下栗をとらえている。5ページにあるそののちも頻繁にパンフレットに利用される下栗の写真は、「高原ロッジ下栗」の下から望むもので、兎岳、聖岳、上河内岳の冠雪と背板に焚き木を背負った年寄りが石置き屋根の家へ向う風景である。

 昭和50年に印刷された上村図には、程野分校と下栗分校が載るが、すでにそれらの分校はない。また、昭和57年に印刷された上村図には、現在開通している矢筈トンネルの位置に国道152号線と書かれ随道が点線で描かれている。三遠南信道で開通しなくとも、いずれ国道の随道として開く予定だったようだ。57年というとすでに中央自動車道が開通していたが、同図に囲みで印刷されている「上村とその周辺」という100万分の1図には中央自動車道が予定線として点線で描かれている。

 合併直前のパンフレットをみながら30年近い前のものとくらべると、その内容にそれほどの変化はない。山とその生活空間を利用した観光であることに違いはないのである。飯田市から赤石林道を通過してこの村に入り、上町(かんまち)から下栗に登り40度近い耕作空間を望む。そしてしらびそ高原まで御池山の尾根をたどり、南アルプスの山々を堪能する。そして地蔵峠方面へ下り、大鹿村へ抜ける。まさしく山の空間を体感する観光といえるだろう。大鹿村へ入ってすぐの青木川の端に、中央構造線の安康の露頭があって見学できる。

 消えた村をもう一度②
コメント

草みしり

2006-06-28 08:10:02 | 民俗学
 梅雨時には草が伸びる。自然と水が供給されるから、草が伸びるのも当たり前で、1週間前に草を取ったのに、すでに取り残しの草が伸び、「来週はあそこの草を取ろう」と思っているのに、前週に取った場所に草がちらほらしていると、やる気をなくしてしまうのだ。

 ところで最近はわたしも「草取り」とか「草むしり」というが、子どものころは「草みしり」と言っていた。もちろん祖父母や父母がそう言うので、それが当たり前だと思って使っていたのである。一般的には「むしり」というのが普通なのだろうが「む」が「み」になまっているのである。『上伊那郡誌 民俗篇下』にこの「むしる」の方言地図がある。それによると、「みしる」という語彙が「むしる」と混在しながらも利用されているのは、伊那市あたりまでで、それより北部では「みしる」が使われていない。そして「むしる」をほとんど使わなくなるのが、駒ヶ根市の大田切川あたりより南になる。それでもときおり「むしる」を使う場所もあるが、ほとんどが「みしる」になるのである。

 同じように「む」が「み」に変化しているものに、藁で織った敷物のことをどう呼ぶかというもので、一般的には「むしろ」と言う。ところが、わたしの子どものころにはこれを「みしろ」といっていた。もちろん「みしる」と同様に家で使われていた言葉である。これについても『上伊那郡誌 民俗篇下』に「むしる」と見開きのページに方言地図が示されている。驚くほどに「むしる」と「むしろ」という使い方と、「みしる」と「みしろ」の使い方はセットで利用されているのである。もちろん完璧に同じではないが、ほぼ同じといってよいのである。

 そのほかの言葉も伊那市あたりから変化を始め、駒ヶ根市あたりで完全に北と南という対比の変化が終わるのである。

 〝みしる〟が気分的に合っていると思っていたわたしも、今や〝むしる〟が当然で〝みしる〟を使わなくなってしまった。けして〝みしる〟を忘れたわけではないが、いつしか標準的な言葉を誰もが使うから自ずとそれが自分にもそなわった。しかしながら、まだまだ方言は使っているはずだ。「柔い」でも触れているが、はたして方言なのかそれともそうでないのか、といったものもある。
コメント (4)

ジーコと野球

2006-06-27 08:04:35 | つぶやき
 今でこそ日本もプロのサッカーリーグがあって、野球一辺倒であったスポーツの世界が、分散してきていることは確かだ。サッカーのワールドカップは、ことさら大規模で、全世界が注目する。そうした流れの中で、「全世界の誰もが、ボールひとつあればできるスポーツ」というようなことをいう。それほどメジャーなものだと言いたいのだろうが、わたしにはサッカーの競技人口が結果論として多かっただけのように思うのだ。

 先ごろ「石合戦」について触れたが、わたしの印象で言うと「ボールがあれば投げる」のが普通ではないのか、そう思うのだ。それが野球になろうがハンドボールになろうがラグビーになろうがどれでもよい。いずれにしてもサッカーは手を使わずに足だけで行なう競技だ。人間は四足の動物とことなり、手を自由に使いこなすことが特徴だ。ということは、人間らしさといえば手ではないのか、と思うのだ。とっさの時に、手を使わずに足を使うなどということはまれだ。危険を回避しようとすれば、そこで足ではなく手を出す。けんかの時に足を先に出す人はまずいないだろう。

 スポーツの種目を概観したとき、物を投げる競技というものは限られてくる。もちろん陸上の投てき種目はともかくとして、ボール競技で〝投げる〟行為が主になるものは少ない。野球がどれだけわたしたち日本人の根底にあるかは、それぞれの人が考えてみればわかることだ。この場合の野球には、ソフトボールも含む。

 さらによーく考えてみれば、サッカーはどちらかというと動物的な部分が多い。そして複雑ではない。だからこそ世界の人々に受け入れられるのかもしれないが、そこへいくと野球の類は違う。場面場面でのかけ引きは繊細なものだ。日本がまったくブラジルに歯が立たないように、サッカーには番狂わせがあまり起きない。それはいかに動物としてその動きを極めているかということになり、それが比較的に単調であるから場面ごとのスペシャリストが生まれてこないのだ。

