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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 三輪山あたり 箸墓古墳_3

2010-10-31 07:59:37 | 街巡り_2010
 では、箸墓古墳に眠る被葬者ははたして誰なのだろうか。
 その前に、「邪馬台国」論争は数多く語られているので、ここで
は多くは語らないが、私は北部九州にあったと考える。日本書紀が
邪馬台国について一切触れていなく、外国の書「魏志倭人伝」でそ
の存在が記録されていることに対して腹立たしい限りだ。
 九州に居た(大陸から渡来してきた大王家)天皇家は、その当時
地元では地盤もなく財も権力もなかった。その一族が安住の地を求
め東征(神武東征)し、地元の豪族との抗争を制して住処を大和に
決めた。卑弥呼の後継者であった巫女の台与も、この時、天皇家と
供に東征したとも考えられる。台与イコール孝霊天皇の皇女・倭迹
迹日百襲姫命と推敲してみた。
 古事記(712年完成)や日本書紀(720年完成)が登場する前
には、推古28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子の編纂により倭国
の歴史や天皇の系譜を記した「国記」「天皇記」があった。
 ところが乙已の変(645)で蘇我蝦夷の邸宅が焼き討ちされ供に
焼失。その内の「国記」は船史恵史の手によって持ち出され、中大
兄皇子に奉献したとあるが現存していない。
 ただし、2005年に蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅跡が発見されて以
来、現在も奈良文化財研究所等により発掘調査が行われており、今
後の進展によっては国記や天皇記の残り物が見つかるかもしれない。
もしも、出てくれば邪馬台国の存在や卑弥呼の墓、大悪人のレッテ
ルが貼られたままの蘇我一族の謎、その他諸々の疑問が解決するの
ではないだろうか。ぜひ、その欠片、断片でも良いから探し出して
ほしいものだ。
(奈良県桜井市箸中)
箸墓古墳_6  蘇我入鹿_首塚

街を巡る 三輪山あたり 箸墓古墳_2

2010-10-30 03:00:22 | 街巡り_2010
 最近の考古学者の調査・研究により「箸墓古墳」は、全国の前方
後円墳のスケールを当てはめると、「ホノケ山古墳」「纒向勝山古
墳」「纒向矢塚古墳」「神門5号墳」「神門4号墳」「辻畑古墳」
に続く年代の古さだという。
 さらに国立歴史民族博物館の最近の研究報告によれば、箸墓は築
造年代を240年から260年の頃とすると発表され、この年代である
ならば「卑弥呼」の没年248年とほぼ一致する。
 これは、箸墓の後円部にある段構造が前方部で消失しており、ど
うも前方部は時が経った後で取り付けられたようなのである。それ
に、箸墓の後円部(直径150m)は、「魏志倭人伝」に出てくる卑
弥呼円墳「径百余歩の冢」とあり、ピタリと一致する。魏の時代の
1里は300歩で435.5m、1歩が約145cmだから“百余歩”は
145mとプラスαなので、ドンピシャだ。
 これでは、ますますもって箸墓イコール被葬者・卑弥呼となりそ
うだが、私は卑弥呼が眠る墓ではないと考えている。
(奈良県桜井市箸中)
箸墓古墳_4

街を巡る 三輪山あたり 箸墓古墳_1

2010-10-29 06:21:29 | 街巡り_2010
 三輪山の山麓からすぐのところに古代の都市であった纒向遺跡群
が点在している。日本の各地から搬入された土器が続々出土し、一
大勢力が集中した地である。
 この地域に国内初の巨大前方後円墳が忽然とそびえている。これ
が「箸墓古墳」だ。全長280m、前方部の全面147m、後円部の径
150mの規模で、現在は鬱蒼とした樹木で被われているが、前方部
4段、後円部5段の築成と周濠幅10mの立派な古墳である。
 築造年代は、年輪年代法により3世紀中頃から後半頃と推定され
ており、その頃の大規模な古墳の造営には未経験で、造営のための
労働力と時間は計り知れない数値となるのだろう。
 ならば、ここに眠る大王は一体誰であろうか。現在は宮内庁が管
理しており、孝霊天皇の皇女である「倭迹迹日百襲姫命」の大市墓
と指定され、墳丘への立ち入りは禁止されている。
(奈良県桜井市箸中)
箸墓古墳_2

