初海外 10 (おわり)

2012-05-22 | 過去の仕事(アラスカ)
船乗り志望を水産貿易マンへと改心させたアラスカバイト。
3ヶ月弱の初海外も、終わりとなると寂しいものです。
すでに魚群が去った工場からは少しずつ人が消え、仕事もポチポチしかない状態となり、そしてとうとう私にも帰国の許可が出ました。
まだ夏休み前の6月にアラスカに来てしまいましたので、夏休み明けの授業からは休むわけには行きません。スレスレの帰国でした。

チグニック→キングサーモン→アンカレッジ→成田と、行きとは逆の移動。すでに外国にも慣れ、また、同じ現場の方々も何人か一緒に帰国でしたので、きっと落ち着いていたのでしょう。帰国の途のことは、ほとんど覚えていません。
当時、まだヨーロッパから日本まで給油無しでは飛べなかったので、アンカレッジ経由便というのが多数あり、アンカレッジの空港は日本人でごったがえしていたような気がします。

その間に高校時代の同窓会があったようなのですが、
「土橋はシベリアにアルバイトに行ってるらしい」
という情報が流布され、ずいぶん心配されたのを思い出します。知らない人にとっては、アラスカもシベリアも北の果て、という印象しかなかったんでしょう。。ww

アルバイトの派遣元は、日本を代表する一流商社さんの水産子会社。帰国したらなんとレポート提出を求められたことを記憶しています。当時はパソコンなどありませんでしたので、すべて手書き。また、出張ではなく、あくまで作業員で現場に居ただけですので、何をどう書いていいかもわからず、日記みたいなものを提出した記憶があります。

現場の緊張感、スピード感、そして現場の会社に対する不満、言われも無く怒鳴られること、外国人の中で働くこと、などなど、とにかく色々なことを体験させていただいたのですが、思い返せば、その後の仕事でも似たようなことが年中発生していました。もちろん今もです。

大学3年の夏は、本来、一ヶ月の国内航海実習があったのですが、それを4年時にずらしてまで行ったアラスカバイト。25年も前のことでしたが、結構色々と思い出すものです。

長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。
おわり。

来週からは・・ マグロ船の話しでもしますか・・?!







初海外 9

2012-05-15 | 過去の仕事(アラスカ)
人生のターニングポイントが、このアラスカバイトでした。。

ある日、見慣れない日本人がふら~と現場に現れました。
ぶらぶらと作業現場を見て歩いているこの方、貨物を引き取りに来た運搬船の乗組員でした。
こちらも作業が終わったときに話しかけると、機関長とのこと。
早速船に遊びに。

当時、卒業したら船に乗ろうと思ってましたので、船の仕事のことをあれこれ聞きに行ったのですが、返ってきた答えは、

「船乗りなんか、今の若い者はなるもんじゃないぞ!」

というお言葉。。。
更に、私の大学の先輩ということもわかり、益々「こんな仕事はいずれ外国人しかやらなくなる単純な仕事だから、絶対に乗らないほうがいい」と熱弁を。
船に乗って海外を渡り歩くのが夢だったのですが、こんなアラスカの辺境地が寄港地。更に、ほとんどがこういった場所とのこと。。。

「海外に出たいんだったら、水産貿易会社へ行け、そしたら好きなだけ海外いけるぞ」

と、力説されたわけです。

ということで、帰国早々、希望進路(針路)を思いっきり変更。そして今に至る・・というわけです。。♪

その人生を変えた先輩、名前も忘れてしまいました。
今となっては、無理して船乗りを目指さなくてよかった・・と、思っております。一度お礼を言いたいところです。。w
もっとも、その後船乗りにならなくても、マグロ船や海老船など、まあたくさん乗せていただきましたし。。


* 写真は、その運命?を変えた冷凍運搬船のブリッジで撮った一枚。記念の一枚です。

初海外 8

2012-05-08 | 過去の仕事(アラスカ)
アラスカバイトの話。

暇になるのは日本人だけではなく、アメリカ人も同様。
そうなると、日本人に興味のある物好きなアメリカ人が、我々の宿に遊びに出入りをはじめたりします。
ところが残念ながら英語が通じる人間がいません。唯一喋れる社員の方は、本社との連絡(今のようにネットがありませんから、事務所に張り付いてました)で忙しく、我々とは別行動。
初めての海外とはいえ、多少なりとも英語がわかる私にすべての通訳の仕事が回ってくることになりました。正直、単語がいくつか聞き取れた程度だと思います。

