Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中心市街地の役割

2009-07-12 22:03:43 | 農村環境
 7/5付「長野県政タイムス」の「鈍行列車に乗って」において扇田孝之氏は、「商店主の目先の利害得失が先行する中心市街地は、やがて滅んでいく」とイタリアのトレント市における中心市街地の事例を上げて紹介している。このトレント市は人口11万人でイタリアの県庁所在都市を対象とした「生活のしやすさ総合評価」において第1位を獲得したという。その生活環境とはこうだ。平日は閑散としている市街地が休日になると賑やかになるという。「お昼近くになると、レストランはどこも家族連れや若者のグループ、ガップルで満員御礼の盛況。広場や小粋なブティックなどが立ち並ぶ通りは、買いものやウインドウショッピングの人波で溢れている。この賑わいは3時ごろやや静まるが、夜の9時過ぎまで続くのである」といい、そうした状況でもけして市街地が自家用車で渋滞するということはほとんどないという。その理由を次のように扇田氏は解説している。「人口の少ない山間部方面のバスを10人乗り程度の小型バスに転換した。そして、どんな地域へも、昼間は30分から40分に一本程度の間隔で運転している。さらに、市街地でゆっくり過ごせるように、最終バスを午後10時前後に設定」しているようだ。扇田氏はこれを「中心市街地の役割」という表現をしている。この現象をトレント市の関係者がこんなような言葉にしている。「周辺には、人口が数十人、数百人単位の小さなムラがたくさんあります。四六時中同じ顔を見ながらの生活は息が詰まってしまう。中心市街地は、狭いムラの暮らしで溜まったストレスを発散する場でもある」と。扇田氏は「中心市街地の大切な要件は、顔見知りと出会う確率を最小にする広さと雑踏、何度も足を運びたくなる多彩な選択肢と新鮮な情報をつくりだすこと」と言う。そして冒頭の結論に行き着く。

 利用しやすいというのはもちろんだが、これは中心市街地とその周辺との役割分担があるとも言える。そして当然のことであるが、どちらも欠けてはならなんいということになるだろう。ようはどちらも自らの立場を上下関係で見てはならないのである。このあたりが日本にとって最も問題なことなのである。しかし日本の歴史上の関係からすれば、このようなトレント市のような関係はなかなか持ち得ないだろう。11万人といえば長野県内では飯田市がちょうど等しい位置にある。そして同じように周辺に小さなムラが分散している。しかし、その中心市街地という立場はどうだろう。現状を見る限り郊外型大型店に席巻され、中心市街地という空間は閑散としたものである。もちろんかつては違った。おそらく昭和50年代が最後だっただろう、そういう関係は。その当事までは「マチ」という存在に憧れ、毎週と言うようにマチを訪れることはできなかったが、催しがある時を狙って周辺のムラ人は出かけたものなのだ。そういうマチは、ムラとの関係を維持していたとも言える。ただ、そこには上下関係は存在していたに違いない。それが後に関係を悪化させていく用件になっていく。もはやマチもムラも中心市街地に求めるものは損得ばかりなのである。そして扇田氏が言うように、利害ばかりに明け暮れてやがて関係はもちろん地域は滅んでいくのである。こうした物語をいたるところで繰り広げているのである。

コメント    この記事についてブログを書く
« 法則 | トップ | 表記のこと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

農村環境」カテゴリの最新記事