Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑥

2006-08-15 12:26:23 | 歴史から学ぶ
 合併時の人口4,916人、面積132.76km2という戸隠村は、長野市西部の山間地で、戸隠山の麓に展開する村だった。戸隠神社を中心とした、農山村地帯ではあるものの観光産業を中心とした村ともいえる。第3次産業比率約51%という数字からも、読み取れる。平成17年1月1日に同時に合併した鬼無里村や大岡村といった山間の村と比較しても、3次産業比率は特別に高い。合併後の長野市の人口約38万人、面積738.51km2という数字から見れば、人口ではわずかに1パーセント程度。面積では18パーセントと、長野市を広域化するには十分な数字だが、そこに暮らす人々にとっては複雑な思いもあるのかもしれない。

 昭和53年8月15日に発行されたパンフレット「戸隠の四季」は、B5版変形版で30ページ立ての立派なものである。「神々の里 戸隠」と始まるカラーページには、戸隠神社を中心としたスナップが綴られている。続いてガイドマップが戸隠高原を紹介しているが、当時は善光寺の裏からバードラインという有料道路が開いていて、わたしのような遠隔地の者には、善光寺-戸隠というのは一つのラインであったように認識していた。そのバードラインも昭和50年代後半に起きた地付山地すべりで大きな被害を受け、「善光寺と戸隠を結ぶ」というイメージは大きく崩れてしまった。今は別ルートで戸隠への道が連絡されているが、地すべり当時には、観光地戸隠としても痛手を負ったことだろう。

 パンフレットでは「自然教室」「戸隠びとのくらし」「戸隠神社と修験道」「文学散歩」と、特徴あるテーマを短くまとめている。戸隠村の気象データというものが掲載されていて、8月の最高温度の平均が23.3度とある。役場の所在地が900メートル近い標高ということもあって涼しいことは納得できるのだが、このところの夏の高温化をみると、今はもっと気温が高いのではないか、そんなことを思う。事実昭和63年に発行された「戸隠高原の自然観察」という冊子には、過去10年間のデータから作られた気温のグラフが描かれていて、8月の最高気温の頂点は25゜を越えている。ちょうどパンフレットとは発行が10年遅れるわけで、パンフレットが作成された昭和50年代よりは、60年代の方が8月の最高温度は2゜程度上がっているようにみえるわけだ。

 この村を最初に訪れたのは、戸隠神社目当てでも観光目当てでもなかった。戸隠村の石仏を案内して欲しいと頼まれて、知人を案内したのが最初であった。戸隠神社を訪れたのはそれからずっとあとのことで、家族で奥社まで歩いた時が最初である。鬼無里もそうだが、やはり長野市の「戸隠」という言い方では印象がだいぶ異なる。ブランド名としての戸隠は生きているものの、長野市に埋もれてしまっているという印象は否めない。

 消えた村をもう一度⑤

コメント    この記事についてブログを書く
« ウツボグサ | トップ | イチモンジセセリ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事