歩行記録 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分 休憩時間:2時間20分 延時間:11時間05分
出発時間:6時05分 到着時間:17時10分
歩 数: 42、893歩 GPS距離30.9km
行程表
静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
霊山寺 0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅
霊山寺(巴川)
巴川左岸 帆掛山と中腹の霊山寺
街中の道も国1バイパスを過ぎると静かな道になる。更に静かな道をと巴川沿いの左岸をこんな道を選んで歩いた。
道の脇にはセイタカアワダチソウやススキが背丈より大きくなっている。昔はススキの穂が耳に入ると耳垂れになると云ったが、
今はどうだろう?
またセイタカアワダチソウも一時は喘息や花粉症の元凶だと云われていたが、最近では特に関係ないと云うようになっている。
理由はセイタカアワダチソウは虫媒花で風媒花ではなく、花粉が少ない上に比較的重く、形も風で飛ぶのには不適だかららしい。
私の住む町内でも、地域の住民総出で東名法面に蔓延ったセイタカアワダチソウの刈取りを行った事がある。今にして思えば
当時の生物学者は何故 「影響は少ない」 と発言しなかったのだろうか。最近でも原子力関係は、御用学者とか企業の雇われ
学者ばかりで困ったものだ。真に国民の事を考えてくれる学者はいないのか疑問に感じてしまう。
巴川の右側は広い空地になっていて葦の茂っている。多分ここは巴川の遊水地なのだろう。グラウンドが1面作られている
だけでもったない気がする。若し水害になったときの賠償は無し、復旧も自力でやらせる家庭菜園などにしたらどうだろう。
何年に一度、いや十何年に一度の程度の水害なら希望者は殺到するのではないか。
巴川の流れ
普段は水の量も少なくユックリした流れの巴川だが時々悪さをする。何しろ巴川の上流にある麻機沼の標高は4.5m程しか
ないのに河口までの距離が約17kmもあるので、必然的に水の流れはユックリとなる。単純に計算しても17kmで5mの勾配と
なるが、ある説では巴川の流路勾配が1/750~1/50,000しかないと説明している。
言い換えれば巴川は水捌けの悪い川で、普段はのどかで良いのだが、一旦大雨が降ると川の水は流れず、各所で氾濫する
ことになる。また巴川の水位が上がったままなので、巴川に流れ込む支流も合流部で水が溜まり氾濫や決壊を起こしてしまう。
最近では1974年(昭和49年)7月7日に起きた七夕豪雨がその代表的な例だろう。この災害を機に大谷川放水路が建設された。
話を昔に戻します。徳川家康は駿府城を江戸や大坂と水運で結ぼうと考え、巴川河口に新たな清水湊を作りました。港から
駿府城までは巴川を利用し、上土あたりからは横内川を拡幅して駿府城まで運河を作ったのです。しかし案に相違して、この
水路は余り利用されなかったようです。
清水の街中に東西に延びた 「牛道」 と呼ばれている道があります。この道は清水湊に荷揚げされた荷を牛車に積んでが駿府に
運んだ事から名付けられた道だそうです。そうなると気になるのは水運と陸運の荷物の割合ですが、舟運が2割程度と少なく、
あとの8割は牛車に載せて運んだそうです。
何故運河まで作ったのに舟運が少なかったのか気になり調べてみると、二つの相反する説があったので紹介します。
・薩摩土手が構築されると、安倍川の流れは西に移動して、運河付近では伏流水が湧かなくなった。
・運河拡幅工事に当たり、江戸時代に書かれた 「当代記」 には「水多くして掘られ間敷」とあり、水が湧き過ぎて大規模な運河が
造れなかったと言っている。
さてさてどちらの説が真実なのでしょうか?
