ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

関の沢川〜大無間山〜大沢根山〜信濃俣河内〜茶臼岳

2016年05月26日 23時23分32秒 | クライミング
最近、ビーパルの連載に、集英社のウェブ連載がかさなって、完全に自分のブログで書くネタがなくなった。ちょっとした小話でも、もしかしたら連載のネタになるかも、とついつい思ってしまって、怖くてブログに書けないのだ。最近、ブログの更新をしていなかったのは、忙しかったからではなく、書くことがないからである。

19日から25日まで、上記タイトルに書いた沢をぶらぶらと一人で歩いていたのだが、これもビーパルの格好のネタになるかもしれないと思うと、詳しく書けない。このブログを読んで、ビーパルを読んだ人がいたら、角幡は同じことをかき回しているなあと思われてしまうからだ。

でも、まあ、別にいいや。

五月というのは、長期の沢登りをするには面倒な季節で、越後や東北はまだ早いし、奥秩父じゃ物足りない。西日本まで行く時間も金もないので、じゃあ南アルプスの南部にしとこうということになりがちで、学生時代からこの山域には春合宿でよく通っていた。今回もテンカラ竿を買ったので、その練習と、あと夏に長期放浪沢登りを考えているので、その足慣らしということで一週間ほど沢をぶらぶらしていた。

最近は沢登りに行くときは遡行図も何も見ないで、適当に地図をみて決めることが多い。遡行図を見ないのは、フリークライミング、ノンボルト、残置無視といったような思想性に支えられてのことではなく、単に調べるのが面倒くさいだけだからだ。沢なんて現場で何とかなるだろ、いざとなりゃ高まきゃいいんだからと考えているわけだ。

行ってみると関の沢川というのは意外と悪い沢で、いくつか淵が出てきた。水量も結構おおく、まだ五月で泳ぐ気もしないし、泳いだところでその先が登れるのかわからないので、遡行図を持ってないと淵というのは基本的に高まくしかない。それで全部高まいたのだが、傾斜のきついスリッピ―な泥壁で悪いところが多かった。気のせいか、渓相も全体的に深くて陰惨。ヒルもうじゃうじゃいて、足首周りを十カ所ほどやられた。肝心の釣りもキャストが慣れるまで難しくて、中流部で小さなアマゴが二匹つれただけ。上流のほうは全然釣れなかった。


関の沢の淵。なぜか写真が横になってしまう


南ア深南部ではおなじみのヒル(大)

関の沢川からは大無間山、大沢根山を縦走して、西河内から信濃俣河内へ下りた。こちらは明るい沢で、魚もうようよいた。淵や滝の岩質も順層で素直なので簡単に側壁をへつれるし、木の根がしっかり張り出しているので巻きも安全。あとヒルも全然いない。非常に快適な沢である。近所の沢なのにどうしてこうも違うのか。

テンカラのほうも三日目ぐらいから慣れて、信濃俣河内ではそこそこ釣れるようになって大変楽しかった。全体的にはいい山行で、夏がとても楽しみである。今のところ下田川内から笠堀、南会津にはいって白戸川、会津駒まで渡り歩くという二週間程度のプランを考えている。そしてチャンスがあれば日高でアレを……。

いずれにしても百名山ひと筆書きみたいな、ああいうのとは違う価値観の登山を提示したい。あ、またこんなに書いてしまった。

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「太陽」「惑星」「外道」

2016年03月22日 21時42分07秒 | お知らせ
お知らせを三つほど。

ゞ北襪領垢鬟董璽泙砲靴刃∈棔崑斥曚肋困蕕覆ぁ彗荵杏瑤「オール読物」四月号から再開します。今回は昨年のグリーンランド七カ月間の旅が舞台で、春と夏のデポ設置旅行の話が中心です。これまでと少しテイストをかえて、考察的な記述をあえて多くしました。本にするときに加筆修正して全体的な統一感を持たせたいと思っていますが、まあ、いずれにしても次冬の極夜探検が終わらなければ話になりませんが。

△Δ辰り宣伝し忘れていましたが、集英社のサイトで「惑星巡礼」というフォトエッセイを連載しております。
http://gakugei.shueisha.co.jp/yomimono/wakuseijunrei/list.html
過去の探検時に撮影した風景写真や、最近の登山や日常生活での写真に短い文章をつけた、率直に言ってしまえば、どうということもない連載です。本に収容されないような写真も掲載していきたいと思っていますので、暇なときにでものぞいてみてください。

私も時々、一緒に山に登る、セクシー登山部の舐め太郎こと宮城公博君の初の著書となる『外道クライマー』が集英社インターナショナルから発売されます。45日間のタイ・ジャングルの探検沢登りの話を軸に、宮城君が過去に成し遂げてきた、冬季称名滝登攀、同ハンノキ滝登攀、台湾の巨大峡谷チャーカンシー遡行といった唖然呆然の登山記録満載の面白本です。管理化され、IT家畜さながらの近年の登山傾向に抗い、登山の原点である未知と冒険を求めて一人奮闘する舐め太郎といったところしょうか。那智の滝登攀逮捕をテーマに宮城君の登山を論じた私の解説もふくめ、登山・冒険に興味のある人は必読でしょう。

外道クライマー
クリエーター情報なし
集英社インターナショナル





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明神〜穂高

2016年03月19日 09時42分27秒 | クライミング
三月頭に大部君と明神から穂高にかけて縦走してきた。下山後、ひどい雪目で数日間なにもできず、視力も推定、0・3ぐらいまで落ちた。パソコンの画面を見ていると目がいたくて涙が溢れてくるため、ブログをアップすることもできないまま時間が経過してしまい、そのままずるずると延期していた左ひじの手術のために入院してしまった。昨日退院し、いつのまにやら視力のほうもすっかり回復したのだが、もはや二週間前の登山の記録を詳細にかくモチベーションは失われたので、簡単に報告だけ書いておく。あまり記録のない壁の登攀も含まれているので。

3月2日 東京から沢渡へ。もともと穂高で屏風2ルンゼ〜前穂東壁〜涸沢岳北壁の予定で出発したが、車のなかで富山の和田君らが前の週末に下又白前壁を登ったことが判明。記録をみると面白そうなので、急遽、そっちに目的地変更。いい加減である。もともと下又白は登攀候補地にあがっていたのだが、ちょっとしょぼそうだということで屏風に変えていたのだ。下又白谷前壁〜奥壁〜明神〜前穂〜奥穂〜涸沢岳北壁という計画を決め、最大の目的地は正月に遠望して登山意欲をそそられた涸沢岳北壁(正月のブログでは西壁と書いたが、よく見ると北壁らしくて、昔、ガイドの有持さんが登っていた)であることを意思確認して沢渡到着。

