Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食べなくなった“蕎麦”

2015-05-28 23:19:21 | つぶやき

 かつて伊那市内にあった蕎麦屋のことを書いた。平成一桁の時代だからもう15年以上前こと。当時は昼時になると毎日のように大盛りのもり蕎麦を食べていた。600円くらいだっただろうか。蕎麦といえば高価なイメージがするほど、ほかのものに比べると高い。そんななかほかのものと同じくらいの値段で、それでいて大盛りが食べられるとなれば、十分蕎麦が選択肢の上位にあった。そして値段の割に美味しければなおの事だ。以前にも記したように、わたしが蕎麦を口にした当初の記憶は、飯山市富倉の民家で毎年仕事納めに行った忘年会で食べた蕎麦だ。それまで蕎麦らしき蕎麦を口にしたことはなかった。せいぜい駅の立ち喰い蕎麦のイメージ。あれが「蕎麦」だと思っていたほどだ。それほどかつては外食をすることそのものが縁遠いものだったし、蕎麦などというメニューに目を留めることもなかった。富倉の蕎麦に魅了されても、よそで蕎麦に目の色を変えたことはなかった。いってみれば好き好んで選択するメニューではなかったといえる。しかし結婚後妻と外食をすると、蕎麦を選択することが多くなり、しだいに昼に蕎麦を食べることが多くなった。まるで県外の人々が「信州そば」に魅了されるようにだ。とはいえやはり値段と味は整合してほしいと思った。両者の期待を叶えてくれたのが、冒頭の伊那市内にあった蕎麦屋だったのだ(今は主が亡くなられて閉店してしまった蕎麦屋)。

 その後松本に転勤し、単身赴任だったこともあって現場に出るとよく蕎麦を選択した。著名な蕎麦屋にも足を運んだ。当時は会社の状況も良かったので、値段にそれほどとらわれることもなかった。外食といえば蕎麦という図式がすぐに浮かんだものだ。

 あれほど蕎麦が好きだったわたしも、今はたまの外食でも蕎麦を選択することはまったくなくなった。連れが蕎麦屋に入らない限り、自分で蕎麦屋に入ることはない。なぜなのだろう、と思ってもただ選択肢から消えただけのこと。結局値段と味という両者を満足させてくれる蕎麦屋などないとわかっているからなのだろう。今は時おり口にする兄の打った蕎麦を食べるくらい。打ちは蕎麦屋とまったく変わらない。そんなそばに巡り合ってしまうと、外食で口にする蕎麦に感嘆することはない。かつてあれほど好きだった蕎麦なのに…。

 蕎麦といえば長野市の金子万平さんが県内、とりわけ県域北側の蕎麦屋に詳しい。金子さんが作成している蕎麦の○△×評価一覧を頂いたが、残念ながらそれを参考に蕎麦屋を食べ歩く趣味は今のわたしにはない。それこそ、お客さんが求めるときの参考に、とふだん持ち歩いている手帳に挟んではいるものの…。


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