新しい観音道の標識 洪水痕跡表示 拡大
新しい「観音道」の標識が有ったが何故か風情が無い。矢張りこのような物は自然石に彫った物の方が有難味が湧く。
マー無いよりはいいけど。
電柱に「洪水痕跡」の標識が有った。「昭和49年7月7日」とあるのを見ると七夕豪雨の事だ。
私の胸程の高さだが巴川からは400mは離れている。近くには1m程の小川しかないが、この川の水が行先が無くなり
溢れたのだろうか。今付近を見てもとても、こんな高い位置まで水に浸かるなど想像もつかない場所だった。
私がここを歩いたのは10月4日だったが、この2日後の10月6日に静岡県に台風18号が襲った。
その時も巴川の水位が上り、またもや巴川周囲と巴川に注ぐ支流の各所で氾濫が起り、多くの人家に被害が出た。
このため静岡県と静岡市は大谷川放水路と別に、更に放水路の建設を検討し始めたそうです。
2日後にそんな被害が出るなど夢にも思わず、愚にもならない事を考えながらテクテク霊山寺に向かう私です。
ウワー怖! 霊山寺参道入口
霊山寺参道入口の地図
霊山寺参道入口に「熊 出没注意!」の看板が。
静岡県内の山を歩いていて今迄に出合った獣は鹿、カモシカ、ウリ坊くらいで、時々注意看板のある猪はミミズの掘り跡程度
しか見た事がない。ましてや熊などはその痕跡にすら出合った事はない。尤もそれは幸せな事で、実際に猪や熊に出合ったら
どうなるのだろう? 逃げる? ストックで戦う? 考えるだけで恐ろしくなる。
と、云いながらクマ除けの鈴は持たずラジオも持たない困った年寄りだ。
霊山寺参道の入口にある墓地の墓石を見ると 「大木」 の姓が多い事に気づく。これは地元の大内地区に大木姓が多い事に
よるが、この大木姓は駿河七観音を彫った大楠に因んだ姓とも云うが本当だろうか。本当ならここではなく大楠があった足久保
辺りに大木の名は多いはずだ。
大分疲れれが出てきている脚には中々大変な参道だ。この参道に曲がり角が多いのは観音さんの 「三十三化現」 に因んで
三十三曲がりにしてあるとか。また参道入口から本堂まで6基の丁目石があるが、これも「六波羅蜜」を意味するという。
この 「三十三化現 」とは、 「観音さんは三十三種に変化身して衆生の悩みを済度す」 こととか、この三十三により三十三霊場や
三十三間堂が生まれたそうです。
また、 「六波羅蜜」 とは、観音さんの境涯に到るための六つの修行の事で、 「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵」 を指すのだ
そうです。
霊山寺仁王門 宝珠のような蘇鉄の実
霊山寺の地図
国指定重要文化財の仁王門の屋根の萱が葺き替えられていた。余りにスッキリしていて古さを感じさせないほどだ。
この仁王門は静岡県内で2番目に古い建物で、門内には 「蟇股(かえるまた)」 という、梁の上で上の荷重を支える材があり、
これは日本に三つしかない特異な形状の物らしいが、写真を写すのを忘れてしまった。
「鷲峰山 (じゅうほうさん)霊山寺(りょうせんじ)」 の本尊の千手観音立像は、県の文化財に指定されていて、地元では霊山寺
と云うより 「大内観音(オーチのカンノン)」 と呼ばれ親しまれている。春には桜祭りも兼ねて観音祭りが行われている。
この寺は元々は現在地より東の山にあったが、火事で焼失したため村人が用材を用意したところ、いつの間にか峰を越えた
現在地に移されていた。これは当寺本尊の千手観音が現在地への移転を望み、金剛力士(仁王)に用材を運ばせた、という
伝説が残っている。
また、観音霊場だけではなく、かつては雨乞いも行われ農民の信仰も受けていた。さらに、裏山には大きな一本松があって、
沖の漁師の目印になったという。こうしたこともあって現在も、有度・三保・興津辺りまで大内観音信仰が広がっているという。
本堂の拝殿にあるベンチにドカと腰かけ日本平や清水港を眺める。これで何とか安倍七観音は結願したが、これから先は
どうしよう。寺の裏山の帆掛山には勿論登るが、その先梶原山はどうしよう。梶原山まで行くと静岡側の瀬名に下りなければ
ならないのでゴールの草薙駅は遠くなる。今日は空が霞んでいて景色も良くないから、このまま下山してしまおうか・・・・・・・・
大分弱気の虫が起きてきたが結論は帆掛山に登ってから考えよう。
歩行時間:8時間45分 休憩時間:2時間20分 延時間:11時間05分
出発時間:6時05分 到着時間:17時10分
歩 数: 42、893歩 GPS距離30.9km
行程表
静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
霊山寺 0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅
霊山寺(巴川)
巴川左岸 帆掛山と中腹の霊山寺
街中の道も国1バイパスを過ぎると静かな道になる。更に静かな道をと巴川沿いの左岸をこんな道を選んで歩いた。
道の脇にはセイタカアワダチソウやススキが背丈より大きくなっている。昔はススキの穂が耳に入ると耳垂れになると云ったが、
今はどうだろう?