3日 坂巻温泉に一日500円で駐車させてもらい、徒歩で上高地、明神へ。一週間分の荷物の入ったザックが重たい。梓川を渡り下又白谷に入り、しばらく浅いラッセルをつづけると前壁が見えてくる。見た目は実に登攀意欲のわかない、さえない壁だ。壁の手前、7、800m手前の岩の基部をテンバとして荷物を置き、2ピッチのフィックスに向かう。登ってみると前壁は非常に快適なアイスクライミング。下部2ピッチは傾斜60〜70°ほどの四級程度のしっかりとした氷が張りついていた。


前壁。見た目は砕石の切り出しみたいでしょぼいけど、わりと面白い。


前壁◆そのまま明神東稜につなげると、無理なくすっきりとしたラインになる。

4日 2ピッチをユマール。その上はなかがスカ雪になった悪い雪壁が混じるが、基本的には重荷を背負ってリードできる程度の難度のアイスが続き、6ピッチで終了。深いラッセルをこなしてひょうたん池へ。天気予報をみると7、8日は低気圧接近にともない悪天になるとのこと。涸沢岳北壁を登るには6日しかチャンスがなさそうなので、下又白奥壁は割愛し、明日、明神岳東稜をつめて一気に奥穂を越えて穂高岳山荘に向かうことにする。

5日 明神岳東壁の雪が非常に悪い。岩壁のうえに、ペルーアンデスのいわゆるシュガースノーを想像させる非常に不安定な霜ザラメ雪の層が張りついており、恐ろしかった。そんなこんなで時間がかかり、結局、この日は前穂の頂上までしか行けず。

6日 とんでもない濃霧につつまれている。これでは昨日、穂高岳山荘に着いたとして、涸沢岳北壁には到底登れなかっただろう。下山するつもりで一度、重太郎新道の脇の沢を下りようとしたが、ちょっといやらしい積雪状態で、雪崩が怖かったので、結局、吊尾根を縦走して奥穂へ向かう。ガスで完全に視界が失われていたので苦労するだろうなぁと思ったが、案の定、吊尾根ではまる。雪もダブルアックスでクライムダウンしなければならないガチガチの雪と、シュガースノー風の霜ザラメが混在し、細かなアップダウンを強いられ、風も強く、疲労する。ガスによるホワイトアウトのなか間違って変な岩尾根を下りたりして、登山力を試される場面となった。なんとか奥穂を越えてホッとしたが、そのあとも「間違い尾根」にはまったり、残り50メートルになっても小屋が見えず、どこを下りたらいいのかわからなかったりと苦労させられ、コースタイム2時間のところを8時間かかって、日没直前になんとか小屋に着く。冬季入り口が分からずテント泊。


奥穂頂上にて

7日 晴れたら涸沢岳に、と思っていたが、今日も濃霧。連日のフル活動で疲労していたこともあり、白出沢から新穂高温泉へ下山した。

簡単に報告と思ったけど、長くなってしまった。これで今シーズンの冬山は終了。ひそかに次の週末で鹿島北壁でも……と思っていたが、パートナーが見つからず、断念した。次の冬は極夜探検でいないので、しばらく登攀系とはお別れです。私は夏はほとんどクライミングをしないので。





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トークショーのお知らせ

2016年02月01日 12時16分54秒 | お知らせ
2月10日にトークショーがあります。

大木ハカセ特別ライブ オトナのズカン特別号
「角幡唯介 極夜カラ強制退去」

去年、グリーンランドに出発する前に出演した、荻田君の盟友大木ハカセとのトークショーです。基本的にはカヤック旅行を中心に、グリーンランド滞在中の話が中心になるのかと思います。タイトルからすると、計画が延期になった細かいいきさつも話せということなのでしょうか。

https://www.facebook.com/events/456068454603521

以下、上記サイトからコピーした詳細です。

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『オトナのズカン』が帰ってきた!
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数ヶ月ぶりの開催となる今回のオトナのズカンは今までと一風変わった特別号!!
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ゲストはなんと、昨年3月10日に開催した第3回オトナのズカンにゲスト出演し、その直後に極北の地に旅立った角幡唯介。
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タイトルはズバリ『 角幡唯介 極夜カラ 強制退去 』
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こんなタイトルで本当にいいのか?
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どんな話が飛び出すのか?
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文字では読めない、放送出来ない、探検トークの特別版!
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『 大木ハカセのトークライブ オトナのズカン〔特別号〕』会場是非でお楽しみ下さい!
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日程
2月10日(水) 
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出演
MC 大木ハカセ(アウトドアプロモーター)
ゲスト 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
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時間
open 18:30〜
start 19:30〜
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場所
OnEdrop cafe.(ワンドロップカフェ) 
東京都千代田区岩本町2-9-11
(秋葉原/岩本町/小伝馬町)
http://www.onedrop-cafe.com/access
.
主催
一般社団法人N.A.P.
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《 事前予約/\3,000–(ワンドリンク付)》
_宍振込先にお料金を振込み下さい
.
みずほ銀行 厚木支店
普通口座 1313033
荻田泰永北極点事務局
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△振込後、hakase@northpoleadventure.jpまで御振込名義(カタカナ)、参加人数をご連絡下さい
.
.
《 当日受付/\3,000–(ワンドリンク付)》
◯当日会場にて受付、入場料お支払いをして下さい
※事前予約の状況によっては当日の御入場ができない場合もございます。予めご了承ください。

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千の顔をもつ英雄

2016年01月17日 09時56分12秒 | 書籍
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
クリエーター情報なし
早川書房


おお! ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』の新訳がハヤカワから文庫になっているではないか! 興奮して、記事更新。物語の本質だけではなく、人間の行動原理についても深い洞察をもたらす名著。私の場合、自分の冒険行動が机のうえから解説されて、納得するという稀有な体験をすることになった忘れられない一冊である。新訳か……。また読まなきゃいけないなあ。

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槍ヶ岳北鎌尾根千丈沢側岩壁

2016年01月12日 09時16分03秒 | クライミング
正月山行は穂高でパチンコか、赤沢山の岩壁を登攀して槍ヶ岳か、いくつかのプランが出て散々まよったが、最終的には槍ヶ岳北鎌尾根の千丈沢側にあるマニアックな岩壁を登ることにした。決め手は登山体系以外にまともな記録がないことと、赤沢山経由に比べて槍ヶ岳までのルートがすっきりとしていて無駄がないことである。まあ、登山体系にのっているということは岳人なり山岳なり昔の雑誌のバックナンバーを調べれば記録は見つかるのだろうが、そこまで調べる時間はないし、する気もない。沼田の清野さんに訊くと、「俺が高校生のときに記録が乗っていたなぁ」とのこと。ということはそれ以来、この岩壁を登ったまともな記録はないということなので、清野さんのその言葉が岩壁の未知性をいっそう増幅させ、私のモチベーションも高めたのだった。トポもない。写真もない。そもそも岩壁があるのかどうかさえ分からない。手がかりは登山体系の賞味期限の切れた、少々乾燥気味な数行の文章だけ。だが、このような不確定状況下における行為こそ、冒険精神学的には最高の覚醒を生み出すのである。

