では、箸墓古墳に眠る被葬者ははたして誰なのだろうか。
その前に、「邪馬台国」論争は数多く語られているので、ここで
は多くは語らないが、私は北部九州にあったと考える。日本書紀が
邪馬台国について一切触れていなく、外国の書「魏志倭人伝」でそ
の存在が記録されていることに対して腹立たしい限りだ。
九州に居た(大陸から渡来してきた大王家)天皇家は、その当時
地元では地盤もなく財も権力もなかった。その一族が安住の地を求
め東征(神武東征)し、地元の豪族との抗争を制して住処を大和に
決めた。卑弥呼の後継者であった巫女の台与も、この時、天皇家と
供に東征したとも考えられる。台与イコール孝霊天皇の皇女・倭迹
迹日百襲姫命と推敲してみた。
古事記(712年完成)や日本書紀(720年完成)が登場する前
には、推古28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子の編纂により倭国
の歴史や天皇の系譜を記した「国記」「天皇記」があった。
ところが乙已の変(645)で蘇我蝦夷の邸宅が焼き討ちされ供に
焼失。その内の「国記」は船史恵史の手によって持ち出され、中大
兄皇子に奉献したとあるが現存していない。
ただし、2005年に蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅跡が発見されて以
来、現在も奈良文化財研究所等により発掘調査が行われており、今
後の進展によっては国記や天皇記の残り物が見つかるかもしれない。
もしも、出てくれば邪馬台国の存在や卑弥呼の墓、大悪人のレッテ
ルが貼られたままの蘇我一族の謎、その他諸々の疑問が解決するの
ではないだろうか。ぜひ、その欠片、断片でも良いから探し出して
ほしいものだ。
(奈良県桜井市箸中)
箸墓古墳_6 蘇我入鹿_首塚
その前に、「邪馬台国」論争は数多く語られているので、ここで
は多くは語らないが、私は北部九州にあったと考える。日本書紀が
邪馬台国について一切触れていなく、外国の書「魏志倭人伝」でそ
の存在が記録されていることに対して腹立たしい限りだ。
九州に居た(大陸から渡来してきた大王家)天皇家は、その当時
地元では地盤もなく財も権力もなかった。その一族が安住の地を求
め東征(神武東征)し、地元の豪族との抗争を制して住処を大和に
決めた。卑弥呼の後継者であった巫女の台与も、この時、天皇家と
供に東征したとも考えられる。台与イコール孝霊天皇の皇女・倭迹
迹日百襲姫命と推敲してみた。
古事記(712年完成)や日本書紀(720年完成)が登場する前
には、推古28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子の編纂により倭国
の歴史や天皇の系譜を記した「国記」「天皇記」があった。
ところが乙已の変(645)で蘇我蝦夷の邸宅が焼き討ちされ供に
焼失。その内の「国記」は船史恵史の手によって持ち出され、中大
兄皇子に奉献したとあるが現存していない。
ただし、2005年に蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅跡が発見されて以
来、現在も奈良文化財研究所等により発掘調査が行われており、今
後の進展によっては国記や天皇記の残り物が見つかるかもしれない。
もしも、出てくれば邪馬台国の存在や卑弥呼の墓、大悪人のレッテ
ルが貼られたままの蘇我一族の謎、その他諸々の疑問が解決するの
ではないだろうか。ぜひ、その欠片、断片でも良いから探し出して
ほしいものだ。
(奈良県桜井市箸中)
箸墓古墳_6 蘇我入鹿_首塚