街を巡る 三輪山あたり 三輪山登拝_2

2010-10-28 06:26:33 | 街巡り_2010
 神が宿る山であるだけに全てが神々しく、粛々と山頂を目指す。
岩の自然階段や人工の手が入った丸太の階段も設置され、老若男
女が誰でも登拝出来るように整備されている。
 その大昔、崇神天皇の頃、天皇は二人の皇子に夢で世継ぎを決
めることにした。兄の豊城命は自ら神山に登り、東に向かって刀
を振り回した。弟の活目命は自ら神山に登り、縄を四方に張って
粟を食べる雀を追い払った。
 それにより兄は東国を治めさせ、弟は四方に気遣い穀物の実り
に気を配ったため皇太子に指名され、後の垂仁天皇となる。
 さて、登拝も残りわずかとなったところで下山される方とすれ
違ったので、挨拶と残りの距離を確認すると、あと4分の1との
ことで、再び駆け上るように足を前に出した。
 景色は明るく開けてきて、その先に鳥井と祠が見える。これが
「高宮神社」で、その廻りが板で囲われていた。小さい祠である
が延喜式の社で祭神は日向御子神。その社の正面手前の岩に“霊”
の文字が刻まれており、これこそパワースポット。早速、その岩
に手のひらをかざした。
 この社から東北側に50m程進んだところに聖域「奥津磐座」
があった。30平米ほどが注連縄で囲われており高さ2mほどの
磐が連なって鎮座していた。
 登拝口を8時半にスタートして、この聖域到着で腕時計を覗
くと針は9時5分を指していた。10分ほど聖域で清らかな空気
を吸い込み英気を養って下山。それこそ、天狗が駆け下るように
降り登拝口で時間を見たら9時半だった。約60分の行程だ。
(奈良県桜井市三輪字狭井)
奥津磐座  奥津磐座_2

街を巡る 三輪山あたり 三輪山登拝

2010-10-27 06:26:15 | 街巡り_2010
 社務所で三輪山登拝の諸規則を伺い、用紙に住所・氏名を記入
し初穂料300円を納め、登拝証となる鈴のついた白襷を借り受
ける。三輪山は太古から樹木に斧を入れない神奈備山で禁足地。
それだけに必ず守らなければ行けない禁止行為、喫煙・飲食・撮
影があり、草木・鳥獣・土石などの採取が厳禁。山自体が神体で
あるため厳しいのである。
 さて、登拝入口に備え付けてある大麻で自ら修祓を行い、心身
共に祓い清めたことを確かめて、いざ登拝。若い時から鍛えた足
には自信があり、山頂までの登拝開始時間を確認すると8時30
分にスタート。
 急坂を過ぎると、なだらかな尾根づたいの道が続き小さな狭井
川に架かる丸太橋を渡る。再び急坂を駆け上ると休憩所があり、
その奥に「三光の瀧」から水がほとばしり出ており、その神水を
口に含むと甘露な旨みを感じた。
 再び急坂が続くが、ここはパワースポットのようで息づかいに
乱れもなく、さらに頂を目指し軽快に足が動く。まるで大神のお
告げがあったように。
 途中、杉の古木の中に岩が拝見できたが、これが「中津磐座」
なのだろう。ここで標高364.5mあるので、登拝口の標高80m
を引けば、一気に284,5mを駆け上ってきたことになる。
(奈良県桜井市三輪字狭井)

街を巡る 三輪山あたり 狭井神社

2010-10-26 06:23:42 | 街巡り_2010
 大神神社の摂社である「狭井神社」へ廻る。
 垂仁天皇の御代・淳名城稚姫命が勅命を奉じて創祀された社だ。
地元の方は“しみずさん”と呼んでいる。毎年4月に疫病鎮圧を
祈るため「鎮花祭」が開かれ、忍冬や百合根などの薬草が供えら
れる。
 拝殿奥に清水の湧き出る井戸「薬井戸」があり、この湧き水を
頂けば諸病気から救われるといわれ、家に持ち帰り病気の家族に
飲ませるという方が多いと伺った。三輪素麺の店や造り酒屋は、
この神水を使って製品の造りはじめに利用されているという。私
も三輪山登拝した後、この神水を頂いた。
 境内の右側に三輪山への登拝口があり、その頂には高宮神社が
鎮座し、奥津磐座の聖域がある。
(奈良県桜井市三輪字狭井)
三輪山登り口  三輪山登拝案内