信濃大町の駅で大部君と合流したのが1日夜。そこで彼絡みの二つの面倒事が発覚する。一つは大部君が12月に城ケ崎で足首を捻挫していたこと。そしてもう一つは、彼がザックを車の中に入れ忘れていたことである。私も長年、山に登ってきたし、自分自身、様々な忘れ物を経験してきたが、さすがにザックを忘れた人間にお目にかかったのは初めてのことだ。さらに翌日、入山口である湯股温泉に向かう途中で三つ目のトラブル発生。買ったばかりの私のリコーGR兇なぜか作動しなくなったのだ。やむなく大部君から彼のオリンパスのカメラを借りて撮影することにしたが、翌日、このカメラも電池が切れて写真を撮る手段が失われてしまう(四つ目のトラブル)。

1月3日、湯俣温泉から水俣川遡行を開始する。川は緩やかに蛇行を繰り返し、川岸を歩いているとすぐに淵にぶつかり渡渉を余儀なくされる。沢登りは水量次第。年によっては登山靴を脱がなくても川を渡れることも多いようだが、今年は暖冬で水が多いのか、水量は膝丈ぐらいあり、いちいち登山靴を脱いで用意した沢タビに履き替え、冷水に足を浸さなければならない。靴を脱いでは渡渉して、また靴を履いて、数百メートル進んでまた淵にぶつかって……ということを延々と繰り返し、渡渉が14回目を数え、精神が解脱の一歩手前にまで達したころ、ようやく千丈沢と天上沢がぶつかる千天出合に到着した。

年末に北鎌尾根に向かったパーティーのトレースが天上沢方面に延びている。しかし、われわれはそれとは反対の千丈沢を登らなければならない。千丈沢に入ると今度は渡渉から広い河原のラッセルにかわる。深い雪をかき分けつづけ、翌4日昼頃にようやく千丈沢岩壁が姿を現した。


大部君のスマホで撮影できた…。中央右の三角形の一番おおきな壁がツルム

岩壁を見たときは静かな驚きと感動にのみこまれた。思ったよりも立派な岩壁帯だ。規模の大きな岩峰が無数に山から突き出しており、かなり不可思議な光景をつくりだしている。岩壁というより岩峰帯といったほうが適切な地理的相貌だが、しかし、それぞれの岩峰の規模は予想よりも大きい。登山体系の記述と地形図から、われわれは緩い岩稜が何本か落ちているだけなのではないかと、この岩壁にはあまり期待していなかったのだが、このぶんなら思ったよりも奮闘的な登攀を強いられるかもしれない。

というか、とても登れそうには見えない……。

計画ではツルムというダイアモンド型岩壁からC稜経由で北鎌尾根に出るつもりだった。ツルムは岩峰帯の最下部にある一番大きな岩壁で、明瞭だったので、ひとまずツルムの下に出ることにした。風で叩かれて固くしまったルンゼを登って行く。クライミングではよくあることだが、遠くから眺めてとても登れそうに見えなかった壁も、近づくにつれて傾斜がゆるんで見えてきて、これならバカでも登れるんじゃないかと思えてくる。単なる自分の目の位置と壁の位置がつくる内角の変化が引き起こす錯覚なのだが、しかしこの錯覚には20年山に登っても慣れない。どうせ壁に取り付いたら傾斜が予期した以上にきつくて喉がカラカラに乾くに決まっているのだが、しかしそれが分かっていても、徐々の近づいてくるツルムの岩壁はねており、どう見ても簡単そうである。しかも草付もばっちりついていて、ちょっとこれじゃあ物足りないんじゃないかとさえ思えてきた。


基部からツルムを見上げる

1月5日から登攀開始。気圧配置は冬型となり、天気は荒れ始めた。千丈沢側岩壁は北鎌の西側にあたるため、北西の季節風がもろに吹き付け気象条件はかなり悪い。風雪が舞い始め、かつ目の前の岩壁は非常に簡単そうなので、さっさと弱点を登ってC稜に出ちまおうということで、大部君リードで登りはじめた。だが、やはり壁に取り付くと見た目より悪い。あんなにねているように見えたのに、実際に登りはじめるとほとんど垂直に感じるのはいったい何故なのだろう? 中央突破を目論み3ピッチ登ったところで、岩壁中央に覆いかぶさるスラブのヘッドウォール帯に出てしまい、前進不能となった。風雪の舞う中、懸垂で一度岩壁基部に降り立ち、改めルートを偵察する。大人しく岩壁右端の登山体系に「ツルム正面ルート」と紹介されている草付ルートから上を目指すことにして、この日は空身で2ピッチフィックスして終えた。

1月6日。フィクスロープをユマールして3ピッチ目に取りかかる。一応、ルートの核心。5メートルほどの垂直のスラブが目の前に立ちはだかり、しかもプロテクションがとれないので前進は躊躇われる。クライミングがことのほか苦手な私は、やむなく草付バンドを右に回り込み、垂直の細い草付帯にアックスを打ちこみ、いつものようにどこか沢登りを思わせるしみったれたライン取りで突破した。草付グレードK5。ここを突破すると傾斜もゆるみ、悪場もなくツルムの頭まで抜けた。遠目に見ると2、3ピッチで終わるんじゃないかと思われたツルムの登攀だったが、見た目より規模は大きく、ツルムの頭まで7ピッチを要した。ツルムの頭から先もナイフリッジが続き、風がつよくて恐ろしいので、さらに2ピッチ延ばす。

周囲には高さ100〜150メートルはありそうな、悪魔城のような黒い威圧的な岩壁が無数に聳えている。特にD稜フランケは高度差が200メートルはありそうな垂直な一枚岩で、実際に登ったら非常に高度な登攀内容になりそうだ。過去に登られた記録はあるのだろうか。草付がないので私にはとても無理である。


D稜フランケ

上部にのびるC稜も細くてきわどいナイフリッジで、岩峰群のなかに彷徨いこんでいるため、どこに繋がっているのかさっぱりわからない。このままC稜に突っこむと、ツェルトでのビバークは必至だ。北西風が直当たりのなかでそれは不快かつ危険なので、一度ルンゼに懸垂で下り、ルンゼ対岸のA稜支尾根基部にテントを張ることにした。


C稜、B稜周辺。面白い地形だね。この写真見てもよくわからないと思うけど、現場にいたわれわれもよくわからんかった。右の尖った悪魔城状岩壁の高さは100メートルぐらい?そんなにないかな

