川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

第10回松阪史跡めぐり開催される

2018-05-27 20:23:16 | 日記
                (阿射加神社で松本明徳宮司といっしょに集合写真)

 松阪史跡探訪会主催の第10回松阪史跡めぐりが平成30年5月27日(日)行われました。数日前の天気予報ではこの日は雨という予想が出ていたのですが、見事予報が外れ、朝から青空が広がっていました。今回は29名が参加し、伊勢寺、阿坂、宇気郷方面を探訪しました。

✦伊勢寺廃寺(伊勢寺町)(案内 新山勝保さん)
 伊勢寺は伊勢の国を平定した豪族・伊勢氏の菩提寺として、飛鳥時代の慶雲年間(701~708)に創建された。奈良時代の天平13年(741)の聖武天皇の時代に疫病がはやり、仏の力で治めようと各国に国分寺及び国分尼寺建てるように命がおり、伊勢の国では国分寺は国府のあった鈴鹿に決まり、国分尼寺は伊勢神宮へのお伺いで伊勢寺がよいとお告げがあった。このため伊勢寺を国分尼寺に転用し、尼10人が置かれ、聖武天皇より寺領として50町歩の水田を拝領した。その後七堂伽藍が建立され、行基菩薩が彫った丈6(4.8m)の仏像も安置され、20ヶ寺の末寺を拝し、繁栄を極めた。

 平安時代の末期には保元の乱(1156)、平治の乱(1159)などには戦火を受け、大部分の伽藍が焼却し、寺は衰退していく。また寺領50町歩の水田の用水は堀坂川の流路が災害で変わり、用水が得られなくなり、水田は山林化し国分尼寺の維持ができなくなっていった。この頃創建当時の慶雲寺と名称を改める。
 江戸時代初期(1620)以降紀州藩徳川頼宜公から国を守る官寺として「護国寺国分寺」の称号を受け、本堂が再建された。
 昭和63年から平成元年にかけて発掘調査も行われ、東西150m、南北180mの寺域を有してあったと推定されている。

 
(伊勢寺廃寺で新山勝保さんから説明を受ける) (敏太神社で山本実穂さんから説明を受ける)

✦敏太神社(美濃田町)(案内 歴史研究家 山本実穂さん)
 敏太(みぬた)神社(松本明 宮司)は平安時代の延長5年(927)にまとめられた、全国の神社一覧を表す「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう」に記載された式内社で、古くから牛頭天皇を鎮守神としてきたが、大正4年(1915)に八雲神社など11社と合祀しました。年中恒例祭礼として、粥だめし神事(2月)、すすき倒し神事(2月)、足焼き神事(12月)などが行われる。

✦阿射加神社(小阿坂町・大阿坂町)(案内 松本明徳 宮司)
 阿射加神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、伊勢神宮より8年古い紀元前13年の創建とされている。今から1100年前の醍醐天皇の時代には、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)と並ぶ由緒ある神社でありました。祭神は日本神話に登場する大神「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を祀る。 
 この猿田彦大神は阿射加の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にます。現在の阿坂は伊勢湾の海岸より約8㎞も離れており、太古の阿射加は今の一志郡東部の総称であったと思われる。
 伊勢の国において式内社は253座あり、小神と大神が祀ってある。この内大神は18座あり、ほかは小神が祀られている。18座の大神の内、伊勢神宮とその関連の神社に14座祀られており、残り4座の大神の内1座は桑名市の多度大社にあり、あとの3座は阿射加神社に祀られている。

 
(阿射加神社の松本明徳宮司がら説明を受ける)      (浄眼寺は川口が説明しました)

✦浄眼寺(大阿坂町)(案内 川口保)
 正法算浄眼寺(しょうほうざん じょうげんじ)(北川美英 住職)は曹洞宗のお寺で本尊は釈迦如来。当寺は文明10年(1478)伊勢国司北畠正勝が阿坂城の麓のこの地に七堂伽藍を建立し、中世を通して北畠氏の菩提寺となり、阿坂城とともに同氏の南伊勢支配の拠点となりました。しかし、永禄12年(1569)織田信長の阿坂城攻めの時に兵火にあい伽藍などほとんど全てが消失した。江戸時代に再建され、宝暦12年(1762)本堂などの修築が行われた。