 実はわたしは野球よりサッカーの方をよくテレビ観戦する。それは止まることがなく連続的に競われるからだ。「目を離せない」とはまさしくサッカーをいう。ところがほかのボール競技に、これほどまでに連続的なものは少ない。だから、ついついわたしもサッカーを見てしまうが、番狂わせがあって、その日の体調でいくらでも変化をもたらす野球は、繊細であって実をいうと楽しみ方があるのかもしれない。

 何度も言うが、元来「物があれば投げる」のが人間だとわたしは思う。

 ところで、〝ジーコ監督「まだ未成熟」 ドイツ紙が掲載〟というヤフーの記事がホームページにあった。「プロ意識、持続力、勝ち抜く精神力に欠けている。何よりも、まだ成熟していない。」と日韓のサッカーレベルを語ったようだ。仮にも先日まで日本代表監督をしていた人の言葉とはとても思えない。「おまえは何のために監督をしていたのだ」と言いたい。さらに記事には〝両国の国民的スポーツは野球で「今後はサッカーへ移行するだろうが、もう少し時間がかかるかも」〟とある。こんなとぼけた野郎に野球を馬鹿にされたような気がしてならない。けしてサッカーが嫌いではないが、いろいろ考えていたら世の中、ちょっとサッカーでボケているんじゃないか・・・そんなことを思うのだ。日本に根付いてきた「野球」の歴史や文化を再確認してほしいものだ。サッカーより野球の方が日本人には向いている、そう思うのだ。

PS.
 岡田武史横浜M監督が、メキシコとアルゼンチンの試合から「メキシコに学べる日本」ということを言っている。日本と同じように小柄でフィジカルもそれほど変わらないメキシコが、運動量で相手を上回って補っていたと。パスをつなぎ、できるだけコンタクトを避ける、というように、日本にもやれることはほかにあったように思われる。体格がないからとか、欧州で活躍している選手が少ないからなどといって言い訳しているとぼけた監督よりよっぽど岡田監督の方がましだということである。
コメント

やたらに草を刈れない

2006-06-26 08:10:36 | 自然から学ぶ
 妻の実家の裏にあるため池までの道が草ぼうぼうになっているということで、草刈をしに日曜日に行った。妻は家から下のため池まで、わたしは下のため池から上のため池までを刈ったのであるが、刈り終えて戻ってきて下のため池の堤体頭を歩く程度刈っていると、「ウツボグサを刈らないで」という。「えー、もういっぱい刈っちゃったよ」というと、「ひどいなー、わたしはわざわざ残しているのに」と言うのだ。ちょうど花が咲く季節で、わたしのように詳しくないものにも「花が咲いている」程度の認識はあった。しかし、たくさん咲いているから刈ってもいいか、という感じに刈っていたのである。以前にアザミをわざわざ残してわたしが刈っていたら、「アザミは刈ってもいいよ」というのに、それでもと思って気にはしていた。ウツボグサはあちこちに姿が見えるし、それを刈らないで残していたら、ほかの雑草が刈れない。それほど点在して大きく伸びた雑草の中に埋もれている。

 まだウツボグサは良かった。「オカトラノオは刈ってないよね」というので、「どんなの」と聞くと「尾っぽのような花が咲くやつ」というので、またまた「それも刈ったかもしれない」というと、また怒るのである。このため池間の道の草刈をしたのは初めてだった。例年は妻が刈っていたもので、妻は刈るたびに大事な草花は刈らずにいたようだ。そんなこともあって、「あんたが刈るというので、ちょっと心配していたんだよね」という。「それならあらかじめ言っておいてくれないと・・・」とわたしはぼやくのである。そんな話をしていると「まさかホタルブクロも刈っちゃったの」と倒れているホタルブクロの花を見て情けなく言うのである。どれもこれもそこそこの株が咲いているから、少しくらいは刈ってもいいか・・・という感じで刈っていた。さらに近くに黄色い花が倒れていて「あらら、ツキミグサまで刈っちゃった」・・・である。本当に〝あらら〟という感じである。妻はそんな具合にうるさいので、常に草刈の際に気を使ってはいるのだが、なにしろ雑草の丈が長く、埋もれている草花を残すには至難の業である。

 写真のウツボグサはシソ科の植物でそれほど珍しいものではない。秋を待たずに夏のうちに枯れてしまうことから「夏枯草」(カゴソウ)と呼ばれる。花穂の形が弓の矢を入れる「うつぼ」に似ているためにつけられた名前だという。口内炎やへん桃炎において、煎液でうがいをしたり、肝臓炎や膀胱炎においては煎じて服用したともいわれる薬草である。
コメント (2)

化粧室

2006-06-25 09:50:16 | ひとから学ぶ
 〝わたしにとっての「便所」〟の第7章である。

 便所といえば便所である。大便と小便の用途しか考えられないのだが、今や便所は洗面所から化粧室と呼び方は変化するとともに、その用途も便所だけではなくなった。そう考えれば便所という言い方そのものも化石化していく。便室の用途として用便をする場所というのが日本的考えであったが、欧米では着替え、あるいは履物の履き替え、そしてポケットの中の金品の入れ替えというような用途もあったようだ。そして、欧米では便室と洗面所というものが別個の空間であって、洗面所の用途も多様であった。日本ではそうした感覚がなかったこともあり、便所に付随した洗面所は、単に用便後の手洗い程度に考えていた。だからこの形式が取り入れられてきたころは、洗面所はそれほど重要視されていなかったのか、スペースも狭かった。欧米での洗面所の用途をみると、①洗顔と歯磨き、②用便後の手洗い、③外出後の、あるいは外から屋内に入ったときの手洗い、④服装や化粧直し、⑤上半身の水拭き、⑥ハンカチや靴下などの洗濯、などの用途があるという。日本人としては、公衆の場で①とか⑤、⑥をするには抵抗があるだろう。またそんな光景をあまり見ることはない。洗顔や歯磨き程度の姿は見るが、それらはケースが限られているように思う。それでも現代の日本人にはそれほど違和感がないかもしれない。

