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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

「街を巡る」世田谷・其の一「寮の坂2」

2007-10-31 06:34:02 | 街を巡る
 「寮の坂」、今度は坂下から撮ってみた。
Sの字を描くような坂道で、宇佐神社に隣接する八幡塚
古墳を避けるようにトレースされている。坂下には、
傳乗寺がある。
 名前の由来は、昔、傳乗寺はこの坂の東側の台地にあり、
僧侶の学寮が建てられていた。土地の人は、寮の坂と呼んだ。
正和5年(1316)と刻まれた板碑が寺から発掘された
ことにより判明している。
 また、江戸時代にはいると、武器や兵糧を陸揚げし、
奥沢城に運ぶための軍用道路として、寮の坂は兵馬の
往来が頻繁だったといわれる。
(世田谷区尾山台2丁目10番地辺り)

「街を巡る」世田谷・其の一「寮の坂」

2007-10-30 03:24:48 | 街を巡る
 久品仏駅を下車すると、田園調布雙葉学園の女学生
一団と共に、歩を進めることになった。彼女たちは部活
でもあるのか、日曜日でも登校するのである。
 環八を横断すると彼女たちは校内へ、私はその先の
尾山台2丁目に向かった。玉堤へ抜ける通りに坂道が
あった。「寮の坂」(りょうのさか)、まずは坂上を見て
みよう。
 丁度、Yの字の角の所に石碑があり、“左・籠谷戸”
“右・多摩川”と書かれている。多摩川はわかるが、
籠谷戸とは、室町時代の頃、多摩川は水量も豊富で
寮の坂下あたりまで川岸がきていたと言われる。
雙葉学園を抱く盆地は、籠谷戸と呼ばれる入江があり、
上流から船で運ばれてくる物資の陸揚げが籠谷戸で
行われていた。当時の奥沢城(現在の久品仏・浄真寺)
へ軍事物資なども運ばれていたという。
 坂の上の東側にはリトアニア大使館がある。
(世田谷区尾山台2丁目11番地辺り)


「街を巡る」世田谷・其の一

2007-10-29 06:45:26 | 街を巡る
 10月28日、季節的には遅い台風20号が27日に
関東を通過し、東京は台風一過、空が洗われてキラキラ
輝いている。こんな日は、外に出て思いっきり洗われた
空気を吸って、秋の窓口を感じたいと思った。
 いままで、坂道や橋などを集中的に訪れていたが、
あまりテーマにこだわらないで、訪れたところの
面白いことやシーンなどを書き込みたいと思う。
 そこで、本日は世田谷の九品仏駅を下車し歩き始めた。
太陽を確かめながら南東方面を向かうと、とある民家の
庭にでかい大木が目についた。木の種目はわからないが
数百年の時が過ぎた、高さ20mほどの古木である。
古木の廻りにも多くのせん定された木が植わっていた。
 木を見ると、心が落ち着く。
(世田谷区奥沢8丁目33番地辺り)

Weekendの麺処巡り がんこ総本家でマンゴー悪魔

2007-10-28 13:48:17 | 拉麺
 本日は、台風20号の一過で朝から快晴。すがすがしい
気持ちで、何か新しいシリーズを始めてみようと思い、
橋でも、坂道でも、神社仏閣でも、そのどこでも訪れて
見ようと企画した。「街を巡る」とでも題しておこう。
 そこで、本日は世田谷のある一角を訪れた。そのレポは
明日から始めてみるか。
 さて、世田谷から池袋を目指した。
そう、本日は第4週の日曜日、がんこ総本家の悪魔の
日である。少し到着が早かったので、一条安雪家元に
挨拶を済ませ、麺談義に華を咲かせた。
 すこし、時間をつぶして再び総本家へ。そうすると
いつもの常連さんが続々到着。Kenちゃん。、BUSHさん、
FILEさん、ビッグバイクさん、アミーゴさん、大学院生さん
皆さん、1ヶ月以来の悪魔を堪能しにこられたようだ。
 本日の悪魔は、マンゴー6kgに赤ワインのスープ。
マンゴーは皮を剥き、手のひらで丸ごとつぶして寸胴に投入。
種も一緒に入っている、とのこと。
 悪魔といえば、塩気のきつい豚バラ肉がのせられるが、
池袋総本家では、スープよりも悪魔肉の方が塩辛いのである。
マンゴーの甘味が加わり、今回も優しい悪魔となった。
それでも、充分、悪魔である。幾分、塩気を増したかな。
 次回の総本家SPは、鶏(どんなトリだか判らない)を
使用した和風麺となるそうだ。そういえば11月11日は、
お酉(とり)さん(一の酉)である。今から楽しみ。
 そして、重大発表、なんと総本家が再び移転するようだ。
一条家元は、現在、池袋西口周辺に店舗を物色中で、
決まったら、現在の店は、土居ルイス店長にゆずり、
厨房の大きな総本家新店舗としてスタートするようである。