✦伊勢山上飯福田寺(飯福田町)(案内 世木英勝 住職)
 国峯山飯福田寺(こくほうざん いぶたじ)は真言宗醍醐派の古刹で、京都三宝院の末寺。今から約1300年前の大宝元年(701)役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場で、本尊は薬師如来。
 古来より諸侯国司を始め多くの参拝者があり、北畠家の祈願所として栄えました。天正11年(1583)には織田信長の次男信雄(のぶかつ)より寺領百五十貫文を寄付されたが、松坂城主蒲生氏郷により、当寺の伽藍を壊し、松坂城を築くための材として使われ、寺は衰退していく。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得て、寺運は興隆して今日にいたっている。

 飯福田寺一帯の山地には多くの奇岩怪岩が露出しており、鎌倉時代以来行者の修験道場として用いられている。明治半ばまでは女人禁制となっていたが今は解放されている。行場は表行場と裏行場があり、三重県の一番危険な観光地に登録されている。

  
 (飯福田寺の世木英勝住職から説明を受ける) (蘭宇氣白神社で垣本長生宮司から説明受ける)   

✦蘭宇氣白神社(柚原町)(案内 垣本長 宮司、坂下一夫 宇気郷地区連合自治会会長)
 「アララギさん」でおなじみの蘭宇氣白(あららぎうきはく)神社の創始は分からないが、明治末期に蘭神社(柚原町)、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)が合祀され、この社名となった。祭神は主祭神の建速須佐之男命(すさのうののみこと)など17神を祀る。            
 この神社の境内には社名となっている蘭(別名「一位」)の木が6本ある。

日大アメフト選手の記者会見

2018-05-23 07:44:41 | 日記
 アメフトをやっているだけあって体はデカいが、未成年とほとんど変わらぬ成人になったばかりの若者が、多くの報道陣の前で記者会見して謝罪と経緯を語った。
 アメリカンフットボールの定期戦で、悪質なタックルを行い、相手チームの主力選手に怪我を負わせた日本大学の選手が、24日に東京で記者会見した。顔を出し、氏名を公表して、今回起きた出来事を詳しく説明した。

 この問題が発覚したとき、当該選手に批判が集中したが、その後状況が分かってくると、監督からの指示があったことが分かってきて、矛先は監督に向けられるようになった。今回の記者会見でその時の様子や、監督やコーチからの激しいプレッシャーにより今回の危険タックルが行われたことが分かった。

 スポーツの世界で日本のトップクラスで戦ったり、世界で戦うには激しい練習がつきものである。時には罵声が飛び交うこともあるだろう。しかし、「相手チームの主力選手を潰してこい。それをやらなければ練習をさせない、試合に出さない。」は論外である。20歳の若者がどれだけ悩み苦しみこのプレーに及んだか心中を察する。今回のインタビューにもあったが、この選手は高校の時からアメフトをやっていて、高校の時は楽しかったが、大学では楽しくなくなったという。それだけプレッシャーの中で追い詰められていたのだろう。

 いろいろな組織の中で時として「それはなぜですか」「それはおかしいのではないですか」などの意見が言えない場合がある。それは会社であったり、地域であったり、政治の世界であったりする。今回彼の頭の中ではこのプレー以外の選択肢はなかったのだろう。

 今回の記者会見では著名なテレビ局・新聞社の記者が質問された。どれも簡潔に的確に要点をつまんで質問されたのはよかった。質問に対してこの選手は詰まりながらも言葉を選び、丁寧に答えられていたことに好感がもてた。20歳の若者にしては、かなりしっかりしている印象があった。

 今後は日大が、アメフト部の前監督がどのように対応するのか注目される。

松尾神社敬神婦人会が熊野本宮大社を正式参拝

2018-05-21 08:55:25 | 日記
   

    
                  (熊野本宮大社で正式参拝のあと集合写真)

 松阪市立野町にある松尾神社(岡村行通 宮司)の敬神婦人会(高橋信代 会長)主催の研修旅行が5月20日に開催され、神職・婦人会員・氏子など65名が参加しました。私たち男性陣も11数名が参加しました。
 
 今回は創建二千五十年を迎えた熊野本宮大社を正式参拝させていただきました。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は熊野三山と呼ばれ、ここに通じる参詣道の「熊野古道」と合わせて、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 熊野本宮大社の主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、奈良時代より神仏習合を取り入れており、「阿弥陀如来のお力により来世のご加護を頂く事ができる」と伝えられています。本宮大社参拝のあと、那智大滝、熊野速玉大社も参拝しました。

御田植祭開催される-松尾神社(松阪市)

2018-05-13 16:02:42 | 日記
 松阪市立野町の松尾神社(岡村行通 宮司)で、平成30年5月13日に御田植祭がありました。この行事は松尾神社が主催し、松尾神社崇敬奉賛会(錦金則会長)が共催して平成25年から行われているもので、今年で8回目となります。この日少し雨模様でしたが、神社の氏子代表や奉賛会会員、また地元の立野地区の(昔の)早乙女の皆さん達、そしてJA大足店の職員、みえこどもの城の関係者など約40人が参加しました。

 松尾神社は、酒造の神と崇められたということから、酒を醸造する人たちが信仰する神社です。平成23年(2011)10月に20年に一度の式年遷宮を迎え、この遷宮の一環として神酒を醸造することになりました。この時は藤之木町の水田をお借りして御田植祭を行い、酒米「神穂(かみのほ)」を植えました。この年は農事組合法人コスモスに依頼して田植え機により植えられました。
 岡村宮司の「手植えによる本格的な御田植祭をやりたい」という強い希望があり、2年後の平成25年から今の水田に場所を移して、現在のような手植えによる本格的な御田植祭になりました。

 
  (田植の前に神殿で祭礼が行われました)   (お祓いされた苗は川口耕作長から藪谷田長へ)

 神殿前で祭礼を行ったあと、お祓いをした苗が垣本長生禰宜(ねぎ)から川口保耕作長、藪谷源司田長(たおさ)、そして早乙女代表に手渡され、約20人が、5.9aの水田に入って、餅米苗を植えました。
 手綱を引く人と植える人達の呼吸がなかなか合わず、大きな声で呼びながら、参加者たちは約30分かけて植えました。

 
     (JA大足店の早乙女も植えました)           (沖 和哉 市議も植えました)

 この水田の代掻きや育苗などの準備はすべて、丹生寺町の東海農産(藪谷源司代表)さんに奉仕していただきました。
 このような神社の御田植祭が行われるのは、松阪市内ではこの松尾神社だけということです。この日植えた苗が実った9月には、稲穂を抜き取って神様に供える抜穂祭(ぬいぼさい)が行われます。また収穫されたもち米は松尾神社に寄贈され、例大祭の餅まきなどに使われます。

政党名に思う

2018-05-09 05:19:32 | 日記
 5月7日、希望の党と民進党が合流した新党「国民民主党」の設立大会があった。当初、立憲民主党を抜いて野党第1党の規模と予想されていたが、参加した衆参両院議員は62人と、立民を下回った。

 小池百合子東京都知事が「希望の党」と書かれた新党名を発表して希望の党が結成されたのが、昨年の9月25日。その時はまさに希望にあふれ、期待を膨らませていく政党であったかに思えた。希望へ希望へと草木もなびく。来る衆議院選挙の当選を目指して多くの衆議院議員が入党し、新たに立候補を目指す新人達も推薦を求めた。この希望の党が1年もしないうちに空中分解しようとはこのとき、どれだけの人が予想しただろうか。小池知事の「排除します」の一言で人気は一気に冷め、衆議院選では大敗した。

 カリスマ性のある一人の指導者に率いられる組織は、急速に発展する可能性をもっている。しかしその反面、危うさも合わせ持っている。指導者の言動に何かの問題が発生すれば「親亀こけたら 皆こけた!」となりかねない。まさに希望の党がそうであった。かつてのみんなの党がそうであったように。

 先の衆院選で希望の党から出て何とか当選した議員も、今や色あせた希望の党を名乗るのもはばかられたのではないか。それが今回の希望の党と民進党が合併して新党「国民民主党」となったのではないか。ただ、新しい党に対して期待が感じられない。それが入党者の少なかった要因ではないか。それでも色あせた希望の党よりはましだろう。民主党から民進党、そして希望の党から国民民主党へと、こんなに頻繁に党名が変わっていくと、政党としての評価は当然軽い。そしてなにより党名を覚える暇がない。

 中道の政党の名前が次々と変わって中で、党名が長く続いている自民党、公明党、共産党は強い。日本民主党と自由党が合流して「自由民主党」ができたのが、戦後間もない昭和30年(1955)。途中何度か大量の離党者もあり、野に下ったことや、社会党との連立政権もあったが、結党以来60余年同じ党名できたことになる。また公明党は昭和39年(1964)に結成され、平成6年(1994)の新進党の結党に加わったが、平成10年(1998)に再結成され今日に至っている。日本共産党にいたっては結成されたのが大正11年(1922)、約100年の歴史がある。党の中ではいろいろあるが、同じ党名が続けられていると重みが違う。