 ポケニャンさんはブログ「男子化粧室」において、〝男子化粧室〟の表示を見て「何をする場所なのか」みたいに違和感を覚えた経験を書いている。男女平等社会なら、女子化粧室に対して男子化粧室があってもちっとも不思議ではない。しかしながらそこまでして「化粧室」なる言葉を当てなくてはならないのか、それともマジに化粧のためのスペースなのか、不思議な話である。〝化粧〟とは何かと広辞苑で引いてみる。「紅・白粉などをつけて顔をよそおい飾ること。美しく飾ること。外観だけをよそおい飾ること。」などと書かれている。そして〝化粧室〟について「化粧に使う部屋。洗面所・便所にもいう。」とある。化粧室の意味からいけば洗面所でも便所でもいいわけだからけして不可思議なことではないが、そんな小難しいことではなく、便所の用途なら単に「便所」で良いと思うのだが、なぜこうも呼称を変えてきたのだろうか。〝便所〟より〝化粧室〟の方が聞き応えが良いというイメージの問題なのだろうか。それともマジに〝化粧〟のための空間なのだろうか。

 そんなことを考えながら思うのは、公衆の便所とプライベートの便所ではかなり感覚に違いが出てきているというのが印象である。明らかに公衆の場に整備されてきた便所は化粧室になりつつあり、プライベートな便所は、相変わらず便所のままである、そんな印象である。ところが旅館よりもホテルの台頭により、人々は明らかに欧米化してきたことも確かで、それに慣らされてきていることも確かである。ホテルの狭いスペースだからこそなのだろうが、便器と浴槽が隣り合わせに並んでいるのは、わたしにはどうしても許せないわけで、今やそんな〝許せない〟なんていう人はいなくなっているかもしれない。

 関連記事
  第1章「わたしにとっての〝便所〟
  第2章「用を足したくなる環境
  第3章「用便後に尻を拭く
  第4章「便座器のもたらした変化
  第5章「便所周りでの作法
  第6章「便器が詰まる
コメント (4)

上高地

2006-06-24 10:30:02 | つぶやき
 信濃毎日新聞6/22朝刊の特集記事「上高地あるべき規制は」を読んで、著名な観光地について少し触れてみたい。上高地といえば、知らない人がいないくらい著名な観光地である。道路状況が良くなかったということもあって、渋滞を背景にマイカー規制が始まったのは1975年というからずいぶん昔のことである。年とともに規制日数が増え、1996年には通年規制に入った。さらには路線バス以外のバスも規制の対象とされるようになり、今や年間の渋滞日数0日まで至ったという。こういう交通自浄から、上高地を訪れる人たちは、多くはシャトルバスを利用するようになった。最も一般的なものが、旧安曇村沢渡の駐車場にマイカーを置き、シャトルバスで上高地を往復するケースである。

 記事では「最低限の歯止めは必要」という自然環境保全から見たものと、「見過ごせぬ入り込み減」という観光旅館組合の危機感という対照的な意見が掲載されている。また、「高山で成功有料ガイド」という観光地の保全を考慮しながら観光者を受け入れている旧丹生川村の五色ケ原の取り組みが紹介されている。この五色ケ原では、入山する人たちに有料ガイドの同行を義務付けており、7から10人のグループにガイド1人がついて料金は最低8800円という。高すぎるなんていう指摘もあるというが、1人当たりにすれば千円程度だからそれほど高いという印象はない。

 わたしは通年規制になっていなかった時代に1回、その後シャトルバス利用で1回上高地を訪れた。シャトルバスで訪れた際は、家族で訪れたもので、沢渡の駐車場に車を置いて、大正池までバスに乗り、そこから河童橋まで歩いた。ほぼ1日近くいたから、あちこち歩いた記憶がある。家族といっても息子1人と妻だから3人である。3人ではあったが、交通費がとてつもなく高い、という印象はなかった。たとえば今上高地を訪れようとすれば、沢渡の駐車場代が500円、シャトルバス代が河童橋まで往復運賃が1800円×3人=5400円、ということで合計5900円である。安くはないが高いとも思わない。3人で1日上高地を満喫できるとしたら、ディズニーランドより経済的だし意味も深い。

 ここで思うのは、先ほどの五色ケ原の話ではないが、ガイド料金が〝高い〟といわれる所以である。料金をとることで観光客が減少するといって〝高い〟というのなら、そもそも自然環境で稼いでいる人たちはそんな論議をする必要はない。どんどん人を受け入れればよい。しかしながら少しでもそうした意図を持ち込んで〝売り〟とするのならば、客の減少はあってもそれ以上のものが提供できるという自負が必要だろう。そういう観光地を目指してもらいたいものだ。とくに自然を相手にしているのなら。そこで上高地はどうだろう、ということになる。前述したように、それほど〝高い〟という印象はない。対照的な例があるので挙げたい。中央アルプの千畳敷観光である。中央アルプスの木曽駒ケ岳から少し下ったところに千畳敷カールがある。この千畳敷もずいぶん観光客は多いが、上高地とは比較にならない。その千畳敷まで麓の菅ノ台からたどり着くには、登山するか、菅ノ台から途中のローウェイの乗車口まで歩いてロープウェイを利用するか、あるいはバスでそこまで行ってロープウェイを利用するか、といった具合になる。一般客はバスとロープウェイを利用して千畳敷まで上る。そして時間があれば千畳敷から木曽駒ケ岳まで歩くわけだ。わたしが初めて千畳敷を訪れたのは、もう30年近く前のことである。その時も今も、その方法は変わらない。この千畳敷へやはり家族で今行くとしたら、菅ノ台の駐車料金が400円、バス運賃が往復1600円×3人=4800円、ロープウェイが往復2200円×3人=6600円となり、合計11800円必要なのだ。もちろんロープウェイに乗るのだから高いのは理解できるが、頻繁に行くには高価な交通料金で難しい。金がかからなければ、観光客はどんどんやってくるだろう。しかし、そうした観光客を狙って稼ごうという考えは捨てて、そこを理解してくれる必要な客だけを大事にしていく考えはどうだろう。自然相手の商売で○○ファンドのごとく稼ごうなんて思ってはいけない。