またセイタカアワダチソウも一時は喘息や花粉症の元凶だと云われていたが、最近では特に関係ないと云うようになっている。
理由はセイタカアワダチソウは虫媒花で風媒花ではなく、花粉が少ない上に比較的重く、形も風で飛ぶのには不適だかららしい。
私の住む町内でも、地域の住民総出で東名法面に蔓延ったセイタカアワダチソウの刈取りを行った事がある。今にして思えば
当時の生物学者は何故 「影響は少ない」 と発言しなかったのだろうか。最近でも原子力関係は、御用学者とか企業の雇われ
学者ばかりで困ったものだ。真に国民の事を考えてくれる学者はいないのか疑問に感じてしまう。
巴川の右側は広い空地になっていて葦の茂っている。多分ここは巴川の遊水地なのだろう。グラウンドが1面作られている
だけでもったない気がする。若し水害になったときの賠償は無し、復旧も自力でやらせる家庭菜園などにしたらどうだろう。
何年に一度、いや十何年に一度の程度の水害なら希望者は殺到するのではないか。
巴川の流れ
普段は水の量も少なくユックリした流れの巴川だが時々悪さをする。何しろ巴川の上流にある麻機沼の標高は4.5m程しか
ないのに河口までの距離が約17kmもあるので、必然的に水の流れはユックリとなる。単純に計算しても17kmで5mの勾配と
なるが、ある説では巴川の流路勾配が1/750~1/50,000しかないと説明している。
言い換えれば巴川は水捌けの悪い川で、普段はのどかで良いのだが、一旦大雨が降ると川の水は流れず、各所で氾濫する
ことになる。また巴川の水位が上がったままなので、巴川に流れ込む支流も合流部で水が溜まり氾濫や決壊を起こしてしまう。
最近では1974年(昭和49年)7月7日に起きた七夕豪雨がその代表的な例だろう。この災害を機に大谷川放水路が建設された。
話を昔に戻します。徳川家康は駿府城を江戸や大坂と水運で結ぼうと考え、巴川河口に新たな清水湊を作りました。港から
駿府城までは巴川を利用し、上土あたりからは横内川を拡幅して駿府城まで運河を作ったのです。しかし案に相違して、この
水路は余り利用されなかったようです。
清水の街中に東西に延びた 「牛道」 と呼ばれている道があります。この道は清水湊に荷揚げされた荷を牛車に積んでが駿府に
運んだ事から名付けられた道だそうです。そうなると気になるのは水運と陸運の荷物の割合ですが、舟運が2割程度と少なく、
あとの8割は牛車に載せて運んだそうです。
何故運河まで作ったのに舟運が少なかったのか気になり調べてみると、二つの相反する説があったので紹介します。
・薩摩土手が構築されると、安倍川の流れは西に移動して、運河付近では伏流水が湧かなくなった。
・運河拡幅工事に当たり、江戸時代に書かれた 「当代記」 には「水多くして掘られ間敷」とあり、水が湧き過ぎて大規模な運河が
造れなかったと言っている。
さてさてどちらの説が真実なのでしょうか?