1月7日は風雪がさらに強まった。ガスも濃く、残りの日数や今後の天気を考えると、明日には本峰を越えて肩の小屋に入らないと危険かもしれない。予定していたC稜登攀を変更して、目の前の支尾根を登ってA稜から北鎌に抜けることにする。傾斜のきつい雪稜を3ピッチでA稜に出ると、そのあとは悪場は消え、コンテで高度を稼いでいく。雪は風に叩かれ締まっているため、途中からルンゼを登り、北鎌稜線近くまで達したところで幕営。翌8日に北鎌に出て本峰経由で昼過ぎに肩の小屋に入った。時間があったのでこの日のうちに槍平に下りようとしたが、すさまじい風と濃いガスで視界が遮られ、完全にホワイトアウト。大喰岳西尾根が見えずルート取りに失敗し、小屋にひきかえして、天気が回復した翌日に下山した。

渡渉14回の沢遡行に始まり、深いラッセル、強風吹きすさぶ中、未知の岩壁を越えて槍ヶ岳に登るという体験はかなり内容の濃いものだった。ひとつの山に登ったな、という手応えがある。こういう登山を、今シーズン、もう一回やりたい。

それにしても下山の途中で見た涸沢岳西壁はかっこよかった。特に頂上直下に伸びる白い尾根。家に帰って体系を見てみると、体系にも涸沢岳西壁の記述は出ていない。登るほどの価値のない壁なのだろうか。あるいは隣りが滝谷なので、誰も見向きもしなかったのだろうか。しかし、過去に見向きもされなかったからといって、それが山の価値を引き下げるわけではない。登山とは自分の内面の投影であり、内面がないと外面である山は表象されない。そうである以上、登攀の価値とは過去の記録云々ではなく、自分が登ってみたいと思った瞬間に生まれるものだ。私にとって登山とは山との出会いを辿る個人的な巡礼の旅である。(大部君へ)以上のような理屈から、二月は涸沢岳を考えています。








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ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

2015年12月26日 11時52分22秒 | 書籍
ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた
クリエーター情報なし
原書房


グリーンランドでウヤミリック(現地にいる私の犬の名前)と旅をするようになってから、犬という動物の特殊性について非常に強い関心を持つようになった。グリーンランドにおけるイヌイットと犬との関係の強さは特別だ。彼らは犬をペットとして買っているわけではないので、われわれ、外部の人間からみると時々、手ひどい扱いをしているように見えるときもある。たとえばトンカチでぶん殴ったり、使役犬として役に立たなくなると絞殺したりするなど、だ。ただ、それは表面的なものであり、その奥にある両者の関係は、もっと何というのだろうか、お互いに深い依存関係を構築しているといった感じがある。イヌイットは犬がいたからこそ極地という人間の生活環境のなかでは最も過酷な地で生き抜いてこれたわけだし、犬もまた人間に生活まるごと寄り添ったほうが有利だと判断したために自ら人間の使役動物となる道を選択した。そういった両者の原初的な関係性が彼らの生活からはにじみだしている。

つまり、グリーンランドのようなむき出しの自然における人間と犬との生活をみていると、原始時代の人間とオオカミからちょっと枝分かれしたばかりの初歩段階の犬って、こんな関係だったんだろうなあという印象を受けるわけだ。同じ家畜でも豚や羊や馬とはちがって、犬からは種全体で歴史的に人間を利用してきたというしたたかさがうかがえる。積極的に人間の意図と読み取り、人間を喜ばせようとし、生活まるごと人間に取り入って人間の庇護下に入ることで自然のなかを生き抜くことを選択した特殊な動物。そんなわけで石器時代において犬と人間はなぜ手を取りあうという選択をしたのかが、目下のところヒトの進化史における私の最大の関心事だ。

この刺激的なタイトルの本は、内容的には非常に面白かった。ポイントをかいつまんで言うと、ユーラシア先住民だったネアンデルタール人は気候変動や遺伝子の劣化で衰退の途を辿っており、そこに現生人類がアフリカを出てユーラシアに拡散してきて、ネアンデルタール人絶滅の最期の引き金をひいた。現生人類がネアンデルタール人より有利だったのは、種としての能力の差もあるけれど、最も大きかったのはオオカミを手なずけて家畜化することに成功したことである。ネアンデルタール人と現生人類とオオカミはいずれも食物連鎖の頂点ギルドを形成する競合者であったが、その三者のうちの二者が協力関係を築くことでネアンデルタール人ばかりでなく、ホラアナライオン、ホラアナハイエナ、ホラアナグマなどの他の捕食者たちも次々と絶滅し、現生人類は一気に全地球状に拡散していった。といったところだろうか。

まったく壮大なストーリーだ。シオラパルクで人間と犬との関係の強さを見ていると、イヌは人間の居住地域の拡大に非常に大きな力を発揮していたんだろうなあとは思っていたが、まさかネアンデルタール人を滅ぼしていたとは思わなかった。本書の内容はもちろん仮説にはすぎないが、初期の犬の化石がこれまで考えられていたよりもっと古い時代にさかのぼるといった最新の考古学的な知見を反映しているようで、説得力のある内容になっている。

今後知りたいのは、石器時代の人間がどうやってオオカミを手なずけ、またオオカミはどのようにイヌになったのかという、その具体的な過程だ。なぜ警戒心の強いオオカミが人間に心を開いたのか。最初の一頭は何を考えていたのだろう。できればオオカミの心が知りたい。ただ、まあ、それは化石から分かることではないだろうから、ウヤミリックの動きを見て想像するしかあるまい。

こういう本を読むと、ウヤミリックとの次の旅が非常に楽しみになる。来年は、ユーラシアでネアンデルタール人と遭遇した四万年前のクロマニョン人の気分で極夜の旅に出発できそうだ。

ちなみに学説の内容は面白かったが、本としてはデータと学説の羅列がつづくため、ちょっと読みにくい。もう少し面白くまとめることができたはずなのだが。集英社のkotobaのノンフィクションの書評を頼まれており、それで読んだ本だったが、ノンフィクションの書評対象としてはボツかな。

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おちんちん

2015年12月18日 15時41分30秒 | 雑記
父親と娘とのあいだに築かれる関係は基本的にセクシャルな感覚にもとづくものである。自分に娘ができて、彼女のことを観察するうちに私はいくつかの発見をしたが、これもそのうちのひとつだった。私が自分の娘にのぞむことは、美しい女になってほしいということである。ゴリラの研究者になってアフリカの森で野外活動をしてほしいが、それはまず、美しい女になるということが前提にある。ゴリラの研究者になるならジェーン・グドールみたいにならないと意味がない。ジェーン・グドールはチンパンジーだけど、でも娘には不細工なゴリラの研究者にはならないでほしい。なぜなら不細工なゴリラの研究者はゴリラに間違われる可能性があるからだ。いやちがう。そうではない。私の娘のお尻には黒いあざがあり、私は娘が四歳になったらそれをレーザー手術で取り除いてあげたいと思う。だが、それはたぶん初めてセックスする男がそのあざを見て、私の娘に対して少し幻滅をいだくだろうからであり、私はそのわずかな幻滅を、私の娘とはじめてセックスする男から取り除いてあげたいのである。そんなセクシャルな感覚が、すべての父と娘との関係の根底にはながれている。