 上高地の自然をもっと高価なものにしてもよいのではないか、そうわたしは思うのだ。「金がなければ行けないじゃないか」などと指摘を受けるかもしれないが、それでも行けることの価値を味わってほしいのだ。そしてせっかく高い交通料金を払って行くのなら、ゆっくりできるようなゆとりを持てる、そんな旅行者になって欲しいし、そういう客を受け入れて欲しいものだ。上高地が海外旅行並でもよいではないか、金がなくて飛行機に乗れないのなら、海外とは異なり、自分の足でいけるのだから。
コメント

ネマガリダケ

2006-06-23 07:49:42 | ひとから学ぶ
 ネマガリダケの季節である。タケノコといえばモウソウとかハチクといった竹の子を想像する地域の人たちにとってみれば「何これ?」といった印象の竹の子がネマガリダケである。会社の親睦会で南志賀の笠岳へタケノコ採りに行った。イネ科のチシマザサのことをネマガリダケというらしい。北海道や東北といった、どちらかというと雪深い地域に生えるタケノコで、長野県内でも北部の山地ではよく見かける。近年採取禁止にした志賀高原のニュースは話題になった。このネマガリダケを採ろうと、目の色を変える人が多い季節である。

 長野に赴任してから二度めのタケノコ採りであったが、前回の時は思い出さなかったが、今回訪れて、かつて30年近く前にも同じ場所を訪れてタケノコを採っていたことを思い出した。どうも前回訪れた際には、曇っていて近くの山々が見えなかったため思い出さなかったのかもしれない。今回は横手山から笠岳と周辺の山々が曇ってはいたがよく見えた。そんなこともあって思い出したのである。昔訪れた場所とほとんど同じである。当時はもちろん舗装はされておらず、砂利道であった。当時タケノコ採りといっても嬉しくもなんともなかった。同僚に言われるままに来て、どうでもよいと思いながら、適当に採っていたことを思い出す。なぜそんなにむきになって採るんだろう、そう思うほど、同僚はネマガリダケの林を熊のように移動していた。ご存知の方はわかるだろうが、タケノコ採りをすると真っ黒になる。それも採りかたによるのだろうが、目の色を変えて採る人はすごい。林から採りおえて出てくると、まさしく熊が出現したかごとく黒いのである。

 その同僚と言い争ったことがあった。「こんなタケノコ美味しくない」とわたしが正直に口にしたからだ。同僚とはいえ、20歳ほど歳が離れていた。にもかかわらず、けっこう正直に言葉にするから、言い争いは絶えなかった。わたしは南信の人間だから、こんなネマガリダケのことは知らなかった。図太いタケノコしか知らなかった。そのタケノコも、子どもにとっては灰汁が強いから、その印象を引きずると、美味しさがわからない。今でこそタケノコが美味しいと思えるようになったが、かつてはタケノコそのものが好きではなかったし、加えてネマガリダケのような細いタケノコは味もそっけもなかったのである。煮付けて味がしみ込んだものが「タケノコ」というイメージだったのである。当時、それでもと思って採ったタケノコを実家に持ち帰ったのだが、母には「何よこんなタケノコ採ってきて」と喜ばれなかった。歳をとったせいか、ようやくこのタケノコの良さもわかってきたような気がするが、北信の人たちは年老いた者も、若いものも、このタケノコが好きなようだ。確かに味噌汁に入れて〝キュッ キュッ〟と脳裏に音が響くのは、独特なものだ。採ったままでは長持ちしないということも、旬の味を彩らせている。

 今年は親睦会の幹事だったということもあり、前回は一握りほど採ってやめたが、今回は来られなかった人へのお土産分を採らなければと、今までになく必死に採った。採りだすともっと採りたくなる、そんな気分を始めて味わえた気がするのである。
コメント

子どもがいない

2006-06-22 08:12:56 | 農村環境
 先日、父の日ということもあって、実家を訪れた。母の日にはいろいろあって行けなかったということもあって、母の日と一緒の父の日である。ここ数年はいつもそんな感じである。兄もいて久しぶりに少し話をしてきた。その会話のなかで出た話題に触れてみる。

 実家の隣組は八軒ある。その隣組にいる子どもは、中学生が最も年少だという。そしてそれ以降子どもが生まれていない。八軒のうち、子どもがいるのにその家に戻ってこない家が三軒、息子が家を継いだが再婚だったり子どもがいなかったりとおそらくもう子どもの生まれそうもない家が二軒、子どもが女の子で養子をとって家に入り、子どもが生まれれば可能性がある家が二軒、そしてもう一軒の実家は息子が将来帰ってくればやはり可能性がある、ということで、家を継ぐ子どもたちがいないケースがほとんどである。同じ集落で隣接する隣組を見回しても、似たようなもので、次世代にわたりその家が続くかどうかということを確率的にいうと、その可能性は3割程度だろうか。少子化が叫ばれるが、田舎の姿は率は下がらなくとも人口は明らかに減る。実家の隣組に生まれた50代の男性は、両親が暮らす家の環境を「こんなところ、人間の住むところではない」と評したという。そして、同じ町ではあるが、比較的町場に近いところに家を新築した。たくさん農地があるが、そこで姿をみることはなく、両親がささやかに農業を継続している。