広重「江戸百」今昔 赤坂桐畑雨中夕けい

2007-10-28 06:06:13 | 江戸百・今昔
 「名所江戸百景」最後の作品の登場だ。しかし、この絵は
一立斎広重の作ではなく、二代目広重の絵である。
初代広重は、安政5年(1858)9月6日、当時はやった
コレラにかかり亡くなったと伝えられている。
 安政6年(1859)4月の改印がある「江戸百」119景
「赤坂桐畑雨中夕けい」(あかさかきりはたうちゅうゆうけい)。
 絵の中央下、青く描かれたところが赤坂溜池で、当時は
ひょうたん型をしていたという。池の土手には桐を栽培し
それで、桐畑と呼んだ。
 中央の降るそぼる雨の中を、傘を差した往来の姿は、
赤坂御門へ通じる坂道(現在の三宅坂)である。
 二代目広重は、この作品以外に3作残していると言われる。
それが、「41景_市ヶ谷八幡」「12景_上野山した」
「114景_びくにはし雪中」である。
 二代目広重の本名は、森田鎮平で、号を宣重といった。
初代と比べると、構図や色彩のタッチが違い、評価も
高い。しかし、私は初代広重の作のほうが好きである。
(港区赤坂3丁目2番地辺り)

 この作品を最後に、「名所江戸百景」119景の今昔紹介は
終了した。約4ヶ月、長かったようで短い間での広重
ワールドを再現したと思っている。さて、次は何に挑もうか。
葛飾北斎の「富岳三十六景」、広重の「東海道五十三次」など
企画は豊富にある。


Weekendの麺処巡り 町田汁場 進化

2007-10-27 15:01:28 | 拉麺
 馬場のべんてんを後に、つい先日の10月19日、町田市に
グランドオープンした「町田汁場 進化」を訪れた。
 事前に住所を調べていたので、小田急線の町田駅から1km強の
距離がある。晴れていたら歩くのであるが、強い雨なのでバスに
乗った。駅前のバスセンターから山崎団地センター行きが頻繁に
出ており、森野三丁目バス停で下車すれば、すぐの処だ。
こちらは、野沢にある「ひるがお」&「せたが屋」で修行し、
「ひるがお新宿御苑店」の立ち上げから店長を数年勤められ、
満を持して独立されたshinさんこと、関口信太郎氏のお店。
 こだわった“塩”の麺を提供する専門店である。GO日は
仕事と重なり、伺ったのは1週間後の本日と出遅れてしまった。
 入店するなり、創業開店のお祝いを伝え、少し会話した。
お勧めは、と伺うと、「いまは、塩しかないので、多くの方が
塩の味玉をご注文されます」との応えとおり、塩の味玉800円を
注文。宗田鰹節がやんわりと香る旨いスープ。ひるがおで
使用されている製麺屋のストレート麺、それに豚のほほ肉だろうか
咀嚼する毎に味が染み渡るチャーシュー、旨い味玉と
具はシンプルだが、なるほど奥が深い一杯である。これから
どんどん店名のとおり進化していくのだろう、楽しみである。


町田汁場 進化
町田市森野3-18-17 ウィング森野103
11:00~15:00、18:00~21:00 定休日不定


ekendの麺処巡り べんてんで豚足

2007-10-27 14:57:43 | 拉麺
 本日は、早朝から激しい雨が降っている。それでもめげずに
 高田馬場のべんてんへ向かう。
 べんてんの自家製麺と旨いスープの塩拉麺を味わいたい。
百の店があれば、それぞれ百の味がある。いろんな味を
口に含み、舌で転がし喉を鳴らしながら頂く中で、
べんてんの塩がひとつ飛び抜けて旨い。
 激しい雨の降る中で、べんてんの開店。少し間をおいて
注文は、塩拉麺の濃いめで麺は少なめをコールした。
すると、田中光勝店主から「これ、なんだか判る?」と
声がかかる。よく見ると、以前話の上がっていた豚足である。
 先週、静岡県掛川市に仕事で出かけた時、夜、居酒屋で
目にしたメニューの中に「おもろ」という一品があったが、
店主に伺うと、それは豚足のことであった。沖縄では
「テビチ」である。
 で、本日は豚足がトッピングでサービスされた。それに
プラスα、麻婆ナスも加えられ、本日の塩拉麺も豪華、豪華。
 豚足はかなりの時間煮込まれたようで、トロトロで旨い。
ジャスミンの香りがほのかに感じられる、骨付きテビチだった。
もち、麻婆ナスも旨かった。塩の濃いめにピタリの味であった。
 次なるサプライズは、雲呑であろうか?