グリーンランドに出発する前、娘は一歳になったばかりで言葉もほとんど話すことができなかった。そのとき、お風呂に入れるのは私の役目だったが、娘は私のおちんちんを見ては、その存在に気がつかないふりをしていた。見てはならないもの、気まずいものを見たような顔をしていた。何かが目の前にあるが、それを口にしてはいけないという配慮が、彼女の意識には働いていた。当然だが、娘は私以外の男の裸をまだ見たことがなかった。このときはまだ、児童館のお友達のおちんちんも見たことがなかったろうから、私のおちんちん以外に、生き物のグロテスクさを露出させる肉体器官を目にする機会はなかったのである。そのグロテスクさにまだ一歳三カ月だった娘は敏感にタブーの存在をかぎとっていた。彼女が人類普遍の禁忌に触れた最初の瞬間である。

ところがグリーンランドから帰国すると事情は変わっていた。帰国後はじめてお風呂にはいっていたとき、すでにかなり発語の能力が高まっていた彼女は、私の、すっかり忘れていたおちんちんを見て、「おとうちゃん、これ、何?」と訊ねてきた。私はどぎまぎした。生まれてこのかた、自分の性器を指さされて、これ何? と訊かれたことはなかったのだ。不用意に情けなくぶら下がっている私の性器。その質問は私の存在そのものに疑問をなげかけているに等しかった。

これ何? このグロテスクな肉組織は何? このグロテスクな肉組織をあなたは何のためにぶら下げているの? これ必要なの? あなたは何のために生きているの? 

私は自我が根本から揺らぐのをかんじた。「おちんちんじゃないかぁー」と答えをはぐらかすよりほかなかった。同時に彼女はすでに比較対象物を得ていて、私のおちんちんに異質な何かを感じとったのだろうか、と思った。すでに禁忌に慣れ始めていたのだろうか。彼女は友人のしんちゃんのおちんちんをすでに見ているので、そのしんちゃんのおちんちんと私のおちんちんの形状と印象に断絶があるのを察知し、ついそうした無遠慮な質問に及んだというのだろうか……。

私の答えに納得したのか、それ以来、彼女は私の性器に特に疑問をもった様子はみせなかった。ところが昨日、彼女は、私の性器が周囲の空間から浮いていること、表面の皺とか黒光りしている感じがあまりに生々しく、お風呂のすべすべとした空間にうまく溶け込んでおらず突出して不自然であることに改めて疑問をもったらしく、突然、まじまじと見つめた後、おもむろに人差し指で指さして、きわめて斬新な指摘をした。

「おとうちゃん、おちんちん、痛そうだね」

おお! どうやら娘の目にはずっと私のおちんちんは痛そうなものにとして映っていたようである。包皮からズルムケになり内部の肉組織があられもなく露出した私の海綿体は、赤く、紫がかっていて、外界の刺激から保護する殻や膜におおわれておらず、とても敏感そうに見えたようなのだ。空気に触れるだけで身悶えしてしまいそうなほどに……。

「いたくないよ、どちらかといえば気持ちがいいんだよ」

とは、もちろん言わなかった。私は娘の言葉のみずみずしさと感受性の豊かさにすこし満足した。さらに娘はこう付け加えた。

「おとうちゃん、おちんちん、小さいね」

こうして彼女は私の性器の小ささを指摘した女性の最年少記録を更新した。

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甲斐駒ヶ岳赤石沢S状ルンゼ

2015年12月16日 00時08分40秒 | クライミング
以前から甲斐駒赤石沢源流部のルンゼが気になっていた。登山体系によると摩利支天ルンゼとS状ルンゼというのがあるようで、12月初めなら雪崩の心配もなくアイスを楽しめるのではないかとにらんでいた。どんなルートかは不明。しかしそこにこそ登山の醍醐味はある。ということで9〜11日に、大部君と一緒にS状ルンゼから奥壁へ継続する計画で甲斐駒へ向かう。

アプローチは八合目岩小屋からBバンドを下って、Bフランケ基部からS状ルンゼへ取り付く計画だったが、散々まよってBバンドではなくAバンドを下ってきてしまう。赤石沢の対岸にはS状ルンゼが白く切れ込んでいるが、なにぶん異常気象の暖冬で、下部のナメ滝は氷結しているものの、真ん中の垂直の滝はカラカラに乾いてしまっている。

まちがってBフランケ基部ではなく、Aフランケ基部からアプローチしたため、赤石沢本流の40mチョックストーン滝を高巻くために、1ピッチ、面倒くさい垂直の藪バンドを登り、懸垂でS状ルンゼ取り付きにおりたった。ナメ滝をコンテ混じりで登り、垂直の滝へ。30m2ピッチ。垂直の壁のところどころにへばりついた土の塊にアックスを突き刺し、直径2センチの細木にランナーをかけて、じりじりと登る。ヴァーティカルな草付ダブルアックスのあとは、ブランクセクションが現れ、クラックにカムをつっこんで右へ振り子トラバース。灌木にアックスをひっかけて、垂直の藪壁を登って滝上に出た。草付グレードK5。あまりに暖かいため、滝どころか、草付も土も凍っておらず、目や耳のなかに植物の破片や土が入りこんできて非常に不快だった。アイスクライミングというより完全に農作業、ドライツーリングではなく土起こしの世界である。

滝の上には樋状の滝100mというのがあるはずだが、スラブの上に薄雪がかかっているだけで全然凍っていない。そのままラッセルで摩利支天と本峰のコルに出て登攀終了。計画では八丈バンドから奥壁へ継続の予定だったが、11日は朝から雨だというので、本峰経由で八合目に戻り、翌日、異様な高温と時折降りしきる雨のなか下山した。

S状ルンゼは凍れば奥壁に継続するのにいいルートかもしれないけど、わざわざ登りにいくところではないなあというルート。それより収穫はこの氷柱。



よくわからないが、奥壁右ルンゼの下部だろうか。この暖冬、異常高温状態で、これだけの氷ができるということは、3月の積雪の多い時期に冷え込んだタイミングを狙えば上までつなっているかも。右ルンゼだとしたら赤石沢の谷底から9合目あたりまでつづくロングアルパインアイスが楽しめる可能性がある。

しかしあらためて写真見ると、本当にこれ12月?という感じ。正月も冬山にはならないかもなあ。せっかく手術を延期したのに、本当に今年は終わっている。気象庁は6年ぶりの暖冬とか言っているけど、そのレベルじゃないでしょ。


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八ヶ岳大同心北西稜

2015年11月29日 18時19分41秒 | クライミング
グリーンランドから帰国して間もない頃、去年、知り合った若手クライマーのOから連絡があった。仕事を辞めて時間があるので、冬山行きませんか、とのことである。本来なら11月か12月に肘の手術を済ませるつもりだった私だが、Oからの連絡に俄然、気持ちがもりあがり、速攻で、いいよと返事を出してしまった。