 自分の住む地域で同じような視点をあててみる。隣組は7軒で、最年少は、まだ幼児である。そしてここ数年の間に結婚して家に入って暮らしている人もいて、近いうちには子どもが生まれる可能性もある。とはいえ、子どもがいない、あるいは帰って来ないという家も2軒あり、加えて帰る可能性のない家が増えることも考えられる。実家のある地域に比較すると、「子どもたちがいない」というほどではなく、数年のうちには高齢者しかいなくなる、という環境ではない。

 そんななか、実家のある地域は農業の協業化が進み、受委託が盛んに行なわれている。農村地帯だから後継ぎがなければ委託希望者は増える。しかし、そうした担い手といわれる人たちも高齢者が多い。農業をしない家が増えるだけではなく、後継がいないために家が消える。家が消えれば受委託の契約ができず、荒廃地が増える。空き家があったり荒地があったりと、山間の風景とそう変わらない風景が、割合平坦な集落でも見られるようになるのかもしれない。
コメント

消えた村をもう一度②

2006-06-21 07:55:30 | 農村環境
 上越と中越の境にある東頚城郡松之山町は、長野県の北端にある下水内郡栄村と隣接している。平成17年4月1日に新設合併によって十日町市、松代町、松之山町、川西町、中里村が合併して新十日町市となった。合併時の人口が3096人という。栄村と背中合わせという立地は、自ずと豪雪地という印象がある。栄村の野々海池は、飯山市と栄村、そして松之山町の境界から少し栄村側におりた所にある。野々海池へ平滝から上る道を若いころに何度も走った。栄村の中心になる森からも上る道があって、よくきのこを採りに上ったものである。天然のナメコを採ったりしたもので、本当に大昔の記憶である。ここ何10年も行ったことがないのでずいぶん様子が変わっていることだろう。野々海池周辺は原生のブナの木が生えている。よく先輩がこの野々海池のあたりへ竹の子採りに行っていたようで、迷うことがよくあったという。とくに野々海池から西側の方へ入ると、慣れていてもどこにいるか解らなくなるということを聞いた。

 わたしが松之山町を訪れた際は、この野々海池から林道を通って松之山町側へ下りて入った。松之山温泉で知られている町であったが、人口規模でもわかるように、かつては町制が敷けるだけの人口があったものの、過疎化により減少したようである。昭和55年12月20日発行のパンフレットの表紙からもうかがえるだろうが、当時の観光パンフレットとしては、垢抜けているパンフレットである。内容を見ると、「祭と野鳥」という大きな見出しがあり、両者を強調している。祭りとは、小正月に行なわれるムコ投げという行事がよく知られている。正月の飾り焼く際に行なわれる行事で、一度訪れたいと思っていたが実現しなかった。

 では、何を目的に訪れたかというと、十日町市鉢にある石仏を訪れたいと思って松之山町を経由したものである。この松之山町のパンフレットにも片隅に百体庚申と子安峰の三十三観音の写真が掲載されているが、それらの石仏を見ながら鉢へ向ったと記憶している。鉢まで行くにはずいぶん遠回りではあるが、松之山町に興味を持っていたことも事実で、当時の松之山町の棚田風景は、長野県内のどこよりも美しかったという記憶もある。

 松之山町から十日町までのルートは、わたしの印象では津南町を経由していく道が一般的であったように記憶する。おそらく道路の距離では十日町市の中心まで20キロ以上あるのではないだろうか。上越と中越の境界にあって、今までどちらともつかない扱い方を受けてきたこの地域は、今は中越地域となる。

 ブナ林の写真は、昭和58年7月10日に野々海池の近くで撮影したものである。ずいぶん古いフィルムから読み取ったから今一かもしれないが雰囲気で・・・。



 消えた村をもう一度①
コメント

時代は変わった

2006-06-20 18:32:06 | 農村環境
 自治会未加入者が多いという話題も時折耳にする。田舎であっても、まったくの農業主体の地域ならともかく、今や勤め人が多くを占めるような状況では、しだいに自治会の必要性も問われ多様な考えから加入不要論も出る。しかしながら、かつて農業主体の地域にあって、老齢世帯のため地域の共同作業や、負担金の協力ができないと盛んに町や区へ主張された方がいた。そのSさんは、血縁ではないがわたしの祖父母が親しくしていた方で、子どものころには正月や盆というとよく訪れていた方である。Sさんは、昭和42年ころからそうした社会の中で暮らすことの矛盾を問う投稿を新聞に盛んにされていた。わたしが就職したころSさんの家を訪ねた際に、投稿された記事のコピーをいただいた。当時75歳で、今はその町を越して別の地でご健在だという。Sさんはわたしの生まれたに家を構えていたが、娘さんが嫁にいき、奥さんと二人で暮らしていた。今でこそ75歳といってもそれほど年寄り扱いすると文句も言われそうであるが、当時の75歳といえば多くの方は腰が曲がっていたし、ずいぶん年寄りに見えたものである。それほど苦労もされたのであろうが、わたしにはその実を知るすべもなかった。そんなSさんが区会を辞めても抜けたということを高校生のころだろうか聞いたことがあった。もちろん自家で父や母が話していたものを聞いたわけである。そして、に入り、区会に入るのが当たり前であっただけに、父も母も縁があるからあまり口にはしなかったが、「辞めてこれからどうするのだろう」といった不安な話をしていた記憶がある。

