Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続・柿剥きのこと

2011-11-13 23:49:12 | 農村環境

 柿剥きが終盤を迎え、ちまたには干し柿をつるした光景があちこちでうかがえる。数年前、駅のホームに貼られた吊るし柿のポスターは、高森町のものだったが、例えばそれが何処で見られる光景である、といった情報は与えられていなかった。この地域ではこうした光景が特徴的であるということはうかがえるものの、そのポスターを見て「ここに行ってみよう」という観光目的のお客さんを呼ぶには心もとない情報に過ぎなかったわけであるが、文化財とかあるいは毎年定点的に観察できる景色というわけではないから、インパクトはあってもそれを目的にした観光客を迎えるというわけにはいかない、言ってみれば効果がどれほどあるのだろう、という印象を与えるものであったことを思い出す。そもそも軒下に吊るされた干し柿の暖簾の光景そのものがなくなった。軒下らしきところに吊るされていても、陽射しが直接当るようなところに掛けられるわけでもないし、それを防ぐために寒冷紗(カンレイシャ)で覆われる。品質を高めるために、そして近ごろの高温状態の中で干し柿を生産するという環境もあいまって、吊るし柿の光景は明らかに見えにくくなっている。もちろん気に留めて農村地帯の家々を観察すると、ずいぶん多くの農家で干し柿生産を大量に行っている姿がうかがえる。何度もここで触れてきたように、小規模の農家では柿剥き機の問題で干し柿の生産に見切りをつけるようになった。そのいっぽうで高額な機械を購入した農家は、生産を辞めた農家の柿をもらいうけて柿剥きをする光景が目立ってきている。言ってみれば大規模化が自然に起きているようなもの。我が家では手で剥いてカバーしているが、そうはいっても手で大量の柿を剥くとなると時間を要す。ちょうど近所の農家では我が家と同じころに柿採りを始めた。大量に積まれたコンテナに柿がどっさりと入る光景を見たが、そんな専業農家の柿剥き作業と我が家の柿剥き作業はほぼおなじ頃に終わった。きっと我が家の20倍近くの柿が吊るされているのだろうが、年老いた家族も手伝って全員でやった柿剥きの成果はこれほど違いを見せる。機械化にはどうしたって対抗できないわけである。

 『続山裾筆記』の中で松村義也氏は「せんぼ柿」のことについて触れている。今でこそこのあたりでは「市田柿」という品種が圧倒的に多いが、市田柿の歴史は意外と新しい。せんぼ柿は現在の駒ヶ根市東伊那や中沢といった天竜川東岸で作られたものだという。「せんぼ柿をさわして、柿の割合少ない上伊那の中部から北部へ、稗と交換に出かけた」という(『上伊那郡誌』)。これを「せんほ売り」とか「柿売り」、あるいは「稗くみ」と言ったらしい。稗と交換したというのだから価値はそれほど高いものてはない。その稗は馬の大切な餌になったという。地域特産の物々交換になるわけだが、「おんたけやま」という唄に「木曽の櫛売り 遠州の茶売り いやよ中沢の せんぼ売り」とうたわれた。にわか商人になるため、気苦労が多く、あまり嬉しくは思っていなかったようだ。そして養蚕が盛んになると桑畑に圧倒されてその姿を消していったらしい。松村氏は項の末尾に「今年は、ようなびに柿を七百個むいたもの」というおばあさんの言葉を紹介しているが、この言葉がかつてのわんほ柿のことか、今の時代の柿のことかは定かではない。ただ七百個をようなびに剥くとなるとなかなかのもの。我が家の柿剥き以上かもしれない。


コメント    この記事についてブログを書く
« ため池慣行のムラ⑦ | トップ | ため池慣行のムラ⑧ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

農村環境」カテゴリの最新記事