街を巡る 三輪山あたり 大神神社

2010-10-25 06:26:20 | 街巡り_2010
 大神神社(おおみわじんじゃ)はこれまでに何度も訪れている社
で、別名「三輪明神」「三輪神社」と呼ばれている日本最古の神社
と称されている。大物主大神が祀られ三輪山そのものが神体で、現
在でも本殿を持たず拝殿から三輪山を崇拝している。拝殿奥には明
神鳥居3つを組んだ「三ツ鳥居」(拝殿からは見えない)がある。
 崇神7年(BC91)に天皇が物部連・祖伊香色雄(いかがしこを)
に命じて三輪氏の祖・大田田根子を探し出し、祭祀主として大物主
神を祀らせたのが始まりだと伝承されている。
 境内に「巳の神杉」がある。これは江戸の頃は“雨降杉”と呼ば
れ地元の人がここで雨乞いをしたという。いつの間にか杉の根本に
巳=蛇が住み着き、それから名が付いた。
 天皇家と物部氏の関係は非常に興味があり、大神神社を中心に、
さらに勉強したいテーマのひとつでもある。
(奈良県桜井市三輪1422)
大神神社  巳の神杉  衣掛け杉

街を巡る 三輪山あたり 素佐男神社

2010-10-24 04:53:45 | 街巡り_2010
 8月13日、午前中を利用して奈良県の桜井市へ伺った。目的は
2つ。「大神神社・三輪山」登拝と「箸墓古墳」見学だ。
 宿泊地の京都から一気に南下、近鉄の桜井駅で下車し、レンタル
バイシクルを借りて「大神神社」へ。途中に「素佐男神社」に立ち
寄った。
 こちらの社は、三輪明神のご神祭・大国主命の親神さんの素佐男
命が祀られており、地元では親しみを込めて「祇園さん」と呼ばれ
ている。境内に一対の丸い石があり力石と思っていたが、これは三
輪山周辺に点在する「磐座」(いわくら)のひとつであった。
 磐座とは、自然現象である岩石・巨石を古来から神座として祀っ
て崇拝してきたもの。別の名では「回り石」「夫婦岩」と呼ばれて
いる。三輪山周辺や纒向遺跡群廻りには磐座が数多くあり、次回訪
れた時は磐座巡りをしよう。
 さらに境内には朱塗り祠の「白山社」もあり、加賀白山大神が祀
られている。写真、左から「金比羅大権現」「愛宕」「白山祠」
「庚申」が並んでおり、特に金比羅さんは「歯定さん」と呼ばれ、
歯痛に霊験があるという。
(奈良県桜井市大字江包353)
磐座  白山社

街を巡る 洛中その2 信長供養塔

2010-10-23 03:39:33 | 街巡り_2010
 この日は朝からサントリー山崎蒸留所を見学し、再び京都に戻り
昨日の洛中巡りの続きを行ったりで、かなりハードに歩いた。ホテ
ルに戻り万歩計を見たら24,274歩、42.236km、1434.1kcalの
データを記録していた。
 さて、この日の最後に訪れたところは「本能寺」。法華宗本門流
の大本山として応永22年(1415)に日隆上人により創建。当初
は「本応寺」と称していたが、永享5年(1433)六角大宮に移転
した時に本能寺と改名。
 そして、天文14年(1545)に油小路蛸薬師の地に広大な寺域
で大伽藍が復興された。天正10年(1582)の“本能寺の変”に
より30あまりの宿坊のあった大伽藍は焼失。その後、秀吉の都市
計画で現在の地に移転再建。境内には、織田信長や側近達の供養
塔があった。
(京都市中京区寺町通小池下ル下本能寺前町522)
大銀杏  本能寺

街を巡る 洛中その2 だんのう

2010-10-22 06:21:39 | 街巡り_2010
 三条通まで来ると、その先にお寺さんがみえるので訪れた。
「だんのう」の名で有名な「檀王 法林寺」だ。
 文永9年(1272)に了恵上人が三条の地に悟真寺を建立。その
後、応仁の乱や度重なる天災人災で寺は焼失。慶長16年(1611)
袋中上人がこの地で草庵を建て「檀王 法林寺」と名付ける。
 その後、弟子の團王(だんのう)上人に受け継がれ、庶民から
“だんのうさん”と親しみを込めて呼ばれることになる。
(京都市左京区川端通三条上ル法林寺門前町36)
檀王法林寺  三条大橋