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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

表記のこと

2009-07-13 12:22:55 | 民俗学

 石垣悟氏は「民俗を表記する」(『日本民俗学』256)のなかで民俗の世界で多用されるカタカナ表記を含め、その表記の問題について触れている。民俗語彙と言われるものはカタカナ表記されてきた。その理由は特定の漢字を当てはめることによってその意味が固定化されてしまうという資料のありのまま的な扱いに対応するものであっただろう。ようは言葉として発せられたものを書き留めたときにそれは漢字ではなくあくまでも発音上の言葉であって、人の口から発せられる言葉はそのまま漢字まで表しているわけではない。わたしたちは経験の上、そして標準語と言う学習の上にたって、言葉から漢字を浮かべているわけであって、意味不明な言葉、良い例は方言になるだろうが、そのような言葉に漢字を想定することはできない。もちろんその際に「漢字で書くとどういう字になるのですか」と聞くことはあるが、必ずしもその漢字がその地域で使われてきた歴史上において正確かどうかは判断しがたくなる。逆に言うと、言葉と言う明確ではない人の記憶に頼っているものには正確性というものが問われないという非学問的な批判を受けることにもなる。そうした証拠を厳密化していないということも、こうした曖昧な資料化を助けてきたとも言える。漢字を当てはめるために労力を費やすことの意味があるかないかということにもなる。そういう意味では民俗学は、とても合理的な方法としてカタカナ表記を定着させてきたといえるだろう。何度も言うが、漢字を正確に充てることに民俗として意図が見えれば必要だろうが、そこに意図を見出さないとすればそれは重視していないという意思表示にもなる。もちろん一般人にはなかなか理解されないかもしれないが、あくまでも発音は同じでも意味の異なる地方色が現れる可能性があるからこそのことなのだろう。もちろん漢字を当てはめることでその意味が想定し易くなる事例が多いことも事実で、資料として捉える場合も参考として漢字表記されていることは意味のあるものだろう。

 さて、石垣氏は博物館で自ら経験した「いざり」についての顛末を事例とし、差別問題と民俗学について説いている。「展示資料の中に魚沼地方で使われたイザリバタと呼ばれる機があった。このとき館内の職員から「イザリバタには『いざり』という差別用語が含まれているから、展示資料の名称として表記してはいけない」と言う指摘を受けたという。そして「『地機』と表記するのが正しい」ということになったが、果たして「イザリバタ」を「地機」と言い換えることが可能かと考えたという。結論的には「言葉として表現する際に差別用語と受け取られる可能性の高い用語を使うことは断固反対である。たとえ自身に差別の意識がないとしても、自らの言語表現において受け手に蔑視を汲み取らせてしまうような言葉をわざわざ使う必要は全くない」が、「イザリバタ」を使ってきた魚沼地方の生活に「地機」は存在しない。ここではイザリバタはあくまでもイザリバタであり、これを展示で「地機」と表記することは魚沼地方の人々に背を向け、あるいは差別することにならないか」といい、言い換えることなく、ありのままで表記し、注釈を入れることで差別と向き合っていくというものを導いた。「差別から目を逸らすのではなく向き合うことでしか、民俗学が差別問題に正面から取り組む道筋を示すことはできないと考える」と石垣氏はいう。最もなことなのであるが、一つ気になったのは事例の場合は、魚沼地方ではこの「イザリ」という言葉に差別意識はないというが、果たして差別意識がある中で使われている例ではどうなのか。石垣氏の文脈からいけば、言い換える必要があるとも捉えられる。

 世の中には差別用語と限定されたものもあるのだろうが、差別そのものは言葉から始まる。そしてそれを差別と思うか思わせるかも含め、正確さに欠ける用語もある。校正上で書き換えられてしまうほど背景は簡単ではなく、またそれを書き換えずに使用するのも捉える側はさまざまである。批判を恐れているのではなく、無知なことを学ぶべき方法として、隠すことなく表記をする必要もあると思う。

 続く


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