新しい観音道の標識 洪水痕跡表示 拡大
新しい「観音道」の標識が有ったが何故か風情が無い。矢張りこのような物は自然石に彫った物の方が有難味が湧く。
マー無いよりはいいけど。
電柱に「洪水痕跡」の標識が有った。「昭和49年7月7日」とあるのを見ると七夕豪雨の事だ。
私の胸程の高さだが巴川からは400mは離れている。近くには1m程の小川しかないが、この川の水が行先が無くなり
溢れたのだろうか。今付近を見てもとても、こんな高い位置まで水に浸かるなど想像もつかない場所だった。
私がここを歩いたのは10月4日だったが、この2日後の10月6日に静岡県に台風18号が襲った。
その時も巴川の水位が上り、またもや巴川周囲と巴川に注ぐ支流の各所で氾濫が起り、多くの人家に被害が出た。
このため静岡県と静岡市は大谷川放水路と別に、更に放水路の建設を検討し始めたそうです。
2日後にそんな被害が出るなど夢にも思わず、愚にもならない事を考えながらテクテク霊山寺に向かう私です。
ウワー怖! 霊山寺参道入口
霊山寺参道入口の地図
霊山寺参道入口に「熊 出没注意!」の看板が。
静岡県内の山を歩いていて今迄に出合った獣は鹿、カモシカ、ウリ坊くらいで、時々注意看板のある猪はミミズの掘り跡程度
しか見た事がない。ましてや熊などはその痕跡にすら出合った事はない。尤もそれは幸せな事で、実際に猪や熊に出合ったら
どうなるのだろう? 逃げる? ストックで戦う? 考えるだけで恐ろしくなる。
と、云いながらクマ除けの鈴は持たずラジオも持たない困った年寄りだ。
霊山寺参道の入口にある墓地の墓石を見ると 「大木」 の姓が多い事に気づく。これは地元の大内地区に大木姓が多い事に
よるが、この大木姓は駿河七観音を彫った大楠に因んだ姓とも云うが本当だろうか。本当ならここではなく大楠があった足久保
辺りに大木の名は多いはずだ。
大分疲れれが出てきている脚には中々大変な参道だ。この参道に曲がり角が多いのは観音さんの 「三十三化現」 に因んで
三十三曲がりにしてあるとか。また参道入口から本堂まで6基の丁目石があるが、これも「六波羅蜜」を意味するという。
この 「三十三化現 」とは、 「観音さんは三十三種に変化身して衆生の悩みを済度す」 こととか、この三十三により三十三霊場や
三十三間堂が生まれたそうです。
また、 「六波羅蜜」 とは、観音さんの境涯に到るための六つの修行の事で、 「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵」 を指すのだ
そうです。
霊山寺仁王門 宝珠のような蘇鉄の実
霊山寺の地図
国指定重要文化財の仁王門の屋根の萱が葺き替えられていた。余りにスッキリしていて古さを感じさせないほどだ。
この仁王門は静岡県内で2番目に古い建物で、門内には 「蟇股(かえるまた)」 という、梁の上で上の荷重を支える材があり、
これは日本に三つしかない特異な形状の物らしいが、写真を写すのを忘れてしまった。
「鷲峰山 (じゅうほうさん)霊山寺(りょうせんじ)」 の本尊の千手観音立像は、県の文化財に指定されていて、地元では霊山寺
と云うより 「大内観音(オーチのカンノン)」 と呼ばれ親しまれている。春には桜祭りも兼ねて観音祭りが行われている。
この寺は元々は現在地より東の山にあったが、火事で焼失したため村人が用材を用意したところ、いつの間にか峰を越えた
現在地に移されていた。これは当寺本尊の千手観音が現在地への移転を望み、金剛力士(仁王)に用材を運ばせた、という
伝説が残っている。
また、観音霊場だけではなく、かつては雨乞いも行われ農民の信仰も受けていた。さらに、裏山には大きな一本松があって、
沖の漁師の目印になったという。こうしたこともあって現在も、有度・三保・興津辺りまで大内観音信仰が広がっているという。
本堂の拝殿にあるベンチにドカと腰かけ日本平や清水港を眺める。これで何とか安倍七観音は結願したが、これから先は
どうしよう。寺の裏山の帆掛山には勿論登るが、その先梶原山はどうしよう。梶原山まで行くと静岡側の瀬名に下りなければ
ならないのでゴールの草薙駅は遠くなる。今日は空が霞んでいて景色も良くないから、このまま下山してしまおうか・・・・・・・・
大分弱気の虫が起きてきたが結論は帆掛山に登ってから考えよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます