7/2旅人 

山と旅が好きです。

キューピット

2021年06月14日 | 奥秩父

さて東アルプスの続き。

第二ラウンドのチャンスは、意外と早く訪れた。

僕がついた定職は、公休日が少ない職場だった。

年末年始も、大晦日まで仕事、当番が回ってくると年始も仕事だったりした。

しかし、この年の年末は珍しく30日から年始4日まで休みになった。 よし、リベンジだ! 大弛峠まで一泊、稜線で一泊、下山まで一泊、予備日を一日。 三泊四日の日程で登山口に立った。

ところが ありゃ、前回あれほどあった雪が、ガクンと少なっていた。 拍子抜けだが、兎も角、大弛峠へ。 午後、峠に着いた。 テント場に一張テントがあった。小屋に受け付けに行くと。 爺と若い娘がいた。

水を汲みに行くと先程見たテントの住人に逢った。 若いお兄ちゃんだった。 日も落ちかけてきた・・・ 隣のテントに声をかけた。 よっかたら、飲むかい? あ、はい。良いですね^ー^ 小屋の自炊場でお兄ちゃんと飲んだ。

絵に書いたような好青年で話が弾んだ。 すると、小屋の子が声をかけてきた。 良かったらコタツで暖まりますか^ー^ この子は、好青年と同い年くらいかな。 目がくりくりして可愛い子だった。

小屋に入ると他にも二人、ご夫婦のようだ。 小屋の爺は日本酒をだし、注いでくれた。 六人は喋って飲んだ。 時折お兄ちゃんの目が可愛子ちゃんを見ていた。 可愛子ちゃんも、お兄ちゃんをチラチラ見ていた。 そして、目がうるうるしたのを、くわは見逃さなかった。

明日は大晦日です。明日はどうするの?

くわ 僕は甲武信岳へ。 お兄ちゃん 

僕は、 き、金峰へ。

吃ってやんの、お兄ちゃんも満更でもないないね。^ー^

明日はご馳走なんだけどな・・・と少しうつむいて可愛子ちゃんが言った。

翌朝、炊事場でまたお兄ちゃんと一緒になった。 お兄ちゃんは、凍ったプラティパスを二つをテーブルに置き呆然としていた。

だめだよ、水は寝袋に入れとかないと。当分溶けないぜ。

そうっすよね~ お兄ちゃん、

オメエあの子どう思う?

いや、いい感じでした^ー^

だろ、だから今晩も此処に泊まれ!そして仲良しになっちまえ!

目を丸くして、僕を見た。お兄ちゃんは思い切ったように そうします。 

と僕に会釈した。 はは、そう、それが一番良いよ^ー^

小屋を出て、まずは国師岳に向かって登りだした。 寒かったけど、お腹の中は、少しだけ暖かく・・・・ あ~甘酸っぺ~~なあ! まったくもう^ー^ 誰も踏み入れていない縦走路、甲武信岳への中間で一泊。

三日目には西沢渓谷に降り着いた。

雲取山から初めて、長かったな。 区切り打ちだけど。

 

お終いでございますm(_ _)m

 

雪が深かった前回、二本のスキーの跡があったのを思い出した。 そうか、スキーか・・・・・・ スキーねえ


東アルプス

2021年06月11日 | 山梨県の山

日本アルプス 北アルプス、中央アルプス、南アルプス。

そして東アルプス、いわゆる奥秩父主脈の事である。

ここでは、雲取山~金峰山までの主脈縦走路とする。

今は昔

くわは、冬季にこの主脈縦走を繋げていた。

この頃には定職についていたので区切りうちで・・・ そして、最後に残ったのは大弛峠から甲武信岳の間だった。

甲武信岳~大弛峠。 一番アプローチが楽なのは甲武信岳への登山道を登ることなのだが、大弛峠からの下山がどうにもこうにも、悪い。

だから僕は冬季閉鎖になっている林道経由で大弛峠を目指した。

第一ラウンド、冬季といえるか微妙だが3月の終わり僕は、リングに立った。 どうせ林道歩き、一日で大弛峠に着くだろうと思っていた。 最初はツボ足・・・・ そして、膝上の雪、ワカンを履く。

標高が上がるにつれ、雪はどんどん深くなっていく。 ワカンを履きで膝上、傾斜増すと腰のラッセルになった。 こうなると、あきまへん_| ̄|○

まずは、目の前の雪を崩し、それからワカンを突っ込むしか無い。

小一時間喘いで、後ろを振り返ると。 そこには僅かな、頼りない自分の踏み跡があった。

こりゃ、無理だな! 二泊三日の予定で来たのだが、大弛峠までが精一杯だ。 南側の林道なので大したこと無いと思っていた俺が馬鹿だった。

恐ろしい事に、諦めの悪いくわは 第二ラウンドに続くのだm(_ _)m 定職についてふてくされていた・・・

久々の敗北と吹っ切れ感のあった、山行だった^ー^


PL107

2021年06月04日 | 独り言

極地 世界最高峰エベレスト 世界で一番高い第三の極地だ。 そして天体としての極地は、北極と南極だ。

登山家達はエベレスト 第三の極地を踏むと。 次は天体としての極地を目指す。

植村直己、ラインホルト・メスナーしかり。

日本は1957年。南極観測隊が船で向かった。

宗谷PL107 1938年進水した老朽船だった。

国際地球観測年に合わせ南極観測船として改造。戦争後国を上げてのプロジェクトになった。

隊員は殆どは登山家が選ばれた。 やっぱり、極地には(過酷な所には、山屋か^ー^)

民間企業もその技術を惜しまず、協力した。

発電機オイルが凍らない工夫した、風力発電機 本田宗一郎(HONDA)

寒さの中バッテリーの持ちがいい小型受信機 井深大、盛田昭夫(SONY)

すべて、無償だった。

南極観測隊において頭を悩ませたのは住居だった。命に係る住居、マイナス50度に耐えうる住まい・・・・

そして東京タワーを作った竹中工務店が選ばれた。

極寒の地では鉄などは使えなかった。

まして素人の南極観測隊員が柱を設置する技術はなかった。

そこで考え出されたのが壁パネルを組み合日本古来の木組を組み合わせた組み立て式の建物。

プレハブ住宅だった。

南極観測隊に物資を提供した会社1000社を超えた。

 

 

この南極観測船宗谷、特務艦、灯台補給船、南極観測船、巡視船宗谷として活躍した。1978年退役。 船の科学館に保存された。・・・