Oが連絡してきた、「仕事を辞めて時間があるので、冬山行きませんか」との短い誘い文句には、じつは山ヤにしか分からない非常に深い含意がある。山に登るといっても、通常、クライミングの場合はパートナーが必要だ。しかもアルパインクライミングの場合は、単なるパートナーではなく、「同程度の技量を持ったパートナー」というかなり厳しい条件がつくことになる。なぜなら上手すぎる人と行っても足を引っ張るだけだし、下手なやつと登りに行ってもレベルを合わせなくてはならないので、こっちがつまらないからだ。しかし、アルパインクライミングの世界は競技人口が非常に少ない。そのため技量が同程度で、登りたいルートが一致して、かつ登るのに都合のいい日が合うヤツなど、ほとんど見つからないのだ。そのため皆、このパートナー問題には悩まされている。

Oの連絡は、このパートナー問題が一挙に解決することを意味していた。山ヤにとって仕事を辞めるということは、平日も自由に山に行けるということである。私も自由業なので、いつでも相手に日程をあわせて山に行くことができる。しかも、Oとはレベルも志向もわりと一致している。彼のほうが登れるけど、お互いに気を遣わなければならないほどの技量差ではない。したがって彼からのメールは私にとって、お互い、適当な日を調節すれば、仕事に関係なく、今年の冬は登り放題だね! ということを意味していたのである。

もちろん、妻の了解をとるという障壁をのぞけば、ということだが……。Oからの連絡を受けて、早速、「肘の手術は延期して、正月は山に行くことにしたよ」と告げると、彼女は唖然として、いろいろと嫌味を言ってきた(彼女が嫌味を言うのには正当な理由があった。なぜなら妻は、今年の正月は私が極夜探検で留守の予定だったので、実家に帰省する計画を立てていた。しかし、そこに急に私が帰国。肘の手術をして正月は大人しくしている予定だった私は、夫が在宅予定にもかかわらず実家に帰るという妻をなじり、彼女の帰省予定をかなり短縮させていたからである。それなのに急に、正月は山に行くことにしたよ、君は実家で休んでいるといいよと平然と告げた私に、愛想を尽かしかけたというわけだ)。しかし、いちいち妻の言うことを聞いていたら山には永久に行けないので、適当なところで相槌をうって、今回もまた無視することにした。

いうことで、27日に足慣らしに八ヶ岳大同心北西稜に行ってきたのだが、とんでもない暴風のなかでの登攀となった。北西稜だからちょうど吹きさらしのポジションにあるルートだったんですね。1P目のカンテを乗り越えたところから、ずっとすさまじい風のなかでのクライミングとなり、特にビレイ中がつらい。眼球には細かな氷のつぶが常時突き刺さり、真っ赤に充血し視力が低下。つま先も手の指先も冷たくて顔面は凍傷で黒くなってしまった。

ひどいコンディションで登攀も苦戦し、3ピッチ目の核心部をOが登っているところで、私はうんざりして、いい加減、帰って子供の顔を見たくなってきたので、フォローで追いついたところで「もう降りるか」と提案したが、Oは「もう1ピッチ行きましょう」と爽やかな表情でいうので、しょうがなくもう1ピッチ登って懸垂で下りてきた。途中、暴風でロープが真横に吹き流されて、岩の突起に絡まったのか、どうやっても外れなくなってしまい、やむなく切断。その瞬間、ロープはブオーっとどこかに飛んで行って見えなくなった。パタゴニアか、ここは。

いやー、正月が楽しみだなあ。写真はカメラを忘れたので、ありません。

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冒険歌手

2015年11月15日 10時10分45秒 | 書籍
冒険歌手 珍・世界最悪の旅
クリエーター情報なし
山と渓谷社


峠恵子さんの『冒険歌手』がHonzのレビューで取り上げられて、好調な売れ行きをしめしているらしい。うらやましい話である。

言うまでもなく、というわけではないが、峠さんは十四年前の私の旅の相棒。つまり私は2001年に登山家の藤原一考さんが計画したニューギニア探検隊の隊員だったのだが、峠さんもその一人で、私たち3人は半年以上にわたり、特殊非現実的、非日常的時空をともにした間柄だった。この旅の目的はかなり野心的なもので、ヨットで日本を出てニューギニア島まで航海し、ボートでマンベラモ川を遡って、さらにオセアニア最高峰カールステンツ峰の北壁に新ルートを開拓するという、当時はほかに聞いたことがないようなハイブリッドエクスペディションだった。

しかし、今、考えると、私にとってはニューギニアよりも藤原さんと峠さんが、この特殊時空をつくりあげていた張本人だったと思う。個性的という言葉の意味では到底とらえきれない強烈な二人のお人柄。人間の限界という言葉が思い浮かんでしまうほど、かなり端っこのぎりぎりを行っている感じ。若かった私はすっかり藤原さんの毒っ気に参っていたが、15年近くがたった今、言えることは、あの毒っ気は藤原さんからのみ出ていたものではなく、峠さんからも同じぐらい分泌されていた可能性が高いということだ。どっちがどっちというわけではないが、二人は隊における太陽と月、白夜と極夜、生と死、ゴジラとモスラ、月とスッポン、目くそ鼻くそみたいなものだった。私は精神が引き裂かれるような存在の耐えられない軽さに煩悶して、中途脱退して帰国。もうこんなバカなことは二度としないぞ(もうこんな妙な大人たちには近づかないぞ)と誓ったものだった。

この本は峠さんが帰国後に書き下ろした作品で、以前、小学館から出た『ニューギニア水平垂直航海記』の復刊版である。作品のなかでは私もユースケという名前で登場します。

ニューギニア水平垂直航海記 (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館


なおhonzの書評では「結果、大学生のユースケ隊員が愛想をつかして、一人飛行機で帰国。じつは彼こそ、ある著名な作家の若き日の姿であったのだが、この旅はあまりに黒歴史だったのか、氏のプロフィールから省かれていた、らしい。」と書かれているが、別にこの旅は私の黒歴史ではないし(ちょっと濃い灰色ぐらいかな)、デビュー作である『空白の五マイル』の著者プロフィールでもこの遠征のことは触れている(それに私は著名ではない)。たしかに帰国後は挫折だと感じていたが。

『冒険歌手』として再刊されるにあたり、峠さんと対談して、その原稿が本書に巻末に収められているが、彼女は相変わらずパワー全開で、ちょっと太刀打ちできなかった。この本は彼女の目から見たニューギニア探検の一部始終なのだが、むしろ、ニューギニア探検を語ることで彼女本人の破天荒な生き方が語られる一種の私小説ともいえる。だからタイトルは前の本よりすごくよくなったと思う。

このニューギニアのことは、私もそのうち本にしようと目論んでいる。もう一回、私なりのニューギニア探検を実施して、十五年以上時間が離れた二つの遠征を抱き合わせにして一つの作品というイメージだが、極地にはまっている現在、ニューギニアに行く時間がまったくとれない。早くしないと、当時の藤原さんの年齢に追いついてしまうのがおそろしい。


