結ぶ・切る②より
前回はわたしにとっての道祖神観といった余談であったが、個人で建立されたものも存在するところから、その意図はより多様性を帯びる。建立された場所も必ずしも村境ではなく、村の中央ということもある。ただいずれにしても個人宅のものはともかくとしてそれらは道端にあって人目を引く場所に建てられたことは事実。もちろん道端である以上よそからやってくる人々を注視する格好になるわけで、悪疫の進入を防ぐといういわゆる塞ぎの役割を担っていることは解る。路傍に建つ多くの石像物にあって、道祖神以外のものは目的がはっきりしているものが多い。道祖神も一般的な解釈でいけばその意図ははっきりしているのだろうが、多様な信仰を集めているという捉え方が複雑にしてしまっているようにも思う。その地域にとってホンヤリをする場所であり厄落としをする場所である以上、場所が村境であろうが重要な場所であって、強いては中心的な場所ともいえる。文字通り「道の安全を守る」という意味も聞いたことはあるが、わたしの地域ではむしろそういう意味合いが強い。その「道を守る」とは道にかかわる災いをコントロールするという意味でのものと思う。
ムラの入り口にミチキリと言われる綱を張ったり、草鞋や草履、あるいは人形を立てたりする風習がかつては多かった。例えば松川町上片桐諏訪形ではヤクジンヨケという大草履をムラの東西の入り口に吊るして、悪疫の進入を防いだわけであるが、現在もその行事は続けられている。そして伝承によれば、昔は南北の入り口にもヤクジンヨケのお札を立てていたと言う。いずれもそこには「道」がかかわるわけで、悪疫は道を通じて進入してくるという考え方があったわけである。諏訪形において道祖神は南の集落の入り口に建てられているが、ヤクジンヨケはそこではなくさらに南のヤマを隔てたムラ境に立てたと言う。ここに道祖神とヤクジンヨケの関連性は聞かれないわけだが、ヤクジンヨケが立てられる南北の道、そして東西の道の交差するところに道祖神は立地しており、ようは中央に位置していることになる。道の発生がどの道から造られたかということ、そして道祖神がいつから発生したのかということがどう関連しているかによっても解明の仕方異なるだろうが、ムラに7軒しかなかったといわれる時代に現在道祖神が建てられている東西方向のヤマミチと言われる道があったのか、そしてその当時に道祖神はあったのかという疑問がわく。無理やり解釈するとすれば、東西南北の道の入り口を毎年更新されるヤクジンヨケが治め、それをつなぐ交差点に永久性を持ったヤクジンヨケの元締めが建てられていたという捉え方もできる。
かつてあった関所がそうであるように、道はどこにでも通じているものの、そこに防ぎの関門があることで縁を遠ざけることにもなる。越境という言葉は境が関門であることを意識させる。来訪神は善悪関係なく道を通じてやってくるもので、その道はまさに裏腹な世界を描く道具になるのである。
続く
前回はわたしにとっての道祖神観といった余談であったが、個人で建立されたものも存在するところから、その意図はより多様性を帯びる。建立された場所も必ずしも村境ではなく、村の中央ということもある。ただいずれにしても個人宅のものはともかくとしてそれらは道端にあって人目を引く場所に建てられたことは事実。もちろん道端である以上よそからやってくる人々を注視する格好になるわけで、悪疫の進入を防ぐといういわゆる塞ぎの役割を担っていることは解る。路傍に建つ多くの石像物にあって、道祖神以外のものは目的がはっきりしているものが多い。道祖神も一般的な解釈でいけばその意図ははっきりしているのだろうが、多様な信仰を集めているという捉え方が複雑にしてしまっているようにも思う。その地域にとってホンヤリをする場所であり厄落としをする場所である以上、場所が村境であろうが重要な場所であって、強いては中心的な場所ともいえる。文字通り「道の安全を守る」という意味も聞いたことはあるが、わたしの地域ではむしろそういう意味合いが強い。その「道を守る」とは道にかかわる災いをコントロールするという意味でのものと思う。
ムラの入り口にミチキリと言われる綱を張ったり、草鞋や草履、あるいは人形を立てたりする風習がかつては多かった。例えば松川町上片桐諏訪形ではヤクジンヨケという大草履をムラの東西の入り口に吊るして、悪疫の進入を防いだわけであるが、現在もその行事は続けられている。そして伝承によれば、昔は南北の入り口にもヤクジンヨケのお札を立てていたと言う。いずれもそこには「道」がかかわるわけで、悪疫は道を通じて進入してくるという考え方があったわけである。諏訪形において道祖神は南の集落の入り口に建てられているが、ヤクジンヨケはそこではなくさらに南のヤマを隔てたムラ境に立てたと言う。ここに道祖神とヤクジンヨケの関連性は聞かれないわけだが、ヤクジンヨケが立てられる南北の道、そして東西の道の交差するところに道祖神は立地しており、ようは中央に位置していることになる。道の発生がどの道から造られたかということ、そして道祖神がいつから発生したのかということがどう関連しているかによっても解明の仕方異なるだろうが、ムラに7軒しかなかったといわれる時代に現在道祖神が建てられている東西方向のヤマミチと言われる道があったのか、そしてその当時に道祖神はあったのかという疑問がわく。無理やり解釈するとすれば、東西南北の道の入り口を毎年更新されるヤクジンヨケが治め、それをつなぐ交差点に永久性を持ったヤクジンヨケの元締めが建てられていたという捉え方もできる。
かつてあった関所がそうであるように、道はどこにでも通じているものの、そこに防ぎの関門があることで縁を遠ざけることにもなる。越境という言葉は境が関門であることを意識させる。来訪神は善悪関係なく道を通じてやってくるもので、その道はまさに裏腹な世界を描く道具になるのである。
続く
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