広重「江戸百」今昔 木母寺内川御前裁畑

2007-10-27 04:15:48 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)12月の改印がある「江戸百」92景
「木母寺内川御前裁畑」(もくぼじうちかわごぜんさいばたけ)。
 隅田川の東岸に木母寺がある。1000年ほど昔、ここは梅若寺と
呼ばれていた、7歳の梅若丸の伝承が残っている。
 京都・北白川で公卿の子息として生まれた梅若丸は、父親が
死別し人買いにダマされて東国へ連れて行かれた。隅田川の
この地で梅若丸は病にかかり、手足まといと思われて人買いに
川に投げ込まれてしまう。しかし、梅若丸はこの地の住人に
助けられるが、息絶えてしまう。そこで、住人は梅若丸の塚を
築き梅若塚とした。現在もこの塚が木母寺の境内に残っている。
 慶長12年(1607)に寺号を木母寺と改められた。“木母”の
文字は梅若の“梅”から取られたと言い伝えがある。
 絵の中央の橋は、幕府の御前栽畑のある出洲へと通じていた。
当時は、肥沃な川の栄養分を摂取した土地で、御前裁畑では
野菜が栽培されていた。右側の料亭は屋号を「植半」といい、
魚や蜆料理が有名で、当時は大いに繁盛したそうだ。
 写真は、木母寺の境内から隅田川に向かって撮った。
(墨田区是通2丁目16番地、木母寺境内より)


広重「江戸百」今昔 四ッ谷内藤新宿

2007-10-26 06:40:36 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)11月の改印がある「江戸百」86景
「四ッ谷内藤新宿」(よつやないとうしんじゅく)。
 甲州街道の最初の宿駅、内藤新宿。元禄11年(1698)、
信州高遠藩・内藤若狭守の下屋敷の一部を幕府に返還し、
そこに宿駅を造った。馬継ぎの中継基地となり、町屋もでき
馬喰たちで大いに賑わった。
 甲州街道は当時から多摩や秩父の奥から鉱物が、また
農産物の集積地として馬や牛の産業道路となり、「四ッ谷街道、
馬の糞」と呼ばれるほど馬糞が散乱していたといわれる。
 内藤新宿は、当時は四ッ谷大木戸の外にあったため、都会の
江戸とは隔たりがあり田舎臭いイメージであった。それを広重は、
馬のケツを大写しにして雰囲気を表している。
 左の旅籠や茶屋の奥の森が内藤家の下屋敷、その左奥に
 四ッ谷大木戸があった。
(新宿区新宿2丁目5番地辺り)

Weekdayの麺処巡り がんこ西早稲田で限定

2007-10-25 20:32:07 | 拉麺
 ここのところ「がんこ」の塩を摂取していないので
物足りない日々を送っていたが、FILEさんのブログを
拝見すると、がんこ西早稲田店で、本日(25日)限定の
麺が提供されているというレポを拝見した。
 限定の数がどれだけなのか不安を胸に、夜伺った。
まだ提供できるとのこと。うーん、間に合った。
品書きには、「特濃白湯麺(塩味)」900円と出ている。
がんこで白湯麺は珍しいが、これに輪を掛けて“特濃”とある。
小川充也店主に伺うと「うちでは初めての品になります」
とのこと。こってりで使用するコラーゲンとは、少し違った
脂を使用しているとのこと。
 早速、限定が登場。
スープを啜る。うん? 何か怪しげな脂である。手前の茶色の
液体は、カリカリに揚げられたニンニクチップ投入の、風味
豊かなマー油が投入されている。しかし、がんこの基本である
塩スープはしっかりとベースを構築し、鰹か鯖節の香りが鼻を
くすぐる。これは旨い。今までのがんこにはなかった塩である。
 10月の次の提供日は、29日月曜で、19:00からである。
とりあえず限定なので、約20食が用意されるとのこと。

FILEさん