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毎日出版文化賞書評賞受賞

2015年11月03日 10時07分45秒 | お知らせ
探検家の日々本本
クリエーター情報なし
幻冬舎


『探検家の日々本本』が毎日出版文化賞の書評賞を受賞しました。どうもありがとうございます。

正直いって、まさかこの本が賞を受賞するとは思っていなかったので、非常に驚いています。しかも書評賞。意外でした。前々回の受賞が辻原登さんの『新版 熱い読書 冷たい読書』。前回が立花隆さんの『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』とのこと。いずれも拝読していませんが、深い学識に裏付けされた文化賞という名に値する名作であることが想像されます。それが今年は学識とは縁遠い、なかには下ネタさえ混ざっている、この「非文化賞的」なウイスキーボンボンみたいなタイトルの本が選ばれるとは……。

ありがとうございます。

一応、この本は、本と読書をテーマにしていますが、書評というよりも、あくまで本をダシにつかった自分語りのエッセイのつもりでした。だから、この本でダシに使わせてもらった各作品の著者の方には申し訳ない気持ちがあり、この本を読んだら気分を害されるんじゃないかと危惧の念さえ抱いていました。本音をいうと、著者の方々には読まれては困ると思っていたのですが、それが版元の幻冬舎の編集者が気を利かせてくれて、何人かの著者に本書を献本すると聞いたときは、非常に困惑したものでした。

それが賞までいただいて、私の罪の意識はいっそう深まるばかりです。どうもありがとうございます。今後もますます探検→読書→思索→執筆というプロセスを貫いていこうと思います。

今回、思わぬかたちでグリーンランドから帰国を強いられ、来年また余計な交通費、運送費がかかることになって、資金繰りに頭を悩ませていました。副賞の50万円は来年の旅費に充当させていただきます。ありがとうございます。

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沈黙の山嶺

2015年10月27日 09時01分03秒 | 書籍
沈黙の山嶺(上) 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト
クリエーター情報なし
白水社


ウェイド・デイヴィス『沈黙の山嶺』を読む。because it is there(そこに山があるから)の言葉で有名なジョージ・マロリーを軸に、1920年代の英国のエベレスト挑戦を描いた歴史大河山岳ノンフィクション。本編だけで上下巻700ページ、かつ二段組の大作だが、時差ボケでどうしても目が覚めてしまう早朝の長い時間を利用して一気に読み終えた。ヒマラヤ登山の話を、これほど壮大な叙事詩にまとめあげた作品はないのではないか。登山史に関心がある人でなくとも、豊かな読書を体験できること請け合いの素晴らしい作品だった。

1924年の遠征でマロリーは若い隊員アーヴィンとともに最後の登頂への挑戦に出発する。隊員のノエル・オデルは第五キャンプから、予定より大幅におそい時間に、頂上につづく北東稜をゆく二つの黒い人影を認める。その後、稜線にはガスが立ちこめたためオデルは二人の姿を見失い、そして二人が山を下りてくることはなかったのだが、マロリーはこのとき自らの死と引き換えにエベレストに永遠に解かれることのない謎を残すことになった。もしかすると彼はエベレストの頂上に立っていたのではないかという謎だ。

本書はこの謎に正面から取り組んでいるわけではなく、1924年の遠征に関しては最後の2章があてられているだけだ。それでも全体的な物語の構造は、マロリーが最後に頂上に向かうことに決めた、その行動に収斂されるように書かれている。実際にこのときの遠征隊の隊員が成し遂げた成果は、当時の貧相で劣悪な装備や、高所順応のタクティクスに関する知見がほとんどなかったことを考えると、ちょっと信じられないものだった。マロリーの前に頂上を目指したノートンは酸素ボンベなしで8573メートル地点まで到達し、そこから引き返しているが、この驚異的な記録は1952年のスイス隊まで破られることはなかったのである。

いったい、この1924年の英国隊というのは何だったのか。本書の視点が独特なのは、1921年、22年、24年とつづいたエベレスト遠征隊を、第一次大戦と絡ませて描いている点だ。第一次大戦についてほとんど何の知識もない私は知らなかったのだが、当時の欧州の若者は戦争に駆り出されて、ほとんどが死んだらしい。ヘミングウェイが『日はまた昇る』で描いた‟失われた世代”というやつだが、この失われた世代という意味は、戦争で精神が荒廃し、心に闇をかかえてしまったという意味の‟失われた”ではなく、文字通り戦死してその世代の多くが存在しなくなってしまったという意味での‟失われた世代”だった。マロリーをはじめとした20年代の英国隊の隊員の多くはこの世代にあたり、彼らのほとんどが戦場に駆り出されて、奇跡的に生き延びた男たちだった。そのことを強調するため、著者は本書の序盤と、また個々の隊員を紹介するくだりで、必ず彼らの戦争体験について詳しく触れ、彼らが見た戦場の死を執拗なまでに生々しく描写する。

20年代のエベレスト隊員がバーバリーのツイード地の服を着て、ゲートルを足の巻き、何十キロもの重さのキャンバス地のテントを担いでエベレストの‟死の領域”に踏み出せたのは、戦場を経験した彼らにとって死というのはあまりにもありふれたものだったからだ。それが著者の言いたいことで、生の内側に死を取りこんだ人間に特有の死生観が、マロリーが最後、頂上に向かって足を踏み出した理由なのだということを、この本は700ページにわたって述べているわけだ。

こうした観点が冒険になじみのない読者にどれほど受け入れらるのかよくわからないが、私個人としては納得のいくものだった。一度、死を取りこんだ生は、死を感じることができないと輝くことはない。頂上に吸い寄せられるように向かったマロリーには、死を絶対悪として忌避する心性はすでに失われていた。たとえそれが死の淵にあるものだとしても、生を燃焼させることができるなら、それを避けるべき理由は彼にはなかったのである。

マロリーの遺体は1999年に米国の探検隊に発見され、センセーショナルに報道された。その調査の一部始終を描いた本も出ており、マロリーの謎の詳細について知りたい人はこちらもお薦めである。

そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記
クリエーター情報なし
文藝春秋






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松本竜雄「初登攀行」

2015年10月20日 00時19分08秒 | 書籍
帰国の途上で松本竜雄「初登攀行」を読む。

一般にはなじみが薄いかもしれないが、松本竜雄は昭和三十年代に活躍した日本登攀史にのこるクライマーだ。穂高や谷川や彼が開いたルートが「雲表ルート」として沢山残っており、今も多くのクライマーを惹きつけている。日本の岩壁の初登攀時代の最後を飾った、すさまじい山行記録をつづった作品だが、うーん、ちょっと刺激を受けてしまった。

