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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

権兵衛峠トンネル構想

2017-05-31 23:37:48 | 信州・信濃・長野県

 〝「権兵衛峠トンネル構想」が、ことしに入ってにわかに脚光を浴びて来た〟、そう始まる記事は、昭和55年8月18日付け信濃毎日新聞の特集「道-新たなアングル」である。同特集の30回目は「権兵衛街道」(国道361号)。調査費が300万円ついたものの、記事では「調査だけで四、五年はかかりそう」と記している。取り上げられた権兵衛街道の新たな道(トンネル)は、平成5年に工事が始まり、平成18年に供用開始となった。工事だけで13年、記事に記されたように当初の調査が計上された昭和55年から26年の歳月を積み上げている。総事業費約700億円だったというが、当時の記事では峠直下で700~2000メートルのトンネルを掘る予定でその工事費は100億円程度と記している。実際に供用開始されたトンネルは4467メートルとさらに事業費を上げた。

 それにしても権兵衛街道にトンネルを、という声は報道中心に以前から聞こえていたものの、本当にトンネルを掘るんだと分かったときは伊那谷の多くの人が期待をもって聞いたはず。しかし実現するまでには長い年月を要した。それまでの権兵衛峠は伊那市羽広から山道を延々と登り、木曽へ抜けた。伊那谷から西山を望むと、「とてもあの山を越えて木曽に行くのは困難」そう思うほどに高山が連なる。しかし、伊那市あたりから西山を望むと、西駒ケ岳から下ってきた稜線と経ヶ岳から下ってきた稜線が交わるあたりは、ほかのどの地域から望む稜線よりも親しみがわくほど低く見える。「あそこなら木曽への交易ができそう」、そう思わせる。まさにそんな場所を求めて道を開けたのが「古畑権兵衛」という人だったから「権兵衛峠」と呼ばれるようになった。とはいえ、当時の道は小沢川を登っていって、どん詰まりのようなところから急な道を上る、険しい道だった。近しさを思わせた稜線を見て伝えられた予兆が記録されている(『上伊那郡誌民俗編』)。

権兵衛峠がすくと天気がよくなる(富県・西箕輪・辰野西)。
権兵衛峠がくもると雨になる(富県・西箕輪・辰野西)。
権兵衛峠に夕焼けがすると天気がよくなる(富県)。

 

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長野へ

2017-05-30 23:05:43 | つぶやき
 車で通う選択をしてからというもの、さらに電車に乗らなくなったこともあって、予定していた日記の綴りもままならない感じだ。というのも再び1時間ほど電車に乗って通勤なら、四苦八苦していた日記を綴る時間が保てると思っていたからだ。がしかし、車を運転しながら日記を綴ることは叶わない。
 
 そんななか、今日は久しぶりに長野まで電車で向かった。それも午前中に打ち合わせを仕組んだ関係で、これまで利用しなかった特急を塩尻から長野まで利用した。岡谷と塩尻で乗り継ぐのだが、待ち時間がほぼゼロに等しいほど、着いたらすでに電車が待っているというやつ。ふつうなら待ち時間が少しでも発生するのだが、電車がほんの少しであるが遅れるのでこういうことになる。とりわけ長野県内では真ん中あたりで管轄が変わる路線が多い。辰野まで行ったら、次の2区間は乗務員がJR東海からJR東日本に変わる。このくらい同じ乗務員が運航すれば良いのに、と思うもののそういうわけにはいかない。その後長野まで同じJR東日本なのだが、今日のように塩尻で特急に乗り換えると、車内放送で塩尻より乗務員がJR東日本に変わりました、と流れる。誰も不思議感を抱かないだろうが、長野県の真ん中あたりは境界域となっている。以前にも触れたとおり、この境界域を境に、電車内の雰囲気も、客層も変化する。そんな変化をどれほどの伊那谷人が感じているかはわからないが、知らない人がほとんどだろう。
 
 このように特急を利用したとしても最寄りの駅から長野までは3時間と11分。とはいえ塩尻から長野までちょうど1時間といったところだから、連絡も含め「早い」と感じる行程である。もちろん飲み会があったための電車での長野行き。帰りはいつも通り、やはり連絡が良い最終電車に乗る。特急を使わず3時間半ちょうどというのは、おそらくどの電車よりも早いはず。真夏のような汗の滲む〈ほかの人たちは「滲む」ではなく「流していた」が〉日の、長い1日だった。
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同窓会

2017-05-29 23:18:04 | つぶやき
 今生業としているものが高校の勉学の延長線上にあるから、一応役に立っているということなのかもしれないが、そもそも多感な十代は、おとな社会への反感むき出しだったから、高校なんて形だけの人生上の記録でしかなかった。したがってその高校に行ったきっかけも、「ほかの人が行かない高校」という選択肢であったことも事実。どこでも良かったと言えばそれまでだが、だからといってどこでも行けたわけではないので、出来の悪いなりの選択肢しかなかったといってよい。だから高校の3年間は、まさに空白の3年間だったかもしれない。おとな社会への反感を増幅させたのが中学時代だとすれば、高校はすでに「無」の時代。投げやりなところもあったかもしれない。ようは将来に対する希望などまさに「無」であった。したがって高校の同級生はいてもほとんど交流はないし、恩師などというひとは一人もいない。たまたま同級生である、というくらいで、「どこの高校を出たの」と聞かれても、若いころはもちろん今も進んで答えを口にするほど、高校に対しての思い入れはまったくない。
 
