徘徊オヤジの日々是ざれごと

還暦退職者が、現在の生活と心情、そしてちょっとした趣味について綴ります。

人生の終章を迎えて・・・109(第6章・・・13)

2014-03-22 09:11:34 |  (第6章 死を目前にしたら)
だれもが必ず

 若いころ私は、高齢の老人が何をするにももたついている姿を見て、ときにイラ立つこともありましたが、今はずっとやさしい気持ちで見守ってあげられるようになりました。

 彼らはだれも好きでそうしているのではありません。そんな風にしかできないことが、この年になってようやく実感できるようになってきました。私だって近い将来必ずそうなるのですから。

 そしてまた私は若いころ、自分と同世代の人たちをある面でライバルとして見ていました。しかしいま私は、年をとってもはやライバル視する必要がなくなったせいもありますが、彼らををかけがえのないいとおしい仲間と思うようになりました。その人たちもまちがいなく私と一緒に老いていくのですから。

 そんな仲間たち――私より一足先に(能動的に何かを行うことなどできなくなった)仲間たち――が集まっているところが老人ホームです。そしてその建設を求めて署名活動をしている老人は、いずれ近い将来自分もそんな風になるのだと痛切に予感している人たちです。

 要するに老人ホームに入居している人はみな、どうあがいてもそのように――若い人から見ると”無為に”――しか生きられないのです。

 その姿を見て「吐き気をもよおした」「何の意味があるのか」などというのは、明らかに若い人たちのごう慢です。あなたもいずれそうなるのはほぼ確実なのですから。  (人生の終章を迎えて…終)

人生の終章を迎えて・・・108(第6章・・・12)

2014-03-20 12:23:07 |  (第6章 死を目前にしたら)
能動的に何かを行うことなどできなくなる

 先の文面について、この文章を書いたのはおそらくまだ若くて、肉体的にも精神的にも力がみなぎっている人なのでしょう。あるいは、年をとって自らの肉体が衰えるのは推測できても、知的にも衰えることを推測するのはむずかしいということなのかもしれません。

 要するに彼らには、自らの精神と身体がともに衰え、いくらがんばっても(能動的に何かを行うことなどできなくなる)という事態を想像できないのでしょう。いや案外、いずれ自分もそうなるのではと薄々感じていて、そんな不安を振り払うために書いたのかもしれません。

 どちらでもかまいません。いずれにしても人はだれもが、急死しなければ、いつか必ずこうしたときを迎えます。この冷厳な事実からはだれも逃れられません。

 私はこのごろ、以前は見向きもしなかったのに、新聞の「おくやみ」欄が妙に気になるようになってきました。そして同年代の人が亡くなっているのを見ると、「どうしたのだろう、まだそんな年でもないのに。何かの病気だったのだろうか」と思わざるをえません。

 それだけ私が自らの死を現実のものとして意識するようになったということなのでしょう。  (人生の終章を迎えて…109)に続く…

人生の終章を迎えて・・・107(第6章・・・11)

2014-03-18 09:04:42 |  (第6章 死を目前にしたら)
等しく衰えてくれるなら

 人は老齢になると、年月とともに精神と身体がともに衰えていくのは否めません。「60・70は鼻たれ小僧‥‥」などといっている老人もいますが、その人たちは自らの心身の衰えを自覚しつつあるからこそ、わざと強がっているだけでしょう。

 ただ“心身ともに”といっても、その衰え具合は人によってさまざまで、決して一律ではありません。「身体の衰えと同じように精神も衰えてくれるなら幸せだ」という言葉もときどき聞きます。

 確かにそうかもしれません。精神は健全なのに身体が衰えていくのは、不安と悔しさにさいなまれることになります。一方、体は健康なのに精神が衰えると、いわゆる認知症でさまざまな困った問題行動が出現することになります。

 たしかずっと以前に見たテレビの番組で、「サルやイヌなどの動物たちは、たとえどんな障害を持っても、与えられた状況を受け入れ、自らの境遇を思いわずらうことはないようだ」といっていました。おそらくほとんどの獣類は、過去を振り返ったり、将来を案じたり、また自らを他人(獣)と比較するだけの知能を有していないため、ある意味楽に生きられるのでしょう。

 人も獣と同じく身体機能の低下とともに知的能力も都合よく衰えてくれ、「このあいだまでできていたのに」と以前を懐古したり、「歩けなくなったらどうしよう」と先のことを思い悩んだり、「あの人は元気なのに」などと他人と比べる能力を失って、目前のことにしか目を向けられなくなれば、案外気楽にすごせるのかもしれません。

 要するに精神と身体、それが等しく適度に衰えてくれるなら、認知症に伴う問題もひどくなく、悔しさにさいなまれることも少ないといえます。しかし現実にこううまくいくことは多くありません。  (人生の終章を迎えて…108)に続く…

人生の終章を迎えて・・・106(第6章・・・10)

2014-03-08 08:31:00 |  (第6章 死を目前にしたら)
知的にも衰えるから

 介護が必要な状態、つまり食事をして排泄してという、生きる上での基本的な所作まで他人の手を借りねばならなくなったら、身体的にはもちろん、精神的にもかなりの衰えを示しているでしょう。

 いや理解力や判断力が衰えるだけなら、まだしもよしとしなければなりません。重度の認知症になって、まわりの人々に迷惑な行動ばかりしている老人だって大勢いるのですから。

 あるいは「能動的に何かを‥‥」などといっている人は、人は年老いて肉体が衰えるのと同時に、知的にも衰えることなど考えもしないのかもしれません。その人たちから見れば、老人ホームに入っている老人たちはまさに、生きるために生きている・死ねないから生きている、ただそれだけです。

 昔は、人はこうした状態になったら早期に逝くことができました。今も多くの動物たちや開発途上国の人々はそうです。しかしよくも悪くも現代の日本では、この状態はふつうで数年、長ければ十数年続きます。

 それでもこうした状態を受け入れ、一種あきらめの境地になれるのなら、それはそれでよいでしょう。だがそのときまだいくらかの感受性は有していて、どうにもその境涯に耐えられなかったらどうするか‥‥私はいつも考えているのですが、いまだに結論は出ていません。  (人生の終章を迎えて…107)に続く…

人生の終章を迎えて・・・105(第6章・・・9)

2014-03-06 12:46:25 |  (第6章 死を目前にしたら)
最も必要なことは

 長々と述べてまいりましたが、要するに私は、「自らが年老いて日常生活にすら他人の手を借りねばならなくなったとき」にそなえて、できる範囲内の準備を整えておくことが、自分自身のためにもまた周囲の人々のためにもどうしても必要なことだと考えているからです。

 そのために何が重要かは人によって様々です。自分の葬儀や墓のことが一番大切だと考えている人もいるでしょう。あるいは財産分与の仕方を決めて遺言書をしたためることこそが何より大事だと思っている人もいるでしょう。

 いわゆるエンディングノートでは、こうした事柄とともに、要介護状態になったときの介護のあり方や終末期の延命治療にも言及するようすすめています。

 私もそのとおりで、自分が死んだ後のことより、死に際してどのようにしてもらいたいかという要望を記しておくこと、つまり尊厳死の宣言書を用意しておくことこそ最も重要だと考えています。  (人生の終章を迎えて…106)に続く…