ほとんどの外人はそういったやりとりが面倒臭くなり、私たちの宿舎には来なくなったのですが、一人の物好きな外人が私にとにかく付きまとうようになりました。
あとでわかったのですが、当時日本人の彼女が居たようで(結局結婚したようです)(彼も短期アルバイトでアラスカに来ていました)、本土に戻ったら少しでも日本語を喋って彼女を驚かせよう、という目論見だったようです。日本の音楽にもとても興味?を持っていたので、浅香唯のカセットテープをあげたところ、一生懸命覚えておりました。。ww

さて、その外人が地元の人間と交渉し、船外機つきの小船を借りてきました。沖で釣りでもしよう、ということです。
この海、なにせ魚が湧いてましたので、針さえ入れればあっという間になにか釣れてしまうような状況です。時間も余っているので、暇つぶしに沖へ出て、筋子を餌に釣り針を入れると・・

岸からじゃ釣れない「オヒョウ」がバンバンつれるわけです。
(まさか将来、自分がこの魚の売買をするなんて夢にも思いませんでしたが。。w)
で、それを持って帰り、早速刺身にすると。。
身体の肉は寄生虫だらけ・ ほとんど食べられなかった記憶があります。



初海外 7

2012-05-01 | 過去の仕事(アラスカ)
さてさて暇になってきたアラスカの仕事。
空き時間に始めたのはまずは街の散策。街といったって単なる集落ですから、1時間足らずで回れてしまいます。
その後は、トレッキングやら船を借りて釣りをしたりしながら、漁が再開されるのを待っているわけです。

その間、いろんな体験をしたわけですが、怖い思い出がひとつ。
時は1987年です。
ある日突然、ブルーザーブロディ(古くてすみません)のような漁師に呼び止められました。私に向けてなにやら怒っているようです。
解かった単語は、 赤い星・共産主義・親がどうかした・お前を海へ投げ込む・・ そんなところでしょうか。。
当時、大学の先輩が航海に行った中国で買ってきてくれたお土産の「人民帽子」をかぶっていたわけですが、それが気に入らなかったのでしょう。 正面に赤い星がひとつついていました。そして、胸ぐらを掴まれ、目の前で星をとれ、と、強要されました。
当時、そういった国際的な意識が全くありませんでしたので、これは私の不注意としか言えません。
ということで、写真の帽子には、星がついていません。。w

初海外 6

2012-04-24 | 過去の仕事(アラスカ)
さて、寝る間も休む間もない労働が二十日ほど続いたころ、突然「明日は休み」とのお知らせが・・。 初めて現場に入った私にはなんのことだかわかりませんが、これはありがたい話しで、一日寝ていた記憶があります。

ところがその休み、だんだん多くなってくるわけで、今までの労働が嘘のように暇になってきました。いわゆる「禁漁」です。管理の仕方はよく知りませんが、魚の遡上量に合わせて漁獲量も制限していたようです。(私はアラスカの状況はほとんどシロウトですので、わかる方がいらっしゃいましたら、是非コメントください)

休みといっても、テレビもなければもちろんパソコンなどは無い時代です。もっていった本や雑誌もすぐに読んでしまいましたので、とても暇になります。
なるほど、釣竿を持ってきている人が居ましたが、こういうときに釣りを楽しむためだったわけです。(とはいっても入れ食い状態で、楽しいのかどうか・・w)

それまでの過酷な労働が嘘のように、本当になにもしない毎日がやってきたわけで、これでも日当は変わらず5000円をもらえたわけです。
はじめのうちは何をしたらいいのか戸惑ったのですが、突然時間ができると、色々とやりたくなってくるわけです。

つづく


初海外 5

2012-04-17 | 過去の仕事(アラスカ)
その現場は、

* アラスカにある、鮭の加工工場と
* 日本の商社が契約し
* 工場の一部を間借りして
* 出てくる魚卵を独占で引き受けていた

という感じだったと思います。

残念ながら、自分が実際携わっていた、「筋子」の生産に関する写真は一枚も残っていません。 初海外で写真(といっても、当時はデジカメもなく、おもちゃのようなカメラを持っていったのを覚えています)をたくさん撮りたかったのに、テクニシャンの方々から、生産に関する写真は機密事項なので、絶対に撮るな、と、しつこくしつこく言われたため、怖くて自分の現場の写真は全く撮れませんでした。