 ところが仕事が延長線上にあるということが禍して、今住み着いた地域でも「〇〇高校出身」ということは住み始めて間もないころに解ってしまって〈近くに先輩が住んでいたということもあるが〉、入りたくもない同窓会に入ることに…。年会費といってもたいした金額ではないので、気にもしていなかったが、いよいよ地区で役がまわっきた。といってもそれもたいした役ではなく、会費を集めるのと少々の配りものをする程度。どうということはないのだが、確かに「次はお前さんだから」とは聞いていたものの、いきなり配りものがポストに投げ入れられていた。その宛名は「同窓会支部役員殿」、併記して「評議員殿」とある。わたしはそのどらにも該当しないのだが、そもそもこの文書は誰宛なのか、そう思いそれらしいひとに確認すると、「前に言っただろ」と。でも「わたしの身分は」と問うと、前任の方もよくわからない。いったいわたしには役がついているのかもよくわからない。とりあえず投函されていた配りものを「配ればいい」ということなので、すでに締め切り間近の案内をこれから配るというわけだが、この意味不明な組織も、そして役も、納得できないものであることに違いはない。前述の文書には訳名がいくつか出てくる。「地区役員」というのは誰で、「各地区の副支部長」とは誰なのか。この文書を投函したひとすらはっきりしない。初めてなのだから投函ではなく、手渡しをして一言ほしかった。さすがに「高校はどこですか」と聞かれても口にできないような学校、だと悟った次第。
 
 先日会社の若い彼に「大学はどこだかわかるけど、高校は」と聞くと「答えたくない」、言う。わたしも同じようなものだから、その気持ちはわからないでもないので、それ以上は聞かなかった。でも、口にしたくないような高校でも、ちゃんと成人して、社会人となり、しっかり働いているのだから、言うまでもないが社会で通用するのは「学校」ではない。
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和合

2017-05-28 23:16:09 | 地域から学ぶ
 「あの道の悪さときたら〝天下一品〟」そう路線バスのドライバーに言わしめた道は、かつての県道深沢阿南線。もちん今もそう状況が変わったわけではないだろうが、そう言わしめた昭和時代にくらべたら、だいぶ整備されたといっても良いが、きっと地元のひとはもちろん、よそからやってきたひとには「危険」だと思わせる箇所はまだまだ多い。以前「お鍬祭り」に関連して同じ阿南町日吉のことについて触れたが、日吉もこの県道が走る和合の一部。しかし日吉はこの県道とは谷が異なり、売木川沿いにある集落。何度となく日吉を通る道のことはこの日記でも触れてきているが、阿南町の中心部と売木村の中心部を結ぶ県道は、日中ほとんど通る人がいない。おそらく日吉の集落関係者、あとは釣り人だろうか、通るとすれば。飯田方面から阿南町を経て売木村へ連絡するには別ルートの方が当然早いが、ちょっと別の道を走ってみようというひとにはお勧めだが、何より「落石」がいつあってもおかしくない。冒頭の深沢阿南線より険しい。
 
 さて、冒頭の言葉は昭和55年7月7日付け信濃毎日新聞朝刊に掲載された特集記事「道ー新たなアングル」の26回目の記事のもの。山間地の多い下伊那地域にあって、その公共交通を担う信南交通のドライバーの口から語られたもの。同特集には大きな写真が掲載されているが、「落石注意」の標識とともに、ロックシェードの上に「これでもか」というほどに落石が留まっていて、いつかロックシェードが押しつぶされるのでは、と思うほど。話題の中心はこの道沿いにある和合集落だ。当時地区には159戸の家があったという。現状を調べていないが、険しい道沿いにあるだけに、戸数の減少は否めないだろう。とりわけ整備されたといっても「落石注意」の状況から変わっていない箇所が今でも多い。西條の早稲田神社裏手のあたりから林道が整備され、もし県道がストップしたとしても和合まで連絡する道は確保されているかもしれないが、あくまでも林道であって、そちらも通行止めにならないという保障はない。近年豪雨というものがこの地域にはなかった。したがって比較的穏やかな山間の景観を保っている〈ようは地肌がむき出しになったような箇所は目につかない〉が、ずっと災害が起きないという保障もない。とりわけ山間の孤立した地区として和合は比較的大きな集落。行政にとってもこの地区をどうしていくかというのは課題に違いないのだが、とりわけ「念仏踊り」に代表されるように民俗という視点で貴重性が高い地域というあたりが足かせにならなければ良いが、などと思ったりする。
 
 記事では飯田下伊那の国道県道改良率は県平均を10ポイント下回る38パーセントと記している。もちろん県下最悪だという。「ここにだけ光をあてろというのは無理かもしれない」がギリギリの状況を「道」という観点で示すには十分な例だったよう。同特集には同様の扱いの記事がほかにも登場するが極めつけとも言える事例だった。ちなみに同記事において「そこから先の国道151号線も改良されなければならない」とあげられた国道151号線は、この後、平成の時代を迎えるまでにほぼ全面改良されている。
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罠にはまる