 昭和52年9月17日信濃毎日新聞建設評欄にSさんが投稿された文にはこんなことが書かれている。

「地区共有林の下草刈りに出かけた。これは毎年決まって行なわれていて、私も若いころは欠かさずに参加していた。だが、ここ数年は老齢のため欠席して出不足金を納めていた。しかし今年は離職して収入の道を閉ざされ、出不足金四千円を支払うあてがないので出ることにした。植林してある山は人家から三キロも離れた奥山である(Sさんの年代で車を持っている人は稀で、山作業に自力で行くとなれば歩いていったと思われる)。(中略)・・・実を言うと、私はかねて老人家庭からは負担金や作業などを免除する条例でも作ってくれるよう国や県に要望していた。地元の町当局でもその方向で検討したいと意欲あるところを示してくれているのだが、反対という冷たく厚い壁にはばまれているらしく、いまだに実現していない。(後略)」

 区に対しての負担を免除して欲しいという願いを、Sさんは長年されていたようである。ところがなかなか叶わなかったようで、最終的に区の脱退という結論をつけられたのである。Sさんはお酒を全く飲めなかったようで、昭和62年6月17日同新聞の建設評欄に「下戸のつぶやき」という投稿をされている。かつて努められた職場での飲み会が苦痛で仕方なかったようで、加えて飲まないのに飲んだ人たちの後片付けをするという不合理な役回りに憤慨されていたようで、60歳までは付き合うが、それ以降は一切酒席には出ず、自分の老後のために浪費したいという考えを持ったようである。このようなさまざまな投稿をみる限り、とてもまじめな暮らし振りが見えてくるし、現代の社会問題に通じる視点で語っているものが多い。30年後の社会問題を予期していたごとく、Sさんの記事は的を得ている。そんなSさんの記事を読んだのは社会人になって以降であったが、共感するものが多く、同様に自ら投稿を試みたものだが、2回ほど掲載してもらったが、期待に反しそれ以降採用されることはなかった。Sさんほど視野が広くなかったのか、あるいは先を見る目がなかったのか、そんなところなのだろう。

 自家のある現在の区の考え方を聞いていないが、現代でそんな強制をしたら反発が強いだろう。加えて家がなくなっていく田舎なのだから、そんなことをいっていたら新たなる住民はやってこないだろうし、子どもたちも「こんな住みにくいところに住めない」と言って出て行ってしまうだろう。自分が現在住む地域を見渡したとき、やはり共同作業があり、山作業がある。そして本人の申請によって免除者が承認されている。しかしながら、「本人申請」という現実は、長く住んできて息子が外に住んでしまっていたりすると、なかなか自ら申請というのも体が悪くなったりしない以上し難いようだ。その気持ちもよくわかる。このごろは高齢者は負担の軽い作業へ、という意図もあるようだが、ある程度年齢を考慮して何歳以上は免除、というような方針を出す時期にきているように思う。もちろん、息子が近在に住んでいるのなら、息子にその責を負わせるという考えはあるが、あくまでもその家の考え方に任されることであろう。共同作業のあり方そのものも地域で考える必要があるだろうし、負担にならない共同の行為をどう描いていくかについても地域で考えていかなくてはならない。そういう意味でもかつてのSさんが脱退した時代にくらべれば時代は変わっているようだ。そして、そんな要因ではなく自治組織へ加入しない人たちが増えているのだから、現代にSさんが暮らしていれば、どんな気持ちだっただろう。
コメント

行政の役割とは

2006-06-19 08:04:41 | 農村環境
 合併していくことで、身近でなくなるということは田舎では何度も経験していることである。農協がそうであり、市町村行政もそうである。長野市に赴任して暮らしていて、長野市の職員と時折接したりして思うのは、より県や国のような存在にあり、身近ではないということだ。このごろ合併した旧村部の職員が、宿直がなくなったとか除雪することもなくなったと言う。職員自らも地域との接し方が薄らいでいく。地域の行政を担うのに身近でなくなったらなかなか内情は見えなくなる。簡単に言えば接しても冷たさがあり、いざとなったら逃げられそう、そんな印象がなんとなくではあるが残る。

 ある長野市近郊の役場職員は、冬季には除雪車を自ら運転し、早朝あるいは夜から除雪を始める。終わるのは午後になるという。降り続けば一日中そんな仕事が続くのだろう。もちろん除雪専用に雇われているわけではない。役場の事務を持ちながらの作業なのだ。加えて直営で土木工事もすれば、宿直日直から村のイベント行事まで、サラリーマンとは明らかに違った勤務時間である。そしてそれなりに地域からも頼られるし見られている。わたしはそんなサラリーマンと違った職責だからこそ、公務員としての保護された身分があるのだと思う。その方は「行政は小さいにこしたことはない」という。地域のためにがんばれるのは、住民の顔が常に見えているからだろう。それも高齢者率が高ければなおさら住民の頼りは行政となる。郵便局の民営化が議論される際にも、山の中に毎日やってくる郵便やさんの顔が、いかに地域に住む人たちのよりどころになっているかを解く報道も見られた。確かなる頼られる人々は、そうした公的な場にいる人たちであることに違いはないのだ。

 教員の給与が高いという意見も、結論的にはサラリーマンと比較するからそういうことになる。どれだけ自らの生活を削っても人の子に捧げているかというところを見ていないわけだ。いや、そんなサラリーマン化した教員が多くなるから、そんなもっともな意見も肯定されていく。公務員も同じで、大きな市のような職員は、まさしくサラリーマンなのだから、先の村役場の職員とは比重が全く違う。そしてそうした大きな市の職員ほど給与が高いのだから矛盾した話である。