私が受け持っていたのは、撹拌 という作業だったと思います。
鮭加工工程からでてきた内臓から魚卵だけを分け、写真のような青色のバスケットに入れます。
それを私が取りに行き、筋子エリアまで持ってくるところから仕事はスタート。

撹拌機とかいう、大きな樽のようなものにこの魚卵を入れ、塩水+亜硝酸で揉むわけです。(撹拌用の羽が樽の底についていて、スイッチをオンすると、ゆっくりと羽が回りだし、水流が発生し、魚卵が揉まれるわけです。旧式の洗濯機のでかいやつみたいなイメージでしょうか。たしか、樽は4つあったと思います。
水温を「電熱ヒーター」で規定の温度に上げ、適量の水を入れ、そこへ食塩を入れ、亜硝酸を入れます。
一定時間経ったら揉まれた魚卵を樽から出し、箱詰めの作業の方々が待つ作業テーブルへ渡す、というものでした。

鮭に種類があることなど知らなかったので、はじめは複数の魚種の卵を混ぜて怒られ、水温の調節が上手くいかず怒られ(というか、魚卵を入れたら水温が下がるのは当たり前なんですが。。まあ理不尽なことで怒られるのは大学の寮や数々のバイトで慣れてましたかので・・w)、 魚卵の水切りが悪いと怒られ、塩が少ないと怒られ、なにやっても怒られる割にはなんだかんだと用事を言いつけられ。。。

あとで知ったのですが、その現場は、初めてアラスカに来た若い「テクニシャン」が現場放棄をして帰国してしまったらしいのです。その後釜で回されたのが私だったものですから、現場の方々は同じように私を使うわけですね。まさか私がテクニシャンの方々の日当の半額以下、5000円で働いているとは知らず。。ww

なにせ私以外の方は皆箱詰めテーブルに居るだけで、私だけそこらじゅう走り回っていた記憶があります。私も魚卵の箱詰め作業をやりたかったのですが、「お前は手先が不器用だ」、ということで、ずーっと撹拌作業員でした。初対面で手先の器用不器用を見切るのは、さすがテクニシャンの方々です。今だからいえますが、皆が魚卵詰めをやっているテーブルの後ろから魚卵ごとバスケットを投げつけてやろうか、と思ったことも何度か。。。 やりませんでしたけど・・w

つづく

初海外 4

2012-04-10 | 過去の仕事(アラスカ)
到着して荷物を片付ける暇もなく、そのまま現場へ「呼び出され」、全く仕事の内容もわからない中、作業開始。。。
今までアルバイト含め相当数の仕事をこなしてきましたが、全く説明がなく、いきなり現場に入り、しかもその直後から怒鳴られまくったのは、この現場とマグロ船ぐらいなもんでしょうか。。ww

ここで私は2つの言葉の壁にぶち当たりました。
ひとつはもちろん、英語。もう一つは、いわゆる「テクニシャン」の方々の日本語です。

業界以外の方にちょっと補足。
この業界、「テクニシャン」という職種があります。
カニのテクニシャン、すり身のテクニシャン、などという感じで使います。
技術者、技術指導員、という感じでしょうか。
このバイト、当初は「筋子のテクニシャンと一緒にアラスカへ言ってもらう」と、聞いてました。「テクニシャン」・・白衣を着た研究員さんをイメージしていたわけですが、それが間違いだとわかったのはこのとき。
私の現場は北海道の特定の町から、まとめて来ている方々。いわゆる季節労働者の方々でした。夏はアラスカで筋子、秋は日本で筋子やらなにやら、冬は東京などで短期のガテン仕事、そして春また北海道で水産関連の仕事。。。そんな方々と一緒に現場に入ったわけです。

いわゆる地方の訛りがとってもきつく、更には専門用語。おまけにほとんど寝ないで連日仕事をしているところへ、私のような体力だけは有り余ってるような若造が入ってきたのですから、テクニシャンの方々の恰好の「カモ」ですね。。w まあ、怒鳴られること怒鳴られること。。物も飛んでくる、罵声は飛んでくる。。。
しかも何言ってるんだかわからないから聞きなおすと、また怒鳴られ、とんでもないところに来てしまったもんだ。。と、悔やんだところで地の果てアラスカなわけです。
さらに漁は連日恐ろしいほど続き、初めの一週間は、大げさではなく、22時間労働でした。寝られるのは、一日2時間だけ。。そのわずかな睡眠時間にも筋子を作ってる夢を見ましたので、身体も頭も休まる暇などありません。