2017-05-27 23:16:03 | 

〝モノをどこに置いたか忘れてしまう〟
そう語った年配の方は、
お互い〝歳をとった〟と言いたげな雰囲気を察知して口にされた。

仕事ではできる限り持ち物を軽くして〝歩きたい〟
そう、思うのは誰しも同じはず、
とりわけ持ち物を〝少なくしたい〟わたしは
同僚にくらべて思慮が浅いせいか、
必要なモノを持たずに発してしまうことは若い頃から多かった。
気をつけなくては、
そう思っても同じことはずっと繰り返してきた。
変えられない〝性分〟である。

〝持っていたはずだ〟
仕事で持ち歩いていたものが
いま、わたしの手にはない。
〝あの辺りか〟
歩いてきた場所場所を描いては
それらしいところを空想する。
どこかに〝忘れた〟という思いは
ひとつの思考の欠片を奪う。
流れへの抵抗。
欠品を出さないための最低限の思考を回すものの
いつも通りの答えが導けない。

たくさん持ち歩こうが
最小限にとどめようが
〝忘れる〟ことに変わりはない。
気がつくと
〝忘れた〟と思った道具は
すでに車の中に。
いつそこに戻したかも記憶にはない。
〝忘れた〟と気がつく前から、
すでに思考に欠片が生じていた証。
ひとつ、ふたつ、みっつ
思考に絡みつく罠ばかり。

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畔草が刈られない時代

2017-05-26 23:17:01 | 農村環境

 現場のある辰野町まで春日街道を車で走る。周辺は西天竜の水田地帯。近年このあたりでも田植えは遅くなったという印象がある。まださざ波をうっている水田に稲株がない光景も多いし、代掻きがこれからという水田もある。耕作が集約化されることでひところのように代掻きが一斉、田植えが一斉ということはなくなった。そのせいもあるのかどうか、と言うよりは以前からこの一帯は畔草を刈らない水田が多い。このあたりでは上伊那ではあたりまえのように行われる畔塗りがされていない水田が多い。「よくこれで水漏れしないのだ」といつも見ては思っているのだが、したがって代掻き直後の水田でも畔には草が「ボウボウ」なんていうのはごく普通だ。常に畔草をきれいにしている駒ヶ根市とか飯島町のあたりの大型農道沿いの光景とは天と地ほどに違う。

 かつてのように農家がそれぞれ耕作していた時代には、自分の土地だから管理も怠らなかった。ところが作業受委託が進むと、管理を怠るような人も増える。もちろん駒ヶ根市や飯島町といった地域も営農組織による耕作が進んでいた地域だから、そんなことはとおの昔から行われていた。したがって営農組織との関わりようによっても違うのだろう。そして今は作業受委託から耕作そのものを委託する方向に国策もあいまって進んでいる。こうなると、借り手が土地の管理までやっていられない。ということは、今後ますます草刈がされない空間が増えていくのかもしれない。草刈だけならまだよいが、土地の管理がままならなくなると、畦畔の脆弱化も危惧されるし、用水施設管理という面でも危惧が膨らむ。あたりまえのように考えている現場でも、数十年後を想定した発想の転換が求められるのだろうが、なかなかそこまで余裕のないのが今の世の中。とりわけ下降気味の農業の世界はそこまで考えている人がいるかどうか…。

 さて、仕事でも話題になったのだが、畔の多い長野県内の水田。伊那市富県でも水田法尻から50センチほどの高さまでは、境界が法尻だったとしても下の水田所有者が草刈をするのが暗黙の了解だという。これが耕地でなければまた話は違うのだろうが、とりわけ段差がある耕作地の場合、上から法尻まで手が届かないことも多い。すると中段に身を置いて草刈を行うしかないわけだが、水田のように水が浸いていると法尻から上の法は草刈がしにくい。我が家では水田の法尻に小段を設けてある水田が多い。明らかに上の法面の草刈をしやすいように小段が設けられている。もちろんここに身を置く。我が家の水田にも法尻に小段がない場所があったりすると、とても草刈がやりにくい。水の中に身を置いて刈る、あるいは法の中段に身を置いてできる限り法尻まで腕を伸ばして草を刈るか、になるのだが、水平な場所とはいえ前者の水の中は泥に長靴が吸いつかれるため身動きは容易ではなく、選択としては後者の中段に身を置いて刈るのがふつうだ。法尻に小段を設ける、は水田差1メートル以上では常識的に必要なこと。もちろんこれは我が家のように刈払機によって草を刈る農家に限るが(今どきの自走式草刈り機ならもう少し段差があっても畔上からできるだろうが、わたしは使ったことがないので実際のところは分からい)。

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パターン1

2017-05-25 23:20:47 | つぶやき

 「朝と違って帰りは道が空いているから」、そう思って帰宅時に高速道路を利用するつもりはないのだが、そのイメージが崩さっている。確かに渋滞するほどの混雑はないが、スムースな流れには乗れない。

 わたしはとりわけ車が繋がっているような時は、車間をとってなるべくブレーキを踏まない運転をする。車間については褒められるかもしれないが、教習所ではアウトな走りだろう。前車がどれほどちぐはぐな運転をしていても、前車の速度アップダウンに合わせるように車間を保つし、車間によってブレーキを踏まないように調整している。

 パターン1

 伊那谷の道は幹線道路であってもアップダウンは激しい。前の車は妙な場所でブレーキを踏む。ブレーキランプが点灯するのだからブレーキを踏んでいることに間違いはないはず。