 今回の野党の合流に立憲民主党が加わらなかったのはよかった。「排除」されたとはいえ、しっかりした理念を持って結成された党で、やや硬い名ではあるが、このまま党名を変えずに、5年、10年、30年、50年と続けてほしい。

第10回松阪史跡めぐりの詳細案内

2018-05-06 21:09:07 | 日記
 松阪史跡探訪会主催の第10回松阪史跡めぐりの詳細が次のように決まりました。この史跡めぐりには誰でも参加できます。参加希望の方は下記まで申し込んで下さい。

○月 日 平成30年5月27日(日) (雨天決行)
     
○探訪地 伊勢寺・阿坂・宇気郷方面 

○会 費 2,300円(マイクロバス、保険含む)(当日徴収します)

○定 員 50名

○その他 ・弁当、飲み物など各自持参して下さい(ベルファームで昼食)

○史跡めぐりには、会員外の方、市外、県外の方、誰でも参加できます。

○参加申し込みされた方には、後ほどコース表など詳しい案内を届けます。

○主 催 松阪史跡探訪会

○問合せ・参加申し込みは 川口保まで連絡下さい
  電話自宅 0598-58-2948、携帯090-8738-7959 申込み締切5月22日
  メールでも申し込みができますMail:kawaguchi@tamotsu.info

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◯コース
出発地(松尾神社・鈴の森公園)―→伊勢寺廃寺―→敏太(みぬた)神社―→

阿射加(あざか)神社(小阿坂町)―→阿射加神社(大阿坂町)―→浄眼寺―→

ベルファーム(昼食)―→飯福田寺―→蘭宇氣白(あららぎうきはく)神社―→帰途
                 (探訪地、時間等変更することがあります)

見学地案内
✦伊勢寺廃寺(伊勢寺町)(案内 新山勝保さん)
 伊勢寺町の地名の由来となった「伊勢寺」は、現在の国分寺付近を中心として、東西150m、南北180mの寺域を有していたと推定されている。昭和63年から平成元年にかけて発掘調査が行われ、伊勢寺の創建は出土瓦などの調査結果から7世紀末と考えられている。伊勢寺は豪族・伊勢氏の菩提寺であったという。

 
     (伊勢寺廃寺があった国分寺付近)                (敏太神社)

✦敏太神社(美濃田町)(案内 山本実穂さん)
 敏太(みぬた)神社(松本明 宮司)は平安時代の延長5年(927)にまとめられた、全国の神社一覧を表す「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう」に記載された式内社で、古くから牛頭天皇を鎮守神としてきたが、大正4年(1915)に八雲神社など11社と合祀した。年中恒例祭礼として、粥だめし神事(2月)、すすき倒し神事(2月)、足焼き神事(12月)などが行われている。

✦阿射加神社(小阿坂町・大阿坂町)(案内 松本明徳 宮司)
 阿射加神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、伊勢神宮より8年古い紀元前13年の創建とされている。今から1100年前の醍醐天皇の時代には、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)と並ぶ由緒ある神社であった。祭神は日本神話に登場する大神「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を祀る。 

 
       (阿射加神社――小阿坂町)             (阿射加神社――大阿坂町)
✦浄眼寺(大阿坂町)(案内 川口保)
 正法山浄眼寺(しょうほうざん じょうげんじ)(北川美英 住職)は曹洞宗のお寺で本尊は釈迦如来。当寺は文明10年(1478)伊勢国司北畠正勝が阿坂城の麓のこの地に七堂伽藍を建立し、中世を通して北畠氏の菩提寺となり、阿坂城とともに同氏の南伊勢支配の拠点となった。しかし、永禄12年(1569)織田信長の阿坂城攻めの時に兵火にあい伽藍などほとんど全てが消失した。江戸時代に再建され、宝暦12年(1762)本堂などの修築が行われた。

✦伊勢山上飯福田寺(飯福田町)(案内 世木英勝 住職)
 国峯山飯福田寺(こくほうざん いぶたじ)は真言宗醍醐派の古刹で、京都三宝院の末寺。今から約1300年前の大宝元年(701)役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場で、本尊は薬師如来。
 飯福田寺一帯の山地には多くの奇岩怪岩が露出しており、鎌倉時代以来行者の修験道場として用いられている。明治半ばまでは女人禁制となっていたが今は解放されている。行場は表行場と裏行場があり、三重県の一番危険な観光地に登録されている。
               (なお今回は、行場は廻りません)
 