 だからといって合併を繰り返していく今の流れが悪いともなかなかいえない。確かに小さいままにこしたことはないが、その小さな村がますます小さくなっていったら、同じ行政サービスをこなすことは不可能になる。大きな行政になっても、地域に行政がどう身近でいられるかというところを、たとえば長野市などと合併した地域は考えていたのだろうか。
コメント

セイドーボー行事

2006-06-18 00:51:22 | 民俗学


 先日長野県民俗の会156回例会があって旧更級郡大岡村(現長野市)を訪れた。以前にも紹介した「芦ノ尻の道祖神」の藁人形を発端とした、人形道祖神について参加者で考察したわけだ。長野市立博物館の細井氏は、これまでの研究史と大岡を中心に分布するセイドーボー行事から分析し、芦ノ尻の人形道祖神はセイドーボー行事との融合により誕生したのではないかと説いている。考察することになった要因は、芦ノ尻の道祖神のように藁製の人形を被せる風習は近在にはなく、どこか特異的にそこにだけ残っていたためである。なぜこのような人形を被せるようになったのか、という点についてさまざまに考えてみたわけだが、作られる時期は異なるとしても、3月の彼岸に行なわれるセイドーボー、あるいはデイドーボーという行事とのかかわりが考えられたわけだ。

 セイドーボーあるいはデイドーボーといわれる行事は、春彼岸の日に、藁人形に疾病などの厄を負わせ、ムラ境まで送るという行事である。大岡においては九つの集落においてこの行事が行なわれた、あるいは行なわれている。すべてが春彼岸に行なわれていて、数珠繰りをしたのちに村境に人形を送るのである。ちなみに人形道祖神を作る芦ノ尻では行なわれていない行事である。写真は大岡慶師(けいし)のデイドーボーである。このデイドーボーが送られた場所から百メートルほど東には、相対するように外花見(そとけみ)のセイゾーボー(集落によって少しずつ呼称が異なる)が送られている。その姿は両者が相対立しているかのようで、両者にとっての送る場所がどういう意味、あるいは認識をされていたか興味がわく。

 確かにどちらも人形を作り、またそこに託す意図は何かしら類似点は多いが、特異的にとらわれがちな芦ノ尻の道祖神習俗を人形送りの行事と融合させるにはもう少し解明しなくてはいけない点が多い。むしろ道祖神に小屋掛け風に飾った注連縄が、形を変えて人形になったという見方の方が理解しやすい。芦ノ尻の人々が独自で考え出したもので、それほど意味があってよその風習が影響したと捉えるには無理があるようにも感じられる。

 この大岡から安曇野にかけての地域では、春彼岸に人形を送る地域が多い。大岡でも集落によって男女2体の人形を作ったり、参加者の人数分の人形を作ったり、あるいは各家1体作ったりと人形の数は異なる。しかし、多くはそれぞれの家の災厄を送るというような意味があって、人形ではなくても神送りの旗をそれぞれで作って送るというような風習もあって、それらの原点は同一と思われる。平成2年に大岡から北西の明科町清水の〝風邪の神〟という行事を訪れたことがあった。各家から「風邪の神」などと呼ばれる藁人形を集会所に持ち寄り、円陣の内にそれらの人形を置き、まわりで藁で作られた数珠を回して念仏を唱えるのである。数珠繰りが終わると、村境の崖の上まで行ってその人形を投げ捨てるのである。大岡ではほとんど村境に立てるという行為で終わっているが、大岡から長野市田野口に入った軽井沢というところでは村境に捨てている。立てるにしても捨てるにしても厄を送るという意図は同じようである。

コメント

観光立県NO

2006-06-17 09:22:43 | つぶやき
 来年はNHKの大河ドラマで「風林火山」が放映されるということで、今から各方面で来年の観光客勇客を狙ったさまざまな企画が練られている。視聴率や注目度は下がったとはいえ、大河ドラマに取り上げられるということの影響は今でも大きいのだろう。田中康夫は、観光立県を目玉としている。そのパフォーマンスからして、客寄せパンダを自ら演じている。そんな映像が流れることもあるのだろうが、長野県内はもちろん、長野県からよそへ出た出身者も、長野県のイメージが上がるとか、あるいは話題に絶えず上がることに、田舎モノらしく誇りを感じたりしているに違いない。

 「長野県政タイムス」の6/5版には、こうした観光の影響で住民が迷惑を被っているのではないかという点について触れている。ようは観光客の増加に伴う生活道路の混雑や騒音といった問題や、「もうかるのは観光関連業者だけ」という妬みまでさまざまだということだ。そして、「その地域の観光が、市民生活に「これだけ役立っています」ということを折りにふれて地域住民に分かり易く説明してもらうことが大切だ」と述べている。そうした説明責任が今まで果たされていなかったのではないかとも言っている。そして最後に、「車最優先の道路空間を作り上げてきた。これを徹底的に見直して「人間・環境にやさしい」道路空間を作り上げていく必要がある。上高地の車規制の例を見るまでもない。一定距離のある駐車場からシャトルバスで、あるいはタクシー利用で、観光スポット近くへ、「車を寄せつけない」ことだ。」というようなことを述べている。ここで述べられている観光客による生活への影響については最もだとわたしも思う。しかしながら、観光で立県とまでいうのなら、「車を寄せつけない」という考え方では観光客は遠のくだろう。もともと長野県は大都市圏から立地上恵まれてはいるものの、公共交通網という点では恵まれているとはいえない。確かに駐車場から連絡するという形式もあるだろうが、より観光立県を狙うには良い策とはいえない。上高地のように自然を体感するという意味ではそういう方法が似合うかもしれないが、たとえば善光寺まで行くのに郊外からシャトルバスで連絡するとか、あるいはスキー客に同じことを望むとなると、イメージは異なる。すべてがそうした方法でよいというものではない。