 なだらかな上り道のピークに達するころ、ブレーキランプが点灯。確かに暗くなっているから対向車があれば前方が見にくいということはあるだろうが、ふつうの運転手ならほぼ直線なのにブレーキを踏む人はいない。「不思議な場所でブレーキを踏む」、そんな車が前にいれば、その時点の速度よりさらに低速にして後ろに着くようにする。もちろんわたしの後ろに着いている車にはいらいらさせるかもしれないが。すると再び山折れ点に近づくとブレーキランプ点灯。「何を警戒しているんだ」、道の先に「人が倒れている」とでも予測しているのだろうか。計測は時速30キロほどまで低下する。例えば60キロで走っていたとしても、この場所で減速する人は10人中1人いないだろう、そんな場所だ。ところが山折れのピークを過ぎ、なだらかな下りに入ると速度アップ。60キロくらいまでスピードが上がることはあるが、前方に対向車のライトが見えてくるとブレーキランプ点灯。またカーブでも一般的な車以上に減速。とりわけ上りの場合だ。

 ということで「この人は」、「山折れピークと対向車のライトが気になりそうな場合、そしてカーブなら〝ブレーキ〟」と予測し、前方の道路がそのような状況を迎えるとわたしはあらかじめアクセルを戻す、あるいはシフトダウンをする。時速にして40キロほどだから予測すればブレーキを踏んで速度調整することもない。ところが不思議なのは下りのカーブでは同じような状況になってもあまり減速しない。「上」「下」という状況下では、明らかに「上」の方がブレーキを踏むケースが多い。万有引力の法則の通り、「上」はアクセルを戻せば最終的に停止する。しかし「下」は惰性でもスピードはアップする。したがって常識的には下向きの方がブレーキを利用するはずなのに、「この人」は違うのである。

 もはやこうした車の後ろに着いている場合、諦めて無駄にエネルギーを使わないように前車の動きを予測して合わせる。もちろんプレーキを踏むなどという無駄なことはしない、それに限る。こうした状況は、午後8時過ぎのすでに車が少なくなっている時間帯であってもごくふつうに発生する。「いつもより10分くらいは早く家に着くかな」は甘いのである。本当は記憶に留めておいて、後日同じ車の後ろに着いたら「寄り道」をしよう。

パターン2

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空白の1週間

2017-05-24 23:53:35 | つぶやき

 今週は最悪な1週間になりそうだ。まず週のはじめの月曜日。前夜にいつも通り転寝してしまい、明日から仕事というなか、「また何もできずに寝てしまった」と後悔していた矢先に冷たいものを飲んだ。妻に言わせると食い合わせの問題だと言うのだが、床に入ろうとしたころからお腹が張って仕方がない。下痢をしてもお腹の張りは消えず、寝不足もあいまってとりあえず床に入った。ところが新聞屋のバイクの音に目が覚めて、寝ついていたのにまたお腹の痛みがよみがえってしまう。起床の時間までほんのわずか寝入ったものの、寝不足は否めない。体温を計ると8゜近い。「まずいなー」と思いながら「今日は外部の会議もあるから」と会社に向かう。ふつうによそおっていたが、この日はやっとやっとでこなしていた。外部会議で安曇野市まで行って、ふだんなら下道で帰るところを高速道路を利用して帰宅。午後6時からほぼ12時間床に入った。こんなに寝たのは久しぶりなのに、翌朝まだ寝足りない感じ。それでもこの日も外部会議があったため、前日同様に会社へ。前日よりは少し身体が楽だったので、松本からの帰りは「下道」。ようやくこの日の夕方になると、「腹が減った」とお腹がゴロゴロいう。ようやくふつうの食事をとった。なるべく早く寝ようと床に入ったのは、結局午前零時過ぎ。「やはり」という具合に翌朝起きると、再び気分は優れない。会社に向かうとすぐに着替えて現場へ。前日約束した現場に行くと、起伏はあるがあまたある現場の中では優しい現場なのに、ちょっと跨ぐ程度に飛んで左足で踏ん張ると「ボキッ」。「なんだこの痛みは」。そもそも「ボキッ」なんていう音がしたことは初めて。こんなことで骨が折れるはずもなく、吊ったような足のふくらはぎを揉んだものの、痛みは取れない。

 結果的に肉離れというやつになったわけだが、わたしは今まで肉離れというものを経験したことがなかった。「これがそうなのだ」とこの歳でわかったわけだが、運動をしていたわけでもないのにこのザマに情けなくなる。結果的に、というのは、あまりに痛かったので整形外科に行ったから解ったこと。事前に「整形外科は混んでいるから」とは聞いていたが、本当に混んでいる。初診ということもあって、医者に行って待つこと2時間近く、ようやく診てはもらったが、いってみれば放っておいても「治る」ものといわれ、きっと何も処置されないんだろうと思ったら、見事にその通り。湿布薬をたくさんいただいて帰ってきた。会社から駐車場までふだんなら10分のところを30分もかかってたどり着く。お医者さんには「オートマだから運転は大丈夫」と言われたが、わたしの車はマニュアル。大丈夫だろうかと思ったが、今時のクラッチは軽い。昔のマニュアル車をイメージしてお医者さんが言ったとしたら、大間違いなわけである。見るも絶えない歩き方をしていたので、明日の朝は早くでなければ会社に間に合わない、そう思って家に着いたわけだが、空白の1週間になりそうだ。

