Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

北信の石仏・中編

2015-06-07 23:23:16 | つぶやき

北信の石仏・前編より

 

 とはいえ、けして北信域の石仏に足をまったく運ばなかったわけてはない。なぜならば初任地が飯山だったということもあって、手始めにその方面の石仏を訪れたものだ。そんななか最も興味を持ったのは旧更埴市郡の霊諍山だった。修那羅系の石仏で浅野井坦氏によって世に知らされた。修那羅峠はまだ10代のころに一度だけ足を運んだが、霊諍山には何度となく登り、配置図を作成した記憶がある。霊諍山についてはまたいつか触れるとして、ちまたでは修那羅の石仏に似ているとと言われる石仏群が旧豊野町(現長野市)にある。豊野駅から近い豊野観音堂の庭に四角く囲んで安置されているもので、長野市の指定有形民俗文化財にもなっている。明治24年(1891)に観音堂の住職だった普山良寿和尚の発起によって各地から移り住んだ人々によって建立されたものという。信越線豊野駅開業という豊野の変化がこうした観音の建立につながったのかもしれない。主尊の石仏は1メートルほどあるが、ほかはどれも40センチほどの小さいもの。ご覧の通り彫りはかなり簡略化された稚拙なものながら、ユニークさが修那羅の石仏に似ていると言わしめるのだろう。前回も触れた通り、これら観音も稚拙かつ無表情ではあるが、稚拙すぎるせいか惹かれるものがある。

 近在では当時長野市若槻田子地蔵院などの石仏も訪れたが、いずれも無表情系と表現しても差し支えないほど、温和なお顔を拝顔できるものはない。あえて稚拙ゆえの興味が湧くという程度なのだ。

 あらためて『信州の石仏』北信編を開いてみよう。デラックス版だけに冒頭にはカラーの口絵が並ぶのだが、石仏師の技を堪能できるものはなかなか見られない。繰り返すが本の作成主旨が違うと言われればそれまでなのだが、とはいえ口絵にされるべく選択された主旨は、では何だろうと考え込んでしまう。A4版という大きな版だけに、より写真がメインという色合いを見せるのは当然だろう。しかしながら大版であるという利点が引き出されていないのだ。そもそも暮らしを切り口とする記述優先を考えていた長野県民俗の会と、出版社との意識の共有化が図られていなかったといえそうだ。加えて『長野県中・南部の石造物』刊行の経緯でも触れたように、当初は原稿を「すぐに出せ」的な忙しさがあった。意識の共有化など遠い話で、どんな本ができるのかイメージもないままにそれぞれの思いで原稿化されていったといえる。故によくぞ北信編が成ったと関心するところだ。あえて言うなら、高遠石工が活躍したとともに、郷土史に熱心な南信編から配本した方が、利益は大きかっただろう。

続く


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