はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

志太の微笑仏を訪ねて4

2012-10-01 17:06:14 | 低山歩き
志太の微笑仏を訪ねて4(十輪寺)


                 神神社~十輪寺~常昌院
        

 藤枝市(旧岡部町)に入ると前方に神(みわ)神社の森が見えてくる。
神神社については、今までに何回もブログで紹介してきたので、今回は細かい紹介はしないが、
一つ気になる事だけ話したい。

 
   神神社の森                   神神社

 神神社は「大和国三輪山大物主神をこの地に祀ったのが、この神社創祀の由来である。
当神社には古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭であった」(
境内の由緒書)
そして本家の大和国の三輪山の大神(おおみわ)神社のHPには
「本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝する」となっていた。
となると、大神神社と神神社の関係は寺でいえば本山と末寺となるだろう。
ならここの神神社も三ツ鳥居を通して参拝する山は、当然高草山だろうと私は思っていた。

 
   神神社                       神神社の三ツ鳥居

 だが、神神社のある場所の地名は三輪(みわ)だが、山の名前は高草山。何故大神神社と同じように
「三輪山」としなかったのか? と疑問もある。
ここからは私の妄想的歴史観になるが、昔は高草山は三輪山と呼んでいたが、神神社と離れている
焼津の村人は高草山と呼んでいた。それが近代になって高草山に統一されたと解釈もできる。

 それが今年の春、藤枝の蓮華寺池公園の高台にある案内板に、こんな事を書いてあるのを見つけた。
文明五年(1473)に有名な歌人が、この高台に登って
「富士はなお 上にぞ見える 藤枝や 高草山の峰の白雪」と和歌を詠んでいた。文明といえば
安土桃山時代より前の頃だ。その時代に既に高草山と呼んでいたとなると、私の説は成り立たない。

 では大神神社の御神体の神奈備(かんなび)はどの山を指すのか。
三ツ鳥居の近くで確認したいが立入禁止の中にあり、更に鳥居の先は森になっていて先の山は見えない。
だが待てよ神神社に入る前に見えた高草山の山頂は、北東の方角に見ていた。だが鳥居はそれより
北寄りの北北東の方向に向いている。これでは鳥居を通して高草山を参拝することは出来そうもない。
では神神社の神奈備は高草山ではなかったのではないか、そうだ、そういえば高草山山頂の祠は
「高草山大権現」となっていた。

        
                この山が神奈備山?                

 それらの事を考え合わせると、神神社の神奈備山は高草山以外の山といえそうだ。
ではどの山だろうと考えながら神社を出ると、その正面に写真の山が見えた。
この山なら三ツ鳥居の方向にある。そうかこの山が神神社の神奈備山だ、と勝手に納得。
(神奈備=神が居ます山、神が隠る山と言う意味です)

 県道を横断して十輪寺に向かう。この寺は春には木蓮の花が咲き木蓮祭りも開催されている。
オッ!タイミングよく本堂が開いていて参詣者が何人も出入りしている。私もその中に入って本堂に。

  
     虚空蔵菩薩                                   子安地蔵菩薩

「虚空蔵菩薩 木喰仏の晩年のものは、いずれも微笑しており、どれも似ているがよく見ると皆違う。
この虚空菩薩は若い女性の表情をしている。どこかしら遠くを見る目、微笑を浮かべた頬には
底知れない知恵が秘められている。 像高113cm 町指定彫刻」

「子安地蔵菩薩 この子安地蔵菩薩立像は比較的大きく堂々としたものである。
頬の微笑も心休まる表情をしており、静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに、数えられる
ものであると言えよう。 像高138.5cm 町指定彫刻」


 確かに二つの仏像は微笑を浮かべている。しかし以前見た森町蓮華寺の木喰の子安地蔵尊より
笑いが穏やかで上品に見える。また像の材質なのか蓮華寺の像は白っぽく木材ではないように
感じたが、ここの像は黒っぽくて、それだけでも重厚に見えた。

 
   興福寺                          おしゃれ地蔵?

 十輪寺をから県道を避けるには「山辺のみち」がある。
神神社の公衆トイレの所に案内板があったので、大体のコースは頭に入れてきたが、要所要所に
表示もあるようなので歩く事にした。

 十輪寺の次に寄った興福寺は、お堂のような建物だが由緒書には
「薬師如来立像 この立像は皇極天皇(645年)が、東国に流行した疫病を平癒させるために、
この地に大和の国の大神神社の分霊が祀られた折、奈良の興福寺の許可を得て祀ったものと
伝えられている。
なおこの仏像は秘仏として33年ごとに開帳し、次の開帳は2018年。町指定有形文化財」
となっていた。

 昔は神仏習合なのにのに仏像をわざわざ寺に祀る事もあったのだ。それにしても十輪寺の微笑仏は
「町指定彫刻」に対し、ここの薬師如来は「町指定有形文化財」とある。違いは何だろう?
そして次の御開帳は6年後の2018年だとある。その年では私は74才。果たして歩いて来れるかどうか?

 お堂の横のお堂に(?)「おしゃれ地蔵」がありました。東海道で見たおしゃれ地蔵と違って、ここの
地蔵は顔に化粧しているのではなく、頭巾や着物に黒、赤、白の色を付けてあった。
さらにその横の石仏は、線画のような感じで、これも余り目にしない石仏だった。

  
     常夜灯                     三輪の

 興福寺から県道に向かう途中に自然石の大きな常夜灯が目に付く。笠が大きく地震に弱うな感じもするが
いつ建てたものだろう。と確認したのだがメモを取らなかったため忘れてしまった。確か明治?
常夜灯は接続部はセメントで固定してあった。

 山辺の道の道標に従って歩いて行くと、道はズンズン山に登って行く。下を見れば三輪のも
見えてきた。こんな予定ではなかったが、登り出した以上止めるわけにもいかない。結局配水タンクの
近くまで登り、農道をグルリ回って降りてきた。途中に寺や神社なども無く、疲れただけだと少々反省。

 
   東の谷の庚申塔                    常昌寺の祭壇 

 前方の石塔の横に「東の谷の庚申塔」と書かれた案内板が目についた。これなら庚申塔に三猿が彫られて 
いるかもしれないと近づいたが残念ながら文字だけの庚申塔だった。案内板には
「庚申の日の夜眠ると人身中の三尸(さんし)の虫が、罪を上皇に密告するとと言い、それを避けるため
青面金剛などを祀って、寝ないで過ごしたそうです。この庚申塔は安永7年(1778)に建立された」


 青面金剛を祀っていながら石塔にはその像が無い。それなら三猿などはあるはずもない。
駿河では庚申の信仰はあったが、庚申塔に青面金剛や三猿を彫る風習が少なかったのだろうか?

 常昌院に到着。この寺は日露戦争で戦死した人を祀っていて兵隊寺と呼ばれているらしい。
生憎本堂には誰も居ず、少し開いているガラス戸の隙間から覗いてみた。
成程、有るわ、有るわ! 兵隊姿の人形が正面の須弥壇から左右の祭壇までぎっしり詰まっている。
200体を越す数があるとか、これだけ人形が勢揃いすると、なにやら不気味な感じもする。

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