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ため池慣行のムラ

2017-05-23 23:49:39 | 農村環境

 先ごろも書いたことだが、今年は水を張っている水田が少ないような気がする。我が家でも昨年復活した水田を、今年再び3枚休耕とした。わたしは「作ろう」と言ったのだが、妻が頷かなかった。そのお陰で少し作業が減って楽をさせてもらっている。山間の水田だから面積どうのの問題ではない。とりわけ漏水がしないようにと管理するのは大変だし、何といっても昨日も触れたように水利慣行による周囲との軋轢が妻にとっては重要問題。水を掛けるのに胃が痛くなるような気遣いはしたくないというわけだ。ところが今年耕作している水田は、休耕した水田と違って「水利慣行」で記したように水源が異なる。休耕した水田に関わる水系の仲間とは会話をしなくて良いというわけだ。昨日も触れたように本当に狭い空間なのに、水利系統が複雑に分かれているのである。そして「水利慣行」で記したように水利には自然の上で上流優先という格差が生じている。

 こんな状況下だから不正を行うといろいろうわさ話が発生する。ため池の管理が行き届かず導水されなくなった水田なのに耕作される。別方向から流れてくる水を、いわゆる盗んで耕作する。同じような話は以前からたびたびあった。そしてそれが地域社会の中で不協和音に繋がる。それを繕う策があるようだが、我が家のように年寄りだけが住所を置いていると、そうしたつきあいもうまいようにはいかない。義弟は以前にも触れたように、住居は別の場所にある。しかし長男であったこと、そして父母が地域社会に暮らしていることに配慮して地域社会とはなるべく「つきあい」を保ってきた。もちろん父母がずっと同じ状況だったわけではない。当初は父母がつきあいをしていたが、高齢化するにしたがい地域とのつきあいができなくなって、義弟が足を運んでそれを補ってきた。徐々にそのウエイトが大きくなっていくのは、誰でも解ること。義父が亡くなる1年ほど前から今に至るまで、父母ともに家で介護をしてきたから家に暮らしているのと同じくらい住処としてきた。姉である妻も同じだ。ところが「これだけ家にいるのだから区会議員をやらせろ」なんていうことを言う人もいるという。自分の家を鏡に映して見れば、人のこともいつかは我が身のことになると解るはずなのに、まったく鏡に向こうとはしない。そもそも義弟は地区の役員をこれまで住所はなくともいろいろこなしてきた。父母が暮らし、そして最期までここで暮らそうとしている意図を汲んでのこと。すでに90歳にもなる高齢世帯なのだから地域社会からは引退しても良い年齢。世の中には子どもたちが同居していないと言って、地域社会からは身を引く世帯はあたりまえのようにある。それをせずに父母がお世話になった地域に返せるものは返そう、そう思う気持ちは、どうもこの地域社会には理解されている節はない。何をやっても悪く言われる、妬みとしか考えられないわけで、そうした地域社会の背景は水利慣行の成せる技だったのかも…。

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続・水利慣行

2017-05-22 23:42:50 | 農村環境

 「水利慣行」で記したエリアには、ほかのため池から導水している水田も隣り合わせになっていたりして、細かいことを言い出すとこの集落が一筋縄にはいかないことがわかる。ため池によっては管理継続困難となって、下流域へ導水する水路が傷んで導水不能となっているものもある。そういえばと思い出すのは、数年前地域のたくさんのため池を調べたとき、ため池は存在していたものの明らかに下流側に水路が見当たらないものもたくさんあった。もちろん「使われていない」ため池である。だからといってため池を廃止しているかといえば、お役所では申請がされない限り「廃止とはしない」という。まったく水が貯まらないものもあるし、堤体が壊れているものもあった。この地域のため池が悲惨な状況であることは容易に解釈できる。大きなため池で、おそらくかつてはたくさんの水田を潤していたであろうため池も、形式的には存在していても、なければないでなんとかなる、という感じのものも。そもそも長野県内では水不足を解消するためのため池ももちろん多いが、温水ため池、ようは水を「温める」という意図のものも多かった。そこへきて減反による水田の減少、なんといっても温暖化による水温上昇もため池の必要性を低下させたに違いない。

 先日河川から揚水ポンプで用水を供給しているある水田地帯を訪れた。昔は河川から自然取水していたにちがいないのだが、もうずいぶん以前から揚水ポンプを利用していたよう。そして一時ある農業法人が一帯すべてを耕作するようになって継続的に揚水ポンプを利用していたのだが、農業法人の内部事情によって全てではないが、元の持ち主(複数)に耕作権をお返しした。するともともとの地権者は井戸を掘ってそれぞれ揚水ポンプを設置し、パイプライン化して水田に用水を供給するようにした。そのためもともとあった河川から取水していたポンプの利用価値が低下してしまった。井戸水ということは、川水に比較すれば水温が低いはず。しかしながら水温の問題など一言も地権者の口からは出ない。どの程度の深さで井戸を掘っているかは聞かなかったが、それぞれのポンプで最小限のパイプライン化なら使いかってはいいし、人にいろいろ言われることもない。現代風用水慣行とも言えるだろうか。既存にある揚水ポンプを使わないのか、と問えば、古いし吸管に穴が空いている、と。自分が設置したものでないから心持ちが違う。安易に考えたら井戸になった、とは言わないまでも、これまでの稲作の常識のようなものを覆した発想かもしれない。

