Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「侍ジャパン」とは

2009-02-18 12:31:46 | ひとから学ぶ
 昨日の新聞スポーツ面には「侍ジャパン」という文字が大きく見出しとなっていた。よく言われるのが、なせジャパンの頭にこうした装飾語が添えられて呼ばれるかというものがある。北京オリンピックの際も「星野ジャパン」という言われ方がして、そうした呼び方に違和感を持つ人たちは、「なぜ」という問いをしていたものである。星野仙一の個人チームならともかく、日本代表なのになぜ個人の名前が付加されて、あたかも個人の趣味で作られたチームのように表現する。逆に言えば、この北京オリンピックのように惨敗をした野球チームは、後世にまで言い伝えられるほど悪い印象を与えたことも事実。そうしたときに「星野ジャパン」と言えば、そのときのメンバーが浮かんでくるほど具体的な姿を記憶から呼び戻すことができるのだろう。だからいつも変わらない名称よりは、その時々の名称を付けるのは、けして悪いことではなく、むしろ親しみ深くその時代を思い浮かべることができるだろう。そしてもし監督名ではなく、今回のように「侍」などという具体的でない名称を付加すれば、「原」というイメージが残らないことも確かなのだ。ではなぜ「原ジャパン」と言わないのか。誰が「侍」と呼び始めたのか、そのあたりに意図的なものもあっのだろう。

 質問ページを検索するとまさに前述したような内容が掲示されている。「野球 WBC 今までは長嶋ジャパン、王ジャパン、星野ジャパンと監督の名前つけてたのになんで「原ジャパン」じゃなくて「サムライジャパン」なんですか?」というものや、「よく「○○ジャパン(星野ジャパンなど)」とマスコミが謳っていますが、そう表現する意味が私には理解できません」というものがある。前者の回答として「国の代表であって王さんのチームでも星野さんのチームでも無いわけでそんなくだらない常識はずれな呼び名をナショナルチームに付けているのは日本だけです「野球日本代表」で良いと思うのですがね・・・」というものがある。一般的にこういう言葉を返すことが多いだろう。しかし、今回はなぜ「原」ではないのかということについては何も説明はされていない。前述したように、わたしは外国がどうあれ、記憶として残すにはただの「野球日本代表」よりは誰がメインであっかという意味で監督名を付与することは常識的な方法だと思う。これが「イチロージャパン」では異論もあるたろうし、「2009ジャパン」ではおそらくほとんどの人が10年後、20年後にはイメージできなくなるだろう。とすれば監督名が一番素直な名称なのである。

 さて、そこでなぜ「侍」なのかということになる。これは「原」では従来の「長島」とか「王」とか「星野」に比較すると軽すぎるという印象があるに違いない。簡単にいえば「イチロー」では異論が多いのと同じで、監督であっても「原」では納得しない人たちもいるだろうから、個人名を避けたということが言える。そしてこの曖昧な名称は、もしもの時にイメージを希薄にする助けにもなる。今までに比べると、そこには逃げがあるように感じる。逃げ口としての個人名ではないのである。

 個人名よりは支持が高いとも言われるが、むしろこれこそが日本的な曖昧表現の一つではないのだろうかと思う。そしてもっと違和感のあるのは「侍」という言葉である。武士階級すべてが「侍」と言われたわけではないようだが、必ずしもその表現に固定したものはなさそうである。外国人が捉える侍がいかなるものかもよく解らないし、また自ら侍たるものが何なのかも解りはしない。さらにいえばどこかの漫画にも登場する主人公は、「ぼくの祖先は侍じゃないから」と言うように、日本人=侍でもないし、また現在現実に侍が存在するはずもない(自称は別として)。サムライという用法もあるように、イメージ化されがちな侍という姿が、けして日本人すべてにおける特有のものではないはずなのに、「侍」と名づけることで統一感を持たせるという用法は、違和感を増すことは確かなのである。

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