         (伊勢山上飯福田寺)                  (蘭宇氣白神社)

✦蘭宇氣白神社(柚原町)(案内 垣本長生 宮司)
 「アララギさん」でおなじみの蘭宇氣白(あららぎうきはく)神社の創始は分からないが、明治末期に蘭神社(柚原町)、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)が合祀され、この社名となった。祭神は建速須佐之男命(すさのうののみこと)など12神を祀る。

孫の端午の節句を祝う

2018-05-03 20:29:35 | 日記
5月5日の端午の節句を前にした3日、娘の嫁ぎ先のご両親も我が家に来ていただき、孫の端午の節句を祝いました。
主人公の濱千代燎(生後9ヶ月)、燎の両親(娘夫婦)、鳥羽のおじいちゃん、おばあちゃん、松阪の祖父母(我々)が揃って、5月人形を前にして記念撮影をしました。

御衣奉織行事始まる

2018-05-01 11:50:36 | 日記
 絹と麻を織って伊勢神宮に奉納する御衣奉織行事(おんぞほうしょくぎょうじ)が平成30年5月1日、松阪市大垣内町の神服織機殿神社と同市井口中町の神麻続機殿神社で始まりました。神様の衣を「神御衣(かんみそ)」といいますが、この行事は両神社で毎年春(5月1日~13日)と秋(10月1日~13日)に絹(和妙 にぎたえ)と麻(荒妙 あらたえ)を織って奉納するもので、それぞれの神社で4人の織子がこの任務にあたります。

◆神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)(松阪市大垣内町)
 神服織機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「下館(しもだち)さん」「下機殿(しもはたでん)」と呼びます。
 神服織機殿神社は伊勢神宮の神御衣の内、和妙(にぎたえ-絹のこと)を奉織する機殿(八尋殿 やひろどの)の守護神を祀っており、毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する和妙を織る行事が行われます。同社には天御桙命(あめのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやぢちひめのみこと)が祀られています。
 この地方は古くから紡織業と関係が深く、神様に絹や麻を奉織する服部神部(はとりかんべ)という人が住んでいたといわれています。現在も下御糸、上御糸、中麻績(なかおみ)機殿、などの紡績に関する地名が残っています。

 同社の境内の林の中に農業用水路が横断している。この水路は飢饉続きで農民が苦しんでいる慶安3年(1650)5月20日、見るに見かねた代官福井文右衛門が、境内に農民に命じて1晩で掘らせたもので、次の日の朝、水が流れて農民たちが喜ぶとき、福井文右衛門は責任を取って切腹しました。それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けているということです 
     
◆神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)(松阪市井口中町)
 神麻続機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「上館(かみだち)さん」「上機殿(かみはたでん)」と呼びます。
 神麻続機殿神社は神御衣の内、荒妙を織って伊勢神宮に奉納します。毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する荒妙を織る行事が行われます。
 この地方も古代から紡績業が盛んで、同社は荒妙を奉織した麻績氏の祖神・天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと)を祀ったと伝えられています。

◆機を織る織子
 御衣奉織行事では、巾0.3m、長さ12.5mの布を、織子が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られていることと、織子が上機殿が男の人、下機殿が女の人である以外は2つの神社でその様子は変わりません。
 
 両神社の祝部(はふりべ)の中川慶次郎さんの話では、下機殿では、以前は大垣内の女の人が織子をしていましたが、戸数が少ない大垣内では、後を継ぐ人がなく、現在は東黒部全体から出てもらっているということです。また上機殿の織子は、井口中町(戸数30戸)の家が順番で当たっています。サラリーマンにとって2週間近い休みを取るのは大変ですが、自治会の証明書をもって休みの許可をもらっています。どうしても休みが取れない場合は、変わりの人を出すことにしているそうです。
 織子は、実際に機を織る織子2名と見習い工2名の4名で構成されます。

  
          (神服織機殿神社)                   (神麻続機殿神社)

◆神御衣の奉納と神御衣祭
 織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、下機殿では午前8時より、上機殿では午前9時から、伊勢神宮の禰宜さんから任命書を受け取り、お祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。
 神御衣は1週間で仕上げ、その後1週間乾燥させて、5月13日に内宮に護送され、翌日の5月14日に行われる神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。

 御衣奉織行事は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。