 さて、一筋縄でいかないかも、という背景だが、狭い空間にいくつもため池があるということは、水利がため池によって左右されるから、そこには仲間意識が成立する。しかしながら狭い空間にいくつもあるということは、地域社会としては水利のことを話題にしなくなる。世の中にはとてつもなくたくさんのため池を有す地域があるが、そういう地域の成立が気になる。

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水利慣行

2017-05-21 23:52:17 | 民俗学

 

 

 たびたび日記に登場する我が家(妻の実家)の裏のため池である。50メートルほど下にもうひとつため池があって、どちらも些少な水田を潤している。とはいえ、洞をせき止めて造っているから、上流側のため池の方が水利に有利なことは言うまでもなく、実際のところ上流側のため池の方が面積割からだろうか、少し小さめのため池となっている。このため池はだいぶ泥が溜まってしまっているが、それでも貯水量は5000m3ほどだろうか。今年はここから導水して耕作されそうな水田は7枚ほど。面積にして5反歩ほどだろうか。代掻き時に水田へ15センチの水を貯めたとしても750m3。水不足になることはありえない。以前にも触れた通り、ふつうは下流域の水田を潤すであろうため池は、下流域には一滴も水をあげないような仕組みで造られている。もちろん老朽化しているから漏水があって、それを頼りに耕作している下流域の人々もいるが…。

 先週飯島町の与田切川上流、飯島(左岸)、七久保(右岸)、本郷(右岸)の3地区に導水する取水口を訪れた。ところが本郷の取水口は取水口の下流は与田切川へと通じている。残りふたつの取水口はそれぞれ飯島と七久保に導水される用水路に繋がっている。取水口というのに下流が川とはどういうことか、そう思うのは水利に詳しくない人の考え。ようは本郷の実際の取水口はこの取水口より下流にいくつかに分散して存在する。したがって上流で水を好きなだけ取水してしまうと下流にまで水が流れてこない。いわゆる渇水期に水争いとなるわけだが、かつてなら川の中に座り込んで堰止めるのを阻止したというが、今はコンクリートで固定された堰ができてしまっているから、ふたつの取水口が水を取ってしまうと下流に流れる水が少なくなってしまう。そこで、その対策として本郷分の水をゲートを開けて下流に流してやるという仕組みなのだ。ふだんは水量が多いから必要としない取水口であるが、渇水期対策の取水口なのである。このように水利権というものは、水域全体が必要量をカバーするように成立するものなのだが、前例のため池はまったく違う。最上流のため池が優先され、次にあるため池が二の次。それより下流域の川沿いの人々は漏れ水、あるいはため池より下流の山域から流れ出た水しか使えないのだ。

 かつてこの地域のため池を扱った「ため池慣行のムラ」というものを著したことがあったが、歴史の上からも近代以降、ため池が造られるたびにムラ内でさまざまな駆け引きがあって、今の社会が形成されてきたに違いない。それを紐解く鍵を今見つけることはほとんどできないだろうが、こうした不公平な水利慣行があるからこそ、地域も独特な社会を形成してきたのかもしれない。

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モッコウバラ

2017-05-20 23:31:32 | つぶやき

 

 すっかり草取りをする間もなくなって、草だらけの我が家の今年が始まったわけだが、そんななか今、モッコウバラが盛んに咲いている。意外によく伸びるモッコウバラは、年に何度か剪定してあげないと、ボウボウ状態になる。花期を終えた昨年、伸びていた枝を選定して形よくしたものの、伸びた枝が車の通る誘導路にも垂れ下がるほど。この春先に邪魔になりそうだったので剪定しようか、と思っていたうちに花期がやってきてしまいそのままに。ところがそのボウボウ状態の枝にたくさんの花がついて、咲きほころんだ。とても見るに耐えられなかったのに、花が咲いたら枝垂れた枝がいい感じに花をつけた。

 すでに20年近い樹齢になるのだろうか、我が家のモッコウバラは。何度となく風雨によって倒れそうになったが、そのたびににサークルに縛りつけて立て直してきた。最近は落ち着いていたが、あまりに大きくなりすぎて、再びひ弱なサークルでは持ちこたえられなくなっている感じ。花期が短いのが残念なところで、この賑わいも間もなく終焉となる。1年を通して華やかなのは今だけ。花期が終わると伸び放題ではあまりにも見苦しいので、今年も選定してあげる予定だが、この華やかさを見るにつけ、もっと周辺に支えるものを添えてやって横に伸ばしてやると、楽しみも増えるのだろうが、今はその余裕がない。

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天竜川東岸から望む南駒ヶ岳

2017-05-19 23:36:29 | つぶやき

中川村柳沢から望む南駒ヶ岳

 

与田切川吐き出し対岸から望む南駒ヶ岳

雪形 稗まき女が現れている

 

吉瀬から望む南駒ヶ岳

 

南駒ヶ岳から宝剣岳

 