 現在でも長野県は観光県と言えるのかもしれない。しかし、観光によってもたらされるものは気がつかないところにたくさんある。それは良い面もあるだろうが悪い面も多々ある。かつて県の中北部に片寄っていた観光客の姿は、南から見ると外の話だった。ところが近年は全県にわたって観光客は分散してきている。とくにスキー客ともなると、かつてのスキー場とは違う大都市から近い場所がよく利用される。加えて多様な趣向は、一定の観光スポットだけへ集中するというかつての観光の傾向を変えてきた。だからなんでこんなところに県外ナンバーの車が、と思うようなことがよくある。そしてそれはどうみても観光客であったりする。もちろんよそのそうした人々を呼び寄せたいという意図が、かつてよりどこでも強いことも否めない。しかし、よそから人が入るということは素朴さが消えることはもちろんだし、どんな農村部でも住む人たちが金勘定をするようになった。だからこそ若い人たちはよそへ出て行ってしまう。そこで暮らすことの価値を見出せなくなるし、よそから来る人たちのさまざまな情報量によって他者との格差を認識するようになる。

 もう何10年も前のことであるが、ある北信のスキー場のある地域で、子どもたちが大変荒れているということを耳にした。生徒数がそれほど多くもなく、農村地帯だというのに荒れているというのだ。民宿が大変多い地域で、年間通して都会から若い人たちがやってきては夜遅くまで遊び歩くという。そんな姿を常に目にしているせいではないだろうが、子どもたちの暮らしも影響していくのだ。生きていくために外貨を稼ぐ方法しかないというのなら、それも致し方ないが、その代償は大きいということも認識して「観光」を口にしてほしいものだ。もちろん格差社会ではないが、田舎にもそうした人寄せができる地域とそうでない地域で格差が生まれる。地域ブランドなどというように、商品価値を上げるための差別化なのだから当然といえば当然ではあるが、隣は廃屋こちらは豪邸なんていう風景になって欲しくない。

 先日地元の信濃毎日新聞の社説に、観光立県を目指す長野県観光の立ち遅れを指摘した記事があった。その中で低迷している長野県観光に対して、日銀松本支店が分析した提言について触れている。その内容によると、①地方空港を活用した東アジアからの誘客、②世界遺産などをばねにした観光資源のブランド化などをあげているという。「天国への棚田」でも触れたが、ブランド化して国外から誘客することが本当に良いことなのかどうなのか、日銀松本支店の分析による提言は、とても長野県にはマッチしていない提言としか思えない。
コメント

集団登下校の問題

2006-06-16 08:17:38 | ひとから学ぶ
 個人の考えを尊重する意味でそれぞれの集団行動が回避されているのならよいが、そうではなく、ただただ自分のやりたいようにしたい、という意識から集団行動が回避されているとしたら問題もある。そんな生活が大人にも子どもにも根付いてしまっているから、なかなか行動することの意味を説明しようにも難しい。朝日新聞5/20生活面において、「集団登校どうする?」という特集があった。登下校中の事件が多発する中で、集団での登下校をと文部科学省が通知を出しているが、現場でのその難しさが述べられている。「今の子は下級生の面倒を見られるほどしっかりしていない」という意見は的を得ている。加えて、もし事件、事故が起きたときの責任転嫁である。面倒をみたとした場合の上級生の親にとっては、「もし」という時にいろいろ言われても困るということもある。それほどの責任を子どもが持ったとして、その負担に耐えていかれるのか、または責任を負えるのかと問われれば、多くの親は腰が引けて当然である。

 かつて上級生が下級生の世話をしていた時代に、そうした社会的負担が子どもに求められていたわけではない。いや、まったくないとは言わないが、わざわざそんな議論の上にそうした行為がされていたとは思えない。自然とそうした子どもたちの社会が構築されていたわけだ。その子どもたちの社会を大人が奪い、また、養う環境を価値があると思わなかった以上、今の子どもたちにかつてを望んでも無理があるのだろう。集団で行動する場合は、通学区というものが出てくるだろう。とすれば、集団を構成する地域をどう分けるか、ということになる。田舎だったら集落単位などでまとまるのだろうが、最近は子どもが少ないから、必ずしも集落単位で集団になるともいえない。とすると、集落を越えた地域とのかかわりも出てくるということで、難しい問題が派生する。大人の地域社会がしっかりとした枠を持つとともに、普段の暮らしの中で機能していることはその最低限の条件であるし、その際に「うちは参加したくない」という家が出てくると、もう崩れ始める。加えて他の地域とも共同でそうした役割を子ども達に持たせようとなったら、ますますまとまりはなくなる。都市部になればその集落、あるいは地域分けが難しくなることは容易にわかる。そこまでして上級生に「まとめる」という意識を持たせるのは、子どもにとってもかなりの負担であるだろう。もちろんそうした負担に答えようとする子どももいるだろうが、そのいっぽうでまったくそんなことはお構いなしで、好き勝手に行動する上級生もいるだろう。

 いってみれば大人の社会でもそうだが、がんばっても、努力しても何ら返ってくるものがないとしたら、「やっただけ馬鹿をみた」ということになってしまうわけだ。こういう〝馬鹿をみる〟人は世の中に必要なのだが、これほどまでに個々の生活格差が生じて、行動にも格差が出てくると、その価値を誰も見出せなくなる。とすれば自然と馬鹿を見ることそのものが批判されることすらあるのだから、今の社会には適合しない行動という結論になってしまうのだ。何をどうすればよいか、さまざまな意見はあるだろうが、ひとつの行為だけをもって議論しても行動への正しい答えは生まれてこないように思う。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****