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石尊信仰の今を訪ねて・中編

2017-04-09 23:30:45 | 民俗学

石尊信仰の今を訪ねて・前編より

百八の松明に点火する(S61.7.27)

 

攻防を前に(S61.7.27)

 

攻防戦(S61.7.27)

 

 祢津長命寺から南へ1.4キロ、金井集落の北外れに巨大な「石尊大権現」の碑が建つ。金井集落はもとは所沢川沿いにあったという。寛保2年(1742)の戌の満水によって集落が流され、多くの犠牲者を出したことによって、500メートルほど東の現在地に移転したという。現在の東御中央公園の東側に所沢川は流れているから、そのあたりに金井集落があったのだろう。石碑の背面には「寛政九年」(1797)の銘がある。戌の満水から半世紀ほど後のこと。雨乞いの信仰と言われる大山石尊講でありながら、水害によって移転した金井にとってこの大山石尊講はどのような意図があったものか。

 この石尊大権現碑の前で7月27日に金井の火祭りが行われる。7月27日は相模大山石尊大権現の山開きにあたる。この祭りについては「消えた村をもう一度⑪」に記している。昭和61年に訪れた際には、石碑の南側に壁のように存在する上信越道は見る影もなかったし、県道4号線がここを走っていたという記憶もない。もっと道幅は狭かったのではないだろうか。当時、祭りに参加するのは村の10歳から15歳の男の子に限られていたものだが、近年の写真をウェブ上で拝見すると、今は女の子も加わっている様子。石尊の辻に、高さ10メートルほどの三角錐状のやぐらをつくり、この中にワラなどをつめる。そして、このやぐらに火をもつけようとする青年と、この火を消そうとする子どもたちで攻防がくりひろげられる。ドンド焼きや野沢の道祖神祭りのような、いわゆる攻防戦だ。この火祭りは村の水利が悪く、火災よけを祈願したものとも、かつて水害で集落が流された時になくなった人たちの慰霊の意味、あるいは虫送りの意味もあるという。『信州の祭り大百科』には、「東部町(旧)は全体に水利のよくない所が多いが、金井区は、昔戸数が七十戸であった頃、井戸があったのはわずか一戸だけで、ほかの家は、所沢川から用水を引いて生活してきた。」とある。そのため「火災予防の祭り」という説につながったようだ。水利上豊かだっただろう所沢川の沿いにあった集落にとって、水害によって現在地に移転するには抵抗もあったことだろう。そして結果的に水利上のリスクを負う中でこのような祭りが始まったとすれば、この祭りには金井の人々の火防への強い思いが詰まっていることになる。

 この日、家々では「おやき」をつくる習わしになっているという。午後6時過ぎに石尊の辻から集落の下のほうまで藁の束を立てかけていき、今度は下の辻からその藁の束に火を点けて石尊の辻まで太鼓と鉦を叩きながら上って行くのである。午後7時ごろから火の付け合いの攻防となるのだが、この年は攻防の時間が短く、すぐに火が点いてしまったことを思い出す。点きが早い年には、藁の積み方が悪いなどということをいわれるようで、毎年の攻防の様子でその年が占われているようにも見えた。

続く

金井「石尊大権現」碑

 

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