 中川村の天の中川橋を渡り、葛北から柳沢へ上っていくと、代掻きされて田植え間近という水田が尾根伝いに連なっていたが、この空間にたどり着くとそれまでの水田風景とちょっと変わった感じを受ける。一面が「赤い」という印象なのだ。実際は赤いというよりは茶色なのであるが、伊那谷の水田地帯はおおよそこげ茶系、代掻きをすると「土は黒い」という一般的な印象を受ける。ところがここではいわゆる粘土のような赤みを帯びた茶色を見せる。いわゆる火山灰土が多いという印象。伊那谷でこれほど火山灰(この地域では赤土=あかつち)色の強い水田地帯は珍しい。写真では表現しにくい色なのたが、下段から上ってくると、第一印象は「赤い」なのだ。

 仕事の用事でこの先にある柳沢集落の一部、小渋川沿いの段丘上の空間を目指していたのだが、以前にもこの空間に入る坂を下りながら思ったのは、この空間にやってくる人は集落から「見られている」と印象を受ける。柳沢の中心部から下ったところにあるこの空間は、比較的平で山の中腹にある小宇宙のようなところ。ここへ下る道からはこの空間がすっかり眼下に見える。ということは空間からもこの坂を下る車もひともよく見える。この空間には小渋川沿いから上る道がないこともないが、狭い。したがってこの下る道が唯一とも言えるほど訪れる人は使う。だから「誰が来た」と思えば、必ずこの空間のどこかの家を目指しているということになる。悪事ができない空間、そんな空間なのだ。

 中川村の天竜川東岸に身を置いていると、次の駒ヶ根市上赤須を目指そうとすると、自然と天竜川東岸沿いにある県道伊那生田飯田線を通ってしまうのは、過去の経験が根強いからだろうか。今は国道153号の与田切川橋ができ、そのバイパスに連絡する同県道の吉瀬橋もあるから、わざわざ「落石注意」の道を走る必要もないのだが、変化に富んだこの道は、頻繁に通る道ではないが故に沿線の景色を確認するために時折利用する。2枚目の写真は以前にも日記で触れている与田切川吐き出しの対岸側の道端からのもの。そういえば先日やはり仕事で与田切川を上流7キロほどのところから吐き出しまで下った。吐き出しには子どもの頃、飯盒水さんでよく訪れたし、もちろん生家から近かったので、夏場の遊び場としてよく行った。当時の吐き出し右岸側は松林が広がっていて、カブトムシの天国のような所だった。その後ここは切り開かれて水田や骨材のプラントができて、かつての光景はすっかりなくなっている。加えて今回久しぶりに足を運んで気がついたのは、河川内にヤナギなどの木がかなり鬱蒼としてきたこと。かつては真っ白だった空間が、すっかり緑で埋まっているのだ。大雨が降るたびに、火花を散らして巨石が流れ下っていた川は、今はもうない。与田切川の整備が行われたことで、伊那七谷と言われた急流がすっかり穏やかになっているというわけである。

 吐き出し対岸をさらに進むと日曽利を経て駒ヶ根市吉瀬に入る。県道端から眼下の広がりがよく見える場所がある。国道153号の中田切橋は約1キロほどの長大橋。すでに半分以上上部工が架かっている。その様子が遠景からもよく解る。正面に南駒ヶ岳の山々が捉えられるが、少し右に視線を移すと、宝剣岳の山々も捉えられるというわけだ。いよいよ夏を思わせるほどの陽気がやってくる。

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牧ケ原橋

2017-05-18 23:45:19 | 信州・信濃・長野県

 昭和56年1月19日信濃毎日新聞朝刊に掲載された「道-新たなアングル」の51回目は「沖田・牧ケ原線」であった。昭和55年1月9日に始まった同特集は毎週日曜日に以後掲載されてきた。「新たなアングル」と副題からは新しい道、あるいはそうでなくとも地域に期待されている道を取り上げて1面(実際は2/3)を利用して特集を組んでいた。そういえばと思い出すのは、かつての信濃毎日新聞は、こうした1面を利用して特徴ある連載を継続することが多かったと記憶する。そしてそんなかつての特集記事を思い出すと、今の紙面にはそうした特集が見られないようにも思う。魅力がなくなった一因かもしれない。

 わたしの過去の記憶はすでに遠ざかっているが、こうした古き記事を取り残したのは、社会人になったころの昭和50年代後半から昭和60年頃までのこと。同じことは残されたフィルムからも本日記ではたびたび資料として利用される。言ってみれば社会に反発して、多感な時代だったからこその残骸だ。しかしながら当時の思いを記録から読み取ることができないのは、今のように一定の文字で綴っていないからだ。そう思うと、今はまだ心に余裕があるということなのかもしれない。