よく倒れなかったもんだな・・と、思います。(この数年後マグロ船に乗り、アラスカなんて楽だったな・・と振り返るわけですが。。ww)

余談ですが、今でも覚えていますが、私のバイト料は、日給5000円。これは仕事があってもなくても、22時間働いても、全く働かなくても、5000円。 飯、泊まるところはもちろん付いておりましたので、念のため。

つづく・・


初海外 3

2012-04-03 | 過去の仕事(アラスカ)
ようやくたどり着いたところは、アリューシャン半島の真ん中あたりの、チグニックという村。
砂利道の滑走路(これも初体験)に一人おろされ、飛行機はとっとと帰っていきました。

飛行場とは言っても、ただの砂利道。小屋すら建っていません。
雨の中放り出され、迎えも誰も着ていない状態。
携帯電話など無い時代ですし、ま、仮に有ったとしても、使えない環境でしょう。

だんだん心細くなってきたときに、一台の汚いピックアップトラックがやってきました。
中から黄色いカッパを来た外人のおっさんが出てきて、私の荷物を荷台へポイっと。。
雨降ってる中です。。

社内は魚の匂いが充満し、シートはびしょびしょ。みなカッパのまま乗るんでしょうね。。

何を話しかけられたのか全く覚えていませn。
たしか15分くらいの道のりでしたか。。なんにもないところを走り、ようやくたどり着いた工場。

到着→ 作業着+カッパ+魚のにおいプンプンの日本人が出てきて、「着替えて早く来て」の一言。

一日22時間労働の、幕開けです。

初海外 2

2012-03-27 | 過去の仕事(アラスカ)
初海外、アラスカ行きの話。

一緒の工場に行くはずだったメンバーからアンカレッジで一人外され、生まれて初めての海外で、飛行機・セスナを乗り継いで、別の現場に行くように指示されました。なにやらその工場が連日激務で人が倒れた・・とか・・・。

全く英語がわからない中、飛行機を乗り継げ・・と。。。 しかもセスナに。。
今思うと、某商社さんもずいぶんなことをやらせたものです。w
飛行場では、点呼をとられます。自分の名前が呼ばれたら返事をしないといけないわけですが、外人の発音、「ドバッシェイっ」みたいなのが聞き取れるわけがありません。
何度も呼ばれ(たんでしょう・・・)、たぶん唯一の日本人だった私をみて「返事せんか、こら」(って感じだったと思います)で、怒鳴られ、セスナに押し込まれました。

飛行機は「搭乗地→目的地」にいくもので、「経由地」があるなんてことも知りませんでした。
セスナは途中何回も止まり、その度に降りると、「ここじゃねえよ、お前は・・・」と、セスナに戻され、最後にはパイロットと二人きり。。

今でも覚えてますが、野生の鹿の群れかなにかとパイロットが見つけたのでしょう。
突如奇声を張り上げ急降下。。 たぶん鹿を見せてくれるつもりだったんでしょうけど、私は「ここで殺されて飛行機から落とされてもきっと見つからないな・・」と、妙な心配をしてしており、全く景色が楽しめなかったことを思い出します。

続く・・







初海外 1

2012-03-20 | 過去の仕事(アラスカ)
先日、ホイットニーヒューストンさんが亡くなりました。
私が学生時代はまさに全盛期。洋楽はあまり聴かない私も、彼女の歌はよく聞いたものです。

今でこそ海外出張に度々出ておりますが、生まれて初めての海外は20歳のとき。しかもアルバイトでアラスカ。海外での仕事や水産貿易などを生で感じたわけで、それがそもそもこの業界へ入ったきっかけでもあります。

初めての海外で、空港からホテルへの道すがら、車中で流れていたのがホイットニーヒューストンの 「I Wanna Dance with Somebody」
初めて触れる生の海外と相俟って、未だに昨日のことのように思い出されます。

初めての海外がアラスカ、筋子生産事業、しかも、アリューシャンの工場に3ヶ月・・ 更には、同行した連中から一人だけ外され、セスナでの移動・・英語わからず・・。。。

続く。