登山家には名文家がすくなくないが、彼もその例に漏れない。とくに風景描写や比喩表現が巧みで、読んでいて唸らされる文章がすくなくなかった。適切な言葉がなにげなく、スポっとはまりこんでいる。登山に対する心情も率直で、山に対する真剣味が伝わってくる。

松本竜雄が一ノ倉のコップ状岩壁初登攀の際に初めてエクスパンションボルトを使用したことは有名だが、正直いって、当時のクライマーがここまでボルトの使用に関して悩み、非難を覚悟のうえで使用に踏み切っていたことは知らなかった。現在、烏帽子岩奥壁や衝立岩にのこる古びた残置ボルトの数を思うと、昔の人たちは何も気にせずガンガン打ちまくっていたのだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。登山家のモラルは昔から試されいたんですね。

松本竜雄をふくめ登山家の文章がうまいのは、登山という行為が本質的にもつ切実さと無縁ではないのだろう。登山は命がかかっているだけに、なぜ自分は山に登るのかという自省を促す。生きることそのものに真摯にならざるをえないし、登山をつうじて、山以外のあらゆる事象についても考察するから、それが独自の思想と言葉を生み出すのだと思う。思考の末に獲得された言葉こそが、本物の知恵である。松本竜雄は学歴とは無縁の社会人クライマーだったが、彼が誇る語彙の豊かさには、自らが格闘して思考した跡が見えて、これこそが本物の学なのだと考えさせられた(ちなみに現在とちがい、当時の社会人という言葉には中学や高校を卒業してそのまま就職した、大卒のインテリと対極な位置にある労働者階級という意味合いを含んでいた、たぶん)。

刺激を受けたというのは、山に登りたくなってしまったことだ。

今から帰ったら、ちょうど十一月。冬山シーズンが始まる時期だ。そういえば去年は結局、錫杖岳1ルンゼしか登れなかった。今冬はせっかく日本に帰るんだから、去年登れなかった一ノ倉沢中央奥壁や剱岳白萩川フランケや明神の氷壁ルートに行きたいなあ。しかし左肘の古傷の状態が思わしくなく、帰ったらまずそれを手術しなければならない。左腕を伸ばそうとするとゴリゴリするうえ、神経が圧迫されて小指の感覚がほとんどマヒしているのだ。以前、専門の先生に診てもらったところ、手術で確実に回復はするが、術後三カ月は安静にする必要があり、さらた登山のような激しい運動は半年間は控えなくてはならないと言われた。まあ、半年は五カ月ぐらいに短縮するとして、十一月に手術したら、三月末にはリハビリが終わるから、谷川や唐幕など北アルプス低山系岩壁は無理でも、剱や滝谷なら行けるかもしれんぞ……。

そんなことを考えている自分がいた。そのときにふと、そうだ、来年4月はカナダに行くつもりになっていたんだと思い出した。この間のブログで、山よりも極地のほうが面白くなったと書いたことなど、すっかり忘れていたのだった。

なお、松本竜雄は穂高でサードマンを見ているようだ。夜中に屏風岩のルンゼを加工中、岩なだれが発生したときの文章に次のようなものがある。

〈ぼくは、その下山路についた時から、だれかがぼくを見つめ、ぼくにより添っているような感じにとらわれていた。
 岩の灼ける匂いや、岩粉の充満するルンゼの下降は急峻で、二つの涸滝では懸垂下降をしなければならなかった。
 灰色の汚れた暗がりでのアプザイレンで、ぼくは、先輩二人の他にぼくらのパーティでない四人目の男を意識した。あとで富田先輩にそのことを告げると、先輩も同じような幻覚に襲われていたことを話してくれた。〉

サードマンについては、ジョン・ガイガー「サードマン」(新潮文庫)参照のこと。







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極夜探検の延期について

2015年10月16日 22時11分27秒 | 探検・冒険
長らくブログの更新できず、申し訳ありませんでした。ビーパルの連載でも書きましたが、シオラパルクの家が無電状態で、その後、電気は通ったのですが、ネットは使えないままで、知り合いの家で結構高額な料金を支払って回線を借りてたまにメールを見る程度だったので、ブログまで手が回りませんでした。

さて、唐突ですが、今、私はコペンハーゲンにいます。じつはこの十一月出発で準備していた極夜の探検ですが、来年冬に延期せざるをえない状況となりました。

理由は、これ以上長期にわたる在留資格が取れなかったことです。長期滞在については出発前からこの計画の成否にかかわる悩ましい問題で、6月から断続的にグリーンランド警察当局とささやかな手紙のやり取りをつづけてきました。その詳細についてここで明らかにすることはできませんが、7月の段階でいったん、この問題はクリアできたと思っていたのですが、じつはダメだったようです。

三月下旬にシオラパルクに着て、四月から五月に橇を引いてイヌアフィシュアクに一カ月分のデポを作り、村に戻ってアッパリアスを600羽近く取って保存食を作り、さらに六月から八月には山口君の協力を得て三カ月分のデポを運んで、村に帰ってきて橇と毛皮服の製作を進め、ようやくすべての準備が整え、あとは太陽が沈んで出発を待つばかり……という段階に至って帰国せざるをえないこととなり、無念極まりありません。

大島育雄さんはじめ、シオラパルクの村人たちも橇作り、毛皮服作りで親身になって協力してくれていただけに、残念でなりません。本当に悔しいの一言です。

準備した装備、食糧は村と無人小屋に配置したままなので、来年は自分の身体だけ現地に運べばすぐに旅に出発できる状態にあるのですが、しかしやはり一年間通して家族と離れて探検をつづけることに、今度の旅の大きな意義を見出していただけに、その構造が崩壊することが自分としては最も悔しいところです。


せっかく新しい橇も完成したのですが、使用は一年後ということになってしまいました。

ただ、帰国が決まったときはかなり落ち込みましたが、その後精神的には持ち直し、今ではトレーニングと夏に失敗したカナダデポの再設営をかねて、四月頃にカナダのエルズミアにでも行こうかななどと妄想できるようになりました。しかし、そのことを妻に伝えると電話口の向こうで声が凍りついたので、どうなるかはまだ分かりませんが……。

そもそもモチベーションがフル充電されて出発準備OKの状態で梯子を外されるかたちになったうえ、シオラパルクにいると村人が毎日、ボートで猟に出かけてアザラシ狩りをしているので、見ているこっちも身体がウズウズしてきて、今は一年間、何もしないで待っているというのは難しい状態なのです。


浮き氷の上で小型のヒゲアザラシを解体する村人


浜でイッカクを解体する村人……ではなくて、私。

毎日、こんなことをしていると、自分のなかにわずかに残っていた野生が呼び起こされるのか、早く荒野に出たくてたまらなくなってしまいます。地図のない世界という極夜探検のつぎの新しい旅の計画案が私のなかで芽生え始めており、一年間待つ間にそっちを先にやっちゃおうかなーなんてことも、時折、考えてしまいます。

バカは死んでも治らないのでしょうか。








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