 さて「沖田・牧ケ原線」、3月彼岸に訪れた〝町(大草)の数珠回し〟が行われた場所が「沖田」であって、ここから天竜川対岸の牧ケ原へ渡って、国道153号線まで続く道路を指しているのだと思う。かつて「台地の新興住宅地」で扱った写真の右手奥に写っている橋が、この記事の主役である「牧ケ原橋」である。もちろん深い谷は天竜川。釜淵峡の上を一気に渡る橋で、西側は昭和33年8月に合併するまでは片桐村、東側は南向村だった。これほどの大河を挟んだ地域が合併するからには相応の将来への構想があったただろう。ちなみに天竜川を挟んだ地域がひとつの市町村を編成している市町村は伊那谷にはたくさんある。しかしながらそのほとんどは川西にもともとの中心があり、今もってその中心は川西に存在する。あえて言うなら伊那市が、伊那町から市役所が川東に移転してマチが川東に展開するようになったかもしれないが、まだ川東を「中心」だと意識している人は少ないだろう。それ以外ではもともと中心が川東だった天龍村と中川村のみが川東に合併時に中心を置いていた。天龍村は現在も川東が中心となっており、その地位が逆転していることはないが、中川村については明らかに川東から川西へ中心が「動いた」村と言える。役場に限って川東に今も置かれているが、それ以外のほとんどの公共施設も、そして人口も川西の比重が高くなっている。かつて両岸にあった小中学校も、今は「台地の新興住宅地」で触れた写真の左手「牧ケ原」に統合されている。そのほか文化センターや図書館、歴史民俗資料館など主だった施設はすべてこの牧ケ原に集約されている。それをなし得た要因が、すべてこの「沖田・牧ケ原線」だったのである。まさに信濃毎日新聞のこの特集に取り上げられるべく典型的な新たなアングルの「道」だったといえる。これほど深い谷に挟まれた両村が合併する中で、ふたつを繋ぐまさに架橋だった牧ケ原橋。完成したのは昭和53年だった。わたしがまだ高校生だった時代。当時わたしの同級生には中川村出身者が4人ほどいただろうか。そしてそれぞれの地区にあった中学の出身者がいたのである。当時は人口からみればまだ川東が多かった。記事によるとこの永久橋の架橋の前につり橋を架ける計画があったという。幅2.5メートルの鋼製橋で現在の橋と同じくらいの橋長だったのだろう、かなり具体的なところまで進んでいたというが、村民から「そんな程度の橋では川の東西の村民の一体化に何の役にも立たない」という考えがあって実現しなかったという。その数年後だという、現在の架橋が現実となったのは。記事の中では「東西の懸け橋」という表現もしている。橋による懸け橋なくしては両村の合併はあり得なかっただろうが、実際にこの架橋が実現するまで合併から20年ほど要している。それまではそれぞれの対立が激しかっただろうことは容易に予想される。

 とはいえ、かつてこの村で聞き取りを行ったとき、まだ合併する以前の村に生まれ育った方たちから、この深い谷を下って渡る場所があって、対岸に行った話を聞いた。上流は昭和8年に架けられた「坂戸橋」、下流は昭和35年に架けられた「天の中川橋」(平成21年に架け替えられた)と、それぞれの村を結ぶには離れすぎていた。なおかつ当初の天の中川橋は通行料を要した時もあったという。とりわけ洪水による災害を被ることも珍しくなかったこの地域にあって、天竜川を克服することこそが「ひとつ」なれる優先課題だったとも言える。これほど地域にとって比重の高い橋は、ほかに例を見ない。

 ※牧ケ原橋から見た南駒ヶ岳

 

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高速を毎日利用して思うこと

2017-05-17 23:48:49 | つぶやき

 伊那へ通い始めてもうすぐ2か月。車で通うなどという考えはもうとうなかったのに、通勤に高速道路を利用しても良いということになって急きょ車で通うようになり、ずいぶん楽をさせてもらっている。ところがどういうわけか、疲れが嵩む。3月まで以上に家に帰ってほかのことができない。いろいろ滞っていて、頭が痛いこと。

 さて、通勤時間帯の高速道路ってどうよ、というあたりを少し書いておこう。夕方の中央自動車道を走っていることを思うと、朝方の中央自動車道は意外に空いている。ちなみに帰路も高速を利用しても良いのだが、わたしは利用しない。朝の混雑が大変だから高速を利用するが、夕方はやはり分散するため朝ほどのことはない。もちろん夕方も高速を利用すれば早く自宅に帰られるが、慌てる必要もないので、気がつけば「下道(したみち)」を走っている。「高速」に対してよく「したみち」と言うから、高速は「上道」なんだろうかと考えると、そういうわけでもない。なぜかこの地域ではそういう言い方をする人は多い。夕方ともなれば暗くなってくるから高速道路上で工事をしていることもないが、朝は何と言っても工事個所が多い。たかだか2区間を走るだけだが、工事による車線規制に複数個所出会うのは当たり前。4か所くらいやっていることもある。したがって車線規制されるから減速する。したがって天候の悪い日の方が走りやすいというわけだ。さすがに雨が降っていると工事をすることはない。空いているから「危ない」と思うこともそれほどないが、これで混雑していたらより一層減速するだろうし、「危ない」と思うようなことも増えるだろう。

 仕事へ向かう車が多いということもあるのだろうが、ふだん以上に高速車が多い。それもまた空いているのが影響しているだろうが、大型車が比較的少ない時間帯だからこそ、低速車が少なく走りやすいということになる。それほど意識しないが、やはり伊那谷を北上するということは微妙にではあるが上って行くということになる。先日帰路の高速に1度だけ入ったが、朝方とはまったく雰囲気が違う。やはり大型車が多く、とても混雑している。「危ない」と感じるとこも多い。帰路により一層リスクの高さを感じた。

 もうひとつ、毎日走っていて気になるようになったのは、高速道路上のインターまであと何キロという表示だ。同じ1キロ、あるいは500メートルでも出口まで達するのに距離の違いを感じる。この出口までの距離、そもそも出口とはどこを言うのだろう、そんなことを最近思っている。

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