徘徊オヤジの日々是ざれごと

還暦退職者が、現在の生活と心情、そしてちょっとした趣味について綴ります。

老いの日々・・・23

2018-11-27 09:05:02 | 老いの日々
ブログ終了とします

 本ブログをはじめてからずいぶんたった。60歳の退職と同時に開始したのだから(一時休止したこともあったが)、もう7年間続けていたことになる。

 本ブログの柱の一つは”私の好きなこと”を掲載することだった。そのため皆さまには無理にお付き合い願ったような気もするが、「私の児童小説」として昔書いたつたない私の作品を再掲し、「里山あるき」と称してときどき私が散策したところを紹介してきた。

 そしてもう一本の柱は、好ききらいにかかわらず近い将来私にも必ず訪れる、老いについての考えをつづることだった。このため「人生の終章を迎えて」と称して、少々長くなってしまったが思いのたけをここに吐露した。

 しかし年月を経ると私の体調をはじめ身辺のことがいろいろと変化してきた。昔書いた作品はまだいくつかあるが、とてもここに掲載できるものではない。以前はあちこち熱心に出かけていたのだが、最近は意欲はあっても体がついていかなくなってきている。しかもこれから札幌は本格的な冬となり外出することもむずかしくなるだろう。また老いについての思いは十分に記載したつもりだ。

 老いとは回復しえない慢性の病気あるいは障害とほとんど同義である。みんないつか必ず川を渡るのだ。若者や子ども、あるいは子どもがまだ成長期にある時期に、親が病んだり障害をもつ(あるいは亡くなる)ことは大きな不幸だが、われわれの年齢になったら、それが多少早かろうが遅かろうがたいしてちがいはない。ましてこのごろは「長生きはリスク」などといわれる時代である。むしろ早くにそうなってくれた方が案外よいのでは、と考えることすらある。

 こうした私の心身の変化もあって、ここでこれ以上新たに発信する意味も意欲もなくなってきた。ウォーキングだけは体と相談しながらこれからもできうる限り続けていこうと思っているが、ブログに登載するのはこのあたりで終わりにしたい。長い間ご愛読いただきありがとうございました。

老いの日々・・・21

2018-05-09 06:42:30 | 老いの日々
一時お休みします

 突然のことですが、みなさんにお知らせしなければならないことが生じ、本欄を利用させていただきます。

 というのは、私個人のことですが、さる疾病のため入院することとなり、ブログも一時休止することを余儀なくされました。

 期間は2~4週間くらいといわれていて、退院したらまた同様に発信していこうと思っていますので、再開したときにはまた変わらぬご愛顧をお願いいたします。

老いの日々・・・20

2018-03-31 07:36:32 | 老いの日々
終末医療指針の改定

 老いの日々の欄に掲載するのはほとんど2年ぶりのことだ。もともとこの欄は日々思うところを記載する一種のエッセー欄と考えていたのだが、最近はあまり深く思うところもなく(いや、あってもこの場に書くのははばかられるので)、他の欄ではほぼ3~4日おきに発信していても、ここに記載するのはずっとご無沙汰になっていたのだ。

 ところが先日の新聞を見て「これはどうしても一言せねばならない」と思う記事が載っていて、久々に発信する気になった。というのは、先日の(朝日)新聞の社説であるが、「終末医療指針 人生の最期考える機に」と題して、厚生労働省の指針が改定されたことが紹介されていたのだ。不覚にも私はもともとの報道は見逃していたようで、さっそくネットで調べてみると、すでに本年1月に指針が出されていた。

 そこでは、最期のあり方について本人の自発的な参加を前提に、家族や医療関係者らが話し合いをくり返し、文書に残しておくこと、またいざというときに代理で判断してくれる人を決めておくことを提唱している。また同指針に先立って、こうしたときの対応の仕方をすでに定めている病院もあるようだ。

 治ることを期待して入院した人にとってはある意味ショックかもしれないが、だれもがいつかは通る道だ。納得してもらうしかない。

 そういえばこのごろは「医師が呼吸器をはずして殺人罪に問われる」といった新聞記事を目にすることはほとんどなくなった。それぞれの医師が慎重になったせいもあるだろうが、世間一般がこうした風潮になっているため(それで国の方針も改定されたのだろう。あるいは医療費の節減が目的かもしれないが)でもあるだろう。

 もちろん意識不明の状態で急に入院することもあるため、元気なときにしたためておく尊厳死の宣言書の価値がなくなくなったわけではないが、こうした指針の改定には大いに賛同したい。

老いの日々・・・19

2016-08-01 08:23:41 | 老いの日々
里山あるき

 エッセーとして本欄に書くのはほぼ1年ぶりだ。このごろはあまり変化のない生活を送っていて、あえて文章にして発信しようという気にならなかったのだ。いや、家族のこと等で思い悩むこともないではなかったが、そうしたことをこの場に書くのはふさわしくないだろう。

 ブログにあるように、このごろも私は相変わらず近郊のウォーキングを続けている。はじめは泊りがけで道内各地を巡れないかと考えて「北海道の‥‥」と銘打ったのだが、今ではすっかり札幌近郊に限られてしまった。というのはこの近辺でも面白そうなところはたくさんあって、わざわざ遠くまで出かける気がしなくなったからである。

 出かけるときはいつも地図と磁石を携帯している。それは、私は近郊を歩くことが好きなのはもちろんだが、同時に地図をながめること自体も好きだからである。

 地図とは実際の地面の様子を縮小して紙面上に写し取ったものだが、現実の地面は決して地図通りではない。あるはずの道がなかったり、新しい道ができていることもある。そんな可能性をつねに念頭におきながら歩くには、それなりの「地図を読む能力」が必要とされ、これはある意味、知的なゲームである。

 そういえば近ごろはポケモンGOというゲームもはやっているという。私の里山歩きも案外これと似たところがあるのかもしれない。