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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小菅の柱松行事から ②

2016-07-20 23:41:49 | 民俗学

小菅の柱松行事から ①より

 「小菅柱松柴燈神事」とも言われるこの祭りは、かつては毎年行われていたものの、大掛かりな祭りだけに毎年実施する環境が失われ、3年に1度の祭りに変化したと言えそうだ。『新編瑞穂村誌』(昭和55年 新編瑞穂村誌刊行会)には「この行事の準備、後片付けなどに要する日数は、以前は七月一四日、一五日を中心に、一週間を費やし、小菅の成年は全員一役を買っていたので、この一週間は遊ぶことになっていた」とある。今の時代ではいくら何でも一週間地区の若者が全員遊んで過ごすなどということは不可能だろう。3年に1度の開催になったのは、昭和43年という。とりわけ祭りの中で重要なポジションを務めるのは「若衆」と呼ばれる人々である。

 今年の柱松行事用のパンフレットである「小菅の松子」には、下記のような祭りの日程がある。今でこそ1週間を費やすことはないようだが、ここに示されている日程以外にも準備に要する時間は多いのだろう。今年は7月10日に柱松を建立しているが、ここには柱松の材料採取については記されていない。建立作業のことをバヤブシンと呼ぶらしいが、これは7月11日とかつては決まっていたという。ようはかつては11日にバヤブシンをして14日がいわゆる宵祭りで、15日が本日だったということである。今は14日以降の直近土、日曜日に柱松の行事は実施される。したがって、バヤブシンもそれから1週間前に行われているようだ。柱松の本体を「松子」と呼び、雑木が利用される。それ以外にもお旅所のソダ囲いや、いわゆるマチ飾りのように集落の中にもソダによる垣が作られるなど、雑木が大量に使われる。こうした雑木の採取はバヤブシンの午前中に行われるのがいつものよう。話はそれるが、我が家のあたりでは御柱祭において同じように雑木ではないものの榊(代用としてソヨゴ)が大量に使われる。雑木ならまだしも榊を毎年大量に採取するともなると、材料の調達が容易ではない。雑木にしても、かつては多用されただろうから、1年に一度大量の雑木を採取するという行為はいろいろ影響があっただろう。そういう意味でも毎年祭りを実施するということは重大だったことだろう。

 

 今回は本日の午後1時ころから見学したのみであって、大掛かりな祭りのごく一部だけを覗いたにすぎない。そのごく一部の様子を振り返ってみよう。

 午後1時より神輿渡御に向けた神事が始まり、午後1時半よりいよいよ渡御となる。里社と呼ばれている小菅集落の中ほどにある社から、神事が行われる講堂前広場にあるお旅所まで渡御が始まる。里社は傾斜度のきつい小菅の集落の中でも一段高いところにあって、そこから急な階段を降りることになる。『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)には渡御の行列順について次のように書かれている。

警固2人―代理区長―猿田彦―手力雄命―鈿女―御榊―太鼓(伶人)―笛(伶人)―巫女4人―槍2人・警護2人―神官―長柄―四神旗―神輿―警固2人・槍2人―来賓

となっているが、今回は巫女の後ろについてはこの通りではなかったように思う。人出が多く、祭りで繰り広げられ現場をくまなく見るというわけにはいかなかったので、不足の部分は前著『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』を参考にする。神輿について同書では、神輿に御神体を移すということはなかったと書かれている。一貫して神輿の扉が開いた現場に遭遇しなかったので、この神輿に祀られている神様が何であるのかについてははっきりしなかった。ちなみに、里社で祀られているのは素戔嗚尊・平城天皇・嵯峨天皇の3神で、主祭神は素戔嗚尊のようである。神事の際、お旅所の前の空間は「開けておくように」と何度も周囲の観客に指導されていた。ようは「神様が見ておるから」というのだが、ここでいう神様がどの神様なのか。先頭に続く面をつけた神様、猿田彦―手力雄命―鈿女は前方がよく見えないため、急峻な階段を降りる際には付き人が介添えしながらゆっくりと降りる。何より大変なのが神輿である。意外なほどに立派な神輿は、小菅神社の威厳さを伝えるに十分だ。20人ほどの法被姿の若者によってそれは担がれるが、階段を降りるには至難の業のよう。ようは「重い」のである。先頭は神輿の担ぎ棒を万歳をするように高々と上げ、後尾は担ぎ棒ではなく階段の支えとなる。一段一段それを下げていくのである。面を付けた先頭もゆっくり降りて行くが、それにも追いつかないほど神輿は慎重に階段を下る。

 階段を降りきると、「かつては神輿の担ぎ手による激しい押し合いがあったという」。この押し合いは神輿の担ぎ手と、柱松神事の準備を急ぐ若衆のせめぎ合いともいう。階段を降り、鳥居まで進むと小菅集落の背骨にあたる道に出て左折し、講堂前広場に左折して入る。ここの左手に天王石と言われる岩があって、神輿はその上に置かれて小休止をする。講堂前広場に入ると二つの柱松の間を通り、右折してお旅所に神輿は納められる。

 

補遺

そもそも祭りは「祇園祭」とも言われており、主祭神のスサノオノミコトは牛頭天王の本地とされている。小休止をする岩を「天王石」と呼んでいるように、神輿に祀られているのは牛頭天王となるのだろう。里社を中心に繰り広げられる柱松の行事は、祇園の祭り、ようは里社の祭りということが言えそうだ。

 

続く


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